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カテゴリ:ヨルダン( 64 )


2007年 09月 05日

ぺトラの水の道

久しぶりのぺトラ。
 ぺトラは2000年前に交易による利益をもって大都市として発展した。大都市として発展するのにどうしても必要なものは水だ。今見ても川はない。過去においても川はない。
 そんなところで、ぺトラの人々はどのように工夫して住んでいたのだろうか。

 まず、ぺトラの岩山を歩くと水の道が案外簡単に見つかる。
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 そして、そのあとをたどっていくと、岩を削った小部屋の中に日のあたらない貯水池が見つかる。
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 左から徐々に低くなっていて、ここを右に向かって流れて、洞窟内の小貯水池におさまる。

 近年においてはシークの脇の岩にくっきりと水の道があるのが見出せる。
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 以前にはこれほどはっきりしてはいなかった。シークの道の瓦礫を取り除くとともに、風化した水の道を整備したのだろう。こんなに目だっていいのか?と思うほどくっきりとした水の道が続く。

 また、近年の発掘では岩の中に水道管も発見されたそうだ。
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                              ↑TV番組ぺトラから引用

天水は山頂の貯水池にも集められ、洞窟の貯水池にも集められる。

だが、天水を頼りにしただけでは当然水は足りない。ぺトラは最後の100年はローマ帝国の一部として存在したのであり、ローマ人がわずかな水で我慢するわけはない。
 では、どこから水を引いたのか。
ぺと羅入り口近くの小さな町はワディムーサーという。ムーサーとはモーゼのアラビア語だが、その町にはムーサーの泉という泉が今も飲用できる水をコンコンと湧き出させている。
 そこから、上記のシークの道を通って、奥の街まで水を引いたのだという。
その水を引く距離のイメージを表してみる。
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                   ↑ Google Earthを引用し、水の道のイメージを加えた地図。
 延々と水を引いた都市、ぺトラの街づくりのすごさの一端が見えてくる。こうして引いた水でぺトラ人は生簀まで作り、魚を生きたまま飼い、遠来の客人をもてなしたという。

 ぺトラ発掘はまだ、端緒についたばかり、ぺトラ全容の2%しか見えていないにもかかわらず、十分その威容に驚く。
 残りの98%の発掘が楽しみだが、私たちの生きている間には完成しない。
・・・・それもまた、長い歴史を持つところならではのことだ。

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by miriyun | 2007-09-05 22:46 | ヨルダン | Comments(6)
2007年 06月 02日

ラクダは前脚と後脚をかくして座る。

 ラクダたちが背が高いが、馬とは異なり座ることのできる動物であるから、車を使って馬車のようにする必要がない。(シェニニ村編で既出)
 つまり、ラクダが人間にとって古代から重要な家畜となっていたのにはそれなりの理由があったからであり、それには座るということがとても大切なことなのだ。
  
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 多くのラクダが座っている。ラクダ使いや持ち主は降りるのにすべり降りることだってできるが、できるだけ座らせようとする。休むところは休ませ、このあとの仕事に備えてしっかり体力を温存させるのだ。だから、こまめに休ませる。そのときに脚はどうなっているのかというのが今回のテーマだ。
~・~・~・~・
★前脚
◇まず馬や羊は座らない。
◇ライオンや犬・ネコは座る。
では、その座り方を三越のライオン像で見てみよう。
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   ↑このように関節を後ろ側に向け、前足を前に伸ばした形になる。前脚も後脚もすべて見える。人間がはいはいをする時もおなじ形になる。
◇ラクダはどうやって座っているのか?
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 ラクダは前に関節を持ってくる。そして前脚はすっぽり腹の下に隠してしまうのだ。関節の外にある丸いのはタコといわれているが、地面にぶつけることの多いところにこのようなタコがある。

★次に後脚を見てみよう。
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   ↑大人ラクダ
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    ↑子ラクダ
 いずれも、かわいらしく後脚をしまいこんでしまい、決して脚を見せない。以前にラクダの足裏の写真を載せたが、ラクダ好きの自分でも足裏を見たのはあの時だけだった。立っているときには足の甲は見えているが、座ってしまうとライオンと異なって全く見えなくなる。
~☆~~☆~~☆~~☆~~☆~~☆~
 
