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2010年 05月 23日

ヨルダン王室物語…ロレンスとのつながり

T.E.ロレンスとヨルダン王家の誕生 

 トランス・ヨルダン王国の成立とT.E.ロレンスは密接につながっている。
ヒジャーズ地方のシャリーフ、フサイン・イブン・アリーには男子が4人おリ、長子のアリはそのままヒジャーズの最後の王となる。次男アブドッラー王子と三男ファイサル王子が1916年のアラブの反乱に参加した。そして、ファイサル王子のほうにイギリスからの顧問としてT.E.ロレンスがついていたのだった。
 王子たちと、族長とT.E.ロレンスがアカバ攻撃やダマスカス入場を果たしてオスマン・トルコからこの地を取り返した。これが、英仏の帝国主義国に対してアラブが独立を要求していく力となった。つまり、影で動いた3つの密約等によって、大きな禍根を残すことになるのだが、この当時としては独立運動をして、それにはロレンスの考えや作戦も価値あるものであったのだ。

 1920年、ダマスカスでのアラブ民族会議でアブドッラーはイラク王に、弟のファイサルはシリア王に選出された。同年6月フランスのダマスカス占領及び弟のファイサルのシリアからの追放が起こり、これに対して、アブドッラーはファイサルのシリア王権を支持するために軍を率いて北上した。このときもヨーロッパで開かれた国際会議にロレンスはアラブ側の事情通としてファイサルに付き添い王国維持のために援助している。
 イギリスはヨルダン川東部の広大な乾燥地帯にトランスヨルダン王国の建国を認めると提案したために、アブドゥッラ-はこれを受け入れ、トランスヨルダン国王、アブドッラー1世となった。しかし、イギリスの委任統治領の地位であったため、正式な独立は1946年となる。1949年には今の国名ヨルダン・ハシミテ王国となる。

 したがって、ヨルダンの祖、アブドッラー自身がロレンスと近かったわけではないのだが、ここまではともに戦う同士だったわけなのだ。

アブドッラー1世暗殺事件 
 アブドッラー1世はその独立からわずか5年後、エルサレムのアル・アクサー・モスクに孫のフセインをつれて礼拝しているところを暗殺された。そして、このときフセイン王子も撃たれたのだが、アブドッラー1世が孫につけさせていた勲章に弾丸が当たり助かった。

 このあと、タラール1世が即位するが、わずか1年で、息子フセイン王子が地位を継ぐことになった。
 

映画『アラビアのロレンス』とフセイン国王のロマンス 
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 わずか、16歳で即位(正式には17歳になってから)しフセイン1世となり、少年王として難局続きの中東・国際関係を乗り切っていくことになった。フセインは19歳で6歳年上の女性と結婚させられているがすぐに離婚している。結婚は4回繰り返したが、同時に妻を持つことはしていない。離婚や死別によっての結婚だった。

◆フセイン国王は、リーン監督の『アラビアのロレンス』撮影に当たって、部下達のエキストラ出演など、全面的に協力したのはなぜか。
 ――――それは建国の流れとこの映画が関係あるからだ。まさに1918年のアラブ軍の砂漠の反乱(アラブ側からいうとアラブ独立戦争)を描く映画であり、祖であるアブドッラー1世については映画でほとんど触れないとはいえ、ヨルダンの歴史に大きく関わるからであろう。

 熱心な国王は撮影現場に何度も足を運び、部下達がエキストラとして働く現場を何度も視察のために訪れていた。そのとき、撮影現場で秘書アシスタントとして働いていたイギリス人、アントワネット・アヴリル・ガーディナー20歳と知り合う。王は26歳だった。適齢期だったのだ!
 彼女は1961年5月25日のフセインとの結婚後、ムナー・アル=フセインと改名し、1962年の第一子アブドゥッラー誕生後は「ムナー・アル=フセイン王妃」と称され、離婚してもその称号を認められている。(Wikipediaを参照した)
 

 フセイン国王は長くきわどい中東の国際問題の中で手腕を発揮し、優れた王であった。兄弟を跡継ぎとしていたが、国王は晩年、このムナー・アル=フセイン王妃、つまりアラビアのロレンスの撮影で知り合ったイギリス人女性との間に生まれたアブドッラーを跡継ぎに指名して世界は驚いたのだった。

