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my hero~千代の富士逝く

1.大横綱 千代の富士

千代の富士が逝った。

①スポーツ万能の少年、相撲界へ
国民的ヒーローであり、相撲を知らないところから彼を知り,
のめり込まされたであった。

遅咲きの力士だった。
しかし30代に入ってからの53連勝や、
若干125kgの横綱が240kgの小錦を投げ飛ばす爽快さ、
きりりとした眉の下にはウルフと呼ばれたカッと見開く双眸。
取り口も筋肉の盛り上がった身体も美しく、誰よりも俊敏であった。
昔ながらのあんこ型の「お相撲さん」という感じからかけ離れたかっこいい横綱だった。

 若いころ北海道にその人ありと謳われたのは万能スポーツ少年としての秋元貢(みつぐ)少年であった。中学校の時など、いろいろな部活動から助っ人として求められたという。とくに走り高跳びや水泳の力は群を抜いていたという。瞬発力の優れた貢少年であったが身体は細く相撲取りに求められるような大きさはなかったが、元横綱の千代の山親方がこの少年を見込んで東京見物に呼び、そのまま入門させた。

②体重120kg台 
 スポーツ全般のセンスはいいが、身体は太くはならず、20歳で幕内昇進となった。

若き千代の富士を見はじめた頃、こんなお相撲さんがいるのだと驚いた覚えがある。若くて細く締まっていて相撲取りにしては体重がないのだけれどなんだかかっこいい!動きがいい、なんだか応援したくなる。

 小さな体で大きな相手にもさしに行き投げを打つ。小気味よく決まればもうヒーローの要素だらけだ。しかし、大きな相手を投げに行くことで、脱臼で肩が抜けて蒼白な顔で肩をおさえる姿を何度もTVで見ることになった。
 これはつらい。フィギュアスケーターもジャンプの失敗で脱臼した姿を見たことがある。メンショフさんが肩をおさえて演技したいができない無念さをにじませていた姿など思い出す。

 ましてや格闘技である。
 若手実力派で人気も高まってきていても、その脱臼が起こるたびに千代の富士は素晴らしい素質と稽古の虫といわれる努力をしながら大関になることが可能だろうか・・・と、そのたびに応援しながらも悲観的になることも正直あった。

③脱臼との戦い
③ところが、彼は腕立て伏せ毎日1000回やウエイトトレーニングを普段の稽古にプラスすることで、
脱臼するくせのついた肩を筋肉で守るように鍛えていった。(しかし、脱臼は横綱になってからも何度もあったが・・。)

 そういう弱いところをカバーする身体づくりの努力、
負けた相手のところに出稽古に行って相手を打ち負かすまで通い詰める気迫を持っていた。
大関挑戦のころからの人気と実力は昇竜のごとき勢いで、たった3場所で大関を通過して、とうとう横綱になった。
 ふつう20代で活躍する相撲の世界で30代になって無敵の快進撃で連続53勝など、日本中が熱狂する横綱の強さであった。若いころは投げばかりが目立ったが、地位が上がるとともにがっぷり組んでも動き回っても強い、まぎれない品格とカッコよさを備えていた。
 自分への厳しさ、弟子たちへのきっぱり感でおそれられもしながら、一方、温かい人柄とユーモアと弟子と家族への愛情をも兼ね備え、弟子たちの一人一人の良さを見つけて育成したどこからどう見ても素晴らしい人物だった。
  

2.my hero~千代の富士

◆横綱 千代の富士
動画をお借りします。

 最初に、大関3場所目の千代の富士が横綱北の海との決戦~その勢いと力強さで、優勝と横綱昇進を手中にする。
 超重量級の小錦戦に負けなしの様相
 破竹の53連勝のすべてなど見どころ満載の長めの動画。余りの魅力に惹きこまれる。時間があればぜひ最後まで! 


エピソード小錦

 千代の富士と小錦の初戦、負けて当然と思って横綱にあたった小錦が勝った。
その時から「負けた相手と稽古をする」ことをモットーにした千代の富士は自ら出稽古に小錦のいる高砂部屋に通った。

 *出稽古とは・・・通常、格下の力士が強い相手にけいこをつけてもらうために他の部屋の稽古に参加させてもらうために自ら出向いていくこと。

 千代の富士は自分が対戦で負けた相手との稽古を求めて勝てるようになるまで徹底的に稽古したという。小錦曰く、「横綱は本場所でも地方場所でも高砂部屋にきて稽古をした。強くてもう来なくていいよと思った」というほど出げいこに来たというエピソード。そういう千代の富士を恐れながら尊敬していたというのが言葉の端々に現れる小錦だった。

エピソード琴風
 千代の富士と琴風の初戦は琴風が勝ち、その後も琴風の5連勝。
そのあと琴風のいる佐渡ケ嶽部屋に千代の富士は出稽古にくるようになり、東京でも地方巡業中もいつも胸を合わせていた。
 「鋭い当たりから中に入って左前まわしを取られたら体が浮いてしまい、つま先立ちの状態になった。
その後は11連敗。本当に強かった」と琴風はいう。
 TVで応援していた当時、千代の富士は琴風が苦手なのだと思っていた。それが途中から完全に圧勝するようになり、琴風が勝てなくなっていた。のちに苦手だからこそ、それを克服するための出稽古をしていたということを知った。幕内対戦は千代の富士の22勝6敗だった。

◆脱臼との戦いは続いていた
千代の富士肩脱臼しながらも優勝~感動の表彰式まで
 27回目の優勝と成りながらも、まだ肩の脱臼があった。応急措置で肩を入れて、間もない表彰式には戻ってきて片腕で賜杯を受け取っていた。


③引退相撲~陣岳親方襲名~九重親方

平成4年2月運よく引退相撲に行くことが出来た。
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 ↑ 引退相撲で撮影。最後の土俵入りでの美しい四股。


 後進の指導をしながら、巡業部長など勤め、いつかは相撲協会理事長になる人であろうと思っていた。
 相撲界に弟子に心を残しながらも、病に倒れた大横綱。

 しかし最後まで我慢強く自分らしさを貫いた千代の富士だった。


 千代の富士のお父さんも大横綱の父でありながら、実に控えめで品のよい方であった。
千代の富士にはそうした家族の元で育った人としての心映えが下地にあったのだろう。
それに入門以来の親方への敬意、稽古での我慢強さ、取り組むことへの闘争心、そして横綱として長く相撲界を背負った責任感とによって、土俵入りはもちろん、取り組みも、インタビューの受け答えも最高に品格のあるものだった。

    ・・・・・・・・まさしく日本の国民的「My Hiro」であった・・・。(合掌)        

  
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by miriyun | 2016-08-02 14:12 | Comments(8)

振付け師 宮本賢二

宮本賢二の振付け師としての存在 

 ようやく、遅ればせながら宮本賢二先生の振付け師としての生きざまを正面からとらえた文が出た。
◆氷上をいく。 雲のように、流れるままに
http://www.sealerdelsol.com/guapo/vol19
 ↑
初見の写真入り。
一流のアイスダンサーだった人は、引退してからもなんと姿勢も手も美しいのだろう。


