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カテゴリ:ヨルダン( 64 )


2006年 12月 07日

ペトラの地図とグーグルアースから方位を見る

 エル・ハズネは光のあたりぐあいで50回も色を変えるという。全体に日が当たる時間は限られているし、確かに沈んだ色合いから光り輝くばら色まで変化していくことは確かだと思う。残念ながら夕焼けの時間にいたことはないが、直接の日は当たらなくても、こういう岩は夕日の反射や全体の夕方の色調の変化を受けて微妙な色の変化をみせる。そういう意味では50というのもあながち大げさとはいえないかもしれない。

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 ではこのように全体に日が当たり、岩の色が明るく輝くエル・ハズネを見るにはどの時間がいいのだろうか。

 2つの地図を見てみよう。
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     ↑「地球の歩き方」2004年度版の地図より
        この地図中の方位磁針の北が上になるよう回転させて引用

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      ↑ 現地 Jordan Tourism Board 発行の 地図より引用

 この二つを見ると歩き方の地図でピンクの四角であらわしたエル・ハズネは南東に向いており、午後遅くまで充分日があたっていそうに見える。
 ところが、現地発行の地図では東よりやや北に少しふれている。2時半くらいの方向である。
すると午後は直接日が当たらなくなるはずだ。

 地図の方位が異なると、単独の場合、道に迷うということもあり注意を要するのだが、こういうときにも確かめるのにはGoogle Earth が使える。

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       ↑ Google Earthからの引用
         中央の黒くうねっているのがシーク。

 方位は左下に現されているように、上が北になっている。これで確認すると、現地の地図のほうが方位が正しいことが一目瞭然だ。

 もちろん、Googleにはエル・ハズネがあらわされていないし、これだけを見たのではわかりにくい。しかし地図と見比べながら楽しむと。シークの上を遊覧飛行したかのように山と裂け目が確認できる。エル・ハズネはピンクの四角として加えた。
 一方、歩き方は日本語で詳しく名所や山の小道を載せているのでやはりわかりやすさでいったらこれがいい。2006年度版はまだ書店に並んでいるのを見ていないが、この方位だけは直しておいてくれたらと願っている。

 ☆さて、方位とエル・ハズネをまとめてみよう。
 エル・ハズネはほぼ東向きでやや北にふれている。しかも目の前に大きな山がありそこに亀裂(シーク)が通っている。
◆ 早朝・・・まだ、日が当たらない
◆ 8~9時ごろ 上のほうから日があたり始める。つまり下は斜めに日陰で、上のほうは明るすぎて、露出をどちらにあわせたらいいのか自動のカメラも迷いそうな場面になる。
◆ 11時ごろ・・・一番上のエル・ハズネはこの時刻に撮影。全面に光があたって、赤い岩肌が明るく輝く時である。
◆ 昼~午後真上からの光になり輝く感じはなくなる。もちろん、中東の強い日ざしは岩にあたり乱反射して決して暗いわけではないので、様々に変化していく様子は見られるが・・・。
◆ 夕刻、微妙な変化を見せながら真っ暗になっていく。
★ ペトラ・ナイト・・・ろうそく2000本で幻想的なエル・ハズネが撮れるはず。ただし高感度にしないとろうそくだけが写ることになってしまう。

☆もう一つ、ローマン劇場と方位について
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   ↑午前10時の劇場
 現地地図の番号7のところに岩山を削りだしてつくった劇場がある。この劇場は北東を向いている。岩の座席は直射日光に曝されるとかなり蓄熱する。この劇場夏は日中暑くて使えないだろう。しかし、背後の山で西日がさえぎられる夕刻はすっかり日が当たらなくなり、使い勝手がよくなるだろう。これを反対側の岩山につくって南西向きにしたら夜になってもムッとたまりこんだ熱気が発せられてたまらないだろう。
 
 今も昔も方位は重要であることに変わりはない・・・。

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by miriyun | 2006-12-07 11:32 | ヨルダン | Comments(6)
2006年 12月 06日

エル・ハズネの謎&地下室発見!? 

