写真でイスラーム  

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2007年 08月 05日

イスタンブールの街の起こり

 イスタンブルという街はその位置から実に特異なところに存在している。ここをいつごろから人々は要衝としてとらえ始めたのだろう。
イスタンブールの街の起こり_c0067690_11253336.jpg

↑(街の位置と海峡・湾を強調するために強い色であらわしてみた。黒いほうが陸地である。なお、矢印は概念としてであって、その時攻めてきた位置を示しているわけではない。)

1、ギリシアからの殖民 
 紀元前7世紀、古代ギリシアで周辺に向かって殖民が盛んに行なわれた。都市国家メガラからのビザス(ビザンテュス)王がデルフォイの神託によって、マルマラ海と金角湾とボスポラス海峡を臨む土地に(目をつけたという。
 
 半島の東の先端、今はトプカプ宮殿になっているあたりを根拠地として殖民都市を建設し、ビザンテュスの名前からビザンティウム(ビュザンティオン)という名前で呼ばれたとされる。
 
2、領有の争いの地に
 それから半世紀後にはアケメネス朝ペルシアに支配され、一時はギリシアの都市国家アテネとスパルタがここの領有を争った。また、その後紀元前4世紀アレクサンドロス大王の支配下にもなった。
 
3、ローマの勢力下へ
 その後力を持ったローマ帝国はビザンティウムの独立と同盟を認めたが、196年逆らったこの街をローマ皇帝セプティミウス・セウェルスはこの街を下し破壊した。
 皇帝はその後この街を整備しなおし、城壁で囲んだ(これはまだ、前回紹介したものではない)。このころ、ヒポドローム(戦車競技場)もつくられ、ローマの都市としての歴史がはじまった。

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by miriyun | 2007-08-05 02:47 | トルコ | Comments(0)


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