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2007年 03月 29日

インド航路の始まり・・・タタ財閥と日本(2)

 タタを調べていたら江戸期に遡ってしまった・・・。

1839年 ジャムシェードジー・ヌッセルワンジー・タタが生まれる。
1840年 渋沢栄一が生まれる。

 この年が1つ違いの「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一とインドの産業革命の立役者で、タタ財閥の創始者あるJ.N.タタは後に日本で遭遇することになる。

1、渋沢栄一とは、
 武蔵野国の生まれで、家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米の生産も手がける大農家であった。農家であるが、原料の買い入れと販売を14歳から担ったため経済の才覚がこの頃から求められていた。学問や千葉道場で居合いを身に付け、幕臣となりパリ万博の随行員となった。
 帰国後、フランス式の株式会社を設立しようと1868年、商法会所を設立した。だが、説得され大蔵省に入り、退官後は第一国立銀行(現みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。 また、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされている。
 「渋沢財閥」 を作り巨富を得ることも当時の渋沢には簡単に出来たのであろうが、「私利を追わず公益を図る」考えを自身も生涯に渡って貫き通したのである(GHQが財閥解体を命じた時、岩崎家(三菱)の総資産は33億円、一方渋沢家は625万円だった)
 また、実業界の中でも最も社会活動に熱心で、福祉・震災復興・他国の災害復興活動・平和活動にも全力で取り組んだ。(Wikipediaより簡略化して引用)


2、J.N.タタとは
グジャラート州の小さな町ナブサリで生まれる。13際でボンベイに移り、大学に通った。父は貿易会社を遣っていたので、そこから商売を学ぶ。
1868 ジャムシェードジー・ヌッセルワンジー・タタは貿易会社を始める。
1874 織物業界で中央インドSpinning、Weaving、およびManufacturing社を設立.
(1893 日本で渋沢栄一らと会う)
1903 インド最初の豪華ホテルタージ・マハルパレスを開業
1907 タタ・スティール設立
 *ここまでが創業者のJ.N.タタがかかわった事業である。(彼は1904年にはなくなっているが、タタ・スティールは彼の計画に基づいてインド初の製鉄事業を成し遂げたのだった。)

 *その後、タタ財閥は、次のような発展を遂げている。
1910 タタ・パワーの前身が設立
1911 バンガロールにインド科学インスティチュート
1932 タタ航空設立
1939  タタ・ケミカル設立
1962  タタ・ティーの前身設立
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その後もソフトウェア・通信・自動車・出版・時計などあらゆる業界に発展、現在ではインドの中でこのロゴマークを見ないことはないといわれるまでになった。

3、日本とインド 
 明治期の日本は、殖産興業の方針の下、紡績業で第一次産業革命を行っていくのであるが、その紡績業を行うのにどこの綿花を使うのか?これは当時海運と大英帝国傘下の物品移動についてはイギリスが完全に握っていた。日本との間のついてもイギリスのピーオー汽船が高い運賃・高い綿花で日本との商売を行っていた。
 
4、J.N.タタのエピソード その2
 1893年、J.N.タタは日本にやってくる。Spinning、Weaving、およびManufacturing社を設立.していたタタは紡績業と日本への綿花の直接取引を胸に来日した。このとき、54歳ぐらいか?
 J,N.タタの行動力と渋沢栄一の日本を見つめる目と日本郵船(三菱汽船と共同運輸が政府の斡旋でまとまった会社)が成し遂げたこと・・・明治26年、イギリスのピーオー汽船に対抗して、日本郵船の広島丸が神戸より出航・・・それが日本の初めての遠洋航路である自前のインド航路の始まりであった。

 積荷は紡連(大阪紡・東洋紡・鐘紡などか?)の紡績会社がタタ商会(日本ではそう呼んでいた)から綿花を直接買うという契約に基づき、神戸とボンベイ間を結んだ定期航路が、こうして始まった。 
 むろん、順風満帆とはいかない。
 
欧州系三社との競争は激烈を極めた。特に、英系は「運賃引き下げのほか、あらゆる手段を弄して当社を抑圧」(日本郵船社史)し、日本郵船は多大な損害を出しながら、耐え切った。
 今日、鉄鋼を初め32の上場企業を有し、インドのGDPの三%弱に当たる年商二兆円超を誇るタタ財閥の創始者である。この一〇〇年以上前の歴史的逸話は、創始者を曽祖父に持ち、現在タタ財閥を率いるラタン・タタ氏がある日本の金融機関首脳に披瀝したのだった。(週刊ダイヤモンド誌掲載 辻広雅文 創業者のエピソードより引用)


5、なお、このときの考え方を裏付ける記事が神戸大学にあった。
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 大御所渋沢氏を先頭にして、ピーオー汽船の印綿運賃独占を打破すべくタタ商会と紡連、郵船との間に印綿積取り契約が実施され(二十六年)~~~更に注目すべきは、日本産業の農本主義より商工立国への転換の指標たるべき綿花輸入税の廃止(二十九年)が数年のチーム・ワークの後に戦いとられた。(神戸大学 報知新聞 1931.3.17より一部引用)


 ここで「印綿運賃独占」とある。印綿とは字のごとくインドの綿花のことで、それをピーオー汽船が独占価格で運賃を取っていた。それを『打破すべく』とはっきりと目的を述べている。

6,追記 今回のテーマの核心であるでもあるインド航路の様子を後に描いた絵がある。
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             ↑深谷市『油絵で見る渋沢栄一の生涯』・・・渋沢敦雄氏の作品
 また、渋沢栄一の生涯の中で次のようなことがあったという。
「渋沢栄一が実現しようとしたもの。それは まず、第一に、「官尊民卑」(政府・官吏を尊んで、人民をいやしむこと)の打破ということが挙げられます。17歳の栄一が、岡部の陣屋の役人にさんざんに愚弄される話はあまりに有名ですが、この時の経験は、栄一に、家柄や身分によって人間が差別されることの非をさとらせ、そういうことのない社会の実現をめざすきっかけとなりました。数々の企業の創立や運営にたずさわった栄一ですが、こうした事業活動を通じて、優れた人物を育成し、民間の地位を高めることに努めました。」
               ↑深谷市 『渋沢栄一物語ー12、渋沢栄一のめざしたもの』・・・筆者:新井慎一氏

ここの生い立ちと、その後の信念についてはJ.N.タタのイギリス人から差別を受けて奮起したというエピソードと合い通じるものがある。

 (*追記部分2点について深谷市と作者のご好意により転載させていただいた。)
なお、テーマに関係のあるところのみ引用させていただいたが、この深谷市のHPは、平易な言葉で丹念に渋沢栄一の生涯をつづった見やすいHPで、他にも興味深い記事が多い。
 自分も日本の明治期の産業界で活躍したとしか知らなかったのだが、明治期の日本の男は強い信念を持ち気骨あり奥が深いなといたく感心した次第である。興味をもたれた方にはオススメである。
 深谷市の渋沢栄一のページ