 長いこと、あのeyeを振付けた人、世界に通用する振付師になった人、プルシェンコからもオファーのあった人としてとりあげられ、昨年からは賢二の部屋という番組をもつようになった。
 
 バラエティ番組では、鈴木明子さんや織田信也さんなどと出演してフィギュアスケートのエピソードを紹介していた。自らを面白くない方の関西人とかおっしゃっていた。気さくなお人柄に、選手たちへの愛が芯として一本通っているのでいろいろなことを自由に話していても、宮本流のお話にぶれはなく、楽しく聞いていられた。

 どうしても選手目線の振付けをしてくれる人という形で番組や取材はあるので、それぞれの選手中心お話になってしまいがちだ。もちろん、彼の話に登場する高橋大輔や浅田真央、鈴木明子、織田信成など日本のフィギュアスケーターの話は大好物だ。彼の目を通した選手たちの才能と努力の話をしていただくのを聞くのは最上の喜びだ。


 だが、メディアの方は、振付師『宮本賢二』にもっとせまってもいいのではと常日頃思っていた。
日本の中に、世界的才能があちらこちらで見かけられるのに、その才能そのものに目をつけて語る力がマスメディア諸氏に欲しい。
 今回の文で本人にスポットを当てられたが、もっと当ててもらって結構。
 
 宮本賢二選手が引退を報告したときのお父さんの言葉、『これまで一番を目指してきたが、これからは二番手を目指しなさい』という言葉で吹っ切れたという。そういう言葉をかけてくれる家族がいる人は強い。
 それからの宮本先生の振付けの理念・・・これまでも断片的に聞きかじっていたが、よりよくわかった。


振付け師(choreographer)
 才能豊かで、選手に対して一人一人情熱を傾け、衣装や化粧から爪の色まで心配して指導してくれる
世界屈指の若き 振付け師、宮本賢二さん.


 コリオグラファーって、常に創造していく人ということ。

 創造するのは二次元デザインの世界もロゴマーク一つだって大変な世界だが、三次元・四次元まで考えるフィギュアスケートの創造はその比ではないという私感がある。
人間の肉体と極限までの技術と音楽を一体化させ、その選手の一番いいところを更に一歩先へ進めて、そして見る人に感動を呼び起こさせる・・・これって、スゴイ仕事なのだ。
本当に才能のあるほんのひとにぎりの人だけが、世界の記憶に残る素晴らしいものをつくれるのだ。

 これからもっともっと注目されていくであろうし、
      もっと彼自身に注目した番組作りも期待している。

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by miriyun | 2015-09-20 12:02 | Comments(0)

渡辺謙 in New York

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1.「王様と私」Shall We Dance

マーガレット・ランドンが1944年に発表した小説『Anna and the King of Siam』(アンナとシャム王)を原作として、1951年に初演されたミュージカル作品である。そしてこの話の中の主題歌とも言える楽曲がシャルウィダンスだった。


このエキゾチックで、ロマンスあり、アメリカからは不可思議な王様の権力と生活と異文化を味わえる。夢のようなものがたりに酔いしれることが出来るミュージカルとして数々のリバイバル公演あり、映画ありという物語で自分も大好きで何度も見たものだ。

 主演した役者は多い。しかし人々の記憶に残っているのはユル・ブリンナーとデボラ・カーであり、これを基準で見ると気品と野性味と王様の威厳とがユルブリンナーによって確立されていて、常に新しい王様はこのユルブリンナーと比較され語られることになるのだ。

Yul Brynner and Deborah Kerr perform "Shall We Dance"


*参考までにその他の王様と私の一部リンク
The King and I | Sydney | Shall We Dance - Lisa McCune & Teddy Tahu Rhodes



https://www.youtube.com/watch?v=O17XJ7-Nh4A



2.渡辺 謙の挑戦 
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渡辺謙は今や日本を代表とする風格のある俳優で、海外で活躍している俳優である。大河ドラマの独眼竜政宗の主演で一気に注目を集め、その後も大作を次々とこなしている。海外への進出は、「ラストサムライ」で、トム・クルーズ主演だが、その相手役の助演男優として、深みと威厳とで、サムライという言葉を体現する俳優となりきっていた。
 
 これまで、サムライ・武士・大名とかは、戦いの場面、又は地位と権力をあらわす上座に座り号令を下す場面でばかり見せられてきた。しかし、この映画の中で、渡辺謙は寺の中に家臣も連れず一人静かに座す、目を閉じ黙想する、桜の木の下で歩く、そういった日常の姿の中にさえ、あたりを払うような威厳と清廉さをあらわしきった。
 トム・クルーズという世界的スターを見るためにこの映画を見たというのは自分だけではないだろう。しかし、渡辺謙は日本の侍というものの考え方・立ち居ふるまい、更には精神性までも伝えた。トム・クルーズの剣を本気で習い、修練してのかっこいい演技にしびれるとともに、渡辺謙という役者の存在感にしびれた。

 その渡辺謙がその後もアメリカで活躍を続けている。
「王様と私」という舞台、それもミュージカルというものの中で、渡辺の挑戦とはどんなものなのか、NHKの番組で先日紹介していた。ただのセリぬでなく、歌で、英語で、普通に歌うよりも一語一語をくっきりと分けて歌わなければ聞こえない。それを気にするといきおいのある動きにならなくなってしまう。そういうジレンマに悩みながら日々成長していく渡辺謙。

 すごい気迫で、全力、いや120%の力で取り組んでいる。
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一か月以上続くレビューでNYの目の肥えた観衆の目にさらされ、ようやく初日。恐ろしくもある舞台評価が、新聞で紹介された。

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ワタナベ王様の人間らしさ、個性の出る大事な一コマが新聞に!
流石に抑えるべきところを掴んだ写真といえる。

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そして、この言葉、
「ユル・ブリンナーの影を脱して、愉快で威厳のある王様を自分のものにしている」
これは、ユル・ブリンナーを知っている世代の人にはわかるすごい賛辞だ。



Show Clips: THE KING AND I on Broadway Starring Ken Watanabe, Kelli O'Hara, Conrad Ricamore and More


3.すべてを捨て去ってからでないと次に進めない!!