 ラクダは熱砂の砂漠、異常な乾燥地を行き交うことのできる唯一の大型哺乳類だ。そのため、表面積を小さくして熱と乾燥にさらされるところを極力減らさなければならない。そのために他の哺乳類にはない体のしくみがたくさんあり、その一つがこの座り方なのだろう。      
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by miriyun | 2007-06-02 15:56 | ヨルダン | Comments(4)
2007年 05月 29日

地形の不思議(2)

ヨルダンの地形は、神々しいばかりの山々、はるかに地平線と山並みと空とが溶け合う風景など、他ではないような風景が王の道で見ることができる。
 一方、何の変化もないようなデザート・ハイウェイでも、よく見ると、これは何?と思うようなものがある。

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地底からぼこぼこわいたかのような岩の塊。


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砂漠地帯特有の、赤みを帯びた白茶の土地が続く中、突如として現れた黒い山。崩れた黒い礫と砂が周辺いっぱいに広がっている。

 これらが何を意味するのか。火山のないといわれるヨルダン、しかし、温泉はあるヨルダン、神話の世界では町が天変地異で消え去っているヨルダン・・・気になっている。

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by miriyun | 2007-05-29 07:13 | ヨルダン | Comments(0)
2007年 03月 16日

ペトラ&マダーイン・サーレフの建築(2)

 前回に続いて、ナバテア人のペトラとマダーイン・サーレフの二つの都市を比較してみよう。

1.自然
 <ペトラ>ヨルダン大地溝帯の流れの中でできた空間でシークは狭い渓谷にあたり、その距離が長い。
 <マダーイン・サーレフ>平地に取り残されたような岩が点在する。ただし、その岩がとんでもなく巨大なので山として見える。

2、岩
<ペトラ><マダーイン・サーレフ>・・・いずれも、岩は赤砂岩で彫りやすい。砂岩を中心に石灰岩をも含み、雨により岩の表面が溶けることもある。いずれの遺跡も上部はチョコレートケーキが溶けだしたようなような様子になっている。

3、シーク
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 左は正確にはシークとは言わず、岩と岩の間から砂漠を臨んでいるものだ。
 しかし、キャラバンを組んで、砂漠を行くナバテア人はこれを見て何と思うだろう。都を思い出し入り込みたくなる風景がここにはある。
 そして、いつか定住してここを居住地とするものがでてきたのだろう。

4、文様を比較
 <マダーイン・サーレフ>
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↑(マダーイン・サーレフの写真は二枚ともアラブ・イスラーム学院のWeb掲載フリーの写真を引用)
 ファサードの屋根と入口の間の文様に浮き彫りもある。三本の列柱のような文様と文様の間に花もしくは円形の文様がある。

 この文様がペトラでもないものだろうか?
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雨によって溶けて原形を残さないものもあり探しにくい・・・。ようやく見つけたのが、ペトラの入口付近。道標代わりに岩に掘られた建物のイメージである。いよいよペトラだよという案内になっているかのようだ。この風雨・あるいは洪水に痛めつけられた岩にあっても三本柱と円形の文様は上記との関連性を物語っている。
 これから、まだまだこの文様の建築の片鱗が見出せる可能性がある。

 ◆マダーイン・サーレフもぺトラも、繁栄していたときの本来の規模はどれほどなのかまだはっきりしていない。 ペトラはまだ全体像の2%しか、発掘されていない。マダーイン・サーレフは研究の途上についてばかりだという。 これからの発掘・調査によって明らかになっていく。
・・・・これからわかるという歴史の醍醐味がまだまだ残っている場所なのだ。

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by miriyun | 2007-03-16 23:18 | ヨルダン | Comments(0)
2007年 03月 15日

ペトラ&マダーイン・サーレフの建築(1)

 ナバテア人が交易をする中で、定住し、そしてアレタス3世の頃に花開いたペトラの文化・・・ ヨルダンのペトラは世界遺産として名高く、訪れる人も多い。だが、エル・ハズネなどの形は論じられることはあっても、そのほかの建築の多くを占めるナバテア人の独特の様式までには目がいかない場合が多い。
 そこで、今回はナバテア人らしいところを建築面から見ていこう。


