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カテゴリ:ヨルダン( 64 )


2006年 12月 28日

ヨルダンの警備隊

ヨルダンの警備隊員は様々なところで見出す。それを警察官というか警備隊、あるいは軍隊というかは定かではないが・・・。

1、外資系ホテルの前
 警察官たちより序があり客をチェックしている。一応、金属探知機を持ってあてている。地雷探知機と同じようなものだ。中高年の人が多いが話してみると愛想がよい。ただし、撮影はできない。だから、立ち寄り所だけ・・・。
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2、ワディ・ラム
 砂漠の警備隊は砂漠色の民族衣装で巡回する時はラクダに乗るラクダ隊である。何しろかっこいい。時に、エル・ハズネにいることもある。

3、ペトラ
 騎馬の隊員に遭遇する。
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さすがに、観光客用のくたびれた馬ではなく、りりしい姿だ。

4、空軍か?
 c0067690_16361590.jpgワディラムでもペトラ上空でも軍用へリをみることがある。巡視しているようだ。場にそぐわないことおびただしいが、ホテルの警備員と同じく必要悪なのかもしれない。

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by miriyun | 2006-12-28 16:36 | ヨルダン | Comments(2)
2006年 12月 27日

ラクダが往く!

 ペトラのエル・ハズネから先は、ラクダとロバが行きかう。
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 そのラクダだが、砂漠で一歩一歩確かめるかのようなじっくりと歩く姿ばかり見ていると、走ることを忘れそうになってしまう。

 ★でも、ラクダが走るのを目の前で見るとなかなか勇壮だ。
             *何しろ馬よりも背丈がある。
             *足も長い。
             *それで思いっきり走るとけっこう早い。
             *何しろかっこいいのだ。

 自分で手綱をもって背筋をピンと伸ばして走らせて見たいものだ。
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 ラクダ引きはたいてい一頭のラクダの後ろにロープでもう1頭つないで引いて歩いている。
原則、ラクダはたずなを持つか、つなぐかしている。夜は両足をロープでつないでいる。
なぜなら、ラクダは賢こくて時には逃げてしまうからだ。
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 珍しい単独行のラクダをみつけた。飼い主のところから着たのか、行くべき場所に行こうとするのか。
 足音を響かせながら行く。ここはペトラだから、もしかってに動いてしまったとしても道は狭いシークになってしまう。そこで地元の人が止めてしまうだろう。。平原や砂漠で飼っているより安心感がある。

 ラクダの背には毛織物が敷かれ、その上になつめやしの木製の鞍がおかれる。さらにその上に房飾りのついた毛織物やキリムで背を覆っている。大型の左右振り分け型のキリムバッグはこうして敷物&物入れとして使っているのを見ると実に実用的だとわかる。

 こうして行き来するラクダの顔や走り方、キリムやラクダ飾りにも目を楽しませながら歩くのも興味深い。

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by miriyun | 2006-12-27 04:51 | ヨルダン | Comments(2)
2006年 12月 24日

王様&ラニア妃はどんな人!?

 今、日本に来ているアブドゥッラー王はどんな人か?

 もっと紹介されるかと思いきや、日本に来て精力的に動いているのに報道が少ない!

・確かにヨルダンは小国だ。
・オイル・マネーもない。
・あんまり商売になる国ではないだろう。

 しかし、イスラームの社会では一目置かれるハーシム家、すなわちムハンマドの家系の末裔である。この王家が世代交代した時、どうなることだろうと思われていた時期もあったが、現在は確かな後継者として地位を固めている。若いから、まだこれから30年くらいは中東情勢の中心になっていく人でもある。
 少なくとも、日本は中東でも発言し国際的な地位を高めていくつもりなら、ヨルダンの王をしっかりと見て彼の発言を注意をはらっておくべきだと思うのだが、新聞もTVもどこもが話題にするところばかりに群がっていて、将来の国際社会を担う人たちの人品を見定めようとはしない。