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 エル・ハズネを向かいの岸壁から見下ろすと岩壁の内側にこの建築がうがたれていることがわかる。
 岩壁を垂直にし、そこに設計の下絵を描く。そして下から順次岩を掘り込んで設計図どおりに浮き彫りにしていく。その中の部屋は外壁が完成してから四角く掘り込む。

 映画「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」では、この奥におそろしいわなのある部屋や聖杯のある奥の部屋に続いていたりするが、それは映画のセットの話で実際の部屋はただ四角くなんの装飾もない部屋である。唯一の装飾といえば岩自体の持つ色ということになる。

 だから、ここが何の目的で作られたのかが長い間謎となっている。
① 神殿なのか?・・・それにしては内部に宗教色がなさ過ぎる。
② 宮殿なのか?・・・生活色はないし、部屋が狭すぎる。
③ 墓なのか?・・・なぜペトラの入口に墓を置くのか?墓としての証拠もない。
④ 宝物殿なのか?・・・これまで多くの墓泥棒がやってきて、宝物を探して最も高い位置にあるつぼ型の装飾部分まで宝物を探しまくった形跡があるという。また、今でもエル・ハズネの外壁部分には無数の銃弾の跡が見える。これは盗賊たちが岩壁のどこかに秘密の宝物庫の入口があるのではないかと探し回って撃った跡だという。結局、いまだに宝物が出たという話はない。

 名前こそ宝物殿(ファラオの宝物庫)という名前で呼ばれてはいるが、ナバテア人が何のために作ったかはわからなかったのだ。

 しかし、ここ数年の発掘調査が徐々にいろいろなことを明らかにし始めている。エル・ハズネの正面左側に発掘の跡がある。そこを掘った発掘調査隊が最近になって発見したこと・・・・それはエル・ハズネに地下室があるということ、そしてその地下室の奥まった壁のへこみに成人男性の遺骨が置かれていたことだ。

 この発見によって、エル・ハズネがナバテア王国の王の墓である可能性が強まったわけなのだ。
 
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by miriyun | 2006-12-06 05:38 | ヨルダン | Comments(2)
2006年 12月 05日

山道はロバに限る

 ペトラへのシークの道は専ら馬が使われる。ところが、中に入るとラクダとロバがお客を待つ。役割分担しているのだろう。
 
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 そして、小さな子どもたちはロバを使う。これもまたそういう風に分担しているようだ。

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 ロバとラクダの使い分けはというと、広い通りではどちらも使うが、どちらかというとラクダはあくせく働かせていない。座らせておいて観光する客の写真に入れば喜ばれるかなといったところだ。
 狭い山への道や小ペトラなど何しろ山道はロバに限る。ロバは従順でしかも物におびえることなくしっかりと進んでいく。小さい身体ながら思ったよりも足運びはしっかりしている。

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by miriyun | 2006-12-05 06:23 | ヨルダン | Comments(0)
2006年 12月 04日

シークの向こうにエル・ハズネ

 岩の裂け目であるシークを1.5kmほど進むと突如としてそのシークは終わり、そこに広々とした空間と朝日を浴びたカズネ・ファルウン(エル・ハズネ)が見えてくる。

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  ↑シークの裂け目からばら色の宝物殿が目に飛び込んでくる。
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  ベドウィンはこの建築物をカズネ・ファルウンとよぶ。
 カズネは宝物庫、ファルゥンはファラオでファラオの宝物殿という名で言い伝えている。ほんとうに宝物殿かというとあまりにも内部があっさりしていてそうは思えないのだが豊かなエジプトへの文化的憧れも含みながらの銘銘であったのだろう。
  
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  エル・ハズネ側から自分たちが通ってきたシークを見ると・・・・。

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by miriyun | 2006-12-04 00:04 | ヨルダン | Comments(6)
2006年 12月 03日

シークの本来の道・整備後の道

◆以前のペトラ
 ペトラは廃墟であったわけだし、またシークは時に川底になる。だから以前のペトラは、下記のように砂利・赤い岩がごろごろしていていた。馬が行き来するので道の中央を中心に石は弾き飛ばされてほとんどなくなっているが、左右ほどたくさんの石が堆積している。
馬も人も歩きにくい
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↑かっては、最後のシークの手前もこのように整備されないまま、崩れた岩が散乱していた。
ただ、馬に乗ったままエル・ハズネに入っていかれる点が今と異なる。

◆今のペトラ
 驚くほどの整備がシークで行われている。
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 まず休憩用のベンチの設置。ベンチは体力のないお年寄りとかも無理せずに歩けていいと思いますが・・・。ゴミ箱が置かれ、清掃員がこまめに掃除している。つまり、馬の○○などあっという間にディズニーランドの清掃員のように掃除してしまう。

 そして、騎馬の乗り入れをなくしことで、混雑をなくし、歩いていくようになっている。道路はローマの石畳がしっかりしているところは若干残し、それ以外は舗装してしまっている。

 あまりにもきれい過ぎて以前のイメージと異なってしまった。まるできれいな遊歩道のようで、厳しい自然が作り上げた道という感じは薄れてしまうことは否めない。
 ただし、こう感じるのは下を見た場合のみだ。上を見上げれば屹立する岩壁と青空さえ見えなくなる谷の深さにただただ驚愕するばかりだ。

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by miriyun | 2006-12-03 00:10 | ヨルダン | Comments(5)
2006年 12月 01日

ペトラ★シークに草の生えた風景とは?