1、ペトラの建築
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A:屋根部分にこのような階段方の装飾を付けている。カラスの止まり段と呼ばれるが、左右対称に一対掘られているのが一般的である。時に左側のAのように小さな階段装飾をいくつも並べたものもある。

B:二重に張り出した平縁とその下の軒部分の蛇腹と空間が中2階部分を形成している。

C:柱を浮き彫りした装飾が1階部分を飾る。時に中2階も飾る場合がある。

D:柱状の浮き彫りの柱頭部分はとくに特色がある。Bの平縁と平行の三十のラインがきりっと引き締め、その上に力強くせり出した柱頭がありその真ん中にやはり張り出した飾りがある。ナバテア人の柱頭はほとんどこの形が多い。

 
2、マダーイン・サーレフの建築
 マダーイン・サーレフはサウジアラビアの北西に位置する遺跡である。
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     (マダーイン・サーレフはアラブ・イスラーム学院のWeb掲載フリーの写真より引用)
 A・B・C・Dともペトラと同じ部分を示してある。これをみると全く同じ特色を見つけることができる。記録がなくともペトラと同じナバテア人の文化だと充分感じとれる。
 
 サウジアラビア航空が昨年から関西空港から就航した。そして今話し合われているのが成田への就航・・・これもほぼ決まりかけているようだ。これが実現すれば、サウジアラビアへの観光目的入国が容易にもなり、ここの遺跡を見る機会が広がるに違いない。

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by miriyun | 2007-03-15 04:21 | ヨルダン | Comments(4)
2007年 03月 14日

ナバテア人の交易地図

 ペトラの都をつくったナバテア人は、交易で豊かな富を得た。
 高価な香料を中心とした交易である。ではそれを運んだ交易路はどういう道なのか。約2000年前のナバテア人が活躍した頃の地図を作成してみた。 
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 乳香などの交易品は南からやってくる。
アラビア半島の南端にアデン港がある。アフリカ・インド方面からの船はアデンに入港し、宝石・乳香などを荷揚げする。ここから半島の西岸をキャラバンを組んで北上する。 
 その途中にマッカ・ヤスリブの都市が連なる。ヤスリブからペトラは厳しい砂漠地帯が続く。その途上にマダーイン・サーレフの遺跡が存在するのだ。

 ペトラはこの交易で自分たちが交易品を得て喜んで使っていたわけではない。交易というのは自分のところで使っているだけだったら富をもたらさない。
 ナバテア人はシルクロード・アラビア交易路・海のシルクロードから集積した交易品を何処へ最終的に持っていくのか?

 まず、ペトラは内陸であるので、そこから近距離で使える港を探し、船を調達しなければならない。ペトラから近い港はガザである。アカバは近いが地中海に出ることができないので、「ガザ」なのだ。
 (あの、パレスチナ自治区のガザである。ガザというと自治区民が検問所によって経済活動ができない状態に置かれ、アラブ社会の中でもとくに低所得の状態で経済が壊滅状態になっているガザである。今はイスラエルの封鎖により、貧しさが際立っている。しかし、本来ここは地中海に出る重要な港があり、オリーブや小麦を作り、羊を買い交易も盛んな豊かな土地であったのだ。)

 このガザからアレクサンドリアに交易品は運ばれる。そして大型の船でローマへと運ばれていくのだ。

 さらに、後にナバテア人の来たの都と呼ばれたボスラーもペトラから交易上重要な歴史的な都市ダマスカス、さらにアンティオキアも延長線上にあることがわかる。

 戦争による占領と異なり、交易による発展は交易路沿いに中継地として都市が発展していく様子が地図から見えてくる。

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by miriyun | 2007-03-14 22:14 | ヨルダン | Comments(2)
2007年 03月 10日

ペトラの色

 昼の日ざしはペトラに光と陰の強い対比を見せる。深い陰影をもたらすと共に、色もいっときも同じ色のままには見せない。
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 ラクダのいるところから先には昼間の容赦ない太陽光があたっている。もっと強い色であるはずの岩肌もうすく見えるほどの光をあびている。
 ところが、手前の岩山の陰になっているところは本来緑の草であるものが黒に見えるほど暗く見えている。