白血病から2度も這い上がり、この病を直すぞ、直して、役者として生き抜くぞという魂で打ち込む。なんという役者魂!
 彼は言った。
「すべてを捨て去ってからでないと次に進めない!!」

-----この言葉を聞いた時、高橋大輔の考え方、生き方がかぶって見えた。
名声も提供を申し入れられた地位も投げ打って、自らの成長と挑戦のために渡米した姿。選手の時も苦闘する方の道を選んで作品としての完成度を目指していた・・・・。

 渡辺謙さんもすでに世界での名声を得ていても、全ての名声も讃美も自分の経験や自信さえもすてて、新しいミュージカルという世界で王様を演じきる。日々の努力研鑽、そして工夫、それが彼を生かしている。

 その結果、トニー賞の候補になった。本人は候補になったということに感謝しつつ自分の演技には満足はしていない・・・。

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by miriyun | 2015-06-03 07:00 | Comments(4)

ゲリボルの戦い…ケマル・アタチュルク(2)

第1次世界大戦の中東戦線
第1次世界大戦の中のトルコが関係する中東戦線は、日本ではあまり知られていない。一つはトルコがドイツと組んだことによりアラビア半島でハシミテ家のファイサル王子らが英国からの顧問T.E.ロレンスとともに起こすアラブ独立戦争がある。
 もう一つがダーダネルス海峡を攻め入らんとする英仏からの攻防戦、ゲリボルの戦いがある。


ゲリボルの戦い(ダーダネルス戦役・ガリポリの戦い)   

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                     ↑ ワンクリックすると大きい画像を見ることができます。

 トルコの地図を見ると、戦略をたてたくなるような地形をしている。

 トルコの要となるのは地中海からマルマラ海へと入るダーダネルス海峡、それと、マルマラ海から黒海へと向かうボスポラス海峡だ。この2つを制したらもうトルコは何もできない。いや、マルマラ海に入られた時点でのど元に敵の刃が迫った状態になる。
 左下のピンクのところがゲリボルでダーダネルスのイスタンブルへの海峡の出口にあたり、戦略上大事なところである。右奥のところにイスタンブル。イスタンブルはボスポラス海峡と金角湾とマルマラ海に面している。
城壁はあるものの大型大砲の時代になると、その射程内に軍艦が入るということは致命的なものになる。
 
◆陸・海・空3軍の総力を結集した大規模上陸作戦

 そして第1次世界大戦でこのダーダネルス海峡のゲリボルの高地を狙ったのがチャーチル(当時は海軍大臣)だった。1915年、連合国側の作戦が始まった。この高地をめぐって2度にわたる総力戦があり、最後は英仏も大軍を擁しての上陸作戦に出た 世界大戦での連合国の大規模上陸作戦としてはノルマンディー上陸作戦があるが、実はゲリボルの戦いが世界初の上陸作戦だった。

 オスマン軍は上陸先を予測し厳重に防御線を構築していた。その中でケマルは前線に自らたち、銃弾をかいくぐりながら奮闘し、ついには高地を先取し、英仏軍に撤退を決意させた。


 英仏連合軍は、当時すでに「ヨーロッパの病人」と呼ばれ末期症状であったオスマン帝国軍を軽んじて短期決戦を想定しての戦闘準備であった。しかし、オスマン帝国の予想外の頑強な抵抗にあって多大な損害を出して撤退、作戦は失敗に終わり、チャーチルはこのために失脚した。

 そして、この時、チャーチルをして甘く見過ぎたと後悔させた相手はケマル・パシャ・・・すなわちのちのケマル・アタチュルクなのだ。

 日本ではあまり知られていないがオスマントルコが新しく生まれ変わり、しかも植民地にされないために実に重要な戦いだったと言える。


オスマン帝国の崩壊とトルコ共和国の建国・大統領へ
 大戦でオスマン帝国が敗北し、その解体が決定された後、1919年5月19日、ムスタファ・ケマルが黒海沿岸のサムスン港に上陸。外部勢力に対する抵抗運動をここから始めていった。(ちなみにトルコでは、ケマルがサムスン港に上陸した5月19日を祖国解放戦争開始の記念日としている)

 抵抗運動の盛り上がりに驚いた連合軍が1920年、首都イスタンブルを占領すると、首都を脱出したオスマン帝国議会議員たちアンカラで大国民議会を開いた。彼らは大国民議会議長に選出されたムスタファ・ケマルを首班とするアンカラ政府を結成した。
 西からはギリシャ軍がアンカラに迫っていたが、ムスタファ・ケマルは自ら軍を率いてギリシャ軍をサカリヤ川の戦いで撃退した。

 1922年、、11月1日に大国民議会にスルタン制廃止を決議させ、更に1923年には総選挙を実施して議会の多数を自派で固め、10月29日に共和制を宣言して自らトルコ共和国初代大統領に就任した。

1926年には大統領暗殺未遂事件発覚を機に反対派を一斉に逮捕、政界から追放した。これにより、ムスタファ・ケマルは党首を務める共和人民党による議会の一党独裁体制を樹立した。
(この過程も、不思議とフランス革命の延長線上でナポレオンが暗殺未遂事件にあい、その後終身皇帝の座に選挙でなっていった過程と似ている)
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 独裁状態になったケマルは、急速にトルコの近代化を行った。

◆政教分離と欧化政策
 1928年、憲法からイスラムを国教と定める条文を削除し、トルコ語の表記についてもトルコ語と相性の良くないアラビア文字を廃止してラテン文字に改める文字改革を断行するなど、政治、社会、文化の改革を押し進めた。
 男性の帽子で宗教的とみなされていたターバンやトルコ帽(フェズ)は着用を禁止(女性のヴェール着用は禁じられなかったが、極めて好ましくないものとされた)され、スイス民法をほとんど直訳した新民法が採用されるなど、国民の私生活の西欧化も進められた。1934年には創姓法が施行されて、西欧諸国にならって国民全員が姓を持つよう義務付けられた。「父なるトルコ人」を意味するアタテュルクは、このときムスタファ・ケマルに対して大国民議会から贈られた姓である。
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 *文化財についても、政教分離は影響し、アヤソフィアはモスクとして使っていたのを、博物館として位置づけられた。そのおかげで、ビザンチン時代のキリストの絵柄のモザイクも、コーランの言葉を表したミフラーブも、私たちは今それらをいっぺんに見ることができるのだ。

 ◆ほとんどラテン文字で一部点が二つ付いたトルコ語独特の文字があるがほとんどがラテン文字であるため、地名なども読みやすいトルコ文字はアタチュルクの改革でおこなわれ、そのため文盲率はぐっと減ったという。かたやジャーミーに書かれた文字は一部のアラビア語を学習している人や書道をやっている人でないと読めないということもおきている。
 日本では、第二次世界大戦で敗北したときに、文学者や新聞社が漢字廃止論を唱え、また、連合国軍最高司令官総司令部によってよばれた教育視察団が学校教育における漢字弊害やローマ字の利便性を指摘された。漢字廃止はしなかったが、当用漢字などの制定に影響していった。


*エルトゥールル号の義捐金を届けたのち、日本語教師としてトルコに住みついた山田寅次郎は、敵国となってしまった第1次世界大戦のときは一時帰国したが、その後も長く日本とトルコの礎として働き、日本の中のトルコ大使館創設にも助力するなどして、90歳の生涯を全うした。

 また、エルトゥールル号が遭難した場所に建てられた石碑を天皇が手を合わせたことを知ったケマル・アタチュルクは串本町にトルコ式の慰霊碑を建てた。

 アジアの東の果ての国を西の果ての国が見詰めていた。
 今回、アタチュルクについて、とくに名前について押さえておきたいと書きはじめてみたが、
その中でも日本とのかかわりや、影響というものも見えてきた。

