写真でイスラーム  

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2006年 05月 12日

サラディンとバリアンの信義

 一般にエルサレムといわれている聖地は、ふつうイーリヤーとよばれていたが・ウラマーたちはアル・クドゥスとあるいはバイト・アル・ムカッダスなど聖域をあらわす呼び方をしていた。
 その聖地は第一回十字軍によって1099年に奪取されてから88年を経ていた。1087年、アイユーブ朝の当主、イスラームの擁護者サラーフッディーン(サラディン)がいよいよその地に立つ。
 もちろん、無用な流血を嫌うサラディンは、エルサレムの町の有力者たちに、戦闘なしに町を引き渡せば、命の補償、全財産を携行して退去してよいこと。キリスト教の聖地尊重、キリスト教巡礼者の保護を提案した。圧倒的な軍勢と時の勢いからすれば、エルサレムの代表者たちが横柄にこの提案をけったのは見る目を持つ人物がいなかったとしか言いようがない。

 サラディンは意に反してこの聖地アル・クドゥスを剣をもって回復するしかなくなる。

 こうして、エルサレム包囲戦がはじまるわけだが、 ここで、ある人物の存在に触れておかなければならない。フランクのあいだで国王とほぼ同じくらいの地位にあったラムラーの領主が登場してくる。 その人物とはバリアン・ディブランである。
 
 バリアンはヒッティーンの戦いの際、敗北直前にヒッティーンを去って、ティールに難を逃れていた。しかし、エルサレムに残した妻の安否が心配で、なんとサラディンのもとを訪ねて、妻を捜すため町に入ることを願い出たのだ。①武器を持たない、②エルサレムで一夜しか過ごさない・・・という誓約をしてそれは認められた。

☆ヒッティーンの戦いが関が原であったなら、敗北した側は残党狩りに会わぬようにひたすら逃げるばかりであろうに・・・。ここでこのような願い出のために敵方に行くことができること自体が驚異的だ。これも、サラディンが寛容な人物であることが広く知られていたからに他ならない。

 こうして、町に行ってみるが、そこでバリアンはエルサレムへの残留と防衛戦の指揮を懇願されてしまう。市民を守ることに心は動くが、その仕事を引き受けるにはサラディンとの誓約を破らなければならないというジレンマにおちいる。そこで、バリアンはいかにすべきかをサラディンの前にでて、問うた。
 するとサラディンは彼を自分との誓約から解放してやった。そればかりか、避難させることができなかった彼の妻を護衛をつけてフランクの要塞ティールへ送りとどけてやったのだ。
 
 まさに信義を重んずる騎士とスルタンのエピソードだ。         

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     サラディン紀行は現在15編 
     参考:「アラブが見た十字軍」アミン・マアルーフ、「人物世界史4」佐藤次高編

by miriyun | 2006-05-12 14:23 | サラディン紀行 | Comments(0)


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