7、まとめ
 当時はまだ関税自主権がないころだった。欧米の商品に自主関税をかけられない。日本の紡績品をより安くつくらなければ、海外どころか国内でも売れない。しかし、原料の綿花を直接インドから購入しようとしても、ピーオー汽船等の高い運賃を払わなければならない。原料が高ければ如何に人件費が安くても欧米に勝てない。

☆ そういうジレンマを感じて何とかしたいと考えていた渋沢栄一
     イギリスに支配されながらも自主事業を展開していきたいと願ったインド人T.N.タタ
         実際に経営に苦しみながら乗り切った日本郵船
これらの人たちの出会いと決断があってインド遠洋航路が始まり、欧米への航路も次第に確立していき、日本の産業革命は成功していく。インドでもタタは貿易と自分のところの紡績業で次のステップへの財を成していったのだ。

 ――― 大きなできごとではないけれど、何かが変わっていくとき、その原点には必ず人と人の出会いや切磋琢磨がある。そういった人間がやっていることが歴史となっていくんだといつも感じている。・・・日本とインド、いずれも自分の領域外のことを書いてしまった(おかしなことを書いていたら教えてくだされ~)が、その人を感じとる歴史の一端に触れられて良かったと、しみじみ思っている・・・。
 
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by miriyun | 2007-03-29 07:01 | その他 | Comments(3)
2007年 03月 27日

J・N・タタ&ガンディー…タタ財閥と日本(1)

 タタ・スティールと新日本製鉄が合弁かというニュースが流れた。
そこで、気になるインドのタタ財閥の話をしばし・・・

タタ財閥とは
  インドには、古くからのビルラ・グループとここ10年で急成長してきたリライアンス・グループもあるが、着実で手堅く信用できる商売をしてきているのがなんといってもタタ・グループといわれる。タタ自動車をはじめ、タタ航空(現・エア・インディア)、電力、ホテル、紅茶など幅広く着実な歩みをしてきた。昨年あたりから旧主国イギリスの製鉄会社を買収するなど活発化した動きで話題を呈している。

 タタ財閥はパールスィーといわれるインドの中のゾロアスター教徒である。インドの西、パキスタンに接するグジャラート州がある。そこから、ボンベイ(ムンバイ)をへて、全インドへと展開した百年以上の歴史のある財閥である。
 
2.マハラジャとの約束を守っているパールスィー  
 インドのパールスィーは1100年頃に、イランから移住した。 イランから船に乗り、インドのグジャラート州にたどり着いた。そのとき、とうぜんゾロアスター教の永遠の火ももってきており、それは現在も連綿と受け継がれている。
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 ↑ヤズドのゾロアスターのしるし(現在のイランではゾロアスター教徒は激減してしまい2~3万人いるかどうか・・・)

 ◆インドのパールスィー共同体に伝わる話でとして、グジャラートの現地のマハラジャとの間に次の様なやりとりがあったと言われている。
 
 パールスィーの代表がマハラジャに定住の希望を伝えるが、マハラジャは「あなた方のための場所は残っていない」と伝える。代表はコップにいっぱいのミルクを希望する。ミルクをコップにあふれる程注いだあと、代表はそこにスプーン一杯の砂糖をミルクに溶かしこんで見せる。コップからは一滴のミルクもこぼすことはなかった。そうして言った「このように私達がこの地に溶けこんで、地域を甘くすることが出来ます」。
 この話に感銘したマハラジャはゾロアスター教の布教を行わないことを条件とともに定住を許すことになる。 (Wikipedia:ゾロアスター教より引用)
 現在インドのパールスィーはイランより多く180000人ほどといわれている。減少傾向にあり、この布教しないという約束が生きていると考えられている。

 インドで商売をするのに・・・カーストはまだ生きている。だから商売はやりにくい。体面や慣習や、身分の誇りや何やらがついてまわるので動きにくい。その点、パールシィーはなんらカーストに関係しないから不自由がない。そういう意味で、パールスィーであったことは経済界では有利であったのだ。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
 ≪追記≫・・・ek-japaniさんにそのほかの理由やカーストの実際を挙げて深めていただきましたので、ありがたくまとめさせていただきます。
 ①男親がパールスィーでないと子はパールスィーにならないと聞いていたが、それ以上に厳格な場合もあるということで、両親ともパールスィーでなくてはその宗教を引き継がない。血統重視で排外的に「改宗を認めない」主義なのが原因の一つ。
 ② また都市部在住で比較的高学歴・高所得な家庭が多いので、少子化・晩婚化による人口減少との相乗効果も起きている。
 ③カーストについて
 パールスィー外部の社会全体においては。「地縁・血縁・職縁に基づくコミュニティー内の人的ネットワーク」みたいな意味で「カースト」と同様に見られていた。
 ただ、「パールスィーはなんらカーストに関係しないから分業制に拘らない」というのは植民地支配したイギリス側も当時考えた可能性があり、植民地時代少数派のパールスィーを優遇した分割統治政策を考えればパールスィーであった事は経済界で有利だった、とも言える。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

3.創業者のエピソードその1・・・ホテル業
 19世紀末、若き創業者ジャムシェドジー・N・タタは当時イギリス統治下のボンベイで遭遇したこと。それはホテルのレストランでインド人であることを理由に店に入ることができなかったという屈辱・・・それが彼にホテルを作らせた。インドで名高いタージマハールホテルはこのときの屈辱をばねにして、インド人が誰でも入れるホテルをという気持ちでつくったという。その気持ちは、お客を大切にし、充分なサービスを提供する現在もタタ・ホスピタリティとして生かされている。インドを中心に57ホテルを展開するタージホテルは、タタ財閥経営で、このボンベイ このタージマハールホテルの創業が104年前、それからタージ・グループとして次のようなホテルを抱える一大ホテルグループとなった。
 
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 かってのマハラジャ宮殿、上の写真のレイクパレスをはじめにランバーグパレスなどの豪壮なホテルをはじめ。絶好のロケーションに建築したタージ・ビューホテルなどをかかえ、インドに行けばどこかしらで名を聞くホテルばかりだ。

☆ この創業者のイギリス支配、白人支配による屈辱から立ち上がる姿はマハトマ・ガンディーと共通する。
 まずは共通点から。二人ともイギリス支配下でグジャラート州出身の富裕層に生まれた。宗教は異なるが、グジャラートの先からパキスタンになることでわかるようにイスラームも多い、パルシィーもいるというところで、ガンディー自身も宗教に柔軟な考えを持っていたと考えられる。
 そして、ガンディーはイギリスの大学で学び、若き弁護士として南アフリカに行く。そこで有色人種への激しい差別を身を持って体験する。列車の1等チケットを買ったにもかかわらずインド人で肌の色が異なるために列車から追い出されたのだった。
 これによって、ガンディーは、イギリス風の紳士の服装を脱ぎ捨てて、南アフリカで同胞のために働き、インド帰国後は白い布一枚を身にまとい、インド産の布しか身に付けないと言い切るのだった。ここからインド独立への長い戦いが始まった。

