写真でイスラーム  

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2010年 08月 15日

語り伝える記憶&報道カメラマン三木

 もう一つの記念日!? ニュース解説をしていた       

 8月15日が終戦記念日なのは当然日本人は知っている。この時期になるとニュースでもたくさん戦争関連のことを取り上げる。
ところが、池上彰の学べるニュースで終戦記念日は他の国は違うという。ヨーロッパ戦線ではドイツの降伏で終結したのだから5月かと思っていたら、9月2日だという。

 TVへの出演者の中で年配の戦争経験者がヒントの戦艦の写真を見て、「戦艦ミズーリでしょ!」という。その通りだった。無条件降伏を伝え、天皇のラジオでの言葉を全国民が聞いて戦争に負けたと悟ったのは確かに8月15日だったのだが、戦艦ミズーリで降伏調印を正式に交わしたのが、9月2日だった。
 戦艦ミズーリに乗り込んだのは重光葵外相で、これを迎えたマッカーサー元帥は、「相互不信や憎悪をのりこえ、自由、寛容、正義を志す世界の出現を期待する」と演説。これにより終戦を宣言し、太平洋戦争、また第2次世界大戦は終結したのだった。
 

 戦争後の記憶・・聞き書き   
ミズーリの写真が出て、いつも戦争の話をあまりしない父が話し始めた。

日本は戦争の終盤には戦艦や駆逐艦の多くを失っていた。ところが戦艦ミズーリが東京湾に入ってくるにあたっては、東京湾に結集した連合国アメリカの感染が水平線を埋め尽くす様相をあらわしたという。

 父は当時鎌倉に住んでいた。鎌倉の由比ガ浜海岸からみえる水平線全てが艦船によって埋め尽くされたのを見てたまげたそうだ。戦艦ミズーリが調印のため東京湾に入るとき、外の船は東京湾に入らずその外側の相模湾に展開していたというのだ。
 全く海が見えないほどの艦船。・・・こういう話は映画『地上最大の作戦』でノルマンディー上陸作戦で海を埋め尽くす連合国側の艦船が一斉に攻撃を始め・・・という場面をよく覚えている。
 それと同じようなことが、戦いではないが一種の示威行動としてあったそうだ。

 そして、海を埋め尽くした艦船が何をしたのかということにも興味を持った。戦争と違ってもう占領後のことであったので、日本の食糧難を知っていたアメリカの行動、それは次のようなことであったという。

 海から防水のパッキングをした箱をたくさん投げ込む。潮の流れで海岸に次々に流れ着くのだった。人々はそれをおそるおそる開けてみる。これが戦争中であったら爆弾か毒か、懐柔策のものかと考えるところだ。
 実際、これを開けると食糧だった。一つ包みにかんずめやパンやチーズなどをまとめたものであった。拾った人たちはこれを弁当と呼んだという。小麦粉がどっさり入った袋もあった。もちろんその日の食料にも困っていた戦後のことであるから皆家に持ち帰り、食べてしまった。
 後から警察のほうから拾うな・拾ったら差し出せというお触れがあったそうだが、ほとんど出すものはなく食べてしまったという。

 この話を聞いてまとめてから2~3日後に2日ほど前のNHKの「色つきの悪魔」というモノクロ映像をカラー化した映像を紹介する番組があった。長い戦争の流れを写していて、カラーになったのでリアルで訴えるものが大きくなるという番組であった。解説もわかりやすくこういうときはさすがNHKだと思っている。
 さて、戦後もその流れで本の少し出てきたのでじっと見ていたら、戦艦ミズーリの調印も出てきた。その場面の一瞬に父に聞いていたような話のような場面があった。
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                                     ↑ NHK「色つきの悪魔」の場面を撮影して引用

 低画質でぼんやりとしか見えないが、後ろは富士山、手前はミズーリとともにやってきた大小の艦船と思われる。富士山は東京湾内の横浜の海でも東京でも見えるが、海の上に裾野のほうまで広がる富士が見えるのはやはり相模湾の鎌倉から三浦半島沿いなので、父が言っていた場面の東から西に向かってみた画像ではないかと思う。(父は北から南を見ていた)


戦後65年、戦争についての記憶がある人が高齢者だけになってしまった日本では、急速に戦争の記憶や恐ろしさを忘れてしまおうとしている。そのNHK番組の中で映像を見た若者(芸能人なのか?)が、
「歴史では戦争とか行っていてもそんなものはなかったんじゃなかったのかと思っていた」
という感想を言っていて、その言葉に驚いた。
 自分だって戦争を見てきたわけではない戦後世代だが、戦争の傷跡を身近なところで少しは聞いてきた。こうした記憶は原爆被害とともに知っている人から聞いて実感するものだ。この記憶というものをつくづく引き継いでいかなければと思ったのだ。  



 写真家の役割・・・三木淳の場合       

戦後の混乱期、日本で日本人を、日本人の本質をとらえようとして動き回った写真家が大勢いる。ユージン・スミスなどの外国人に混ざって大きな働きをした報道写真家に三木 淳(じゅん)氏がいた。
 彼はしだいにみとめられ、アメリカの雑誌にも写真が載るようになるのだが、あるとき大きな仕事が舞い込んだ。占領下の日本の首相・吉田茂を撮るという仕事だ。タイム誌に載る仕事に三木は考えた。
 占領下の首相が始めて世界に大きく知られることになる。
 しょぼい姿ではだめだ!敗戦国の惨めな姿でも、カチカチの鋭い目をした日本軍人のような融通のなさでもいけない。そう思ったようだ。

