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2009年 12月 06日

千代の富士とその父

 小さな大横綱、千代の富士
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 日本の国技、大相撲。日本を代表する文化の一つといってよい。そして、かつらでなくて髷(まげ)を結う唯一の職業である。
*なにしろ、日本のだれもが髷を結っていた習慣は、明治維新で華族から平民まで男という男はすべて髪を切って西洋人風にしなければならないという断髪令が出て、消え去った。そのとき、元お殿様であった人さえ断髪しなければならなかったのだから、ずいぶん徹底した法律だったのだ。その中で。唯一の例外として認められたのが大相撲の力士(Sumou Wrestler)であった。

 近年は外国人力士の活躍が目立つが、すばらしい横綱が大相撲人気を牽引した時代があった。元横綱、千代の富士、力士の中でとくに軽量、負けん気はあるが肝心な相撲で対戦して肩に無理が行くと脱臼、誰の目にも明らかな猛烈な痛みを声には出さず土俵を降りていく姿を何度見てきたことか。
 それでも、負けずにその脱臼癖のある肩を筋肉を鍛えることで固めていこうと腕立て伏せの日課はもちろん稽古・稽古で鍛え続け、とうとう小さな大横綱とよばれるようになった人である。
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                             ↑ 引退相撲チケットに描かれていた似顔絵


 あだ名は「ウルフ」、精悍な細身の身体が正統派の相撲をとり、強靭な足腰と腕の力と引きの強さ、力をかけるタイミングのとり方の鋭さで勝ち進み、とうとう58代横綱に上り詰め、優勝31回は大鵬の32回に続いて史上2位(ちなみに朝青龍はまだ24回である)。幕内通算勝ち星は1045勝で史上1位、その人気は大相撲の黄金時代を担った。
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 また、話しぶりも爽やかで、買っても負けても気持ちのよい話しぶりであった。大関貴ノ花を破り、貴ノ花が引退を決意したように、千代の富士もまた、新たな上り調子の若者に負けたとき、まだまだ充分勝ち越しはいくらでもできるのに引退を決めた。その引き際も鮮やかで横綱とはこうあるべきかと、名を惜しむ武士道にも通じる潔さに感服したものだった。


被爆・・・千代の富士の父
 引退披露大相撲には、国技館に満杯の客と支援してきた各界の重鎮が集まり、その引退を見送った。
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 断髪式には、千代の富士の父もこの式に臨み、髷(まげ)にはさみを入れた。このはさみを入れている細身の人が、父、秋元松夫さんである。

 千代の富士、すなわち秋元貢(みつぐ)は、この父のもとで子どものころから船の上で仕事を手伝ってきた。それが強靭な足腰の元になったといわれている。

 北海道で昆布捕りを仕事としてずっと働いてきた父は、中学卒業後、大相撲に入るという細身のわが子との別れに際して、それまでどうしてもいえなかった広島における被爆体験を語ったという。親元から去る今このときしかもう言う機会はないだろうという思いで、隠してきた被爆を語ったのである。

 
*なぜ、隠すのか・・・自分でもこのテープを聴いたときはあまり理解できていなかった。しかし、その後いろいろな被爆者の実態を知るに及んでようやくわかってきた。
 被爆者には被爆当時から、直接の原爆症、ケロイドといわれる激しいやけどあとなどによる差別という直接的な問題点があったが、それ以外にあまり目に見えてこない悩みもあった。被爆者の発病率の高さからくる本人の底知れぬ不安、さらに子どもを持つことさえ臆し、また生まれた子供にも不安を持たせたりしないよう隠し、また子どもの結婚や親族関係にも気を使い自分の被爆を語ることもなく、自らその事実を封印してしまった人が多かったのだ。実際、生涯を通して一言も語らずという人も多いのだ。(真実を語れないような日本の社会のありようの問題点も浮かんでくる)

