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2007年 03月 29日

インド航路の始まり(2)・・・タタ財閥と渋沢栄一

 タタを調べていたら江戸期に遡ってしまった・・・。

1839年 ジャムシェードジー・ヌッセルワンジー・タタが生まれる。
1840年 渋沢栄一が生まれる。

 この年が1つ違いの「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一とインドの産業革命の立役者で、タタ財閥の創始者あるJ.N.タタは後に日本で遭遇することになる。

1、渋沢栄一とは
 武蔵野国の生まれで、家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米の生産も手がける大農家であった。農家であるが、原料の買い入れと販売を14歳から担ったため経済の才覚がこの頃から求められていた。学問や千葉道場で居合いを身に付け、幕臣となりパリ万博の随行員となった。
 帰国後、フランス式の株式会社を設立しようと1868年、商法会所を設立した。だが、説得され大蔵省に入り、退官後は第一国立銀行(現みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。 また、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされている。
インド航路の始まり(2)・・・タタ財閥と渋沢栄一_c0067690_04581502.jpg

 「渋沢財閥」 を作り巨富を得ることも当時の渋沢には簡単に出来たのであろうが、「私利を追わず公益を図る」考えを自身も生涯に渡って貫き通したのである(GHQが財閥解体を命じた時、岩崎家(三菱)の総資産は33億円、一方渋沢家は625万円だった)
 また、実業界の中でも最も社会活動に熱心で、福祉・震災復興・他国の災害復興活動・平和活動にも全力で取り組んだ。(Wikipediaより簡略化して引用)


2、J.N.タタとは
グジャラート州の小さな町ナブサリで生まれる。13際でボンベイに移り、大学に通った。父は貿易会社を遣っていたので、そこから商売を学ぶ。
1868 ジャムシェードジー・ヌッセルワンジー・タタは貿易会社を始める。
1874 織物業界で中央インドSpinning、Weaving、およびManufacturing社を設立.
(1893 日本で渋沢栄一らと会う)
1903 インド最初の豪華ホテルタージ・マハルパレスを開業
1907 タタ・スティール設立
 *ここまでが創業者のJ.N.タタがかかわった事業である。(彼は1904年にはなくなっているが、タタ・スティールは彼の計画に基づいてインド初の製鉄事業を成し遂げたのだった。)

 *その後、タタ財閥は、次のような発展を遂げている。
1910 タタ・パワーの前身が設立
1911 バンガロールにインド科学インスティチュート
1932 タタ航空設立
1939  タタ・ケミカル設立
1962  タタ・ティーの前身設立
インド航路の始まり(2)・・・タタ財閥と渋沢栄一_c0067690_9411516.jpgその後もソフトウェア・通信・自動車・出版・時計などあらゆる業界に発展、現在ではインドの中でこのロゴマークを見ないことはないといわれるまでになった。



3、日本とインド 
 明治期の日本は、殖産興業の方針の下、紡績業で第一次産業革命を行っていくのであるが、その紡績業を行うのにどこの綿花を使うのか?これは当時海運と大英帝国傘下の物品移動についてはイギリスが完全に握っていた。日本との間のついてもイギリスのピーオー汽船が高い運賃・高い綿花で日本との商売を行っていた。
 
4、J.N.タタのエピソード その2
 1893年、J.N.タタは日本にやってくる。Spinning、Weaving、およびManufacturing社を設立.していたタタは紡績業と日本への綿花の直接取引を胸に来日した。このとき、54歳ぐらいか?
 J,N.タタの行動力と渋沢栄一の日本を見つめる目と日本郵船(三菱汽船と共同運輸が政府の斡旋でまとまった会社)が成し遂げたこと・・・明治26年、イギリスのピーオー汽船に対抗して、日本郵船の広島丸が神戸より出航・・・それが日本の初めての遠洋航路である自前のインド航路の始まりであった。

 積荷は紡連(大阪紡・東洋紡・鐘紡などか?)の紡績会社がタタ商会(日本ではそう呼んでいた)から綿花を直接買うという契約に基づき、神戸とボンベイ間を結んだ定期航路が、こうして始まった。 
 むろん、順風満帆とはいかない。
 
欧州系三社との競争は激烈を極めた。特に、英系は「運賃引き下げのほか、あらゆる手段を弄して当社を抑圧」(日本郵船社史)し、日本郵船は多大な損害を出しながら、耐え切った。
 今日、鉄鋼を初め32の上場企業を有し、インドのGDPの三%弱に当たる年商二兆円超を誇るタタ財閥の創始者である。この一〇〇年以上前の歴史的逸話は、創始者を曽祖父に持ち、現在タタ財閥を率いるラタン・タタ氏がある日本の金融機関首脳に披瀝したのだった。(週刊ダイヤモンド誌掲載 辻広雅文 創業者のエピソードより引用)