 そして、三木は吉田首相に合うと、注文をつけたという。ただ生真面目な正面を向いた写真ではなく吉田が普段悠揚たる物腰でパイプをふかしているその姿を撮りたいといったのだった。

 パイプをくわえ、やや上向きに目線をやり、悠然とした吉田首相の内面も含めて撮りきったといってよい。
これがタイム誌の表紙を飾った。
戦後の日本は、この人物が取り仕切っているのか、
  卑屈さなんて微塵もない、チャーチルを髣髴とさせるような泰然とした姿に世界は驚いた。そして、日本のチャーチルとまで言われた。

こうして、一枚の写真、三木のプロ写真家として、日本人としての仕事が、世界の日本への印象を大きく変えるのに大きな影響を与えた。欧米諸国は、吉田首相の存在に一目置くようになり、その後の戦後処理がスムーズに行なわれるもととなったという。 

 8月15日に寄せて・・・、
        せめて、伝えるべきことを伝えたい。                       

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by miriyun | 2010-08-15 13:16 | Comments(8)
Commented by 谷間のゆり at 2010-08-16 13:50
イラクやアフガンの少年兵を見るたびに、神風が吹くと信じ込んでいた自分の十代を思い出します。子供は大人の言う事を聞くものだと教え込まれ、疑いも無く大人の言う事を信じていた子供が特攻隊に志願したり、少年兵になって鬼畜米英を懲らしめると思い込んでいました。
そう思い込まされた経緯を話さなければと、思っています。
Commented by yumiyane at 2010-08-16 14:00
私も父を亡くして、繋げるものをもっと聞いておけばよかったとおもいました。miriyunさんは、まだまだチャンスがありますね。
プロの写真家は、ただ写すだけじゃなく、その写真の価値や効果まで考えて撮るのですね。
そうなんです、若者が第二次大戦をどこと闘ったか知らないとか、原爆をどこの国が落としたのかも知らなくて、アメリカじゃないよね、だって今仲良しだもんね、と言ったのには驚きました。
Commented by tiger-hawk at 2010-08-16 21:07
若い頃はベトナム戦争の時代でしたので、戦争は見えるものでした。
沖縄の基地には、汚れた装甲車がたくさん並んでいました。
今の若者には見えないのかな?
でも、中国無錫の関東軍捕虜収容所へ行った時、当時の日本兵と自分が同じ国民だとは想えませんでした。自分の中では断絶していました。中国人にとっては同じみたいでした。
Commented by miriyun at 2010-08-16 22:53
谷間のゆりさん、そう思い込まされた経緯というのがあったのですよね。
その経緯こそが、私たちにあのようなことを繰り返差ないためのだいじなことなのでしょう。
 子どもは純粋だけに一つの方向からだけ教わると、あっという間に大人に都合のよいようにされてしまいます。怖いことですね。
Commented by miriyun at 2010-08-16 23:22
yumiyaneさん、こういう日に向けてメディアが戦争と平和を考えさせる番組をたくさんつくることも、
こういう若者の感想からすると、とても意義あるものなのですね。
またこちらも気持ちを新たにさせられます。
Commented by miriyun at 2010-08-16 23:33
tiger-hawkさん、そうですね、ベトナム戦争のときは、神奈川もその動きの激しさがわかりましたし、同盟国がアジアで戦争をしているということでそれがわかったと思います。今の若者はゲームでしか戦争を知らないとしたら、それは平和について語るにしても実は同じスタート台に立ってはいないということかもしれませんね。
 
Commented by えるだーおばば at 2010-08-17 13:32
こんにちは、おばばです。
おばばは、終戦の年の昭和20年3月の生まれで、若い頃はよく戦争を知らない子供達と言われ、そう言う題名の歌もあったように記憶しております。
たしかに現実の戦争は体験しておりませんが、その影みたいなものは記憶しております。
たとえば、3歳か4歳か定かではありませんが母の背におんぶされて、母の用事で刑務所{後、長じて分った場所}の近くの知り合いの{思えばお百姓さんの所へ物々交換へ行ったものとおもわれます}家へ行ったおり、その刑務所のそばの道を母が通りかかった時、銃を持ったアメリカ兵がいたのを、鮮明に覚えています。まだ、日本がアメリカの占領時代の頃です。
また、ジープに乗った米兵もよく覚えてます。
あの時、母は見たらだめと言い私の頭を反対の方向へむけさせました。幼いおばばも、何となく母の緊張感を感じ、怖かった記憶が残ってます。
Commented by miriyun at 2010-08-17 16:53
えるだーおばばさま、
なんと、おばばさまというには、あまりにもお若いではありませんか~!
勝手に思っていたイメージ間違っていました~!
おさない時でも親さえも緊張している、そういう緊迫感というのは伝わるものですね。言葉としてそのときわからなくともあとでこうして理解するのかもしれません。


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