◆ケマル・アタチュルクの手法は一党独裁で自分が動きやすいよう、改革が通りやすいように合法的に積み上げているものだった。手法としては初期のカダフィー大佐などと近い面もある。

 もし、彼が100歳までも生きて、子孫が多く、一族で利権を支配したなら、今のようなトルコ国民の敬愛を一身に集める存在にはならなかっただろう。

 彼は、実子を持たず、戦争孤児を養子にした。
          そしてたった58歳で執務中に逝ってしまった。
しかも、それまでの病人のようなオスマン帝国からも先進国の支配からも抜け出させ、前進し、成功させた共和国を作っている最中に逝ってしまったのだった。

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by miriyun | 2012-11-11 15:20 | Comments(8)

ケマル・アタチュルク(1)

アタチュルクの日    
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このシンプルだが美しい剣は誰のものか。

一見、装飾から身分あるオスマンの重臣の持ち物のようにも見えるかもしれないが、くっきりと刻み込まれたトルコ共和国の国旗と同じ月と星の印がそれを否定する。

そう、これは
ケマル・アタチュルクの持ち物である。

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 11月10日はケマル・アタチュルクのなくなった日である。毎年11月10日はアタチュルクを追悼日とし、なくなった時刻である9時5分には空砲を鳴らし、一斉に1分間の黙とうをささげる。また、11月10日から1週間をアタチュルク週間として定めたりもしている。

◆アタチュルクはトルコ建国の父として世界史上名だたる人物である。
 晩年 ドルマバフチェ宮殿に執務室を構え、トルコ共和国の屋台骨のすべてを背負い、軍隊から義務教育普及のための地方まわまでり、忙しい生活を粗食と4~5時間の睡眠とラクとでのりきっていたアタチュルクは58歳という若さで執務中に脳卒中で倒れた。
 それが9時5分であり、そのため、トルコ建国の父である彼の敬愛するトルコでは、この宮殿のすべての時計を9時5分で止めたままにしてある。


彼の生い立ちから1938年11月10日に亡くなるまでを知ると実に才能あふれ、頑固なほどの信念とともに行動したユニークな人物として浮かび上がってくる。

彼の名前
彼の本名はムスタファであるが、学校時代に同じムスタファの名を持つ先生が素晴らしい数学的才能を持つ彼に幼年期の生徒を教える助手をやらせ、その時に同じムスタファ先生では困るので、ケマル(完全な)という名を与えたと言われている。

 公式に残っている名前では尉官までは、ムスタファ・ケマル・エフェンディ 、佐官時代は、ムスタファ・ケマル・ベイ 、将官時代 (1916年以降)は、ムスタファ・ケマル・パシャ、1921年9月19日以降は、ガーズィ・ムスタファ・ケマル・パシャ、1934年以降、ムスタファ・ケマル・アタチュルクと呼ばれた。

 なお、アラブと同じく、トルコも姓というものがない。生まれたときにつけられた個人名の後に親の名・祖父の名などをつけて認識しているにすぎないので、一人の人物が場面が異なると別の呼び方をされるなんて言うのは特別珍しいことではなかったのだ。
 なお、現在のアタチュルクは『トルコの父』という意味だ。

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彼の名前は、私たちがトルコに行ったときに最初にお目にかかることになる。アタチュルク・エアポートに航空機が降り立つからだ。


彼の才能
 彼の得意なのは数学と歴史で、他は得意でないのに、この2つについては群を抜いていたらしい。
(フフッ、かのナポレオンもそうだったのはあまりにも名高い事実である。)
やはり、数学ができるのは明晰に理論立てて先を考えられるのだろうか。

 普通の学校を嫌がったムスタファが選んだ道は自らの石で陸軍士官学校に入ること。なんと、正規の志願年齢よりも若い11歳で志願してしまった。
 
 数学的才能の他に、後にわかってくるのは語学的才能、
士官学校時代にドイツ語とフランス語、日本語まで学び、ドイツ語を喋り原語のフランス民権思想書を読み、片言の日本語と英語もできた。
 この日本語を学んだのは、エルトゥールル号難破事件後に、民間人でありながら奔走して義捐金を集め、トルコまでやってきた山田寅次郎が教えた士官たちの間に彼がいたことを、後のアタチュルクがいっており、山田の方がそれに驚かされたという。
 日本についてはトルコ全体として、エルトゥールル号以来親密な国として感ずるとともに、アジアの東の果ての国ながら、アジアで唯一近代国家としての返還の成功した国として意識的に見ていたようだ。とくに明治維新における数々の改革はケマル・アタチュルクの意識の中にこのころおさまったのであろう。

オスマン末期における動き
 灰色の目の眼光鋭いケマルは陸軍大学にいたころから将校としての時代に、「祖国と自由」を仲間とともに設立、後にサロニカで単独世それのマケドニア支部を作る。後にこれは青年トルコ党に吸収され、エンヴェルと出会い1909エンヴェルとともに反革命の暴動が起きたのを鎮圧し、暴動の責任を負ったアブデュルハミト2世は退位し、メフメット5世にその座を譲った。

◆若きリーダーの考え方の違い
エンヴェル・・・中央アジアからバルカンにいたるテュルク系諸民族をオスマン帝国の旗のもとに大統一するという汎トルコ主義の理想とし、汎イスラーム主義を唱えてイスラーム世界の団結を呼びかけ、イランや北アフリカで連合軍に対する抵抗を起こさせ洋ともしていた。
ケマル・アタチュルク・・・トルコ半島とトルコ民族で納める民族子㏍なお設立を理想とする。
このような違いのなか、ケマルはエンヴェルとは目指すものが異なるということで、結局袂を分かっていった。

 こうした中で、オスマン朝の弱体化、列強が国土を分割せんと圧力がかかってくる。まるで日本の幕末と同じような状態が出現するのである。実際のところは幕末と同じにいろいろな勢力が複雑に動いている時期なので、、こうしたときにこそ、下級武士が活躍し、ケマルやエンヴェルが出てくるのだった。。


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by miriyun | 2012-11-10 23:41 | Comments(4)

哲学者*中村元という人

哲学者中村 元
 かって早朝まずはTVをつける習慣であった。大体天気予報に交通状況を見るのだが、時に早すぎて他のところを見ることもあった。するとおだやかかつ明瞭な声での宗教哲学・仏教の話のようなものが聞こえてくることがあった。
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 何気なくつけているだけで意識しているわけではないのに、暖かく慈愛に満ちた言葉、わかりやすく明瞭な語り口を通してなんだか、ずんずんと入ってくる言葉はすごいなと思ったものだった。

 その人がどういう人なのか当時の私は知りようもなかった。

ところが、例の鎌倉大仏のところの石碑を立て、印象的な言葉でジャヤワルダネ大統領を顕彰したこの中村教授について調べていったら、かってNHK教育で語っているのを見た人物だった。