 ☆この二人の人物が差別をされることによって、片方はインド人の産業振興へ、一方はインド独立への精神的支柱となって動いたことをインド人は忘れないだろう。


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by miriyun | 2007-03-27 08:25 | インド | Comments(5)
2007年 03月 24日

雪をもつくるドバイ…驚異のイスラーム(2)

 オイルマネーは時として、大きすぎる夢を現実の計画としてしまうようだ。

 ドバイの気温は冬はともかく夏は50度にまでなる。超のつく高湿度である。シリア・ヨルダンなら雪も降るが、アラビア半島南端部ではそうはいかない。そのアラビア半島でスキーやスケートをするというのは、究極のリゾートなのだろう。

 まず、ドバイはスケート場をつくった。そして、白くて長いアラブ服にスケート靴を履いて滑る姿がたくさん見られた。
 次に日本のザウルスに目を付けた。ザウルスが経営不振で閉鎖となる話を聞きつけてきて、」それを買ってそっくりドバイまで送ろうという案だった。
 しかし、これは解体・再設置・他の関係でこの話は成立しなかった。しかし、それであきらめたのかというとそうではなく、今ではザウルスを超える設備で新設したのである。
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 それがスキー・ドバイ。(↑そのロゴ)
このスキー・ドバイは2005年12月にオープンして、巨大ショッピングモールとホテル・ケンピンスキーが併設されている。

 中東で初めての屋内スキー場、そして世界最大の屋内スキー場である。親子でそりを楽しんだり、スキーやスノーボードは初心者コースから上級者まで楽しめるコースが用意されている。山岳リゾートをイメージし、400メートルに及ぶコースを滑ることができる。
 収容力は1500名といわれる。まあ、そんなに入ることはないと思うが・・・。

  スキーや衣服のレンタルはもちろん、リフト・カフェ・レストラン・小売店など、すべてそろえてアラブ服でやってきて、突然雪の世界へと入って楽しむことができるわけだ。子どもたちのパーティ用のプライベートルームも用意されていて、パーティをしながら、雪国遊びもできるわけだ。

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                             (現地旅行社の案内ちらしより引用)
 家族で、スキーにお手軽に行く子rとができる。あの酷暑のドバイでは冷たいということは極上のリゾートということになる。日本人にとっては珍しくもないものだからさほど興味は引かないだろうが、アラブ人にとってはこれを達成するにはそれなりの意義があったのだろう。他のアラブ諸国からも是非これを作りたいと声がかかっているというから、アラブでは人気なのだ。
 これについて、いかにここまで冷やすのが大変だったか?
 その答えが、先日の週刊ダイヤモンドに載っていた。なんと冷やして、これだけの雪を作るまでにまるまる2ヶ月かかったというのだ。

 
 ★そして驚くことに、ドバイはこのスキー・ドバイに飽き足らず,さらにスキー施設を作ろうとしている。海中ホテルも着々と進行している。もちろん、埋立地のパームには別荘のほかにホテルが建てられ、観光客を迎えいれることになる。
 
 ☆いま、ドバイの首長シェイク・ムハンマドの意志から始まった変革は、U.A.E.の経済界において確固たるものとなった。人々に計画すればできるという自信を持って迅速に進んでいる。
 ドバイは不可能なことないというような気持ちで次々と新たなプロジェクトを打ち立てている。スキー場ぐらいはかわいいものだが、高さ1000メートルを越えるビルや海中ホテルなんていうのは構造力学的にどうなのか。
 ドバイはいったいどこまで行こうとしているのだろうか・・・。

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by miriyun | 2007-03-24 16:13 | U.A.E. | Comments(0)
2007年 03月 21日

驚異のイスラーム(1)

 週刊ダイヤモンド誌の今週の表題は『驚異のイスラーム』である。
 3月20日はイラク開戦4年ということで、アメリカのイラクへの派兵の是非や、イラクの平和への道などTV・雑誌・新聞などで論じられたり、エピソードが紹介されたりしている。イラク開戦の時・・・つまり、ブッシュ政権絶好調の時よりは、アメリカ国民とアメリカのメディアの変容した今では、日本のマス・メディアもずっと表現しやすいらしい。
 昨夜書いたアフガニスタンの少女の話もそのイスラーム特集の一環として取り上げられたのだろう。こういう時期でなかったらローカルなニュースにもなったかどうか疑問だ。

 さて、『驚異のイスラーム』とは、何を驚異といっているのかというと、簡単に言ってしまえばサウジなど湾岸諸国のオイル・マネーだ。経済・市場・企業についての雑誌であるから、伝統文化などは取り上げるはずもない。また、一昔前のオイルマネーを持つお金持ちの国に何を売り込むかという視点でもあるわけはない。

 このブログでも取り上げてきたようにドバイの急速な発展、そして湾岸各国がアクティブに欧米・日本など世界の市場と企業に狙いをつける。遅ればせながらエジプトも新しい視点で活性化してきている。株の世界にも企業買収の世界にも、世界的金融貸付の世界にもイスラームの力が厳然たるものとして現れてきている。これらを、この雑誌で30ページ以上にわたって詳細に書き綴っているのだ。最新のグラフや数値があるのがさすが経済誌で、そこが嬉しい。保険についてなど追々取り上げてみるつもりだ。

今日はまず、その雑誌でも取り上げていたドバイの開発をグーグルを使って確認しよう。
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                       ↑現地のフリー地図より引用
 この地図の海岸に沿って3つのパームツリー埋め立て地とThe World と呼ばれる世界地図方にいくつもの島を作る埋立地を見てみよう。
西側から
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   ↑西の端のThe Palm Jebel Ali 埋め立てができてきたところで家まではできていない。
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    ↑最初にできた埋立地 The Palm Jumeirah
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    ↑上の埋立地の拡大図 高級別荘地。海のきれいな様子までわかる。
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                                    (↑グーグルアースより引用)
 ↑The World まだ造成中。ダイヤモンド誌によるともううめたてはほぼおわったそうだ。半分はもう売れている。ちなみに日本に当たる部分を買うことになっているのはアラブ人だ。
地図中の東の端のThe Palm Deiraはまだ埋め立ては少しで完成には当分かかる。                
 このような開発を始めた経緯については、以前に述べたとおりだが、これだけに驚いていてはいけない。湾岸諸国がこぞって、オイル切れの後を考えて、極めて大きな商売を始めたのだ。

 ラクダキャラバンでわずかなものを命がけで運んだ昔日とはもう比較さえできない。

 ◆Webでつながった世界で有り余る砂漠の土地や海を使って魅力あるショッピングセンターや住居・世界で唯一の7つ星ホテルを作った。
 この狭い地域に世界の重機の3割が稼動しているというと大げさに思われるだろう。