~*~*~*~*~*だれも紹介しないのならここで書いてしまおう。*~*~*~*~*~*

★ 彼は、希代の「小国生き残り名人」であったフセイン国王イギリス人のモナ王妃との間に生まれた子だ。4歳でイギリスに留学、15歳でサンドハースト王立陸軍士官学校の学び、その後ケンブリッジからジョージタウン大学修士課程まで学んだ。
 アラビア語と英語を話し、イギリス・アメリカに暮らした経験を持つ。彼が幅の広い視野と危険を回避する冷静さ・国際社会へ呼びかける力があれば、必ずこれからの中東和平への道に関係してくる。イスラーム理解への道筋をつけていくきっかけになるかもしれない。

 ◆そういう人が、せっかく日本にラニア王妃とイマーン王女まで連れてやってきている。今年36歳。ラニア王妃は女優もここまではという美しい人で、今回安倍首相の昭恵夫人によって着物の体験ということで着ているがそれも似合ってしまい、おどろく。 

 王子時代に知人のパーティでラーニアにであい、交際を経て1993年に結婚したという恋愛結婚である。それだけに仲むつまじく二男二女をもうけている。
 ★ラニア王妃はクウェートで生まれ、父はパレスチナ人の医者である。湾岸戦争後ヨルダンに移住。カイロ・アメリカン大学を卒業してから銀行で働いていた職業人であった。
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 パレスチナ人であるから、国の過半数を占めるパレスチナ人からは絶大な人気である。王妃が王より目立ったり人気があったりすることは、パレスチナ人以外の国民には不満の種になる。したがって、その点は王が国際面・政治面、王妃は人道・福祉・女性問題を中心に動くなど、ラーニア王妃自身が自戒しているのだという。
      TV映像(ずっと前なのでどこの局か不明)の写真引用→

ー・-・☆さて、王自身はどういう人なのか?☆ー・-・-・-・
① 彼は、行動的で思いつくとやってみないではいられない。
 王であり、ムハンマドの家柄の子孫である王は尊敬されている。当然国民は失礼に当たることなどいわない。まずいものも見せない。

 すると王は考える。国民の生の声を聞きたい!
    ↓
 庶民風の衣服をきてひげを変え、変装してしまう。
 そして、新聞記者や、運転手・病人のふりまでして国民の間を見てまわったりするのだ。結局どこかしらでばれてしまうのだが、今でもやっているんだろうか?
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② 国王は落下傘部隊にいたパラシューティストであった。身体は頑丈に鍛え上げられている。若いときは身体はずんぐり、顔も丸くてという感じだったが、精悍な顔と愛嬌のある顔が両面がみえる。年とともにフセイン王のような風格がでてきそうだ。

③ オックスフォード仕込みの演説・答弁は明瞭で的確、
 軍隊でも鍛えられているから短めにはっきりと要点をつかんで話す。英語は母語といえるくらいに流暢。以前から、中東問題についてその争いをなくすためにいつもいつも考えて発言している。

④ エキストラとして映画出演した王
 スタートレックファンであった王子時代、『スタートレック・ヴォイジャー』に宇宙船の中で登場人物と行き違うエキストラとして6秒間出演した。言われなければとても王子とは思えないエキストラ出演であった。

③ 趣味
 スキューバダイビング・・・これはわかる。世にも美しい紅海の港アカバを持っているのだからそのくらいするだろう。
 武器収集・・・そうここはローマやサラディンの昔からの武器などが手に入れやすい場所に住んでいる。
 
④ 車大好き
 カーレース・・・そんな危険なことを王様がしていいのかと思ってしまう。

 *でも、運転系はすべて好きで車マニアといってもよい。オートバイでワディ・ラム を走り回る。車に乗れば要人の迎えまでやってしまう。小泉首相がヨルダン訪問した時も送迎はアブドゥッラー国王であったという。