 その語り口は次のようであった。




2.その思想・その人としての幅の広さ
  中村元教授は卓越したサンスクリット・パーリ語など語学力と思索力を持ち、インド哲学・仏教など東洋思想研究の世界的権威であった。スタンフォード、ハーバードなど米国の各大学で客員教授も務めた。インド・サンスクリット学会の「知識の博士」号や、デリー大から名誉学位を授与されるなど国際的な学者として活躍した。
しかし、偉大な不世出の哲学者でありながら、決して偉ぶらない謙虚な人物であったという。
東大教授を退官後、東方学院を設立、私財を投じて国籍学歴を問わず真に学問を目指す人のための研究の場とした。

あまりにも深い人物なのでそれを語るなどできないが、何も知らなかったものがまずは知ることができたプロフィールやエピソードををかいつまんで紹介してみよう。

1.昔から仏教研究は漢文からの訳が中心だったが、初めて原始仏典を現代語に翻訳した。
研究対象はインドから中国、日本の思想、そして西洋哲学・キリスト教へと広がった。幅広い分野をち密な論証で押さえ膨大な著作をのこした。


2.思想史は単なる文献ではなく現代まで生きているものなので、民衆のうめきを聞くものだと強調されたこと。

3.仏教の慈悲をおっしゃったが、自身がそれに満ち、晩年の著作にも限りないやさしさがあふれている。不世出の幅広い偉大な人格者だった。

4.インド哲学から仏教、死や老いといった現代人が直面する問題にまで幅広い関心を持ち、積極的に発言し続けた。生きる指針を提示するのも学者の仕事が持論

5.あくまで在家の立場を守り、特定の教団に肩入れすることはなかった

6.今の大学制度を後生大事に守っていては、本当の学問は育たないが口癖。専門分化した大学の「縄張り主義」を痛烈に批判し、「学問を人々のために役立てたい。いかに生きるべきかに悩んでいる人の指針、導きとなるような学問でありたい」と、東方学院での講義に晩年まで精魂を傾け、車いすになっても通って講義を続けた。  

7.仏教に「和顔愛語(わげんあいご)」という言葉がある。なごやかな顔とやわらかい言葉遣いのことで、仏教者はこうあるべきとされるがそれが難しい。ところが中村元教授は和顔愛語を生涯貫いた

 代表的著作20年を費やした「仏教語大辞典」の原稿を預かった出版社がその原稿を紛失してしまった。
    20年かけた著作が~!!
    普通の人ならあったら青ざめ、茫然自失?か、あるいは怒り心頭に発して真っ赤になって怒り出すだろう。
 しかし、中村教授はこの時でさえ、怒りではなく、翌日からの再執筆でこたえたという。その人柄はだれからも慕われ、尊敬された。

 この人物であるからこそ、あのジャヤワルデ大統領の釈尊の心を実行した寛容の精神を見逃さなかった。だからこそ顕彰の碑を建てたのであろうと納得できた。それとともに、これまで知らなかった、日本の輩出した偉大なる哲学者であり、比較思想学者である、西洋哲学に対する東洋哲学の根底を優しい言葉で語ってくれた謙虚なそして庶民目線を貫いた人物を知る機会になったことはとても嬉しいことであった。

 ・・・・・今年2012年は中村元教授の生誕100年にあたるという。

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by miriyun | 2012-06-03 06:02 | Comments(7)

ジャヤワルダナ大統領の言葉・仏陀の心

 高徳院は鎌倉大仏が鎮座する寺院。
大仏殿のあったはずのところの脇にひっそりと建つ石碑がある。

石碑に表された仏陀の心     
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 その石碑は、1991年に建てられた。 だが、刻まれている内容は、その建立の40年前にさかのぼる。
私は十数年前に、この石碑によって、この知られざる国の元大統領の慈悲の心が現代の私たちに伝えられたと思ってこれを読み感じ入った。

 あの太平洋戦争という大きな戦いで大きな犠牲が伴われた現実、賠償金がいくらかでも手に入れば戦後の国を立て直しやすいという現実・・・
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 その時、ジャヤワルダナ(石碑にはジャヤワルデネ)前スリランカ大統領(当時は蔵相だった)という人物は、そうしたことを考えなかった。戦勝国や被害国の利害がドロドロに混ざり合う国連の場で、また講和会議の場で、仏陀の心に沿って考え意見を堂々として述べた。そればかりか、自国の賠償請求権を放棄したのだった。
 そればかりでなく、アジア全体を視野に入れ、日本という国を国を分割してしまうよりも日本をアジアの平和で健全な国として迎えることの方が、この後のアジアのために大事なことだというのだった。

 これは日本人として知っておくべきことである。

 久しぶりにこれを見に行ったら、顕彰の内容をあらわした文章が雨風や台風などの木切れによるものか、いたく傷ついていた。木立の陰では読みづらいほどなので、とても残念だった。この文字のところが直されればいいのだが、この中村教授も亡くなられた現在、直される当てもない。せめて、これを作った中村 元教授の思いと、知っておきたい人物の言葉をここで紹介したい。

顕彰碑誌の写し
~~~~~☆~~~~~☆~~~~~☆~~~~~☆
ジャヤワルデネ前スリランカ大統領
        顕彰碑誌
この石碑は、1951年(昭和26年)9月、サンフランシスコ対日講和会議で日本と日本国民に対する深い理解と慈悲心に基づく愛情を示されたスリランカ共和国のジュニアス・リチャード・ジャヤワルデネ前大統領を称えて、心からなる感謝と報恩の意を表するために建てられたものです。


大統領(講和会議時は蔵相)はこの講和会議の演説にブッダの言葉を引用されました。
そのパーリ語原文に即した経典の完訳は次の通りであります。

『実にこの世においては、恨みに報いるに恨みを以てしたならば、ついに恨みの息むことがない。恨みを捨ててこそ息む。これは永遠の真理である。』(「マパダ5」)

ジャヤワルデネ前大統領は、講和会議出席各国代表に向かって日本に対する寛容と愛情を説き、日本に対してスリランカ国(当時はセイロン)は賠償請求を放棄することを宣言されました。
 さらに、「アジアの将来にとって、完全に独立した自由な日本が必要である」と強調して一部の国々が主張した日本分割案に真っ向から反対して、これを退けたのであります。
 今から40年前のことですが、当時、日本国民はこの演説に大いに励まされ勇気づけられ、今日の平和と繁栄に連なる戦後復興の第一歩を踏み出したのです。
 今、除幕式の行われるこの石碑は、21世紀の日本を創り担う若い世代に贈る慈悲と共生の理想を示す碑でもあります。この原点から新しい平和な世界が生まれ出ることを確信します。

                1991年(平成3年)4月28日
                ジャヤワルダネ前スリランカ大統領
                顕彰碑建立推進委員会
                東京大学名誉教授
                 東方学院院長    中村 元    謹誌
                                        (以上、石碑の顕彰誌を忠実にうつした)
~~~~~☆~~~~~☆~~~~~☆~~~~~☆

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by miriyun | 2012-05-31 07:07 | Comments(10)