 しかし、昨年実際にシャルジャー~ドバイ間をバスやタクシーで移動しながら、都市と都市の間の何もない空間にびっしりと重機が並び、ビルを作り続けている様子に度肝を抜かれた。この建築ラッシュの様を見てきたのでこの数値を感覚的に信じてしまう。重機が結集して、24時間休みなく稼動し続けて毎日新しいビルやショッピングセンターを建設してドバイは発展し続ける。

 週刊ダイヤモンドによると、上の地図の西の橋にあたるところに世界1の高さの高層タワー(1000メートル)を予定しているという。
 Webでそれを知っても客が来なければ経済は動かない。ならば客をドバイに集める。すなわちエミレーツ航空の世界主要都市への乗り入れであり、旅の途中で息に降りて見学するにはお金がかかるが、帰りにドバイにとどまるのは無料という小さなことを見ても、空港そのものが人を呼び、買い物させるという意図が見えてくるのだ。

 ◆ここで、エミレーツ航空の戦略の一つであるもの、おそらくはドバイの首長の戦略でもあるアラビアン・エアパスを紹介しよう。

 最初は、旅をするものにとって何と便利なとしか思わなかったのだが、ドバイまで往復エミレーツのチケットを買う時に、同時にアラビアンエアパスを申し込むと中東各地への便が$50(ドーハ・マスカット)、$100(アレクサンドリア・クウェート・サナア・バハレーンなど)、$150(アンマン・ダマスカス・ベイルート・カイロ・テヘラン)で予約でき、その部分については後に変更できる場合もある。これは、どこか途中で旅が中断した時点ですべての格安チケットが無効になるのと異なり、大変扱いやすいものだ。(具体的にはエミレーツで要確認)。
 例えばドバイ~ダマスカス~カイロ~ドバイなど、ドバイを基点に自由に組むことができる。食事も宗教はもちろん病人食まで完全に揃っているし、映像コンテンツは充実度NO.1である。別の航空会社の利用を考えていた人も、このアラビアン・エアパスの便利さに気づくとドバイ経由にしてもいいと思い始める。こうなると、ホテルは使う、買い物はする、いやでもお金が動く。
 
 エミレーツ航空と開発を結びつけた戦略はお見事としか言いようがない。ただ残念なのは成田に乗り入れがないことと、マイレージなどのサービスに英文HPを見なければならない点だけである。

 こんな手本を見せてしまったドバイ、エミレーツ(・・・カタール航空が関空に乗り入れ、今、サウジアラビアが成田就航に躍起になっているのがわかる。)
 ◆しかし、ドバイは追随を簡単には許さない勢いだ。ドバイ国際空港を現在の10倍の面積にし、滑走路は6本、年間旅客数1億2000万人の世界1の規模の空港となろうと計画している。
 
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by miriyun | 2007-03-21 14:56 | U.A.E. | Comments(6)
2007年 03月 20日

マリヤム・シャラフデンさんの言葉・・・アフガニスタンからの留学生

 きょう23時にアフガニスタンの少女が母国に帰るという。
*さきほど聞いたばかりのニュースより・・・

 アフガニスタンからの留学生マリヤム・シャラフデンさんは戦乱のアフガニスタンで家族を失った。縁あって、日本で学ぶことができ、高校に1年生として入った。
 学校近くの日本の一人暮らしの婦人の家にホームステイさせてもらっているという。もう不自由ないくらい日本語を話し、もう娘のようだといい、マリヤムさんもお母さんと呼ぶ。本当の母子の様で、マリヤムさんも自分の家族と同じという。
 
 彼女が日本に来て最も驚いたことはどの家にも煌々と電気がついていることだという。「アフガニスタンではまだ、電気がないところもある。子どもたちは電灯やテレビを知らない子も多い。」
 彼女は夜中の2時・3時まで思いっきり勉強し、そうできることに感謝しつつ、祖国の子どもたちの上に思いをめぐらしている。

 そして、もう一つ「平和なことに驚いた。私の国とぜんぜん違う」という。「こんな世界があるのだ!」と驚いたという。祖国では経験したことのない穏やかな生活をしている。
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 その勉強のあいまに、いくつもの学校で、アフガニスタンと平和について語ってきた。
「朝になって、外に出てみるときのうまで仲良く遊んでいた友達の家が崩れ落ち、みんな死んでいました。こんな素晴らしい世界、こんな楽しい生活があることを知りませんでした。傷つけあうことも、殺しあうことももうたくさんです。日本で学んだ平和の心をアフガニスタンの子どもたちに伝えたいと思います。   彼女はきょう、アフガニスタンへの飛行機に乗る。
 彼女は、アフガニスタンの子どもたちに電気のある生活をもたらすエンジニアとなる夢を持っている。
    ・・・・(文・写真とも2007.3.20.21:00NHKニュースより引用)


☆~☆~☆~雑 感~☆~☆~☆~
★アフガニスタン
 初めて、アフガニスタンの少女の言葉に触れた。

 素直な短い言葉の中に、アフガニスタンの実情が凝縮されていた。何の飾りもない言葉だからこそ伝わってくるものがあった
 。彼女が体験してきたこと、侵略・内戦・戦争の続いたアフガニスタンであること、難民、孤児、女性であること、経済的環境、勉強環境(電気も含めて)その厳しさに圧倒されながらこれが現実なのだと思った。
 ともすればへこたれてしまいそうなこれからの道・・・それに対して、静かにしかし勇気を持って向かっていこうとする姿に見入った。

★タシャコル
お別れに際し、高校の友達とマリヤムさんはともに
                   「タシャコル!!」
といって、お別れしていた。
タシャコル・・・アラビア語のシュクランと同じ語源だと思われる。意味は、『ありがとう。』

 日本人の高校生からもマリヤムさんとのふれあいで多くを知っただろう。マリヤムさんも日本人から人のあたたかさを知っただろう。異なる環境の中で、祖国をふり返り何をすべきかを考えたのだろう。双方共に、重みのある『ありがとう』であるし、それを見た単なる視聴者である私もありがとうと言う気持ちにならされた。

★ 彼女のひたむきな思いがいい。よくひたむき過ぎる人は考え方や人との交流においてかたくなになってしまうことが多いものだ。だが、TVを通してみる彼女は落ち着いた話し方と柔軟な考え方ができるやさしい人柄の少女だ。、
 人は家や母国を外から眺めることで、それまで気づかなかったことに気づく。さらに、その次には何をしていこうという思いが生まれてくる。
 そして、高校の級友に支えられ、日本のお母さんにささえられ、甘えられる境遇にあるのだが、それでもまだ不安要素の多い祖国へと帰っていく。帰るだけではなく、アフガニスタンで日本のことを伝え、日本とアフガニスタンの架け橋になりたいと願っている。