 光による色の変化だけでなく、気になるのはやはり、この土地の持つ色である。道のあるところはやや高い。そこまでのあたりに流れたように紫色の土が見える。これは紫がかった赤の土であり、次のような岩が崩れていったものである。

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               ↑手前の岩山の紫の岩壁

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 同じく岩山の下には↑のように岩がごろごろと落ちている。
左に濃い紫とうすい紫の縞模様の岩、右には白っぽい岩
          真ん中には赤砂岩。
 しかも崩れつつある。もろくも岩が土に戻るところだ。
 
 ここの岩は非常にやわらかくナバテア人はペトラの遺跡に残る建築群を掘りやすい条件にあったということ。そして、ペトラはほおっておけば、崩れやすいということだ。

☆ それにしても、 様々な岩の持つ本質的な色と、光に照らされて刻々と変わる色と、見飽きることのない色がここにはある。
 
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by miriyun | 2007-03-10 16:59 | ヨルダン | Comments(2)
2007年 03月 03日

ペトラシーク裂け目の形

 写真を撮るということはいろいろな楽しみをもたらす。
① 目的意識を持って撮るということはその時間の充実感をもたらし、何時間でも一人で行動していても面白い。(もちろん食事だけは一人だとはいりにくいところもあり、誰かとおしゃべりしながら楽しくすごしたいと思ってしまうが・・・。) 

② もう一つの楽しみは撮影したものから何かを確認したり、状況を読み取ったりする時のワクワク感があること。

③ 最後に偶然写りこんだものに驚かされるサプライズが時にあること。

◆今日はそんなサプライズ物から一つ。
 写真ブログらしい視点で世界遺産★ペトラ★を眺めてみよう。

 シークからエル・カズネへと行く道のとある地点から見ると、シークの裂け目はくっきりとある形をあらわす。 

 それは何か?


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 そう、人差し指を突き出した腕の姿なのだ。
まるで、 『こちらがペトラの都ですよ!』 と、指し示しているかのようだ。

 もちろん偶然、岩がそんな形をしているだけなのだが・・・。
 そして、わずかなその地点から少し前後すると、岩壁の起伏が異なり、このようには見えなくなってしまう。

  -――― だから、自然は面白い。
             だから、写真は楽しい―――

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by miriyun | 2007-03-03 23:35 | ヨルダン | Comments(2)
2007年 01月 07日

アブドゥッラー国王の外交力と覚悟

 ◆この新年に、石油を産しないヨルダンエネルギー資源の問題を解決したとの報道があった。これまでイラクのフセイン政権時代に半分は無償で、提供してもらっていた。だが、アメリカのイラク侵攻でそれが途切れ、やっていかれなくなる。サウジアラビアとクウェートから一時的に援助してもらっていた。
 
 ところが、今回のニュースでは、なんとクウェートから無償で安定供給してもらうこととなったというのだ。
 
 ☆これは、経済的にすごいことだ。
 ☆歴史的にもすごいことだ。

 イラクが湾岸戦争でクウェートに侵攻したとき、ヨルダンはイラク支持派だった。これによりアラブ諸国から、もちろんクウェートから、大きな反発を受けている。
 このとき、湾岸諸国にいた多数のヨルダン人(多くはパレスチナ人)は追い出される。こうしてヨルダンに住むようになった人の中にラニア王妃もいたことは前出の通りだ。

 そのクウェートが、さすがに湾岸から15年を経て軟化してきたのだろうか、ヨルダンの資源問題をい一挙に解決することになったのだ。
 これには当然アブドゥッラー国王の外交力がもの言っているに違いない。はっきり言えば外交力の勝利だ。こと資源問題についてはヨルダン国民は「アブドゥッラー国王万歳~」といっていいだろう。


 ◆王はまた、パレスチナ・イラク・レバノンの3つの中東の危機を訴え続けている。対話を求め、中東ロードマップによらない進行でもよいから何しろ知恵を絞ろうと訴えている。

 フセイン王のあとをついだ若き王はもうフセインの権威に頼らなくてもよい強い意志と行動力を示しつつある。しかし、こちらはそう容易ではない。今、こうしている間にもイスラエル軍はパレスチナ自治区に侵攻しているニュースが入ってきている・・・。
 