S.ジョブズ&iPhone

1.iPhoneとの出会い
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昨年、世界から惜しまれて亡くなったスティーブ・ジョブズ氏、その伝記・特集・著書・雑誌・TVで話題になった。それまでシリコンバレー生まれの青年がとんでもないサクセスストーリーの人生を歩んできたとは知っていてもあまり詳しいことは知らなかった。

 なにしろ、自分が使っているのはマイクロソフト社のWindowsであるし、Macユーザーから、その離れがたい魅力について聞くことはあっても触ったことがないので実感できないでいた。
 ところが、転機は訪れた。移動中にネットを調べ、メールをすることのできる機械を探していた自分が軽量小型ノートPCやモバイル型各種機械を探していた。あいうえお打ちができない自分は携帯電話を使えないのだ。また、HPやブログ・ニュースが題名だけが出てきて一回一回開かなければ見られない携帯型の展開でなく、PC画面を見たかったのだ。ローマ字打ちのできる機械を探してとうとう、その理想のかたちとしてiPhoneに出会ったのは2年半前だった。
 
 使ってみると、想像以上に携帯電話よりもPCに近いということを体感し、また、PC(現在はicloudという領域に直接できるが)での保存・復元・などのできること、自分が必要とするアプリケーションだけを無料・又は有料で入れることができるということ、しかもそれらのアプリを誰もがつくりだすことを推奨しているので世界のニーズと世界の知恵が次々ととアプリをつくり続けるということなどを知るにいたった。

 それ以来、いったいこんな斬新なことはどんな頭脳が考え出すのだろうと思っていた。


2.ジョブズという人
 現代においては早過ぎる56歳で亡くなったジョブズ氏とはどういった人だったのだろうか。きょうTVでこの人についての特集の再放送?らしきものを見た。そういえば、雑誌を読んでからもこの人について語っていなかった。このような人がいたという自分の覚書としたいので、ご存知の方は2.はとばして読んでください(Newsweek・ニュース・TV等を参考)

 ジョブズが16歳のとき、自分より優れた技術者スティーブ・ウォズニアックに出会う。
そして、コンピュータゲームをつくるアップル社をつくった。当時大きな会社にある巨大なPCでなく家庭用個人が使うようなPCの開発ができるかどうかが技術者の間の課題だった。

 ウォズニアックはの小さなPCの基盤をつくりだした。ジョブズはこれを「アップルⅠ」として世に出した。
家のガレージで始まったPC会社であったが、当時、その基盤の小ささは画期的なものだったのだ。
さらに、しばらくして「アップルⅡ」を発売した。これは基盤だけでなくケースにきちんとおさめキーボードを備えたものだった。そして美しい外観とカラー画面を備え1993年まで二500万台を売った。

 ジョブズは他の企業で開発されて、しかも販売のために使われていないアイコンやマウスというツールを装備した「Lisa」開発に入った。しかしながら、完璧主義者の徹底したやり方・話し方でPC業界の革命児と言われながらも社内では不満がいつもくすぶっていた。とうとう「Lisa」プロジェクトから外されてしまう。

 裸の王様といわれ、自分だけの新チームを結成して週に90時間働くよう強制し理想のPCづくりに邁進した。また、アップル社に経営のプロを入れようと、ジョブズはコーラの会社のジョン・スカリーを求めた。スカリーは断ろうとしたが、その時に「一生砂糖水を売り続けるのか、それとも一緒に世界を変えてみるのか」と迫られ、アップルへ行くことを決心したという。この言葉にジョブズが何を求めていたのかが感じ取られる。

次に発売した「マッキントッシュ」はCMも斬新で話題になったが、盛り込んだ機能があだとなり動作が遅かった。そのため発言力は下がり、自分が呼んできたスカリーとも険悪な状態になった。とうとう、経営者の実権を失い1985年アップル社を去った。その時、たった1株だけを残してアップル社の株をすべて売り払った。

 彼は、この経営者でなくなって失業したとき、若干30歳だった。 全米で最も有名な失業者になった。

それでもPC開発という仕事が好きだと感じた彼は新PC開発した。ここでも一台80万円という高額なPCであったために失敗し、アップルの株を売って得た金を使い果たす。
 転機が訪れた。このころ、ジョージ・ルーカスからCG部門を買い取り、ここで起死回生の起業をする。1995年の映画トイ・ストーリーで彼のピクサーアニメーション会社は大きな成功をおさめ、また億万長者に返り咲いた。

 このころ、彼の人生で唯一愛した女性ローリーパウエルと結婚し、家庭的にも充実したという。一方、アップル社はビルゲイツのマイクロソフト社に押され苦境に陥っていた。
 1997年、ジョブズはアップル社へ返り咲き、それまでの役員を追い出し再建策をうちだす。
 そうしておいて1998年「IMac」、リビングに置いて違和感のない斬新なPCを開発した。

◆その後、ウォークマンなどとは全くスタイルの異なり、画期的でスマートな「iPod」を発表した。
順風満帆に見えたそのころすい臓がんが発見される。しかし、mm単位で小さくこのデザインでこの技術でとこだわった開発ということに命を懸けるように仕事を続けた。
2007年 「iPhone」を発表した。3か月位で100万台を売り上げた。
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        左は 「iPhone4s」、右は 「iPhone3G」・・・厚みが違う・機能もだいぶ違う。
 このシンプルで美しいデザインも彼のこだわりのうちである。パッケージも小さくシンプルでしかもクールなと表現したくなる。解説書はついていない。自分で触って機能を知っていくというシンプルさを徹している。

2010年には彼は「iPad」をさらに発表し、 大ヒットとなる。 「iPhone4」 「iPhone4s」「iPad2」など発売するたびに予約申し込みや当日の行列ができるのが当たり前の状況となり、アップルは世界有数の企業になったのだ。そうした中、開発、開発と無理を続けたジョブズは最後にはその地位を退き、家族のもとで全力で駆け抜けた人生を終えた。2011年10月5日のことだった。

3.彼が残した世界
◆スタンフォード大学でのスピーチ
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これが、だれにもわかりやすい彼自身をあらわしたスピーチとして世に名高い。
・・・・・・君たちが持つ時間は限られている。人の人生に自分の時間を費や­すことはありません。誰かが考えた結果に従って生きる必要もない­のです。自分の内なる声が雑音に打ち消されないことです。そして­、最も重要なことは自分自身の心と直感に素直に従い、勇気を持っ­て行動することです。
you tubeに翻訳までついて載っているので、どこの国の人もこうしたスピーチを居ながらにして知ることができる。
 それをこうして、、iPhoneで見ている。彼が微笑んでいそうだ。





◆iPhone&iPad
 PCについてはたくさんの企業と開発者がそれぞれにいて機械もソフトも出来上がっていき、それらはジョブズがいなくても今の世に存在しただろう。だが、散在する技術者や知恵を結び付けいち早く世に送り出していったのは彼だった。
 