★ 私は、このニュースのなかで、彼女の強い意志を感じた時にある言葉を思い出していた。『目標は意志と行為の間に存在する!!』という13世紀のイブン・アラビーの言葉だ。

 アナウンサーは彼女の心を夢と表現したが、彼女には夢よりももっとはっきりしたものがあるから動いたのだと思う。
 マリヤムさんは1年という短期間ではあるが平和な世界で暮らし、物事をじっくり考え学べる環境の中で祖国に思いを馳せた。祖国の子どもたちに何かしなくてはというという明確な意思をもったのだ。
 そして、『子どもたちに電気をともし充分勉強できる世界を広げていく』という行為につなげたい。そこで初めて、彼女は『エンジニアになろう』という目標を持つのだ。そして、その目標に向かって、彼女は行動していく。たとえ、それが愛する人たちとの別れとなろうと雄々しく旅立っていこうとしている。

 『目標は意志と行為の間に存在する!!』・・・祖国で彼女の意志が何らかの行為となってあらわれるまで支えていきたいものだ。


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◆時の話題

by miriyun | 2007-03-20 23:09 | 日本の中のイスラーム | Comments(2)
2007年 01月 07日

アブドゥッラー国王の外交力と覚悟

 ◆この新年に、石油を産しないヨルダンエネルギー資源の問題を解決したとの報道があった。これまでイラクのフセイン政権時代に半分は無償で、提供してもらっていた。だが、アメリカのイラク侵攻でそれが途切れ、やっていかれなくなる。サウジアラビアとクウェートから一時的に援助してもらっていた。
 
 ところが、今回のニュースでは、なんとクウェートから無償で安定供給してもらうこととなったというのだ。
 
 ☆これは、経済的にすごいことだ。
 ☆歴史的にもすごいことだ。

 イラクが湾岸戦争でクウェートに侵攻したとき、ヨルダンはイラク支持派だった。これによりアラブ諸国から、もちろんクウェートから、大きな反発を受けている。
 このとき、湾岸諸国にいた多数のヨルダン人(多くはパレスチナ人)は追い出される。こうしてヨルダンに住むようになった人の中にラニア王妃もいたことは前出の通りだ。

 そのクウェートが、さすがに湾岸から15年を経て軟化してきたのだろうか、ヨルダンの資源問題をい一挙に解決することになったのだ。
 これには当然アブドゥッラー国王の外交力がもの言っているに違いない。はっきり言えば外交力の勝利だ。こと資源問題についてはヨルダン国民は「アブドゥッラー国王万歳~」といっていいだろう。


 ◆王はまた、パレスチナ・イラク・レバノンの3つの中東の危機を訴え続けている。対話を求め、中東ロードマップによらない進行でもよいから何しろ知恵を絞ろうと訴えている。

 フセイン王のあとをついだ若き王はもうフセインの権威に頼らなくてもよい強い意志と行動力を示しつつある。しかし、こちらはそう容易ではない。今、こうしている間にもイスラエル軍はパレスチナ自治区に侵攻しているニュースが入ってきている・・・。
 
 あまりにもむずかしい立場にいるこの小国をどう導くのか?一生涯この国を支えフセインと同じように厳しい道のりを歩んでいく覚悟が、王のまなざしと言葉から感じられる。
 

  ☆~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・☆

◆◇一方、日本の資源問題についての国の積極的な姿勢はいまだよく見えてこない。正月のニュースからもう一つ。
 中国が、ガムシャラにアフリカの石油資源を買い集めている。もちろん、掘削の権利を買う、復興援助する代わりに将来にわたって石油資源を渡すという約束など、形は様々であるが何しろアフリカだけでも十数カ国に手を付けた、中央アジアには当然進出している・・・といったぐあいなのだ。これまでもいくつかの報道や特集で中国の動きが見えてきていたが、そのガムシャラぐあいに唖然としてしまう。

 ふり返って、資源のない国といわれつつ、貿易黒字を保ってきた国である日本は危機的な状況に目覚めていない。国の政治が咳が出たから咳止め、ねつがでたら、解熱剤というような対症療法になってしまっている。小さな批判に振り回されずに、100年とは言わずとも、30年後、50年後の将来さえ危ぶむ問題を考えていく・・・そういう気概を持った政治家だっているはずだが・・・。

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by miriyun | 2007-01-07 14:20 | ヨルダン | Comments(2)
2007年 01月 03日

ラニア妃の言葉から見るヨルダン王家

 12月下旬のヨルダン国王夫妻とイマーン王女の来日記事が少ないことに疑問を抱いていた。着物を着た王妃の写真はいくつかの新聞とOnline報道にわずかに掲載されたが、王の肝心な演説や首相や天皇との交流報道はわずかであった。
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1、 しかし、この元旦の読売新聞(↑)では、王室新時代ということでラニア王妃を取り上げていた。「美貌の王妃・民主化の顔」という見出しで、掲載されていた。この特集をするために新聞社はもしかして、ラニア妃情報を温存していたんだろうかと思わせる取り上げ方だった。

 その記事の中から、いくつか。
① 「私はワーキング・ウーマン」 
 砂埃にまみれ貧困地区を訪れ、自立支援の作業所作りをする。生後数ヶ月の王子を連れて国際会議に臨み、控え室で授乳をしながら日程をこなし、周囲を驚かす。自ら運転をして学校や仕事場にも自由に出かける行動派だ。

② 流暢な英語を話し、その一方で、敬虔なイスラム教徒として一日五回の祈りは欠かさない。欧米型の男女同権論にはくみせず、「イスラムは寛容の宗教。我々に合った女性の生き方があるはずだ」という。

③ ハシム家は中東きっての名門。王妃曰く、嫁入りは「本当は怖かった」

④河川財団で后の部下に当たるハティーブ氏談。
「二人は希望の星です。伝統的イスラム社会でもこのように生きられるという見本。どんなに勇気づけられるか。」
「王妃は深夜残業もいとわず、ついていくのが大変なモーレツ上司」

⑤ 王妃は語る、「一番大切なのは家庭。私のアブドッラと子どもたち」
                                   (以上5点は読売新聞1/1より引用)

 ☆これまでに知らなかったことや、このブログでも伝えていなかった直接インタビューした内容があり、興味深かった。

 だが、一方国王夫妻が来日している時に、彼らがどんな人で、日本でだれと何を話し、それをどう意味で行っているのかという報道こそ必要だと思うのだが・・・。国際社会展望の記事でなく、どこか遠いところの王妃様の夢のようなお話というとらえ方では残念な気がした。

 ☆・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-☆

2. ところで、進歩的な国の王は公式Websiteを持っていることが多い。ヨルダン王国はどうかというと、何とアブドゥッラー国王をはじめ、ラニア王妃、王子や王女たちのサイトまである。