アブドッラー2世 

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 そして、今そのイギリス人女性との間に生まれたアブドッラー2世は、パレスチナ人のラニア妃とともにヨルダン王室をしっかりと運営している。
 そればかりではなく、若手の王族・政治家の中で群を向いて活動的で、各地での演説等を聞くとこの人物には確かにあの嵐の中東を乗り越えてきたフセイン1世の血が流れていると思わせられる。たびたび来日しているのにほとんどこの若きリーダーのことを報道しないメディアにいつも物足りなさを感じる。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
*最後にヨルダン・ハシミテ王国の王を再確認すると、
    ①アブドッラー1世・・・②タラール1世・・・③フセイン1世・・・④アブドッラー4世と、続いてきている。
 フセイン王は若い時、今のアブドッラーに近いかんじがした。またアブドッラーは年を経るごとにしまってきて、フセインに似てきている。

◆ ヨルダン・ハシミテと書いてきているが、実際はハーシム家のヨルダンと言う意味でムハンマドから続くアラブ世界きっての由緒正しき家である。

 オスマンの支配下から抜け出ようとして、イギリス・フランスの思惑の中でに利用されながら、それでもイギリス人ロレンスも関係して建国した国であり、その位置からパレスチナ問題にがっぷり組み込まれている宿命がこのときからある。

 そんな宿命ともいうべき難しい立場にありながら英邁で行動的なリーダーである国王がイギリス人の后とをもち、その人を母として生まれた現王がいて、現アブドッラー2世は、パレスチナ人の后を持つ・・・。
 ここまでの歴史を見ていくと、大きな歴史の渦の中で翻弄されつつも、国籍と民族に関わらず人間そのものを見つめて進んできたヨルダン王家が見えてくる。3代目が日和見といわれつつも、この渦中におかれた小国を維持し、4代目が新しい秩序を模索し続けていることが頼もしく感じられる。
 

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by miriyun | 2010-05-23 09:48 | ヨルダン | Comments(10)
2009年 04月 22日

死海(2)

1.エステな死海・幻想の死海       
 死海には、たくさんの川から流れ込んだミネラル成分がいっぱいである。そのため、死海の泥パックがかなり以前から行なわれている。
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 いまや湖岸の高級ホテルのエステルームで行なわれている。
しかし、別にぷかぷか気分を味わったその場で自分たちでパックすれば同じだ。
 この若夫婦も楽しげにおしゃべりしながらパックを楽しんでいた。
 
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                                          ↑ ヨルダン大使館観光局のカレンダーより引用
 浮く場所は比較的泥のところで、このような結晶は見られないが、湖岸にはこのようなところがある。白の結晶は時間によって幻想的に変化するはずである。カメラマン的にはそそられる対象であり、いつか浮くためではなく撮るためにおもむいてみたい場所でもある。

2.死海の水位低下の意味するもの       
 先日、新聞で死海の水位が低下し、湖の面積が7割にまでなっていると書かれていた。
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                          ( ↑ 2009.04.14読売新聞夕刊より)
 その文は浮こうとしてお尻がついてしまわなければいいが・・・というしめくくりになっていた。

◆ まあ、そこまでは深さがあるのでならないが湖岸のホテルによっては今後の行方次第で死活問題にもなる。

◆ そしてもっと問題なのはこの水の減少の原点は何かということだ。
 そこには当然ヨルダン川の使い方、取水をしている側の使い方、取水制限されている側の悲哀がある。
 力がある側が考えなければならないのは何か?
 弱いものにはやらないという姿勢ではなく、いかに人間として共存し、川そのものを大切にしていくかを民族を超えて話し合う時期に来ている。
     
◆またこの問題の奥には、世界的に水不足になってきている現実が見え隠れしている。

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by miriyun | 2009-04-22 07:15 | ヨルダン | Comments(10)
2009年 04月 19日