 また、iPhoneのあの小ささの中にいくらでも広がる世界が詰め込まれた作品というのは彼なくしてこんなに早く世界に存在しなかったのではないだろうか。

 iPadは、最初iPhoneを大きくしたもの、しかし、毎日電車の中に持っていって読むには大きすぎるしノートPCほどではないにしても重い。写真とかを写してプレゼンとかにはいいが・・・、他にはどうだろうなどと思っているうちに、自分が大好きなフィギュアスケートの世界で実感した。コーチが選手の演技を iPadで撮る。その場でスピンややジャンプ・ステップのフォームを確認してそれを注意しながら即練習に取り入れる。
 あぁ、なるほど、iPhoneがそれぞれのニーズで使い方が異なるように、 iPadも決められた使い方がどうというのではなく平らで画面が大きく手に持ってさえいれば向きは自由自在。何に使うのかはユーザーの無限の広がりにまかされているのだ・・・。

 この大胆な発想、緻密なデザイン、理想に近づける極め方・・・、一緒に働いていた人は「さぞかし大変で付き合いにくかったことだろう。
 だが今では、機械に使われるのではなくて、それぞれが自由に機械を使いこなす時代をがむしゃらに引き寄せようとした彼の意気がだれにも伝わっているのではなかろうか。



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by miriyun | 2012-01-30 00:05 | Comments(6)

11万7000kmイブン・バットゥータの旅

 モンゴル帝国の領土と旅  

 中世のユーラシア大陸や地中海世界を見渡すと、モンゴル帝国以前とモンゴル以降とで世界観が違ってくる。もちろん、あらゆる分野に関係することなのだが、旅ということをここでは考えていきたい。

 モンゴル以前なら唐とインド間に限定されるが、記録を残した玄奘三蔵法師だっていた。
また、国家規模での交流ははるか2000年近く前からあった。A.D.97年、甘英が大秦国(ローマ帝国)をめざし、地中海まで目にしながら海を渡らず引き返した(『後漢書』西域伝)。166年には、秦国王の安敦が使者を洛陽に送り、象牙や犀角などを献じた」(『後漢書』西域伝)。「続資治通鑑長編」には、1071年にはセルジューク・トルコから使者が来て、1081年には東ローマ帝国から使者が宋にやってきたことが記されている。
ユーラシアをアジアの東までしっかりと旅をし、しかもそれを記録に残したというのはマルコ・ポーロからである。もちろん、彼が最初の旅人というわけではない。彼の父親と伯父の方が先に元のフビライ皇帝に謁見を許され、さらに自分の国にまで帰り、もう一度息子を連れて訪れているのだ。

 他にも名もなき人の移動はたくさんあった。

 だが、使者ではなく民間人で記録を残したというと、かなり限定されてくる。もちろん内容は信じることができないような内容も時にはあったり、自分の目で確認したわけではない伝聞を基にしたものもある。だから、完全な資料ではないが、かといって他にグローバルにしたためたものがない以上、その当時の地誌や町の人々の様子などを生き生きと描いた貴重な資料であることは確かである。

 大陸横断して大旅行をした人物、そして記録(いずれも口述筆記)を残した人・・・
      *13世紀の旅人はもちろんマルコ・ポーロ
      *14世紀の大旅行家はイブン・バットゥータ  である。

 この二人に共通するのは大変な距離を移動しているということである。そして、それがモンゴル帝国といういくつものハン(ハーン)国に分かれているとはいえ、元を宗主国とするモンゴル帝国の緩やかな連合となっており、共通のモンゴルという枠の中で、安定し、かつ強権で、その中でかってないほど東西の物資は動き、文化も宗教も、もちろん人もその枠の中ではこれまでなかったほど安全に移動できるようになったのだ。

 イブン・バットゥータの11万7000kmの旅  
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                                            ↑ミニアチュールの中のイブン・バットゥータ (パブリック・ドメインの画像)

 1304年、モロッコのタンジール(タンジェ)に彼は生まれたベルベル系アラブ人。タンジェはモロッコの中でも最北端の突き出したところにあり、イベリア半島を臨み、海越しに他の土地へ興味をわきたてられそうな位置にある。

 21歳の時、イブン・バットゥータは動き始めた。
最初のきっかけはイスラム教徒としての当然の動機から始まる。マッカ(メッカ)への巡礼である。モロッコからであるから旅は東へ東へと続く。エジプトのアレクサンドリアからシナイを越えてダマスカスに入り、そこからメッカへ入り若くしてハッジとなる。それでふつうはモロッコに戻るものだが、彼はここからペルシアへ渡る。

 それはなぜか?
この時、ペルシアはイルハン国となっている。
 イスラーム的見地からイル・ハン国を知る上で押さえておきたいのが7代君主のマフムード・ガザンと、次の8代のムハンマド・オルジェイトゥである。ガザンのときにイスラームに改宗し、そのためにペルシアの各部族もこれに従い、イル・ハン国はイスラーム王朝となった。宰相ラシードゥッディーンに『集史』を編纂させた。
 8代オルジェイトゥは、兄ガザンの方針を受け継ぐ。イスラームの仕組みを取り入れつつ。歴史編纂を含めモンゴルとしての再認識も行う。首都を現在のテヘラン近くのスルターニーヤ(ソルターニーイェ)として、そこを中心に、君主自ら指令することによってすべての学問・建築・工芸が隆盛した。
 こうして、8代君主のときに隆盛を極め、東西交易が隆盛してイルハン朝の歴史を通じてもっとも繁栄した時代を迎えた。

 イブン・バットゥータが渡ったときには9代君主に変わっていただろうが、まだその繁栄の様子が残るイル・ハン国に、青年が惹かれて渡っていったのはわかる気がする。そして、イル・ハン国内のシリア地方まで旅をし、更に・小アジア・黒海を経て北のキプチャク・ハン国、東へ向かって西チャガタイ・ハン国、すなわち中央アジア(チャガタイは東西分裂して弱まり、群雄割拠に近い状態なのであまり記録はない)に入る。これらのハーン国を民間人が渡り歩くことができる・・・これこそがモンゴル以後の旅の恩恵だった。
 30代になるとトゥグルク朝のインドのデリーに滞在し、カーディー(法官)に任命された。その後インド西海岸をずっと南下し、セイロン島をめぐり、更に東南アジアのスマトラ島ベトナムをめぐり、船で福建省の泉州に上陸、陸路をの大都まで行く。
 

 1354年にいったん故郷のタンジェに戻るが、更にその旅心は彼をとどまらせず、海を渡ったイベリア半島のアンダルシア、アフリカに戻り南下してサハラ砂漠をトンブクトゥーなどをめぐる。

 あまりにも広範なその旅は11万7000kmとされる。実に地球3周に近い距離である。

 口述筆記による大旅行記 

 ◆マリーン朝の君主アブー・イナーンはこの旅に注目。書記官であるグラナダ生まれの文学者イブン・ジェザイイに命じて口述筆記させた。こうして完成したイブン・バットゥータの旅行記が
『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』
(تحفة النظار في غرائب الأمصار وعجائب الأسفار‎ )   
Tūhfat Annathar Fi Ghara'ib Al-Amsar Wa Aga'ib Al-Asfar)である。