 そうした中で、1970年、被爆後25年を経て初めて息子・秋元貢に事実だけをやっと伝えたという。
父は、のちに「若者に被爆の経験を伝えるのも与えられた役目」と考え、被爆者としてのインタビューに答え、またしっかりと被爆状況やその後の不安について肉声で20~30分ほどの声を残している。
 10年以上前にそのテープを県立図書館から借りて聞いていたあの声を思い出した。
この横綱の父は常日頃からTVインタビューなど受けても折り目正しく、控えめで静かに語る方であった。被爆者としての証言テープにも淡々と語っていた。
 その中で、息子が何度も何度も肩の脱臼を繰り返し、苦しむ姿を見た。
       原爆症のために、
       自分の息子として生まれてきたがために、
              「骨が弱いのだろう」と日々思い悩み、心配していたという。

 その切々として語るテープを聞いて、親というものはこんなにもわが身よりは我が子のことを思っているものかと、目が潤んだ記憶がある。

 この父にしてこの子あり・・・多くを語らず、泣き言も言わず、しかし、強い精神と、子を見守る温かい心は千代の富士、現・九重親方に伝わっている。 なお、千代の富士の次女、秋元梢さんは今年、大横綱の父の名を出さず実力で芸能界デビューを果たし、モデルとして活動している。

広島や長崎の街としての再生と共に、被爆者の子や孫が元気に暮らす姿がうれしい。
 

 *平山郁夫氏の被爆体験を書きながら、昔日の秋元松夫さんの証言が脳裏に蘇った。被爆者の不安と悩み、その後の思いを書きとどめておきたいと思った。

                                       
                                                    
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by miriyun | 2009-12-06 09:12 | Comments(6)
Commented by 谷間のゆり at 2009-12-07 09:59
千代の富士には、小さな横綱という記憶があります。
私の世代だと双葉山です。テレビなど無い時代、動く姿は、ニュース映画館で見た、ニュースだけでしたが、其の風貌と一緒に、引退してから聞いた、片方の目に視力が無かった事。それで立会いが潔かったと御自分で語った時に、男を感じました。

Commented by miriyun at 2009-12-08 16:39
双葉山は不世出の大横綱と聞いています。
人格的にもすぐれた人が大成するものだと思ったのでした。でも今はハングリー精神も無くなって、先輩に食らいついて稽古をつけてもらうひともへったようです。
相撲界も寂しいものですが、国技としての品格は保って行ってほしいと思っています。
Commented by ぺいとん at 2009-12-08 17:21
語りにくい社会というのも大変な問題ではありますが・・・ 
語り出す勇気を持つということは並大抵の心ではなし得ないことではないでしょうか。 
強い心は受け継がれて行っているのですね。 
親の世代のことだからではなく、しっかりと12月8日のことも自分の子どもたち世代に伝えて行く勇気を私も持ちたいです。
Commented by yokocan21 at 2009-12-08 18:02
お相撲のことはよく知らないんですけど、千代の富士さんはよーく覚えています。とにかく強かったです!そして、他の力士さんに比べて筋肉隆々で、格闘技の選手のようなかっこよさがありました。
お父さまの被爆の体験を語るというのは、辛いことでもあると思うんですけど、こういう強い心を持った方たちの一言一言を、私たちはしっかりうと受け止めていかなければならないでしょうね。貴重なお話、ありがとうございました!
Commented by miriyun at 2009-12-09 07:58
ぺいとんさん、被爆を語るという事は実は大変な事だと知ったのはこの方のお話を聞いたことによります。
被害者である人が話をするのは、とても勇気を出してのことなので聞く側も真摯に受け止めたいと思いました。
Commented by miriyun at 2009-12-09 08:19
Yokocanさん、千代の富士を御存じでしたか。うれしいですね!
一世を風靡した横綱でかっこよかったです。この時期の角界にふれられたのはとても日本人として貴重な経験でした。
そしてお父さんの姿勢は日常も被爆を語る時も飾ることのないたんたんとしたもので印象が強かったです。


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