 シークというのはこの巨大な岩山に降った雨が怒涛の洪水となって侵食してできた岩の割れ目である。だから70~100mもの高さのある山のわずかなすきまに細い裂け目ができている。
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 実りのときブログの雄平さんにこのような地形でも日本だったら草やら松やら生えだしてしまうのに気候の違いで全く生えないんですね~というコメントをいただいた。
 ちょっと気になって、シークで草のはえている写真はないか調べてみた。

 すると次の写真が出てきた。

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 これを見ると草がかなり生えている。ここはペトラ・・・冬の時期をのぞいて一滴の降水もない。
この草の生え方は山の上からの染み出してきたものか、わずかながらも水があるということになる。すると雨の降る時期にはかなりの水の通り道になる。

 その証拠にこの岩山の亀裂は水による侵食がいまも着実に進行している事をあらわしている。これだけの亀裂が入るということは雨の時には滝のごとく流れ落ちてくるのだろうと想像される。

★ここの水の威力はナバテア王国の時代にも洪水の被害が頻発して、支配者たる王は治水のために貯水池をたくさんつくったことでわかっている。

 また、20世紀においてもいわゆる鉄砲水・・・季節はずれの大雨のために28人もの観光客が亡くなっている。それは1963年、ふつうはほとんど雨のない4月のことであった。

 広大な山に降った雨が狭いシークにすべて集中してくるこの地形では、わずかな雨でも油断なく逃れる必要があるということだ。
 まことに自然はすさまじきもの・・・・。

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by miriyun | 2006-12-01 11:27 | ヨルダン | Comments(4)
2006年 11月 30日

馬が行きつくところ

 ところで、馬に乗ると終点はどこなのか?
実はとても短い距離になっていた。12年前、馬は確かにシークの中をずっと歩き続け、エル・カズネが眼前に開け、劇的な展開があるところまで行くことができた。インディ・ジョーンズ的世界が馬上で楽しめたのである。

 ところが、今回はシークの途中、これからが本格的な深い谷に入るというところで突然馬上の旅は終了してしまう。すべての訪問者の馬がここでおしまいになり、あとは歩いての訪問になるのだ。じっくりと左右や上の空を確認しながらの歩きができるのでそれはそれでよい。だが、馬で入場するという醍醐味は残念なことになくなってしまっている。

 ただ、例外があることに気づいた。

朝早くから入場したのでシークはすいていてめったに人とも合わずにとても静かだ。

 そこへ、カッカッカっと反響しながら馬の足音が近づいてくる。それは馬車だった。
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騎馬は認められなくなったこのシークに小型馬車は認められていたのだ。馬車はシークに足音を響かせながら通り過ぎていった。

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by miriyun | 2006-11-30 22:12 | ヨルダン | Comments(7)
2006年 11月 28日

馬たちのご出勤

ある意味、ペトラは馬の街だ。朝はとくに馬が一定の方向に向かって歩いていくのに何頭も遭遇する。
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↑モーベンピックの前を通りかかる馬。(外資系ホテルの前には警察官の警備室がある)
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↑だれも乗っていない馬も、行くべき場所を知っているようで道路を渡っていく。

その行く先はビジターセンターの向こう。
馬はセンターの向こうがわに吸い込まれるように行ってしまうが、我々外来者はビジターセンターで入場料を払って入場する。
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一応解説しておくと広いところなので1日券から3日券まである。最初から2日、3日と余裕を持ってみるなら長いチケットのほうが有利。ただし、時間の余裕と体力のある人でないとここで3日も見ていられない。何しろ夏は酷暑で体力の消耗が激しい。
 それから、近年行われるようになったペトラ・ナイトは別チケットであるため、2日チケットがあるからペトラ・ナイトも見られるというわけではないので注意を要する。
 ジョルダンの最重要な観光地であるため、21JDと一日で3400円くらい。かなりの料金である。学割は大きいので学生なら国際学生証必携のところだ。


 こうして、ここを入っていくと、ようやくたくさんの馬たちが見えてくる。ここでペトラへの客を乗せるために馬は待っているのだ。
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 料金は交渉で、最初から往復頼んでおいたほうが安い。前払いだったので何時間後に迎えの馬をといわれても実は半信半疑・・・・馬子に名前を書いてもらい馬のナンバーも覚えておくことにした。

 帰りに約束の場所に行くとしっかり待っていた。きちんと約束を守っていたばかりか、帰りの車手配の心配をして、携帯電話を貸してくれたのだった。


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by miriyun | 2006-11-28 23:32 | ヨルダン | Comments(2)
2006年 11月 25日