死海の塩分濃度

死海* البحر الميت
アルバフル・ル・マイイトゥ ・・・アラビア語でもろに死んだ海という命名である。

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 首都アンマンから55km。海抜400mの地上の最低地点である。
海水の塩分濃度が約3%であるのに対し、死海は23~30%の濃度を有する。湧水の発生する1ヶ所を除き、魚もすまないことから死海(英語*Dead Sea)として知られている。ただし、緑藻類のドナリエラや高度好塩菌の生息は確認されている。


 内陸部でどうしてこんなに低いのかというと、アフリカから連なる大地溝帯がヨルダン川が通るところであり、盆地状に山に囲まれたこの地に川から水は流れ込む。あとからあとから流れ込むがここが最も低いのだから出口はない。
 ミネラルも塩分も何もかもがここにたまっていく。日本ならどんどん湖が大きくなっていって、どこかで出口を見つければそこから川となって海へと向かう。

 しかし、ここは中東。乾燥し雨は少ない。湖があふれるどころか、次々と蒸発が進む。その結果、ここは塩分の濃さで名をはせる湖となったわけである。


◆ 真夏の8月で、日かげで高さ1.5mくらいの風通しのいいところで41℃という気温の日であった。日なたで45℃、ここは湿度が高い。砂の温度は61℃である。
 ハエが飛んで入るのだが、その力は弱々しく、なんとヤシの葉葺きのビーチパラソルの下だけで飛んでいる。日なたには絶対出まいとするかのように確実に日かげだけを選んで飛んでいる。狭い日陰に人も虫も集まるのでイヤでも目の前に遭遇してしまうのだった。

◆塩だけが濃いわけでなく、マグネシウムもカルシウムも何もかもが濃度が高いのだが、塩は結晶するから目立つ。
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                                ↑ ヨルダン観光局のパンフレットより引用
人が泳ぐ場所は普通の砂浜に見えるが場所によって、塩はこうなる。こういう状態は2000年以上前も同じだったようで、旧約聖書で塩にかえられてしまった人という話はここを舞台にした話である。
                            

◆ ウキウキ(浮き浮き)体験
 死海は濃度の濃い塩水であるからモノが浮く。

*卵は水に沈むが、塩をどんどん水に入れ濃度を高めていくと、そのうち卵が浮き始める。
 これと同じ現象が起こるから、波を抜きに考えればプールより海のほうが浮きやすいし、それが死海くらい塩分が濃くなると浮くまいと思っても浮いてしまう。

 死海で浮いてみるのは、学校時代に地図帳で死海を見かけて以来の願望でもあった。
まずざっと眺めたところ、だれも泳がずおとなしく浮いている人ばかりである。
水しぶきを上げてクロールや平泳ぎしている人もいない。何故だろうか。

◆ 実はこの湖に入る上での注意は、2つ。
1.塩分が濃すぎるから、15分以内に!
   ・・・・塩漬けのきゅうりのように体内の水分が出て行って塩分付けの漬物のようになっていくのだろうか。
    リアルにしなびた人間を想像したら、気持ち悪いので15分を守るようにした。
2.目や耳に塩水が入らないように!
   ・・・・目や耳に入れないためには必然的にもぐらず、水をはねず、結果的におとなしくしていることになった。

 全く泳げないかなづちと呼ばれる人も浮く。
この言葉を頼りに入ってみる。まず感触は、サラッではなく、ヌルッに近い。濃度が高いからだ。
?ここで疑問が生ずる?
 雨がなくて蒸発も多いのだから夏のほうが冬よりも濃度は高いのではないだろうか・・・。

 さて、まずは塩水をなめてみる。まずなめるあたり、子どもと同じだ。痛いような刺激がある塩水だ。

◆「足がフワフワする!」
そんな感じで、湖に入ったときから足が浮きたがっている感じである。
 座ったとたんにふわりと浮く。
しっかりと強烈に浮いてしまう。沈みたくたって浮いてしまうという感覚だ。これならお盆にグラスを置いて飲むことも本を読むこともできそうだと思いつく。

 そのとき思い出した。よく死海の写真には新聞を読む人が写っていたっけ。新聞読んでみたいと思った。するとそう思って準備した人が多いらしいことが岸辺に置き去りにされた新聞がたくさんあることでわかった。それをもってもう一度入ると、
 あらら~不思議、浮いたまま新聞読めてる~。
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                                   ↑ 観光局パンフレットより引用 
 