5.渋沢栄一、タタ商会と手を組む

なお、このときの考え方を裏付ける記事が神戸大学にあった。
インド航路の始まり(2)・・・タタ財閥と渋沢栄一_c0067690_9403816.jpg
 大御所渋沢栄一を先頭にして、ピーオー汽船の印綿運賃独占を打破すべくタタ商会と紡連、郵船との間に印綿積取り契約が実施され(二十六年)~~~更に注目すべきは、日本産業の農本主義より商工立国への転換の指標たるべき綿花輸入税の廃止(二十九年)が数年のチーム・ワークの後に戦いとられた。(神戸大学 報知新聞 1931.3.17より一部引用)

 ここで「印綿運賃独占」とある。印綿とは字のごとくインドの綿花のことで、それをピーオー汽船が独占価格で運賃を取っていた。それを『打破すべく』とはっきりと目的を述べている。


6.追記:渋沢栄一の官尊民卑の打破

◆絵にあらわされたインドへの道
今回のテーマの核心であるでもあるインド航路の様子を後に描いた絵がある。
インド航路の始まり(2)・・・タタ財閥と渋沢栄一_c0067690_221442.jpg
             ↑深谷市『油絵で見る渋沢栄一の生涯』・・・渋沢敦雄氏の作品

◆ また、渋沢栄一の生涯の中で次のようなことがあったという。
「渋沢栄一が実現しようとしたもの。それは まず、第一に、「官尊民卑」(政府・官吏を尊んで、人民をいやしむこと)の打破ということが挙げられます。17歳の栄一が、岡部の陣屋の役人にさんざんに愚弄される話はあまりに有名ですが、この時の経験は、栄一に、家柄や身分によって人間が差別されることの非をさとらせ、そういうことのない社会の実現をめざすきっかけとなりました。数々の企業の創立や運営にたずさわった栄一ですが、こうした事業活動を通じて、優れた人物を育成し、民間の地位を高めることに努めました。」
               ↑深谷市 『渋沢栄一物語ー12、渋沢栄一のめざしたもの』・・・筆者:新井慎一氏

ここの生い立ちと、その後の信念についてはJ.N.タタのイギリス人から差別を受けて奮起したというエピソードと合い通じるものがある。

 (*追記部分2点について深谷市と作者のご好意により転載させていただいた。)

なお、テーマに関係のあるところのみ引用させていただいたが、この深谷市のHPは、平易な言葉で丹念に渋沢栄一の生涯をつづった見やすいHPで、他にも興味深い記事が多い。
 自分も日本の明治期の産業界で活躍したとしか知らなかったのだが、明治期の日本の男は強い信念を持ち気骨あり奥が深いなといたく感心した次第である。興味をもたれた方にはオススメである。
 深谷市の渋沢栄一のページ


7、まとめ
 当時はまだ関税自主権がないころだった。欧米の商品に自主関税をかけられない。日本の紡績品をより安くつくらなければ、海外どころか国内でも売れない。しかし、原料の綿花を直接インドから購入しようとしても、ピーオー汽船等の高い運賃を払わなければならない。原料が高ければ如何に人件費が安くても欧米に勝てない。

☆ そういうジレンマを感じて何とかしたいと考えていた渋沢栄一
     イギリスに支配されながらも自主事業を展開していきたいと願ったインド人T.N.タタ
         実際に経営に苦しみながら乗り切った日本郵船
これらの人たちの出会いと決断があってインド遠洋航路が始まり、欧米への航路も次第に確立していき、日本の産業革命は成功していく。インドでもタタは貿易と自分のところの紡績業で次のステップへの財を成していったのだ。

 ――― 大きなできごとではないけれど、何かが変わっていくとき、その原点には必ず人と人の出会いや切磋琢磨がある。そういった人間がやっていることが歴史となっていくんだといつも感じている。・・・日本とインド、いずれも自分の領域外のことを書いてしまったが、その人を感じとる歴史の一端に触れられて良かったと、しみじみ思っている・・・。
 
                                                                                                                                                                                                           
                                       
                                                    
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by miriyun | 2007-03-29 07:01 | その他 | Comments(3)
Commented at 2008-04-24 23:35
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by miriyun at 2008-04-25 21:54
鍵コメさま、ようこそ、おいでくださいました。欧州航路のことをお調べなんですね。川路利良氏のことは存じませんでした。薩摩藩の与力から警視までなった方だと言うことですが、今年はNHKで篤姫や島津斉彬などを取り上げており、幕末から明治に興味が出てきたところです。
 残念ながら発病して郵船の船で帰国と言うことなので、帰路は日本郵船だったのですね。
 こちらのタタと渋沢栄一についてはたまたまインドと日本のつながりに興味を持ち調べていったものでした。まったく専門外のところに手を出したものなので、これ以上の知識も持ち合わせず、ご期待にそえず申し訳ありません。
 本文の三社というところがMM汽船ではというところを、こちらこそ参考にさせていただきます。コメントありがとうございました。
Commented by miriyun at 2008-04-26 09:02
鍵コメさま、上のお名前からリンクがつながりませんでしたので、お訪ねできませんでしたので、ここでご挨拶を。
 意義あるご研究がすすみますように祈っております。


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