ワディの谷間に響く音

 ペトラのある山を眼下に望む山の上に張り出したようなホテルに宿泊していた。

早朝、イスラームでは珍しいことにアザーン以外の音で目覚めた。

それは・・・カッカッカ、ポクポク、ポク・・・というように単調ではなくやや変化ありながらずっと聞こえてくる音である。

 部屋のベランダに出てみる。

朝焼けの名残りがうっすらと空をピンクに染めていて、ペトラは昼間よりも繊細な薄紫色をしている。
ベランダのすぐ下は谷であり、その向こうの岩山の周りを廻る小道を馬に乗った人が町のある方向へ下っていく。急ぐふうもなく、したがって馬をせめることもなく悠々たる雰囲気で下り行く。
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     ↑早朝の風景。奥に見える薄紫の山はペトラ  右手前に騎馬の人。


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 ふつうならそれだけのことともいえるが、もともと何も音のない山の早朝に、谷を下っていくため、その馬の足音が反響するのであった。たった一頭の馬の足音がこれほど大きく聞こえたことはない。

 この谷間に響く音・・・目は覚めさせられたけれど決していやな音ではない。私たちは日常の中で目覚まし時計のジリジリという音やピッ!という電子音に曝されているのだが、久しぶりに自然の中で生活が営まれる音を聞いた気がした。

 だから、谷間の音が朝の挨拶を送ってくれたと感じたのだった。

       おはよう、サバーフン・ヌール(光の朝よ!)

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by miriyun | 2006-11-25 09:47 | ヨルダン | Comments(5)
2006年 11月 24日

ペトラの交易&シークによって守られた町

 紀元前6世紀に、西アラビアからきた遊牧民ナバテア人がこのあたりに定住しはじめた。すでに重要な交易路であったこの地でキャラバン隊に安全を保障することで財政を潤した。紀元前4世紀末にアレクサンダーの帝国の一部を受け継いだセレウコス朝によってを襲撃され、大きな痛手を受けた。しかしその後立ち直り再び発展し始めた。
 交易で力を持ちはじめたアラブ系ナバテア人は、後のアラビア語の元のなるナバテア文字を用いていた。 そしてセレウコス朝の時代であるため、建築などにはヘレニズム文化の影響力の大きい。

 こうしてナバタイ王国のもと、ペトラは、紀元前3~2世紀ごろに築かれた岩山都市がペトラでで、南アラビア交易ルートの要として栄えた。紀元前84年に即位したアルタス3世のもとでセレウコス朝の弱体化をみて領土を北はシリア南部、南はアラビア半島北部を含むジャーリヒーヤ(イスラーム以前)の時代としてはアラブ人最大で最後の国として存在した。
 交易による経済力を背景に南のペトラを第一の都市とし北の都としてボスラーが栄えた。サウジアラビアにもナバテア人の巨大遺跡マダーイン・サーレフがあるがこれもその発展の流れの中でできたのではないだろうか。
 
 だが、豊かなる地はいずれ狙われる。
 紀元前63年ローマのポンペイウスはシリアとパレスチナを征服した。そのときにペトラへも当然進軍してきたが、財政ゆたかなナバタイ人は金を払うことで自治権を得ながら、ローマの支配下となる。そしてこの頃から、ペトラの中にローマ建築が入り始める。

 紀元前31年にはユダヤの王ヘロデに攻撃され、広かった領土の多くを失ってしまった。

 それでもかろうじてナバタイ王国としての命運を繋いでいたものの、紀元106年にペトラもボスラーもローマ帝国に併合されてしまったのである。

 ☆ナバタイ人がこの地で扱った交易品は、乳香・没薬・金・瀝青・鉄・銅、中国からのシルク、インドの宝石・香辛料、南アラビアの真珠、アフリカの象牙などその交易品の一部である。ここを通してローマ人はインドの香辛料を知っていたし、かの三博士がイエス生誕にお祝いとして持っていったという乳香・没薬・金をキリスト教徒は最高の贈り物とし考えたりしたわけだ。

 ローマ撤退後は、砂に埋もれたものもあるとはいえ、これだけの規模の都市が千数百年間にわたって、遊牧民の間だけで知られていたが他には秘密として閉ざされていたのだ。

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            ↑ 朝日さしこむぺトラ
 なぜそれだけ長い間この2万人以上が住んでいたという都市遺跡が発見されなかったのだろうか?
 それは岩山が屏風のように立ちふさがりはいる道がシークと呼ばれる山の深い裂け目しかなかったからである。今もここに入るには1.5キロメートルの高さ70~100mとも言われる岩山の裂け目を歩くか馬に乗るかで入っていくのだ。

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by miriyun | 2006-11-24 18:37 | ヨルダン | Comments(2)