 このHPとこれまでの各種情報を参考にしながら、これまでの王や王妃の言動から見えてくるものに迫っていこうと思う。(かなりな意訳・抜粋なので、きちんとしたところは直接読んでくだされ~)
★ラニア王妃の「王妃観」
 女性の地位向上のため、働く女性を支援団体をつくり、働きたいと思う女性にはチャンスを上げるべきと考えている。ボランティア活動への積極的な姿勢は、各種病院等への慰問や難病の子ども・そして地雷原にまで出かけて地雷廃絶を訴えたダイアナ妃を髣髴とさせる。そのため「中東のダイアナ」といわれる。
 欧米のメディアはこういうボランティア活動への積極性とファッションリーダーとしての存在もあり、たびたび取り上げるという。

 だが、テロ反対のデモにも参加する王妃は、王妃観について次のように語る。
 『わたしにとって王妃とは、王妃であることではなく、王妃として行動することです

★ラニア王妃の経歴
 旧姓はラニア・アル・ヤシン。クウェートで1970年8月31日誕生。第三次中東戦争でクウェートに逃れた両親からうまれ、そのクウェートはまた、イラクのクウェート占領によって安住の地ではなくなり両親とともにヨルダンへ逃れた。1991はカイロのアメリカの大学から経営管理学におけるBachelorの学位を得た。シティバンクに努めていた頃に王子時代のアブドゥッラー王と出会い、結婚。現在36歳。44歳の王との間にフセイン王子(12歳)・イマーン王女(10歳)・サルマ王女(6歳)・ハシム王子(1歳)がいる。
 現在はラニア・アル・アブドゥッラーを公式の称号とする。

★王妃の子育てついての考え
 ラニア妃曰く、
「働く母親として、仕事と4人の幼い子供の要求を操るのは簡単ではありません。 すべての両親のように、私は、正しいバランスを獲得するように努力します。 私の公式活動は子供の学校・プログラムを考慮に入れます、そして、海外訪問での期間は限られています。
 各夜の子供にベッドで本を読んで聞かせたり、話をしたりする2、3時間を過ごすのは彼ら、および私に安心感を与えます。
 当分、私は家でハシム王子とこの特別な時間を家族と共に大事にしています。
・「子どもの学校のプランを考慮に入れる。時間を家族とともに大事にしていく」・・・できそうでなかなかできないことだ。同じ働くものとして耳が痛いばかりだ。
 
★フセイン王亡き後、アブドゥッラーが即位。 
 ヨルダンは中東の中でイスラエルとアラブ諸国に囲まれて、パレスチナ難民の大量流入・中東戦争・領土を占領されるなど大きな歴史の渦の真っ只中にいる国であり、そこをぎりぎりの危機管理でしのいできたのがフセイン前国王だった。

 そのとき王となったアブドゥッラーをみて、世界は「大丈夫か?」と思ったものだった。自分自身も皇太子への任命・罷免の経過などから本当に安定してこの王国はやっていかれるものかと思ったことを覚えている。

 そのときのことをラニア妃はこう伝えている。
「私たちは大きな責任と難局に直面されていました。 幸い、私たちには王子と后としての公の生活観がありましたが、それでも国王としての仕事への調整は無視できませんでした。 事実上、私たちはまだ学んでいます。」
 
 「まだ学んでいます」・・・・こういうひとことの中に前向きな姿勢が垣間見える。

「 陛下のすべてのヨルダン人の生活水準を改良するための努力を取り組みやすくすることが私の主な役割です。 私たちは持続可能なレベルの経済成長と社会開発を確実にすることによってヨルダンを現代の市民社会モデルに組み込むと決心しています。  さらに、私は児童の保護、家族の安全、女性の権限、若者の機会の創造、文化、および観光に関連する領域で働いています。」

★女性の教育・雇用について言及
 「私の夫、 アブドラ国王と私は、これらの女性は我が国の成長に必要だとしています。 私たち二人は、人口のすべてが活発に雇用市場に貢献しこの国の経済が栄えると堅く信じています。

 私たちは、断固として教育的な規格を改良して、既にかなりの効果を得ています。 例えば、現在、ヨルダンの女性の識字率は85%です; 最近の高校能力のテストは、今年少女がこれまで以上よく得点するのを見ました、そして、大学における女性の就学率は最高で史上でのレベルです。
 高められた学力達成度と上昇している読み書き能力スコアニ比例して、政治上への女性の参加は増加しています。」

★ さすがです!マイクロクレジットに言及する王妃
 「世界中では、女性の状態は変化します。
  私が、女性が生活を再建して、彼女らの家族を再建して、彼らの共同体を強化するのを見た最も効果的な方法の1つが小口金融を提供するmicrocredit組織であります。 メキシコ、コソボ、イラクまたはパレスチナにかかわらず、女性がミシンかいくつかの種子と農具を買うのを可能にするのは、彼女が生計を立てて、ローンを返済し始めるのを許容するためにしばしば十分です。 そして、別の人生は変成しています。
 そのような勇敢で、弾力があって断固とした女性は私を奮い立たせます。 私はあなたがあなた自身の共同体でそれらを見つけるのを確信しています。」

★すべての女性に勇気を与えるメッセージがあった!
 「 首尾よく育児のバランスをとる母とプロの責任; 新しい学業成績を知らせている若い女子学生; または、女性が毎日挑戦に打ち勝って、家族に対する伝統的な知恵と愛を提供している祖母。
 これらの女性は私たちの真の英雄です、そして、あなたは彼女らを見つけるためにそれほど探す必要はありません。 ただ周囲を見回してください。 または、恐らく、あなたは鏡の中を見るだけでよいです。 」
 こういう言葉を直接投げかけられたら、人は必ず「動く!」とおもう。
                                  ラニア妃に応援ポチッをお願いします。


★イスラームの伝統を重んじつつ、持続可能な開発と景気拡大を見つめて・・
 「持続可能で、かつ公正な景気拡大を引き起こそうとします。 それはすべてのヨルダン人のためになって、なにも後に残さない進歩を探します。 開発への道路では、アラブの、そして、イスラム教の遺産の基本の教訓を決して見失わないでしょう。
  伝統的な価値体系に対する敬意は国の現代性か進歩のビジョンへの妨害ではありません。」

 人的資源の教育や職業訓練から初めて景気拡大をしようとしているが、ただ欧米型をやろうとはしていない。自然保護にしても実際にワディ・ラムを始め保護区にしてそこをどうするかということを数年前から行っている。やみくもに近代化させようといっているわけではないのだ。

★王家が考えるヨルダンの未来への三本柱
   *現代性・ 国の国際社会におけるアクティブなかかわり合い
   *人類と寛容の普遍的な原則への固守
   *崇敬された伝統と遺産に対する敬意