 名古屋でかって開かれた愛・地球博でヨルダン館はこんな空間を出現させて、死海体験を日本でできるようにしていた。
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湖水を運ぶなんてなんて大変なことをするんだろうと思ったが、これで体験できた人も多いだろう。浮くというのは体験してみる価値のある体験である。

◆さて、上ってからのこと、
シャワーを浴びるところまで、ほんの少しの時間にぎらぎらの太陽に照らされて肩からどんどん水が蒸発していく。するとそこから光り始める。
 なんだ、なんだ!?
そんなに死海の水は肌がきれいになるのかと思って喜ぶまもなく、
それが塩そのものだとわかる。それが太陽光でひかっていたのだ。

 大いなる自然は塩を残しての蒸発実験を人間の身体の上でやって見せてくれたのだった。

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by miriyun | 2009-04-19 15:57 | ヨルダン | Comments(14)
2008年 12月 24日

古代エルサレム地図・・・モザイク紀行(11)

◆マダバのモザイク地図
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 ↑ヤシの木に囲まれた中央の町はエリコ(IEPIXW)である。

 旧約聖書の中でメデバと表された土地、それがマダバであり、ナバテア王国盛んな頃はその版図に入っていた。しかし、A.D.106にローマ帝国の支配下に変わり、そのご東ローマ帝国が7世紀まで支配した。7世紀からはウマイヤ朝に属す。
 マダバは746年の大地震に見舞われ、再建不可能ということで廃墟になった。1100年を経て1880年にアラブ人キリスト教徒が移り住み、古代の廃墟の上に現在のマダバの町が築こうとした人々は町の各所からモザイクを発見した。1896年には明らかに地図の形をしてローマの文字で地名が書かれたパレスチナ・ヨルダンの地図が出土した。
 町の人々はこれらのモザイクを大切に保管し、現在はこの町の重要な観光資源となっている。

 マダバは死海の近くの町であり、アギオス・ゲオルギオス聖堂(英語:セント・ジョージ教会)というギリシア正教の教会の床にこの聖地を中心とした地図があらわされていた。破損部分も多く全貌はわからないがナイル川まで書かれている実に大がかりな古代地図であった。
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教会ならではの聖人像もあるが世界の人々が訪れるのは世界最古の聖地の地図がモザイクであらわされたものが現在も尚、ここの教会の床として存在するからである。

◆エルサレム
 2000年前のエルサレムはローマ帝国に支配されていた。その支配に対してユダヤ人はA.D.60年に大反乱を起こす。時の皇帝は暴君として知られるネロ。エルサレムは70年に陥落、ユダヤの神殿も破壊された。73年にマサダも陥落した。しかしまだエルサレムに残るユダヤ人が132年ローマに対して反乱を起こした。ローマ皇帝ハドリアヌスはこれを鎮圧、すべてのユダヤ人を追放した。ハドリアヌス(Publius Aelius Traianus Hadrianus)はエルサレムをローマ風の町に再建した。名をアエリア・キャピトリーナと名づけた。

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 そのエルサレムの町の6世紀後半の姿がこれである。
 
 まず方位を確認しよう。この地図は北は左である。つまり上下が東・西、左右が北・南である。

 ハドリアヌス帝によってローマ風の町として再建されたということは列柱通りが必ずあるということだ。この地図の南北(つまり横)に列柱通りがつき抜けている様子が白の柱型に組んだモザイクで表されている。周りは城壁によって囲まれている。左の一本の柱がくっきりと立つ門があり、ここは現在でも「柱の門」(バーブ・アル・アムド)と呼ばれている。そして北向きのこの門はダマスコ門としてより知られている。
 通りの中央に面してドーム屋根を下にして描かれた建物は聖墳墓教会である。

 なお、このモザイク地図と現在のエルサレムの地図とはまず町の大きさが異なる。現在は城壁がこの地図よりずっと大きく広い面積を取り囲んでいる。それは中世の十字軍来襲からの攻防を経て、16世紀になってからはオスマン朝のスレイマン大帝によって城壁が作り直されたからである。