⑤ 操縦桿だって握る
 ロイヤルヨルダンの専用機で周辺諸国へ行く時は王様自ら操縦桿を握る。

★そういえば、お父さんのフセイン王も行動力があり、操縦が好きだっ。世界の人と無線で交信し、ジェット機(戦闘機・民間機)、軍用ヘリを操縦しするなど趣味というには本格的なことばかりであった。
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** 印象に残ったできごとがある。
 1994年中東和平が実り始め、イスラエルとの国交が再開した時、『フセインj国王はイスラエル上空を自分で操縦していった』というニュースが世界の新聞に載った。イスラエルの上空をヨルダンの航空機が飛ぶなんてことはありえないことであり、そのありえないことを王自らやってみせただけに世界が和平に近づいているのはほんとうなんだと実感した。
 命がけではあるが明るい中東の到来を予測させるさわやかさを与えていたのがこのニュースだった。
 **** まさに、『この親にしてこの子あり』だったのだ。

 (だが、その後フセインの生涯を通してのパレスチナ問題との格闘も虚しくオスロ合意も何もかも頓挫し、パレスチナ自治区は生活のできる状況を断ち切られていくという状況が続いている。)

 ☆昨日、アブドゥッラー王が東京で講演した中で、中東和平を推進するのに日本が極めて公平な国であることを強調し、期待をしていた。 

優れた王であった父とイギリス人の母とパレスチナ人の妻を持つ王が中東問題にかかわりを持つのは必然といっていいくらい自然なことであると思う。

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by miriyun | 2006-12-24 13:22 | ヨルダン | Comments(6)
2006年 12月 23日

ヨルダン・アブドゥッラー国王とラニア王妃

 今、ヨルダンのアブドゥッラー国王が来日している。

  ヨルダンの初代国王の名もアブドゥッラー。第一次大戦後、メッカの太守フセインの2番目の息子アブドゥッラーがヨルダンの王となり、ファイサルはシリア王になり、しかし、フランスが押し出してきてファイサルを追い出したが、後にイラク王となった。
 ここの過程ではパリ秘話会議に於けるチャーチル殖民大臣(後のチャーチル首相)の中東部門顧問として参加したT.E.ロレンス(アラビアのロレンス)が平和会議でファイサルの立場に立ち、フランスを相手に論戦している。またロレンスはファイサルにアラブ人国家を作ると約束した事を守るためにイギリス国王からの勲章まで丁重に断っている。

 こうして出来上がった国家であったが、イラクは1958年に王政が廃され、ファイサルの血筋の王は3代目で断たれてしまう。

 ☆ファイサルの兄、アブドゥッラーはヨルダン王になり、その後、暗殺によって命を失ってしまう。波乱のアラブ王家であるが、3代目フセイン王が優れた人物でパレスチナ紛争から始まる戦争と・難民とPLOとありとあらゆる難問の積み重なる中で、よく機を見て、人を見てこのアラブの国を存続させてきた。

 その国王が1999年に亡くなったとき、その長男が即位しアブドッラー2世となった。人のよさそうな顔の若い王が、果たしてこの難しい中東情勢の中でこの国を維持していかれるのか、未知数であった。

 ◆それから7年、いまでもヨルダン国内を見ると偉大な人物のあとの若い後継者の時にありがちな様子がポスターに見られる。国境・観光地などかなりの場所に国王の写真が掲げられているのだが、必ずフセイン前国王と一緒なのだ。
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     ↑左:故フセイン1世   右:現国王
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     ↑シリアとの国境、軍服姿のアブドゥッラー王・・・。おやっ、一人で珍しい。
        と思ったら、後方に前国王の写真があった。
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    ↑ペトラのビジターセンターの壁の高さいっぱいの写真

 
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 では若き王の評判はというと、アブドゥッラー国王は国民に積極的に接しているらしく、人気があるようだ。。外交面でも徐々に発言が聞こえてきている。写真が独り立ちする日は近いかもしれない。