★☆ここでアブドゥッラー王の言葉を! 
 「私たちは困難を数百万改良する新しい洞察と能力をもって努力しなければなりません。そして、私たちは敬意と対話の国際社会を創設するために互いに手を伸ばさなければなりません、異文化間の風通しの良さ・パートナーシップをもたらすために。」
(2003年9月にソルボンヌ大学、フランスから "Annual Prize"を受けた時のアブドラ国王陛下の言葉より。)

☆これを受けて、ラニア妃曰く、
「アブドラ国王陛下の言葉は明確に私に共鳴します、そして、私は信じます。何時代もにわたって、適度と寛容は私たちの宝です; 私たちの小さい国は、私たちの隣人の中で平和を保障するために世界と連絡を取ろうと試み続けます」

☆・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-☆
    
3.考察
 ラニア妃は素晴らしいという言葉にはだれもが納得する。私もそう思う。だが、こうしてみていくと、この王と王妃が手を取り合い、信頼しながら雄々しく進もうとしている姿が浮かび上がってくる。
 難局ばかりの小さな国から、届くメッセージの数々・・・・
◇困難を数百万改良する新しい洞察と能力をもって努力しなければなりません
◇敬意と対話の国際社会を創設するために互いに手を伸ばさなければなりません
◇隣人の中で平和を保障するために世界と連絡を取ろうと試み続けます

 ★先日の日本訪問はまさしくこの考え方からくるのであって、国王が日本人に対して語った言葉を、もっと、もっともっと報道すべきでなかったのか?
 いまだにそう思われてならないのだが、皆さんはどう思われているのだろう・・・。
(尚、読売新聞は訪日前の国王へのインタビューとその内容(中東問題)についての報道は行っている。この点はいいのだが、そのご、来日中の扱いがどうなのか・・・という点である。)

                                  活躍されるラニア妃とその考え方に応援ポチッをお願いします。


by miriyun | 2007-01-03 15:37 | ヨルダン | Comments(8)
2006年 12月 24日

王様&ラニア妃はどんな人!?

 今、日本に来ているアブドゥッラー王はどんな人か?

 もっと紹介されるかと思いきや、日本に来て精力的に動いているのに報道が少ない!

・確かにヨルダンは小国だ。
・オイル・マネーもない。
・あんまり商売になる国ではないだろう。

 しかし、イスラームの社会では一目置かれるハーシム家、すなわちムハンマドの家系の末裔である。この王家が世代交代した時、どうなることだろうと思われていた時期もあったが、現在は確かな後継者として地位を固めている。若いから、まだこれから30年くらいは中東情勢の中心になっていく人でもある。
 少なくとも、日本は中東でも発言し国際的な地位を高めていくつもりなら、ヨルダンの王をしっかりと見て彼の発言を注意をはらっておくべきだと思うのだが、新聞もTVもどこもが話題にするところばかりに群がっていて、将来の国際社会を担う人たちの人品を見定めようとはしない。

~*~*~*~*~*だれも紹介しないのならここで書いてしまおう。*~*~*~*~*~*

★ 彼は、希代の「小国生き残り名人」であったフセイン国王イギリス人のモナ王妃との間に生まれた子だ。4歳でイギリスに留学、15歳でサンドハースト王立陸軍士官学校の学び、その後ケンブリッジからジョージタウン大学修士課程まで学んだ。
 アラビア語と英語を話し、イギリス・アメリカに暮らした経験を持つ。彼が幅の広い視野と危険を回避する冷静さ・国際社会へ呼びかける力があれば、必ずこれからの中東和平への道に関係してくる。イスラーム理解への道筋をつけていくきっかけになるかもしれない。

 ◆そういう人が、せっかく日本にラニア王妃とイマーン王女まで連れてやってきている。今年36歳。ラニア王妃は女優もここまではという美しい人で、今回安倍首相の昭恵夫人によって着物の体験ということで着ているがそれも似合ってしまい、おどろく。 

 王子時代に知人のパーティでラーニアにであい、交際を経て1993年に結婚したという恋愛結婚である。それだけに仲むつまじく二男二女をもうけている。
 ★ラニア王妃はクウェートで生まれ、父はパレスチナ人の医者である。湾岸戦争後ヨルダンに移住。カイロ・アメリカン大学を卒業してから銀行で働いていた職業人であった。
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 パレスチナ人であるから、国の過半数を占めるパレスチナ人からは絶大な人気である。王妃が王より目立ったり人気があったりすることは、パレスチナ人以外の国民には不満の種になる。したがって、その点は王が国際面・政治面、王妃は人道・福祉・女性問題を中心に動くなど、ラーニア王妃自身が自戒しているのだという。
      TV映像(ずっと前なのでどこの局か不明)の写真引用→

ー・-・☆さて、王自身はどういう人なのか?☆ー・-・-・-・
① 彼は、行動的で思いつくとやってみないではいられない。
 王であり、ムハンマドの家柄の子孫である王は尊敬されている。当然国民は失礼に当たることなどいわない。まずいものも見せない。

 すると王は考える。国民の生の声を聞きたい!
    ↓
 庶民風の衣服をきてひげを変え、変装してしまう。
 そして、新聞記者や、運転手・病人のふりまでして国民の間を見てまわったりするのだ。結局どこかしらでばれてしまうのだが、今でもやっているんだろうか?
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② 国王は落下傘部隊にいたパラシューティストであった。身体は頑丈に鍛え上げられている。若いときは身体はずんぐり、顔も丸くてという感じだったが、精悍な顔と愛嬌のある顔が両面がみえる。年とともにフセイン王のような風格がでてきそうだ。

③ オックスフォード仕込みの演説・答弁は明瞭で的確、
 軍隊でも鍛えられているから短めにはっきりと要点をつかんで話す。英語は母語といえるくらいに流暢。以前から、中東問題についてその争いをなくすためにいつもいつも考えて発言している。

④ エキストラとして映画出演した王
 スタートレックファンであった王子時代、『スタートレック・ヴォイジャー』に宇宙船の中で登場人物と行き違うエキストラとして6秒間出演した。言われなければとても王子とは思えないエキストラ出演であった。

③ 趣味
 スキューバダイビング・・・これはわかる。世にも美しい紅海の港アカバを持っているのだからそのくらいするだろう。
 武器収集・・・そうここはローマやサラディンの昔からの武器などが手に入れやすい場所に住んでいる。
 
④ 車大好き
 カーレース・・・そんな危険なことを王様がしていいのかと思ってしまう。

 *でも、運転系はすべて好きで車マニアといってもよい。オートバイでワディ・ラム を走り回る。車に乗れば要人の迎えまでやってしまう。小泉首相がヨルダン訪問した時も送迎はアブドゥッラー国王であったという。

