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2011年 06月 19日

シルクロードと養蚕

 シルクロードの成り立ち
 そして、前漢の時代に武帝の命で匈奴に対するために派遣した張騫がいる。張騫は匈奴によって10年も囚われの身になるが、ついには脱出し、フェルガナなどの国をめぐって漢に帰った。張騫が西域経営の重要性を説いたことから西域との交流ルートが開かれていった。中国と中央アジア・近東・地中海世界を支配していたローマ帝国、これらをつなぐ交易路を、絹や香辛料や陶磁器を積んだ隊商が行きかった。

 ドイツの地理学者リヒトホーフェンは1868年から1872年にかけて中国の調査を行い、それを『シナ』という著書にまとめる。その際に「ザイデンシュトラーセン(絹の道)」という言葉を初めて用いた。
 それが今日、日本でシルクロードと呼んでいるものだ。


養蚕の始まり
 中国では紀元前3000年にはすでに養蚕が成り立ったと考えられている。

唐代の養蚕を表した工芸品がある。
シルクロードと養蚕_c0067690_415436.jpg

                               ↑ 『ARCHEOビジュアル考古学 Vol9』Newton Pressより引用して背景の上に乗せた。
 
 さすがは唐の時代、青銅器に金箔仕上げをしているが、細工の細かさ、写実に徹した表現が素晴らしい。写実のカイコと覇の間には工芸的なこだわりのつる草文様と鳥さえいれて、実に美しい。
この青銅の工芸品により、人が用意した桑の葉の上で葉を食べ続けるカイコを見ることができる。

 前記事に載せた天蚕(てんさん)、野生のカイコは力強く太く足も強かった。自然界で雨風に耐えながら木の枝にしがみつき、葉を食べマユをつくる。
 
それに対して室内で養蚕で育てられるカイコ、つまり家蚕(かさん)は、何千年もの間、人間によって幼虫のときだけ飼育されてきた、いわば昆虫版の家畜である。

シルクロードと養蚕_c0067690_514842.jpg

したがって、葉の上をわずかに移動して食べているだけなのだ。
 その足はもう桑の木の葉や枝にとまらせてもそよ風でも落ちてしまうほど退化している。
ほとんどまゆとして加工されてしまうが、仮に成虫になっても、蛾であるのに飛ぶための羽が退化して飛べないのだ。
シルクロードと養蚕_c0067690_461846.jpg

これは養蚕農家がマユをつくらせるための枠なのだが、家蚕は葉や枝を手繰り寄せてその間に上手に繭づくりをするということもできなくなっているという。だからこれが必需品なのだ。
シルクロードと養蚕_c0067690_3135811.jpg

いわゆる繭づくりのお部屋を用意してもらって、やっときれいなまゆをつくれるのだ。ウスタビガの丹念な作りのまゆとは大違いだ。
シルクロードと養蚕_c0067690_314153.jpg


桑の葉とカイコ
 養蚕を行う人間の方も大忙しだ。
何の餌でも食べる虫ではない。桑しか食べないのだから、散乱した卵はあえて冷やしておく。
 そして桑の木が新芽をはやすころに合わせて卵をやや暖かいところに置き孵化させる。さいしょ2mm位の体であるから葉の量も少なくていいが、4度の脱皮し、そのたびに食べる量が飛躍的に増える。カイコはその体重の20倍ほどの桑を食べる。

 だから、たった3kgの絹をとるには30本の桑が必要といわれるのだ。だから、絹を生産したところはもちろん、今は養蚕をやめてしまったところでも桑の木は多いのだ。


トルコ黄繭 
 トルコにも桑の木がたくさん見られるとトルコスパイシーライフのyokocanさんからコメントをいただいた。

 そう、トルコにはシルクロードを通って養蚕が伝わっている。

 トルコにつながるシルクロードを考えてみた。
中国からホータンにまず伝わったという伝説があるからおそらく西域南道を通ってカシュガルへ、フェルガナ、サマルカンドへとつながる。

シルクロードと養蚕_c0067690_1615324.jpg

 サマルカンドの近郊、シャフリサブスには主産業をイメージする綿花と繭玉がホテルに飾られていた。

 そこからウルゲンチ・をとおり、カスピ海の北をめぐり、トビリシをとおってカイセリに入る草原ルート、またはメルブ・テヘラン・バグダード・アレッポ、アンティオキアへと入るルート、二つの道は小アジアで一つになり、コンスタンティノープル(イスタンブル)へと続く。

 横浜のシルク博物館にはトルコからのマユもあった。
シルクロードと養蚕_c0067690_12409.jpg

Turkish yellow cocoons(トルコの黄色いまゆ)
やわらかなクリーム色のような黄色のまゆだった。

 中国代々の王朝での 国家機密であった絹の製法、それでもカイコに桑の木はセットになって、じわじわと西に伝わっていった。

 ◆こうして各地で桑の木を見たりトルコのまゆを見たりすると、
   時間と距離を越えて、ひとつのモノがめぐっているのだということを実感するのだ。



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by miriyun | 2011-06-19 05:48 | Comments(4)
Commented by 霧のまち at 2011-06-19 10:25 x
まさにシルクロードですね。 気が遠くなるほどの時間を経て 少しずつ変化を加えながらの伝わり方でしょうか。
養蚕は アメリカや欧州では されてないのでしょうか??
桑が出来る場所なら可能なわけですが、どうなのかな。
シルク、究極の天然繊維ですね。
Commented by shintaromaeda at 2011-06-19 15:21
蚕の育ち方は小学5年ないし6年の時に熊本県内の製紙工場を見学した時に初めて見たのですが、その時に味わった感慨深さが今回の記事を見た瞬間によみがえってきました。
また、絹が長い間東洋と西洋を結ぶアイテムとして役割を果たしていたことを再確認出来たように思えます。
Commented by miriyun at 2011-06-19 23:15
霧のまちさん、シルクロードをたどればその伝播の証拠があちらこちらに見られました。ヨーロッパにも養蚕業は伝わっていました。生糸を買ってきた方が早いとなったのか、自分たちのところではあまりつくらなかったようです。
Commented by miriyun at 2011-06-19 23:28
shintaromaedaさん、絹をはじめ東西交流に役立ってきたものには
、それぞれに物語があるように思います。
日本にとって明治・大正期の国づくりに大いに貢献した養蚕業をしっておくこともひつようなことだったと、今になって思うのでした。


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