 イブン・ジェザイイは言う。
「私は彼が述べる逸話や未知の情報に類することについては、すべてを記し、その記録内容の信憑性についてはあえて詮索したり、選択したりはしないことにした」

 おそらく、この学者は見たこともない土地について語るイブン・バットゥータの話を取捨選択して載せようとしたのではあるまいか。ところが取捨選択は書く方も対象となるものをを知っていて、その中で基準を設けてはじめて選択できるのであって、全く知らない土地の不思議な話ばかりがあると、全く選択ができず、そのまま載せるということをせざるを得なくなり、その代りこうしたことを述べたのに違いない。

 このように他に誰も知らないようなことというのは、ともすれば、いう方は大言壮語になるかもしれないし、反対に事実のみを言っているのにほら吹きやうそつき呼ばわりされることもある。学者はそのようなことがないように証拠を積み上げ採集しながらいくのだろうが一般人や商人の記録はそういう意味では不完全になってしまうわけである。
 マルコ・ポーロも「100万のポーロ」と陰口をたたかれた。日本風にいうと大風呂敷の嘘八百のポーロというような言い方だ。 だが私は、うそを創作し続けるというのはとても難しいと思う。

 マルコ・ポーロもイブン・バットゥータも、もっと深く検証し、その中から現れる真実を大事にしていきたいものだ。



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by miriyun | 2011-05-23 09:50 | Comments(0)

茶人・山田寅次郎とトルコ・・・エルトゥールル号その後

宗徧流*山田寅次郎 
鎌倉の鶴岡八幡宮三の鳥居を正面に見て、そこで右に進む道がある。それを道なりに行くと報国寺があり、そのちょっと先には現代6流派の一つ宗徧流(そうへん流)の茶道会館がある。

  宗徧流とは千利休(室町末期)の利休流の流れを汲み、利休の孫、 宗旦による質素簡明を第一とした、真の侘び茶を現代に厳しく伝えるもので宗徧(1627~1708)を祖とする茶の湯の流儀である。宗徧は利休の簡素な真の「侘び茶」を宗旦から直に学び継承した江戸初期の偉大な茶人のひとりである。
 この流派の8代家元宗有(そうゆう)・・・すなわち山田寅次郎はトルコとの関係が深く、場合によってはこの流派の関係者以外の日本人よりもトルコ人の間でよく知られているかもしれない。

エルトゥールル号の遭難 

日本ートルコ親善のために現れたトルコの戦艦エルトゥールル号が9月15日に横浜港を出航した。
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              ↑ 現在の横浜港を船の上から眺める

日本からは嵐の危険性も含めて止められたにもかかわらずの出航であった。
そして翌9月16日、つまり、いまから120年前のきょう、紀伊半島先端の沖でエルトゥールル号は遭難し、乗船していたトルコ人の540人ものいのちが海に奪われた。

① 武士として・・・家老の家に生まれる
 山田寅次郎はそもそも、沼田藩の江戸家老、中村雄右衛門の次男として生まれた。大政奉還の2年前のことである。家老の家柄ではあっても次男は次男。長子相続の「武士の家にあって次男は冷や飯食いである。よい婿入りか養子の話は大事にされた。ましてや明治となり武士という身分もなくなった後、15歳になった彼は請われて家元になるべく山田家の養子になった。しかし、若き寅次郎はすぐに家元としての仕事に打ち込んだわけではなかった。


② 国際ボランティア活動の先駆者
 日本ートルコ神前のために現れたトルコの戦艦エルトゥールル号が遭難したさい、その悲劇にいてもたってもいられなくなり、寅次郎は、いまでいう民間ボランティア活動として日本全国から義捐金を集めることに奔走した。そして今で言うところの1億円を越える金額が集まったところで、時の外務大臣に託そうとする。
 ところが外務大臣は、これだけの義捐金を集めた君が行くのがよろしかろうといったのだ。
 これが寅次郎とトルコとのつながりへと発展していった。

③ トルコでの歓迎・貿易・日本語の先生
 遭難から2年後、全国から集まった義捐金を持って、寅次郎はイスタンブルに渡る。
 民間人である日本人が義捐金を持って現れたということで、熱い歓迎を受けた。オスマン朝のアブデュルハミト2世にも拝謁する。スルタンからの勧めが合って、すぐに帰国せずにこの地にとどまって、貿易のための中村商店(中村は生家の姓)を設立する。それとともに請われて、将校達に日本語や習慣の講義をし、また東洋の美術品の整理を依頼されて行なっている。
 このとき、のちのアタチュルクも山田寅次郎の講義を受けていたという。

 トプカプ宮殿にはこのとき寅次郎が持ってきた生家、中村家伝来の鎧兜が収められていて、今でも時々展示される。

④ 貿易商として20年
イスタンブルに20年住み続け貿易商としてやっていく。ただし、トルコと日本は正式な国交を結んでいなかったので貿易面では大きな進展につながらなかったようである。
 しかし、公式にも非公式にもトルコを訪れた人たちは寅次郎のところで世話になってトルコに接することができたのだった。

⑤ 実業家にして宗徧流家元 
、1905年には一時帰国し、タバコを巻くライスペーパーでの成功大阪で東洋製紙株式会社(現・王子製紙)を設立した。第一次世界大戦後は帰国して、製紙業中心に活動し、関西実業界で活躍した。
 茶道の家元になったのは、かれが57歳になってからだ。トルコに出かけたまま空席となっていた家元の座はようやく埋まり第8代宗有となったのである。茶道界での家元として、弟子を率いて発展につとめた。 
 では、お茶の道だけに専念したのか?否である。
 こののちも寅次郎は1927年、吹田製紙を創業,1936年には三島製紙と合併、のちに三島製紙の社長、会長を歴任した。引退してからは茶の道にうちこみ後継に後を託し、90年の生涯を閉じた。
 どの仕事においても全力で打ち込んできた山田寅次郎。家元にして実業家で、トルコ理解の先駆者であった。
 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 茶人としての道が早くから出来上がっていたにもかかわらず、山田寅次郎は自らの心に従って動き、トルコに渡り、請われるままに単身20年も滞在し、その生涯はトルコ友好親善の魁(さきがけ)としての役割を為していた。

 現在、大学生達が海外への留学を渋り、その数は激減しているという。先日アメリカの大学で哲学の教授が講義し、活発に学生が答えている姿がBSで紹介されて、あまりの面白さに連続して聞きほれた。しかし、このローマの劇場型ホールでで行なわれた講義に参加している日本人学生は1名だろうという声が聞こえてきた。
 また、自主的に自分の力で世界を見てやろうという気概も激減しているという。
 明治から昭和にかけての先人たち、あるいは平成になってからも活発に世界へと目を向けてきた日本が動かなくなっている・・・これも日本の危機の一つかと思う。

 こんな今だからこそ、9月16日にちなんで、トルコと山田寅次郎を見直してみた。

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by miriyun | 2010-09-16 23:14 | Comments(6)