⑤ 操縦桿だって握る
 ロイヤルヨルダンの専用機で周辺諸国へ行く時は王様自ら操縦桿を握る。

★そういえば、お父さんのフセイン王も行動力があり、操縦が好きだっ。世界の人と無線で交信し、ジェット機(戦闘機・民間機)、軍用ヘリを操縦しするなど趣味というには本格的なことばかりであった。
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** 印象に残ったできごとがある。
 1994年中東和平が実り始め、イスラエルとの国交が再開した時、『フセインj国王はイスラエル上空を自分で操縦していった』というニュースが世界の新聞に載った。イスラエルの上空をヨルダンの航空機が飛ぶなんてことはありえないことであり、そのありえないことを王自らやってみせただけに世界が和平に近づいているのはほんとうなんだと実感した。
 命がけではあるが明るい中東の到来を予測させるさわやかさを与えていたのがこのニュースだった。
 **** まさに、『この親にしてこの子あり』だったのだ。

 (だが、その後フセインの生涯を通してのパレスチナ問題との格闘も虚しくオスロ合意も何もかも頓挫し、パレスチナ自治区は生活のできる状況を断ち切られていくという状況が続いている。)

 ☆昨日、アブドゥッラー王が東京で講演した中で、中東和平を推進するのに日本が極めて公平な国であることを強調し、期待をしていた。 

優れた王であった父とイギリス人の母とパレスチナ人の妻を持つ王が中東問題にかかわりを持つのは必然といっていいくらい自然なことであると思う。

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by miriyun | 2006-12-24 13:22 | ヨルダン | Comments(6)
2006年 12月 23日

ヨルダン・アブドゥッラー国王とラニア王妃

 今、ヨルダンのアブドゥッラー国王が来日している。

  ヨルダンの初代国王の名もアブドゥッラー。第一次大戦後、メッカの太守フセインの2番目の息子アブドゥッラーがヨルダンの王となり、ファイサルはシリア王になり、しかし、フランスが押し出してきてファイサルを追い出したが、後にイラク王となった。
 ここの過程ではパリ秘話会議に於けるチャーチル殖民大臣(後のチャーチル首相)の中東部門顧問として参加したT.E.ロレンス(アラビアのロレンス)が平和会議でファイサルの立場に立ち、フランスを相手に論戦している。またロレンスはファイサルにアラブ人国家を作ると約束した事を守るためにイギリス国王からの勲章まで丁重に断っている。

 こうして出来上がった国家であったが、イラクは1958年に王政が廃され、ファイサルの血筋の王は3代目で断たれてしまう。

 ☆ファイサルの兄、アブドゥッラーはヨルダン王になり、その後、暗殺によって命を失ってしまう。波乱のアラブ王家であるが、3代目フセイン王が優れた人物でパレスチナ紛争から始まる戦争と・難民とPLOとありとあらゆる難問の積み重なる中で、よく機を見て、人を見てこのアラブの国を存続させてきた。

 その国王が1999年に亡くなったとき、その長男が即位しアブドッラー2世となった。人のよさそうな顔の若い王が、果たしてこの難しい中東情勢の中でこの国を維持していかれるのか、未知数であった。

 ◆それから7年、いまでもヨルダン国内を見ると偉大な人物のあとの若い後継者の時にありがちな様子がポスターに見られる。国境・観光地などかなりの場所に国王の写真が掲げられているのだが、必ずフセイン前国王と一緒なのだ。
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     ↑左:故フセイン1世   右:現国王
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     ↑シリアとの国境、軍服姿のアブドゥッラー王・・・。おやっ、一人で珍しい。
        と思ったら、後方に前国王の写真があった。
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    ↑ペトラのビジターセンターの壁の高さいっぱいの写真

 
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 では若き王の評判はというと、アブドゥッラー国王は国民に積極的に接しているらしく、人気があるようだ。。外交面でも徐々に発言が聞こえてきている。写真が独り立ちする日は近いかもしれない。

 王はクウェート出身のパレスチナ人キャリアウーマンのラニア王妃と結婚した。パレスチナ人の多いこの国では政治的によい選択であるのかもしれないと思っていた。

 しかし、実際はこのラニア王妃の出自がどうのこうのということに関わりなく、王妃自身の人柄が国民をひきつけている。才色兼備の人であり、国民の声を聞き、女性問題や子どもの問題で積極的な活動を行い、またテロ反対でもにも先頭に立って参加するほどである。
 2004年のTIME MAGAZINE の世界に影響を与える100人に選ばれていたほどの女性で、一部には中東のダイアナと呼ばれているほどなのだ。
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←12月19日の読売新聞より引用・・・アブドゥッラー国王
 即位したばかりの頃よりりりしく力強い雰囲気になってきている。

 ◆20日にラーニア王妃・イマーン王女とともに来日した王は、欧米の理解の下でヨルダンとしても石油代替エネルギーの開発に着手する方針を表明し、また、中東の混迷が続くイラク・レバノン・パレスチナなどの各紛争の緊張を回避するにはなんとしてもパレスチナ問題の解決が不可欠であると語っている。

 ヨルダンはヨルダン・ハシミテ王国という。ハシミテはハーシム家のという意味であるから、預言者ムハンマドの家柄のハーシム家のヨルダンという意味である。

 国王という地位に甘んずることなく、夫婦で困難の多い中東で活躍する若き王・・・彼はそのムハンマドから数えて43代目だという。

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by miriyun | 2006-12-23 16:19 | ヨルダン | Comments(4)
2006年 08月 31日

こんなことがあっていいのか?…不発弾10万発

案じていた以上の数のクラスター爆弾の不発弾が・・・・!

 UNの地雷対策調整センターはレバノン南部を調査した結果を発表した。
http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe4800/news/20060905i105.htm

 クラスター爆弾が使われたレバノン南部の359箇所を調査した結果が出た。10万発もの不発弾が残されている可能性があるという。瓦礫化した町や農地の片隅で、いつか人間がそれをゆりうごかすまで、ひっそりと隠れ続ける爆弾。その数だけの手足やいのちが失われていく可能性のある爆弾が・・・である。

 しかもこれらのクラスター爆弾の90%は8月11日の停戦予定日の最後の3日間につかわれたのだ。戦争をやめようということが話し合われ、あとわずかというところで、激しく攻撃したということになる。
 UNの人道問題担当者は、このイスラエルの道義に反する行動を非難した。

 レバノン復興支援会議を開催するスウェーデンでは、各国からの支援金をもとに短期集中型の復興をさせたいという5億ドルにのぼる計画を発表した。
 だが、勢いよくはじまりだした復興も人道支援も、社会資本への投資も、この10万発の不発弾の散乱する地域では、家の一軒ごと・道端・畑もすべて目視で探していかなければならない。5cmほどの子爆弾は小さな子どもこそが、思わず拾ってしまう大きさであり、子どもを中心とする被害が南部ですでに出ている。
 これらの不発弾除去に何年を要するかわからないという。
・・・・・・ばら撒くほうは3日で撒いたというのに!

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by miriyun | 2006-08-31 22:36 | レバノン | Comments(4)