 あまりにもむずかしい立場にいるこの小国をどう導くのか?一生涯この国を支えフセインと同じように厳しい道のりを歩んでいく覚悟が、王のまなざしと言葉から感じられる。
 

  ☆~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・☆

◆◇一方、日本の資源問題についての国の積極的な姿勢はいまだよく見えてこない。正月のニュースからもう一つ。
 中国が、ガムシャラにアフリカの石油資源を買い集めている。もちろん、掘削の権利を買う、復興援助する代わりに将来にわたって石油資源を渡すという約束など、形は様々であるが何しろアフリカだけでも十数カ国に手を付けた、中央アジアには当然進出している・・・といったぐあいなのだ。これまでもいくつかの報道や特集で中国の動きが見えてきていたが、そのガムシャラぐあいに唖然としてしまう。

 ふり返って、資源のない国といわれつつ、貿易黒字を保ってきた国である日本は危機的な状況に目覚めていない。国の政治が咳が出たから咳止め、ねつがでたら、解熱剤というような対症療法になってしまっている。小さな批判に振り回されずに、100年とは言わずとも、30年後、50年後の将来さえ危ぶむ問題を考えていく・・・そういう気概を持った政治家だっているはずだが・・・。

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by miriyun | 2007-01-07 14:20 | ヨルダン | Comments(2)
2007年 01月 03日

ラニア妃の言葉から見るヨルダン王家

 12月下旬のヨルダン国王夫妻とイマーン王女の来日記事が少ないことに疑問を抱いていた。着物を着た王妃の写真はいくつかの新聞とOnline報道にわずかに掲載されたが、王の肝心な演説や首相や天皇との交流報道はわずかであった。
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1、 しかし、この元旦の読売新聞(↑)では、王室新時代ということでラニア王妃を取り上げていた。「美貌の王妃・民主化の顔」という見出しで、掲載されていた。この特集をするために新聞社はもしかして、ラニア妃情報を温存していたんだろうかと思わせる取り上げ方だった。

 その記事の中から、いくつか。
① 「私はワーキング・ウーマン」 
 砂埃にまみれ貧困地区を訪れ、自立支援の作業所作りをする。生後数ヶ月の王子を連れて国際会議に臨み、控え室で授乳をしながら日程をこなし、周囲を驚かす。自ら運転をして学校や仕事場にも自由に出かける行動派だ。

② 流暢な英語を話し、その一方で、敬虔なイスラム教徒として一日五回の祈りは欠かさない。欧米型の男女同権論にはくみせず、「イスラムは寛容の宗教。我々に合った女性の生き方があるはずだ」という。

③ ハシム家は中東きっての名門。王妃曰く、嫁入りは「本当は怖かった」

④河川財団で后の部下に当たるハティーブ氏談。
「二人は希望の星です。伝統的イスラム社会でもこのように生きられるという見本。どんなに勇気づけられるか。」
「王妃は深夜残業もいとわず、ついていくのが大変なモーレツ上司」

⑤ 王妃は語る、「一番大切なのは家庭。私のアブドッラと子どもたち」
                                   (以上5点は読売新聞1/1より引用)

 ☆これまでに知らなかったことや、このブログでも伝えていなかった直接インタビューした内容があり、興味深かった。

 だが、一方国王夫妻が来日している時に、彼らがどんな人で、日本でだれと何を話し、それをどう意味で行っているのかという報道こそ必要だと思うのだが・・・。国際社会展望の記事でなく、どこか遠いところの王妃様の夢のようなお話というとらえ方では残念な気がした。

 ☆・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-☆

2. ところで、進歩的な国の王は公式Websiteを持っていることが多い。ヨルダン王国はどうかというと、何とアブドゥッラー国王をはじめ、ラニア王妃、王子や王女たちのサイトまである。

