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2016年 04月 01日

本田孝一「砂漠とアラビア書道」NHK心の時代(1)

こころの時代~宗教・人生~「砂漠とアラビア書道」      

 先日、NHKで、早朝5時から1時間じっくりと本田孝一氏の人生とアラビア書道のかかわりについてその波瀾に富んだ人生を振り返りながら紹介するという番組があった。
 1時間にわたる中身の濃い話だったので、それをまとめるとともに、自分の思ったことや補足は( )書きにしていく。

1.アラビア語科に行ったが・・・
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 東京外語大学のアラビア語科に進みながらも、現在のように思うような教材もない中で思うように進まぬアラビア語、しかも大学紛争でほとんど授業が行われないので、語学としてきちんと学ぶことができないまま卒業を迎えてしまう。そんな時代であった。


2.創作への思いを持った引きこもり
 そんな大学時代を過ごした氏は卒業後も就職もせず、実家から離れて引きこもるような生活になったという。
 自分がどうありたいのか、何をするべく生きているのか悩んでいた。何か創作活動をしたいという熱い思いがあり、傾倒していた宮沢賢二の世界をめざし、詩や童話を書きたいと思ったりしていた。
 
(*TVでは紹介がなかったが、氏は音楽の世界でギターをしたいとも思い、また詩や小説、美術、何しろ創作の道で何かを表現したいのだけれど、自分が何をすべきかつかみきれない、芸術活動の目指す光をとらえられないという忸怩たる気持ちでいたようだ。)


 そんな生活が3年も続いたところで注意してきた父親に反発したことへの自責の念もあり、ようやく正規就職をしたのだという。しかし、すぐにアフリカ赴任ということで退職してしまった。その退職した日に、偶然であるが仕事もなく家にも帰れず生活基盤を持たない氏はアラビア語科の後輩にであった。
 そこで誘われたのがサウジアラビアの地図作成の仕事についていく通訳が必要という話だった。当時アラビア語は話せなかったが身体が丈夫そうだから大丈夫と言われその気になってサウジアラビアへ行くことになった。

 ・・・・これが、人生における大きな転機となる。
 
3.アラビア語のできない通訳
 本田氏は、語る。
アラビア語が十分話せるわけではないのに通訳として参加してしまい、最初は役に立たなかったという。
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砂漠のど真ん中で長く暮らす中で、ベドウィンや地図作りチームの人たちを相手に野営しながら、聞き取った言葉をアラビア語や日本語で書き取った小さなノートがある。
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それを基に次第にアラビア語をものにしていった。
(最初のサウジ派遣の後いったん帰国、第2回目のサウジ派遣にも行ったということはそれまでにこの方法で通訳としての言葉をマスターしていたということなのだろう。
この時に聞き取ったノートが多数存在し、その積み重ねがアラビア語のわかりやすい教本を書き、アラビア語ー日本語、日本語ーアラビア語の辞書を刊行することになるとは、当時は本人でさえ知る由もなかった。)

4.アラビア書道との出会い
 地図作成という仕事のために果てしなき砂漠でずっといるわけなのだが、その中でサウジアラビア人の地図に書き込まれる文字が気になった。
そこに書き込まれた文字はワジ(枯れ川)に沿ってカーブを描いたり、広い地域を呼名するには思いっきり直線的に文字の一部を伸ばしたりしていた。この文字に本田氏は惹かれた。

 本田氏は、そういう手書きで目の前で地図に書き込まれていく文字を見て美しいと思ったのだ。
書家が流麗に書き込んだ文字との出会いが第一歩だったと氏は語る。その書家でもあるサウジアラビア人サアド・アティークさんにきくとアラビア語の書道ではこうして文字を伸ばすのだと丁寧に教えてくれた。これが本田氏のアラビア書道の原点だったのだ。
 サウジアラビアにおける地図作りを通じてアラビア書道の世界に目覚めていった。


5.砂漠を楽しみ、砂漠を感ずる
砂漠は、日中、日陰であっても50℃を超え、夜は毛布にくるまる寒さになる。身体は消耗する。
それでも私には面白かった。
自分の心が解放され、毎日が新しい冒険のようで楽しかった。

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 砂漠の美しさが脳裏に焼き付いている。

朝、夜明け前、砂漠は深い海の中のような濃紺の世界だ。陽が上がってくると砂丘から光線がピーッと伸びてくる。そして黄金の世界になる。9時・10時になると太陽光がぎらぎらで真っ白の世界になる。日が傾くと燃えるような赤い砂漠に染まる。砂丘と風紋のあるために砂丘ごとに色が微妙に異なる。そして完全に日が沈むと一面の星空の世界が広がる。

 すごいものを見ているんだと思っていた。他では得られない体験をしているんだと思い、この光景を忘れないでおこうと思ったのだ。

 (氏の砂漠体験の万分の一にも満たない自分の砂漠体験からでもそういった日夜の砂漠の光景はすごいだろうと想像できる。ほんとに砂漠は形容しがたいほど美しい時がある。)
  
◆本田氏の自然の話の中でうん、うんとうなづいてしまったところがある。

 「砂丘に自分の形に砂を掘ってそこに身体ををすっぽり入れて毛布を掛けると気持ちがいい。
  そして 夜空を見つめる。
     ちょうど地平線そのものから星が次々と上がってくるのが見える。
     うとうと寝ても、起きたときその星がどれだけ動いたかで、何時間寝たのかがわかる」

 (砂漠の闇夜では地平線はもちろんどこなのかみえないが、地上に明かりがないだけに地平線から星が上がるのが見えるのだ。都市部では空の下の方は地上の光が明るすぎて上ってくる星は見えないものだが、砂漠では星の見えるところが地平線の上なのだ。それを砂を掘って目線を砂のところに持って来ればほんとに地平線そのものの高さで星を感じられるわけだ。なんだか、この時の感じ方・観察の仕方が古代の天文学の発達する過程にあっただろうなと想像されるシーンだ。)

(本田氏の自然を見つめる目は、天空だけでなく植物や動物にもおよび、その感性で砂漠という場所を五感ですべて感じ取ってきたのであろうことが想像される)

砂丘の風紋・・・同じものはない。全部ちがう。
ある時、風紋が文字に見えたときがあった。宇宙からのメッセージを砂の上に残したように感じたことがあった。

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後に、氏が代表作の一つとして作成した作品、青の砂漠が紹介された。
一つ一つ異なる青の色味35もの砂丘にコーランの言葉が存在する青の砂漠。
このブログでも何度か紹介しているが、ここに砂漠体験が人生に与えたものが集約されているかのようだ。


◆本田氏が砂漠で得たもの。
 この番組を見ながら思った。
 本田氏がサウジアラビアの砂漠で得たものは、なんだったのだろう。
 後々に影響を与えたものをあげるならば、

   アラビア語への本気の取り組みと
          アラビア書道との出会いと
                大いなる砂漠や宇宙空間との濃密に寄り添う時間だった。



≪再放送≫のお知らせ
2013年6月8日(土)Eテレ午後1時~2時

 ところでEテレとは何か。6月1日から
  NHK教育テレビがNHK Eテレ(エヌエイチケイ イーテレ)と呼称されるようになったということで、
  要は教育TVのことだ。
 
 前回、早朝過ぎて見れなかった方、アラビア書道に興味のある方、どうぞご覧ください。
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by miriyun | 2016-04-01 00:37 | Fuad Kouichi Honda | Comments(0)


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