 王はクウェート出身のパレスチナ人キャリアウーマンのラニア王妃と結婚した。パレスチナ人の多いこの国では政治的によい選択であるのかもしれないと思っていた。

 しかし、実際はこのラニア王妃の出自がどうのこうのということに関わりなく、王妃自身の人柄が国民をひきつけている。才色兼備の人であり、国民の声を聞き、女性問題や子どもの問題で積極的な活動を行い、またテロ反対でもにも先頭に立って参加するほどである。
 2004年のTIME MAGAZINE の世界に影響を与える100人に選ばれていたほどの女性で、一部には中東のダイアナと呼ばれているほどなのだ。
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←12月19日の読売新聞より引用・・・アブドゥッラー国王
 即位したばかりの頃よりりりしく力強い雰囲気になってきている。

 ◆20日にラーニア王妃・イマーン王女とともに来日した王は、欧米の理解の下でヨルダンとしても石油代替エネルギーの開発に着手する方針を表明し、また、中東の混迷が続くイラク・レバノン・パレスチナなどの各紛争の緊張を回避するにはなんとしてもパレスチナ問題の解決が不可欠であると語っている。

 ヨルダンはヨルダン・ハシミテ王国という。ハシミテはハーシム家のという意味であるから、預言者ムハンマドの家柄のハーシム家のヨルダンという意味である。

 国王という地位に甘んずることなく、夫婦で困難の多い中東で活躍する若き王・・・彼はそのムハンマドから数えて43代目だという。

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by miriyun | 2006-12-23 16:19 | ヨルダン | Comments(4)
2006年 12月 22日

アラビアのロレンスと鉄道爆破…ヒジャーズ鉄道(7)

1. ヒジャーズ鉄道は歓迎されたのか?

 もちろん立場によって異なるので、それぞれの立場から考えてみよう。

① トルコ政府
 前出のように、ダマスカスにあるヒジャーズ駅は駅としてはステンドグラスとレリーフなどで邸宅のように重厚華麗なものであった。
 トルコはもちろん威信と半島支配への実効をかけて建造したものである。

② ダマスカスの商人
 また、ダマスカスの商人はスエズ運河ができてから約半世紀で交易の中心が船に移ってしまったことを身にしみていたことだろう。
 だから、トルコがドイツの技術で作ったとはいえ、商売上は歓迎したことだろう。実際、ここから乗る乗客は十年の間に十倍にも膨れ上がり、ダマスカスが鉄道拠点として一花咲かせることにもなった。

③ 一般の利用者
 一般乗客はもちろん苦しい砂漠地帯を2ヶ月もかけていかなくてもメディナまでは座っていていくことのできる鉄道を歓迎した。

④ 沿線上の遊牧民
 では、沿線上の遊牧民はどうだっただろうか。彼らのなかには巡礼で訪れる各国からの客にラクダとロバと道案内を提供することを仕事にしている者が数多くいた。それが鉄道に乗って通り過ぎてしまうため一切の収入をたたれた。
 そこで、列車を旧式の銃で襲撃することもよく起きたという。以来。列車にはトルコ兵が重装備して乗ることになる。

⑤ トルコ軍
 アラブ独立戦争前後からの鉄道はどう使われたのか?
もちろんトルコの軍隊・軍馬・火薬・物資など兵站輸送に使われ、列車そのものが軍隊であった。
 
2、アラブの反乱(アラブ独立戦争)とT.E.ロレンス

① メッカの太守フセインの息子たちがトルコへ反旗を振りかざしたアラブ独立戦争がヒジャーズ地方で(聖地周辺の紅海沿岸部をいう)におこった。
 そのとき、飛行機・大砲というものを知らぬラクダ・馬に乗った銃のみを使用するアラブ軍はトルコからの陸空からの攻撃に逃げ惑った。

② このときにイギリスが連絡将校としてよこした者たちの中にT.E.ロレンスがいた。ロレンスはファイサルにアラブの反乱を成功に持っていかせるだけのカリスマ性を感じたようで、以後ファイサルが一時シリア王、後にイラク王になるまで親交がある。
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     ↑軍服姿のT.E.ロレンス
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  ↑アラブ服のT.E.ロレンス(以上2点はNHK「そのとき歴史は動いた」の画面より引用)           
 さて、T.E.ロレンスはカルケミシュを発掘に参加していた若き考古学者でもあり、アラビア語の部族方言を聞き分ける語学力と鍛えた身体を持つ一風変わった人物である。しかしロレンスは一介のイギリス将校でしかないのに、何が彼の存在を歴史的なものに変えたのか。

