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2007年 08月 06日

ヒッポドロームに見る略奪の歴史

ヒッポドローム3本の柱のうち、残りの2本について話を続けよう。
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★ へびの円柱 4世紀、コンスタンティヌス大帝はヒッポドロームを整備した時に、中央部にギリシアのデルフィの円柱を運ばせ、ここに建てた。
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 この円柱には大きな歴史の記念碑としての意味があった。

 紀元前5C、古代ギリシア都市国家連合がペルシアと戦ったペルシア戦争の時、プラタイアの戦い(BC479年)でギリシア軍が勝利した。その戦勝記念碑として、デルフィのアポロン神殿に建てられていた。それをコンスタンティヌス大帝の命でここに運び込んだ。このより糸のようによじれた先には、本来へびの頭がついていたという。

 これをこのように切り取ってしまったのは誰の仕業なのか?

 それは十字軍だ!! 

 本来の意義を忘れ、エルサレムにも向かわず、同じキリスト教の大本山であったビザンティウムに攻め寄せ、比類なき残虐を行ったという第4次十字軍が略奪をした多くの事例の一つなのだった。

コンスタンティノスのオベリスク
 これは、大帝と名は似ているが、10世紀に活躍したビザンティン文化の黄金期を築いたコンスタンティノス7世(913~959)の建立である。
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 テオドシウスのオベリスク(実はトトメス3世のオベリスク)が一つの石を精巧に削り上げたものであるのにたいして、これは石を積み上げたものだ。
 岩肌むき出しの素朴なものでこれを飾って市民は畏敬の念を感じたものか―――疑問に思った。

 しかし、これは本来銅板で周りを囲んだ立派なオベリスクであった。銅はすぐに役に立つものということで、同じく十字軍によって剥ぎ取られたのだった。この銅は持ち去られ、ヴェネツィアの貨幣になってしまった。

★ ブロンズの4頭の馬
 このヒッポドロームには、他にもテオドシウス帝が持ち込み飾られたブロンズの4頭の馬や皇帝像があった。これも略奪され、第4次十字軍の本拠地であるベネツィアに持ち去られた。
 その時に馬が大きすぎるので首を切って運び、今その首に不自然なつぎあとを隠すかのような首輪が巻かれているという。このブロンズの馬は、現在ベネツィアのサンマルコ聖堂に飾られている。

☆ この時の略奪で残ったのは、重すぎて動かせないオベリスクの石の部分とへびの円柱の下部だけであった。

~◆◇略奪の歴史◇◆~
 くしくも、同じ場所に並べられた円柱やオベリスクであったが、それぞれの来歴も同じローマ帝国内だからとはいえ、エジプト・ギリシアから皇帝の力で好き好きに持ってきてしまったものであるし、その後の歴史では、同じキリスト教徒が十字軍という名の下に無頼の徒に化し、侵略・略奪をしていった。

 すばらしい建造物や芸術品が人間の欲によって激しくもぎ取られたあと。  
      ・・・それがイスタンブールのヒッポドロームなのだった。 

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by miriyun | 2007-08-06 18:08 | トルコ | Comments(2)
Commented by Fujika at 2007-08-09 14:51 x
丁度『ヴェネツィア帝国への旅』という本で昔のヒッポドロームの挿絵を見て円柱について興味を覚えていました。
当時はずらりと色々な円柱、ピラミッド(?)が並んでいたのですね。
サンマルコ小広場にある一対の円柱も4次十字軍か、それより前だかにコンスタンチノープルから持ってきたものなのでしたよね。

ところで、日本で買えるトルコ製の箱入りバクラバは、蜜はそれほど多くはないけれどナッツがとっても少なくて物足りません。パイの層よりナッツの層の方が厚いのが好みです。シリアショップとか、ないかなあ。何かお菓子情報がありましたらアップして下さいね。
Commented by miriyun at 2007-08-09 23:37
 ヴェネツィアとの関連がかなりありそうなので興味深いですね。一つの出来事が一カ国でなくいくつもの国や地域に関係しているものがたくさんあります。一つ一つ確認できるが増えるのは楽しいものです。

 お菓子の件、いつでも旅行先で食べているので、いつでも手に入るように錯覚してしまいますが、案外少ないものですね。またそのうちにお菓子をUpしますね。


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