 なんとも絵地図というものはいつの時代、どこの国からでもわかりやすい。無味乾燥な地図記号よりもずっとその町の様子が浮かび上がってくる感じである。

 それとともにこの地域の歴史の深さを思いおこさせるものである。

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by miriyun | 2008-12-24 06:41 | ヨルダン | Comments(6)
2008年 03月 09日

山羊とテントと

 ベドウィンテントはおおむね黒が多い。このときのテントも夜見ているときには黒としか思えなかったのだが明るくなってみると実は黒系であってもさまざまな色が混ざっていることがわかる。
 

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                黒の中のグレー・チャコールグレー、茶の中の濃淡、さまざま混ざっている。
     どの山羊を使ったのか想像しながら見上げる。


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                                         ↑ 以上2点チュニジアで撮影
外から眺めればしっかり濃い黒とそのほかのグレー・茶色が混ざった色とのシマシマになっている。意識してデザインしている。以前に紹介したように色としま模様はさまざまでその家によって皆デザインが違う。はるか遠くから見てもあれは誰の家とわかる。いい目印でもあるのだ。


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                黒以外の山羊もたくさんいるものだが、どの山羊だろうか。うん、けっこう微妙な色合いのが必ず混ざっているものだ。

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しかし、主流はやはり黒。つやつやとして長い毛を持つ黒山羊は遊牧民にとって大事な生き物だ。
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                                         ↑ 以上3点ヨルダンで撮影

 なお、山羊は羊よりずっと乾燥に強い。そして荒れた土地でも生きていかれる。セルロースでできていれば紙さえ食べてしまうというのは本当である。(ただし、純粋なこうぞ・みつまただけの紙ならともかく現代の紙は化学物質の塊なので決して食べさせてはいけない。消化できずに腸閉塞をおこしてしまう)。
 荒地では草の芽・草の根も食べつくしてしまうので植生の敵のように書かれていることがあるが、それはこのような極度に乾燥した土地で生きてきたこの動物の習性なのだ。

 そして、ベドウィンテントの材料になり、乳は牛乳と同じように飲まれ、乳製品になっていく。乾燥デーツ(なつめやしの実)と自家製乳製品でかっての遊牧民は暮らしてきた。

 この山羊とラクダがいることによって、乾燥地の遊牧民の生活は成り立つのだ。
                

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by miriyun | 2008-03-09 11:07 | チュニジア | Comments(6)
2007年 05月 29日

地形の不思議(2)

ヨルダンの地形は、神々しいばかりの山々、はるかに地平線と山並みと空とが溶け合う風景など、他ではないような風景が王の道で見ることができる。
 一方、何の変化もないようなデザート・ハイウェイでも、よく見ると、これは何?と思うようなものがある。

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地底からぼこぼこわいたかのような岩の塊。


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砂漠地帯特有の、赤みを帯びた白茶の土地が続く中、突如として現れた黒い山。崩れた黒い礫と砂が周辺いっぱいに広がっている。

 これらが何を意味するのか。火山のないといわれるヨルダン、しかし、温泉はあるヨルダン、神話の世界では町が天変地異で消え去っているヨルダン・・・気になっている。

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by miriyun | 2007-05-29 07:13 | ヨルダン | Comments(0)
2007年 03月 16日

ペトラ&マダーイン・サーレフの建築(2)

 前回に続いて、ナバテア人のペトラとマダーイン・サーレフの二つの都市を比較してみよう。

1.自然
 <ペトラ>ヨルダン大地溝帯の流れの中でできた空間でシークは狭い渓谷にあたり、その距離が長い。
 <マダーイン・サーレフ>平地に取り残されたような岩が点在する。ただし、その岩がとんでもなく巨大なので山として見える。

2、岩
<ペトラ><マダーイン・サーレフ>・・・いずれも、岩は赤砂岩で彫りやすい。砂岩を中心に石灰岩をも含み、雨により岩の表面が溶けることもある。いずれの遺跡も上部はチョコレートケーキが溶けだしたようなような様子になっている。