 このHPとこれまでの各種情報を参考にしながら、これまでの王や王妃の言動から見えてくるものに迫っていこうと思う。(かなりな意訳・抜粋なので、きちんとしたところは直接読んでくだされ~)
★ラニア王妃の「王妃観」
 女性の地位向上のため、働く女性を支援団体をつくり、働きたいと思う女性にはチャンスを上げるべきと考えている。ボランティア活動への積極的な姿勢は、各種病院等への慰問や難病の子ども・そして地雷原にまで出かけて地雷廃絶を訴えたダイアナ妃を髣髴とさせる。そのため「中東のダイアナ」といわれる。
 欧米のメディアはこういうボランティア活動への積極性とファッションリーダーとしての存在もあり、たびたび取り上げるという。

 だが、テロ反対のデモにも参加する王妃は、王妃観について次のように語る。
 『わたしにとって王妃とは、王妃であることではなく、王妃として行動することです

★ラニア王妃の経歴
 旧姓はラニア・アル・ヤシン。クウェートで1970年8月31日誕生。第三次中東戦争でクウェートに逃れた両親からうまれ、そのクウェートはまた、イラクのクウェート占領によって安住の地ではなくなり両親とともにヨルダンへ逃れた。1991はカイロのアメリカの大学から経営管理学におけるBachelorの学位を得た。シティバンクに努めていた頃に王子時代のアブドゥッラー王と出会い、結婚。現在36歳。44歳の王との間にフセイン王子(12歳)・イマーン王女(10歳)・サルマ王女(6歳)・ハシム王子(1歳)がいる。
 現在はラニア・アル・アブドゥッラーを公式の称号とする。

★王妃の子育てついての考え
 ラニア妃曰く、
「働く母親として、仕事と4人の幼い子供の要求を操るのは簡単ではありません。 すべての両親のように、私は、正しいバランスを獲得するように努力します。 私の公式活動は子供の学校・プログラムを考慮に入れます、そして、海外訪問での期間は限られています。
 各夜の子供にベッドで本を読んで聞かせたり、話をしたりする2、3時間を過ごすのは彼ら、および私に安心感を与えます。
 当分、私は家でハシム王子とこの特別な時間を家族と共に大事にしています。
・「子どもの学校のプランを考慮に入れる。時間を家族とともに大事にしていく」・・・できそうでなかなかできないことだ。同じ働くものとして耳が痛いばかりだ。
 
★フセイン王亡き後、アブドゥッラーが即位。 
 ヨルダンは中東の中でイスラエルとアラブ諸国に囲まれて、パレスチナ難民の大量流入・中東戦争・領土を占領されるなど大きな歴史の渦の真っ只中にいる国であり、そこをぎりぎりの危機管理でしのいできたのがフセイン前国王だった。

 そのとき王となったアブドゥッラーをみて、世界は「大丈夫か?」と思ったものだった。自分自身も皇太子への任命・罷免の経過などから本当に安定してこの王国はやっていかれるものかと思ったことを覚えている。

 そのときのことをラニア妃はこう伝えている。
「私たちは大きな責任と難局に直面されていました。 幸い、私たちには王子と后としての公の生活観がありましたが、それでも国王としての仕事への調整は無視できませんでした。 事実上、私たちはまだ学んでいます。」
 
 「まだ学んでいます」・・・・こういうひとことの中に前向きな姿勢が垣間見える。

「 陛下のすべてのヨルダン人の生活水準を改良するための努力を取り組みやすくすることが私の主な役割です。 私たちは持続可能なレベルの経済成長と社会開発を確実にすることによってヨルダンを現代の市民社会モデルに組み込むと決心しています。  さらに、私は児童の保護、家族の安全、女性の権限、若者の機会の創造、文化、および観光に関連する領域で働いています。」

★女性の教育・雇用について言及
 「私の夫、 アブドラ国王と私は、これらの女性は我が国の成長に必要だとしています。 私たち二人は、人口のすべてが活発に雇用市場に貢献しこの国の経済が栄えると堅く信じています。

 私たちは、断固として教育的な規格を改良して、既にかなりの効果を得ています。 例えば、現在、ヨルダンの女性の識字率は85%です; 最近の高校能力のテストは、今年少女がこれまで以上よく得点するのを見ました、そして、大学における女性の就学率は最高で史上でのレベルです。
 高められた学力達成度と上昇している読み書き能力スコアニ比例して、政治上への女性の参加は増加しています。」