 彼の存在意義や印象はアラブ・トルコ・イギリス・フランス・ドイツ・アメリカでもちろん全く異なる。

 時は第一次世界大戦。トルコ・ドイツは敵国である。敵味方の思惑以外に連合国の間にも密約があり、その中でも英仏は腹の探りあいであった。イギリスは戦費の不足を後にユダヤ資本に頼るようになる。この戦争では第三者であったアメリカは気楽な立場ではあったが後への影響力は残そうとしている。

 だから、どの立場で彼を論ずるか、どの資料で語るかで印象は全く異なる。また、同じ国民から見ても一筋縄で理解できるような単純な人物でもない。だから、ロレンスを取り上げればまず、学術的なものから心情的なものまで反論・疑問噴出してしまうだろう。 諸説検証していられないので詳しくはもっともロレンス情報を集約しているHPを紹介しておこう。
http://homepage3.nifty.com/yagitani/index

 T.E.ロレンスの戦略
 さてここでは、彼がアラブ軍とともに戦い、そしてアラブ軍が砂漠という戦場で戦う方法に彼の意見が関わったということをあげておこう。そして、成し遂げた大きなことがアカバ攻略・ヒジャーズ鉄道爆破・ダマスカスへのアラブ軍の一番の入城であった。
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     ↑ワディ・ラム近郊でサウジアラビア方面へ曲がる線路
      ・・・このあたりでもロレンスは列車を襲撃をしている。

④ ヒジャーズ鉄道
 ヒジャーズ鉄道への攻撃は1917年3月、メディナの北へ100kmのあたりで激しく行われ、トルコ軍のメディナへの侵攻ができないようにしていった。その後、北上し鉄道爆破をしながら戦い、7月にはアウダ・アブ・ターイーの協力を得てアカバを背後から攻撃し、トルコ軍を倒した。その後も徐々に鉄道に攻撃しながら北上していき、最終的にダマスカスへ入城したのである。

 ヒジャーズ鉄道の襲撃回数は90回を越えるといわれる。その結果ズタズタになり砂漠の鉄道はその後復旧していない

 その沿線上で現在使用されているのは2箇所だけである。北部のダマスカス~アンマン路線は車の3倍近く時間のかかる超ローカル線としてお客をのせている。南部路線ではリン鉱山から資源をアカバへ運び出す路線として使われているに過ぎない。
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     ↑燐鉱山との間を行く貨物列車

 ごくまれにヨルダン南部でお客を乗せた列車を走らせたことがあるようだが、次はいつかというと、あてはない。
 この鉄道の採算があえばヨルダンのアブドッラー国王が動く可能性はあるが、採算で考えるなら何か大きなプロジェクトとの一環として動かなければ難しい。

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by miriyun | 2006-12-22 11:44 | ヨルダン | Comments(2)
2006年 12月 21日

ハーシム家とヒジャーズ鉄道…ヒジャーズ鉄道(6)

 聖地メッカ(正しくはMakkah)は13世紀から預言者ムハンマドの子孫が管理してきた。それがハーシム家で、フセイン・ビン・アリーは1908年にメッカの太守(Amir of Makkah)になった。

 くしくも1908年は、オスマンのアブドゥル・ハミド2世の命で、ヒジャーズ鉄道が完成した年でもある。ダマスカスからメディナ間の約1,300kmが完成した。このしばらくあとでダマスカスにヒジャーズ駅が完成したのだ。これによって2ヶ月はかかるとされた聖地巡礼が大幅に短縮され、利用者はぐんぐん増えていき、オスマンの威信を高めた。
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              ↑現在のヨルダン南部のヒジャーズ鉄道

 だが、もう一つの目的はオスマンの宗教的支配欲でメディナ・メッカへ力を及ぼすこと、そしてそのための軍隊と物資の輸送手段の確保にあった。
 これまで、イギリス勢力下のスエズ運河を通ることでやっとメッカやメディナに到達していたのだが、この鉄道を完成させることで軍隊をすばやく聖地へ送り込むことができるようになった。