3、シーク
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 左は正確にはシークとは言わず、岩と岩の間から砂漠を臨んでいるものだ。
 しかし、キャラバンを組んで、砂漠を行くナバテア人はこれを見て何と思うだろう。都を思い出し入り込みたくなる風景がここにはある。
 そして、いつか定住してここを居住地とするものがでてきたのだろう。

4、文様を比較
 <マダーイン・サーレフ>
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↑(マダーイン・サーレフの写真は二枚ともアラブ・イスラーム学院のWeb掲載フリーの写真を引用)
 ファサードの屋根と入口の間の文様に浮き彫りもある。三本の列柱のような文様と文様の間に花もしくは円形の文様がある。

 この文様がペトラでもないものだろうか?
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雨によって溶けて原形を残さないものもあり探しにくい・・・。ようやく見つけたのが、ペトラの入口付近。道標代わりに岩に掘られた建物のイメージである。いよいよペトラだよという案内になっているかのようだ。この風雨・あるいは洪水に痛めつけられた岩にあっても三本柱と円形の文様は上記との関連性を物語っている。
 これから、まだまだこの文様の建築の片鱗が見出せる可能性がある。

 ◆マダーイン・サーレフもぺトラも、繁栄していたときの本来の規模はどれほどなのかまだはっきりしていない。 ペトラはまだ全体像の2%しか、発掘されていない。マダーイン・サーレフは研究の途上についてばかりだという。 これからの発掘・調査によって明らかになっていく。
・・・・これからわかるという歴史の醍醐味がまだまだ残っている場所なのだ。

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by miriyun | 2007-03-16 23:18 | ヨルダン | Comments(0)
2007年 03月 15日

ペトラ&マダーイン・サーレフの建築(1)

 ナバテア人が交易をする中で、定住し、そしてアレタス3世の頃に花開いたペトラの文化・・・ ヨルダンのペトラは世界遺産として名高く、訪れる人も多い。だが、エル・ハズネなどの形は論じられることはあっても、そのほかの建築の多くを占めるナバテア人の独特の様式までには目がいかない場合が多い。
 そこで、今回はナバテア人らしいところを建築面から見ていこう。


1、ペトラの建築
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A:屋根部分にこのような階段方の装飾を付けている。カラスの止まり段と呼ばれるが、左右対称に一対掘られているのが一般的である。時に左側のAのように小さな階段装飾をいくつも並べたものもある。

B:二重に張り出した平縁とその下の軒部分の蛇腹と空間が中2階部分を形成している。

C:柱を浮き彫りした装飾が1階部分を飾る。時に中2階も飾る場合がある。

D:柱状の浮き彫りの柱頭部分はとくに特色がある。Bの平縁と平行の三十のラインがきりっと引き締め、その上に力強くせり出した柱頭がありその真ん中にやはり張り出した飾りがある。ナバテア人の柱頭はほとんどこの形が多い。

 
2、マダーイン・サーレフの建築
 マダーイン・サーレフはサウジアラビアの北西に位置する遺跡である。
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     (マダーイン・サーレフはアラブ・イスラーム学院のWeb掲載フリーの写真より引用)
 A・B・C・Dともペトラと同じ部分を示してある。これをみると全く同じ特色を見つけることができる。記録がなくともペトラと同じナバテア人の文化だと充分感じとれる。
 
 サウジアラビア航空が昨年から関西空港から就航した。そして今話し合われているのが成田への就航・・・これもほぼ決まりかけているようだ。これが実現すれば、サウジアラビアへの観光目的入国が容易にもなり、ここの遺跡を見る機会が広がるに違いない。

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by miriyun | 2007-03-15 04:21 | ヨルダン | Comments(4)
2007年 03月 10日

ペトラの色

 昼の日ざしはペトラに光と陰の強い対比を見せる。深い陰影をもたらすと共に、色もいっときも同じ色のままには見せない。
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 ラクダのいるところから先には昼間の容赦ない太陽光があたっている。もっと強い色であるはずの岩肌もうすく見えるほどの光をあびている。
 ところが、手前の岩山の陰になっているところは本来緑の草であるものが黒に見えるほど暗く見えている。

