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2008年 06月 11日

4ヶ月でルメリ・ヒサール城塞を築く…オスマン朝の歴史(3)


7代 ファーティフ メフメット2世(1446~44、1451~81)

1、自らの即位
 (少年スルタンとしての時代については、ムラト2世の項で記載。)
 1451年、スルタン・ムラトが亡くなった。47歳での急死であった。

 *トルコには先代のスルタンが亡くなった場合、すぐには公表されず、一番先に駆けつけた皇子がスルタンの座を引き継ぐという遊牧時代からの伝統が残っている。

 メフメットは、自分をクーデターで追い出した大臣・暴動を起こしたイエニチェリ、父の寵姫が生んだ異母弟がいる都へ馬を疾駆させて戻った。
 そして、ついにメフメット2世として今度は自分の力で即位したのだった。少年時代のメフメットをクーデターで追放したに等しい大臣たちは、戦々恐々としていたが、メフメットはこれらの父の代からの大臣をおおむね残留させ、周囲をほっとさせている。
 (ただし、この時幼い異母弟は殺され、以後オスマン朝におけるスルタン即位にともなう弟殺しの先例となったのである。)


2、青年スルタンのルメリ・ヒサール建築

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 さて、19歳で新たに即死したスルタンを周辺諸国は、ムラト2世の残したものを引き継ぎ守るのがやっとの器と見ていた。
 しかしメフメットはアナトリアやバルカンをにらみ威圧するとともに、ビザンチンの首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブル)を征服する準備を進めた。

 4代ユルドゥルム・バヤズィットがたてさせたボスポラス海峡をアジア側から望むアナドル・ヒサールを検分し、その対岸のヨーロッパ側に、メフメット自ら設計したルメリ・ヒサールを建設した。
 ヨーロッパ側はもちろんビザンチンの領土であるが、それに断りもいれず、突如5000人の職人を集めて城塞を建築し始めた。
  3人の大臣を競わせてたった4ヶ月で完成させたルメリ・ヒサールは漏れのない構えの堅固な城塞であった。

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                      ↑ルメリ・ヒサール全容
 全長250m、高さ15m、幅30mの城塞で囲まれた70mを誇る3つの大塔と9つの小さい塔で要所要所を押さえている。海峡から逆三角形に競りあがる形をした城塞で海を通る諸国の船から見てもその圧力は驚異であった。

 しかも、その位置はボスポラス海峡の最も幅が狭くなるところで南から海峡をすすむと左にルメリ・ヒサルが聳え立ち、大砲の照準を合わせており、右に寄ればアナドル・ヒサールが控えておりという状態である。
 完全にこの海峡の制海権を握ってしまう要所であり、ここに目をつけ短期間でこれだけの威容を誇る城塞をつくるのを若干20歳のスルタンがおこなっているのだ。

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 急峻な地形を削るのではなくその地形をうまく利用することで、城壁を高く、さらに聳えるごとく見えるようにしている。

 この城塞だけでもメフメットが何を最終目的にしていたかは明らかだった。1451年に劇的にスルタンの座を勝ち取り、翌1452年にはこのルメリ・ヒサールを迷うことなくつくりあげている。これはスルタンになってから突然考えたものではない。少年スルタンのころ、あるいは不遇の時代に彼の頭の中で、あるいはコンスタンティノープルを廻る地図の上で練りに練った方策だったのだろう。
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          参考*オスマンの歴史に関しては次の本を参考としてさせていただいている。
               「トルコ、その人々の歴史」セルマン・エルデム他
               「地球の歩きかた」
               「コンスタンティノープルの陥落」塩野七生(小説ですが、資料重視の作家なので、数字部分を中心に参考にさせていただいている。歴史好きの方にはオススメの本!)
                                                                     

by miriyun | 2008-06-11 07:10 | トルコ | Comments(6)
Commented by Azuki at 2008-06-11 17:34 x
なんだか物語を見ているようなそんな感じがして読み応えがありますっ!遊牧民の伝統、へぇ~とうなってしまいました。メフメット、本当に逸材の人物だったのでは!?と思ってしまいました。親の思いがそうさせたのでしょうかねぇ。。。建築、逆三角にすることで奥に広く大きく見せていて、当時ならもっともっと大きく人を寄せ付けないように見えたのではないかと思いました。
Commented by ぺいとん at 2008-06-12 00:28 x
1453年5月29日はもう目の前に迫ってきましたね。 
どんなお話が聞けるのか楽しみです♪
Commented by miriyun at 2008-06-12 10:02
Azukiさん、オスマンには驚かされる慣習がいくつかありますが、そういうのがおこなわれてふつうの時代だったのかもしれません。
 そしてルメリの海峡沿いに展開する城塞、見事な城塞です!!
Commented by miriyun at 2008-06-12 10:04
ぺいとんさん、昨年8月にすでにメフメットの名をにおわせながら、大変遅くなりました。どうしてもほしい写真があって、その後イスタンブルでその写真を撮ってきたのでようやくコンスタンティノープルを書けるようになりました。どうぞよろしく!
Commented by ぺいとん at 2008-06-14 21:06 x
塩野七生さんの小説は面白いですね。のめりこみます。 
当然の如くチェーザレ・ボルジアに恋しました。 
ご紹介の本も読んでみたいです。なんだか結果はみえみえで目はハートでしょう。 
帝国歴代スルタン系統樹で見てもけっこうハンサムです ♡
Commented by miriyun at 2008-06-15 02:35
チェーザレもショーン・コネリーも、いわゆる一国を治める王様顔ですね。いずれも気骨のある人ばかりですがどの人が一番お気に入りですか。
 いろいろな人物をお楽しみください。


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