 そればかりか、預言者の家族をイスタンブルに人質として拉致した。

 これらの捕虜の中にメッカの太守の息子、アリー・アブドッラー・ファイサル・ゼイドの4人の息子がいた。したがって、これらの息子たちはイスタンブルで近代教育を受け、かつトルコ軍に組み入れられたりしている。
 つまり、オスマン支配下のアラブ人は、自分の意にそおうがそうまいと、トルコの中で軍人として、庶民として暮らさなければならなかったのである。つまりトルコの軍服を着ているのはトルコ人だけではなくアラブ人もいたのである。
 しかし、その中でいくつかの結社ができ、アラブの抵抗が始まっていた。ファイサルもトルコの将軍ジェマル・パシャの客分としてではあるがダマスカスに留め置かれ、しかもどんな侮辱にも耐えねばならなかった。

 ファイサルがメッカの父フセインと連絡する時、ヒジャーズ鉄道を使っている。ファイサルの老僕に密書を持たせてこの鉄道で往復させたのだ。ひとたび漏れれば、双方の命、親族一同の命に関わる危険な賭けだった。
 
手紙は件の柄の中やケーキの中に隠したり、サンダルのそこに縫い付けたり、あるいはなんでもない小包の包み紙の上に隠顕インキで書いたりした。(ロバート・グレーブス『アラビアのロレンス』より引用)

 トルコが聖地メッカの太守とアラビア半島の諸部族を制圧しようとする手段としつくったヒジャーズ鉄道で、太守の息子ファイサルはアラブの反乱の密書の往復に使っていたのである。

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by miriyun | 2006-12-21 02:13 | ヨルダン | Comments(2)
2006年 12月 15日

3B政策とヒジャーズ鉄道…ヒジャーズ鉄道(5)

 ヒジャーズ鉄道は1900年から建設が始まり、1908年9月1日に完成した。オスマン朝のスルタン、アブドゥル・ハミドがこれを作らせた。
 もちろん、ヒジャーズ鉄道はオスマンが作っているのだが、その技術者はドイツ人であった。ベルリンーバグダッドをつなぐドイツの鉄道とほぼ同じ時期に敷設されており、。ドイツの3B政策の流れの中でつくられていったことがわかる。
 
 3B政策はのちに言われるようになっただけで、当時その呼び名があったわけではない。19世紀末から、ヴィルヘルム2世がベルリン・イスタンブル(過去においてビザンティウムと呼ばれた)・バグダードをつなごうという世界戦略を持ッたことによる。鉄道によってこれらをつなぎ、中近東に進出し、ドイツとの一体化した経済圏として世界の中で覇を唱えようとしたものである。

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 ↑砂漠地帯の鉄道の駅。石やレンガを積み重ねた駅舎
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  ↑ トルコによって急ピッチで作られた鉄路
現在はもう変わりつつあるが、創業時の枕木はレバノン杉であった。

◆エジプト・メソポタミア・ギリシアなど有史以来利用し続けてきたレバノン杉の森も、この鉄道用枕木に大量に切り出され、壊滅的な打撃を受けた。

 ☆ヒジャーズ鉄道は1912年には、それは1年あたり3万人、1914年には30万人の乗客を運んだという。
 この鉄道を後にアラビアのロレンスことT.E.ロレンスがアラブ軍とともに鉄道爆破工作場面が映画にあらわされていた。

 ヒジャーズ鉄道はあと1年半で100周年となるわけだ。しかし、今その鉄道は繋がった形では存在していない。 鉄道はひとたび建設されたなら長く運用されていくものだ。もちろん日本の中でも、採算が採れずに数年で終わったとか、鉱山用だったが必要性がなくなってとかあるいは大手に吸収合併されてもとの名前は短命に終わったというものはたくさんある。
 
 しかし実際に多くの客を乗せていながら約10年という短命な鉄道に終わったのは、鉄道史上でも珍しい。

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by miriyun | 2006-12-15 10:53 | ヨルダン | Comments(2)
2006年 12月 14日