 光による色の変化だけでなく、気になるのはやはり、この土地の持つ色である。道のあるところはやや高い。そこまでのあたりに流れたように紫色の土が見える。これは紫がかった赤の土であり、次のような岩が崩れていったものである。

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               ↑手前の岩山の紫の岩壁

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 同じく岩山の下には↑のように岩がごろごろと落ちている。
左に濃い紫とうすい紫の縞模様の岩、右には白っぽい岩
          真ん中には赤砂岩。
 しかも崩れつつある。もろくも岩が土に戻るところだ。
 
 ここの岩は非常にやわらかくナバテア人はペトラの遺跡に残る建築群を掘りやすい条件にあったということ。そして、ペトラはほおっておけば、崩れやすいということだ。

☆ それにしても、 様々な岩の持つ本質的な色と、光に照らされて刻々と変わる色と、見飽きることのない色がここにはある。
 
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by miriyun | 2007-03-10 16:59 | ヨルダン | Comments(2)
2007年 01月 07日

アブドゥッラー国王の外交力と覚悟

 ◆この新年に、石油を産しないヨルダンエネルギー資源の問題を解決したとの報道があった。これまでイラクのフセイン政権時代に半分は無償で、提供してもらっていた。だが、アメリカのイラク侵攻でそれが途切れ、やっていかれなくなる。サウジアラビアとクウェートから一時的に援助してもらっていた。
 
 ところが、今回のニュースでは、なんとクウェートから無償で安定供給してもらうこととなったというのだ。
 
 ☆これは、経済的にすごいことだ。
 ☆歴史的にもすごいことだ。

 イラクが湾岸戦争でクウェートに侵攻したとき、ヨルダンはイラク支持派だった。これによりアラブ諸国から、もちろんクウェートから、大きな反発を受けている。
 このとき、湾岸諸国にいた多数のヨルダン人(多くはパレスチナ人)は追い出される。こうしてヨルダンに住むようになった人の中にラニア王妃もいたことは前出の通りだ。

 そのクウェートが、さすがに湾岸から15年を経て軟化してきたのだろうか、ヨルダンの資源問題をい一挙に解決することになったのだ。
 これには当然アブドゥッラー国王の外交力がもの言っているに違いない。はっきり言えば外交力の勝利だ。こと資源問題についてはヨルダン国民は「アブドゥッラー国王万歳~」といっていいだろう。


 ◆王はまた、パレスチナ・イラク・レバノンの3つの中東の危機を訴え続けている。対話を求め、中東ロードマップによらない進行でもよいから何しろ知恵を絞ろうと訴えている。

 フセイン王のあとをついだ若き王はもうフセインの権威に頼らなくてもよい強い意志と行動力を示しつつある。しかし、こちらはそう容易ではない。今、こうしている間にもイスラエル軍はパレスチナ自治区に侵攻しているニュースが入ってきている・・・。
 
 あまりにもむずかしい立場にいるこの小国をどう導くのか?一生涯この国を支えフセインと同じように厳しい道のりを歩んでいく覚悟が、王のまなざしと言葉から感じられる。
 

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◆◇一方、日本の資源問題についての国の積極的な姿勢はいまだよく見えてこない。正月のニュースからもう一つ。
 中国が、ガムシャラにアフリカの石油資源を買い集めている。もちろん、掘削の権利を買う、復興援助する代わりに将来にわたって石油資源を渡すという約束など、形は様々であるが何しろアフリカだけでも十数カ国に手を付けた、中央アジアには当然進出している・・・といったぐあいなのだ。これまでもいくつかの報道や特集で中国の動きが見えてきていたが、そのガムシャラぐあいに唖然としてしまう。

 ふり返って、資源のない国といわれつつ、貿易黒字を保ってきた国である日本は危機的な状況に目覚めていない。国の政治が咳が出たから咳止め、ねつがでたら、解熱剤というような対症療法になってしまっている。小さな批判に振り回されずに、100年とは言わずとも、30年後、50年後の将来さえ危ぶむ問題を考えていく・・・そういう気概を持った政治家だっているはずだが・・・。

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by miriyun | 2007-01-07 14:20 | ヨルダン | Comments(2)