★ さすがです!マイクロクレジットに言及する王妃
 「世界中では、女性の状態は変化します。
  私が、女性が生活を再建して、彼女らの家族を再建して、彼らの共同体を強化するのを見た最も効果的な方法の1つが小口金融を提供するmicrocredit組織であります。 メキシコ、コソボ、イラクまたはパレスチナにかかわらず、女性がミシンかいくつかの種子と農具を買うのを可能にするのは、彼女が生計を立てて、ローンを返済し始めるのを許容するためにしばしば十分です。 そして、別の人生は変成しています。
 そのような勇敢で、弾力があって断固とした女性は私を奮い立たせます。 私はあなたがあなた自身の共同体でそれらを見つけるのを確信しています。」

★すべての女性に勇気を与えるメッセージがあった!
 「 首尾よく育児のバランスをとる母とプロの責任; 新しい学業成績を知らせている若い女子学生; または、女性が毎日挑戦に打ち勝って、家族に対する伝統的な知恵と愛を提供している祖母。
 これらの女性は私たちの真の英雄です、そして、あなたは彼女らを見つけるためにそれほど探す必要はありません。 ただ周囲を見回してください。 または、恐らく、あなたは鏡の中を見るだけでよいです。 」
 こういう言葉を直接投げかけられたら、人は必ず「動く!」とおもう。
                                  ラニア妃に応援ポチッをお願いします。


★イスラームの伝統を重んじつつ、持続可能な開発と景気拡大を見つめて・・
 「持続可能で、かつ公正な景気拡大を引き起こそうとします。 それはすべてのヨルダン人のためになって、なにも後に残さない進歩を探します。 開発への道路では、アラブの、そして、イスラム教の遺産の基本の教訓を決して見失わないでしょう。
  伝統的な価値体系に対する敬意は国の現代性か進歩のビジョンへの妨害ではありません。」

 人的資源の教育や職業訓練から初めて景気拡大をしようとしているが、ただ欧米型をやろうとはしていない。自然保護にしても実際にワディ・ラムを始め保護区にしてそこをどうするかということを数年前から行っている。やみくもに近代化させようといっているわけではないのだ。

★王家が考えるヨルダンの未来への三本柱
   *現代性・ 国の国際社会におけるアクティブなかかわり合い
   *人類と寛容の普遍的な原則への固守
   *崇敬された伝統と遺産に対する敬意

★☆ここでアブドゥッラー王の言葉を! 
 「私たちは困難を数百万改良する新しい洞察と能力をもって努力しなければなりません。そして、私たちは敬意と対話の国際社会を創設するために互いに手を伸ばさなければなりません、異文化間の風通しの良さ・パートナーシップをもたらすために。」
(2003年9月にソルボンヌ大学、フランスから "Annual Prize"を受けた時のアブドラ国王陛下の言葉より。)

☆これを受けて、ラニア妃曰く、
「アブドラ国王陛下の言葉は明確に私に共鳴します、そして、私は信じます。何時代もにわたって、適度と寛容は私たちの宝です; 私たちの小さい国は、私たちの隣人の中で平和を保障するために世界と連絡を取ろうと試み続けます」

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3.考察
 ラニア妃は素晴らしいという言葉にはだれもが納得する。私もそう思う。だが、こうしてみていくと、この王と王妃が手を取り合い、信頼しながら雄々しく進もうとしている姿が浮かび上がってくる。
 難局ばかりの小さな国から、届くメッセージの数々・・・・
◇困難を数百万改良する新しい洞察と能力をもって努力しなければなりません
◇敬意と対話の国際社会を創設するために互いに手を伸ばさなければなりません
◇隣人の中で平和を保障するために世界と連絡を取ろうと試み続けます

 ★先日の日本訪問はまさしくこの考え方からくるのであって、国王が日本人に対して語った言葉を、もっと、もっともっと報道すべきでなかったのか?
 いまだにそう思われてならないのだが、皆さんはどう思われているのだろう・・・。
(尚、読売新聞は訪日前の国王へのインタビューとその内容(中東問題)についての報道は行っている。この点はいいのだが、そのご、来日中の扱いがどうなのか・・・という点である。)

                                  活躍されるラニア妃とその考え方に応援ポチッをお願いします。


by miriyun | 2007-01-03 15:37 | ヨルダン | Comments(8)