大自然の中で祈る

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 礼拝は金曜日の集団礼拝を除いては、どこでも礼拝する。手足を清めて心をかたむければそこは礼拝の場となる。ただし、礼拝すべき方向はメッカ(ただし、これは日本風な言い方)であるから、その方向がこのように岩場であろうと海に面していようと関わりなく、正しい方角に向かって祈る。

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 仕事中の馬子たちも休憩している人もいれば並んで礼拝している人もいる。その辺は、集団礼拝だけをTVなどで見ているとわからないだろう。

 ペトラの岩場で見た真摯な祈りの姿が忘れられない。
 そして、周りに強制しないイスラームの姿勢が印象的だ。

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by miriyun | 2006-12-14 06:51 | ヨルダン | Comments(6)
2006年 12月 13日

岩がチョコレートのように溶ける

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ペトラの岩・・・赤砂岩の岩

その岩が溶ける、溶ける。チョコレートのように溶ける!!
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この岩、改定で堆積している間に様々な成分が堆積している。もちろん石灰岩もいっぱい。
だから、水の触れれば溶けていくので、水の多いところほどこのように岩が溶ける現象が見られるようになるのだ。
 なんだか焼き菓子の上にチョコレートがけをしたようだ。


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by miriyun | 2006-12-13 07:19 | ヨルダン | Comments(4)
2006年 12月 10日

ナバテアの建築に融合される各地の文化

 エル・ハズネの高さは掘り込んだ岩の天井まで約40メートル、屋根近くで30数メートルといったところだろう。
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 表面には繊細な女神像がレリーフとなっていた。
今は写真のように風雨によって削れてしまっており、面影がないが、上の段の中央に掘られたエジプトの女神イシス、羽のあるギリシアの女神ニケなど各地の女神像が掘り込んであったという。

 ◆ その遺跡の屋根近くの柱頭の文様と塔のボーダーを見てみよう。上の全体像の中の青い四角の位置である。
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 柱を見ると溝のないローマのトスカーナ式円柱、その上のオーダーは梁を支える横のラインと中央に何らかの彫刻がついていることと、コリント式の上部のくるくると巻いた模様とアカンサスが使ってある。しかし、本格的なコリントのように何重にも重ねたアカンサスではなくやや控えめなアカンサスの葉が一葉張り出している。

 屋根の突起している飾りは長い歳月と風雨により、その姿が損傷していてどのような模様なのか判別できない。
 だが、屋根下のたての溝の入ったボーダーの下にやや奥まって草木のレリーフが見事だ。ここにはローマの槍と卵文、ブドウ文などとは全く異なる文様がある。
 また、コリント式オーダーのアカンサスとアカンサスの間にはつる草が伸び実がなっている。これらの豊かさが象徴された植物と実の文様はローマの遺跡にはないもので、これこそが当時交易でさかえたナバテアを表現する文化ではないだろうか。

 紀元前2世紀、南に荒涼の産地であるアラビア、西には当時栄えていた富裕なエジプト、北にはシリア王国、そして北西にはギリシア、そしてローマ帝国が栄え始めた。

 その中でナバテア王国は「大きなキャラバンを組んで高価な香料をはじめ、金・銀・鉱物・織物などの交易を独占した」と紀元前1世紀のカエサルと同時代を生きたギリシアの歴史家ディオドロスは「神代地誌」に記録している。
 また、ナバテア人は遊牧民の中でもとくに穏やかで、外来者をよくもてなし、異文化もうけいれたという。
 こうして、ペトラは独自な生活と文化に外来の文化も柔軟に受け入れて形成されていった。これが謎の都ペトラなのだ。
 
 ただし、右上と左下に見える穴は、銃弾による損傷である。ここが発見されてからの盗賊たちの乱射によるもので無数に見られる。これほどの文化融合の跡が傷つけられていることが実に残念である。

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by miriyun | 2006-12-10 23:30 | ヨルダン | Comments(0)