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2008年 06月 17日

メフメット2世のトゥーラ

 スルタン・メフメット2世のトゥーラを自分なりに書いてみた。読み方・書き方を覚えるためにも書いてみた。
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                                 ↑自作*スルタンメフメット2世のトゥーラ
  メフメット・ビン・ムラト・ハーン・ムザッファル・ダーイマ
  ムラトの息子であり、ハーンである永遠の勝利者メフメット・・・という意味である。
  
  *トゥーラ(トゥグラー)とは・・・アラビア語)はスルタンの署名、日本の大名の花押にあたる。


 スルタン・メフメット2世はどんな人物だったのか。少年にしてスルタンになったという経緯は書いたが、何しろ誇り高き人物で、簡単に自分を出すような人ではなかったようだ。 内なる情熱を秘めながら「、表には冷徹な面しか見せないようなところがある。
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 また、トルコ語・アラビア語はもちろん、ギリシア語・スラブ語を話し、歴史・地理に強い関心を示した。

さて、彼の名前は各種の本にマホメット2世と書かれていたりする。塩野氏の本もそう表記されている。ヨーロッパではそう呼ばれてきたため、日本もヨーロッパ周りのマホメットが入ってきて、過去においては世界史教科書をはじめとして多くがマホメットと表記していた。

 しかし、実際はトゥーラで確認するとアラビア表記の彼の名は預言者ムハンマドと同じmhmdの子音からなり、アラビア語ではもちろんこれをムハンマドと読む。
 そして、トルコ語ではMehmedと読みをラテン文字表記する。するとメフメッドとなる。それではここで書いているメフメットは何なのか。トルコ語は語尾ではにごらない読み方をするということであった。
 するとMehmedと書いて、メフメットと読むのがもっとも正しいということになる。

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by miriyun | 2008-06-17 06:37 | Comments(6)
2008年 06月 16日

金角湾鉄鎖を廻る海戦

 メフメット2世が、率いてきた軍勢は、アナトリア軍・ヨーロッパ属国軍・イェニチェリ合わせて、少なくとも16万~20万人といわれる。

 これらがテオドシウスの城壁をはさんで布陣を終え、大砲を設置しているあいだに、ビザンチン側は鉄の鎖を挟んで金角湾の内側に守備のための船はジェノヴァの大型帆船からヴェネツィアのガレー船まで26隻、鉄鎖の外側にジェノヴァの大型帆船5隻が位置についた。
 4月11日にはトルコ大艦隊が145隻という威容でやってきた。

 4月12日、いよいよ開戦、陸では激しい砲撃がおこなわれ、そして、海でも戦いが始まった。

◆防護の鉄鎖を張った様子
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             左がコンスタンティノープル、右はジェノヴァ人居住区で右端にガラタ塔。
 鎖で封鎖した金角湾にトルコ側が突入しようとしビザンチン側ラテン人がそれを防ぐ。
そもそも船の数ではトルコ側が圧倒しているものの、この頃の制海権はジェノヴァ・ベェネツィアが持っていたのであり、船の扱いも海戦も慣れていた。突破しようとするトルコ船を難なくあしらった。

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  赤・・・ビザンチン軍とジェノバ・ベェネツィア協力軍
  緑・・・トルコ軍。月型のところにスルタンの本陣が置かれた。
【注意】
  白・・・ジェノヴァ人居住区。ここは中立を宣言しながら、本国からの将兵や船はビザンチンに味方しており、居住区はスルタンに対して微妙な立場で存在している。


・・・・◆・・・・◆4月20日の海戦◆・・・・◆・・・・
 さらに、ビザンチンが食糧を運ばせた大型船1隻と戦闘能力の高いジェノヴァ帆船3隻が近づいてきた。メフメット2世はこれ以上、ビザンチン側を喜ばせないよう、この4隻を金角湾の鎖の中に逃げ込ませないよう厳命した。

 しかし、ここでも操船技術と潮の流れに関する経験と海戦に勝る力に勝るジェノヴァ船が勝ちすすみ、見事に鎖の中へと入っていき、ビザンチン側から賞賛と喜びのどよめきが起こった。

☆陸上戦でならしたトルコ軍も海軍についてはこのコンスタンティノープルの攻略に必要なため、数をそろえて、海をうめるほどにせまってきており、ビザンチン側が目を剥くほどであった。しかし、海戦はかなりかってが異なる。
  火を放つ・・・効率よく消す
  弓矢を射る・・・船の高さで全く的に当たる率が異なる、
  潮流を知っているほうが有利
  風の動きを察知して、帆を短時間ではるか
  錨をどこでおろし、どこで短時間で上げるか
  戦いの中で急旋回など動けるか
  大小の仲間の船と連携が取れるか
 こういった点において、トルコ軍は明らかに未熟であり、それに対してジェノバ人の海洋国家としてのの技術と戦法は洗練されていたのだった。

――メフメット2世は屈辱に震えた・・・

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by miriyun | 2008-06-16 01:34 | Comments(0)
2008年 06月 14日

巨大な鎖…ビザンチンの金角湾封鎖作戦

◆いよいよ、スルタン・メフメット2世1453年、3月26日エディルネ(アドリアノーポリ)にトルコ軍を集結させた。そして、コンスタンティノープルへ進軍を始めた。

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                                          ↑軍事博物館蔵
14~15世紀の頃の金角湾(ゴールデンホーン)を中心にした絵図である。左にはテオドシウスの城塞に守られたコンスタンティノープルとビザンチンの宮殿・オベリスクが見える。金角湾を挟んで右には城塞に囲まれたジェノヴァ人居住区がガラタ塔を頂点として描かれている。

◆ テオドシウスの城塞は陸側は総幅60mにも達する破られたことのない歴史上屈指の三重城塞であり、南のマルマラ海側は潮流激しく、どこの国も戦いを避けたいような場所であった。  残すところは金角湾であり、ここは一重の壁であり、しかも海は穏やかである。したがってコンスタンティノープルの弱点はこの金角湾であり、第4次十字軍によって敗北を喫して占領されたときもこの金角湾からであった。

 ビザンチン側は金角湾にやってくるであろう数限りないトルコの軍船対策を早急にしなければならないのは明白だった。
☆そのときビザンチン側が知恵を絞り、これしかないと結論付けたそのものがこれである。

ビザンチンの巨大な鎖作戦
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 巨大な鎖である。これで、ビザンチン側とガラタ側の塔に鎖を結び金角湾の入口の封鎖してしまおうという作戦である。
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                   A:三重の城壁
                   B:一重の城塞&天然の要害
                   C:一重の城塞

  4月2日、この地図の金角湾入口に巨大な鎖を渡して、トルコ艦隊が金角湾に突入できなくした作戦である。そのためには鉄の鎖を水面に近いところに渡さなければならないから浮きを浮かしながらその下に鎖があるという状態に保った。

 そしてその封鎖線が全くわたれないとビザンチン・ヴェネツィアなどの連合軍も困るので、北側も南側も必要なところは鉄鎖を外し、友軍の船を出入りさせることもできた。

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 その鎖は急ごしらえであら削りなゴツゴツした感触を今も伝えている。

 塩野七生氏の言うところの男の二の腕ほど太くは見えないが、女性の細腕ほどはある。両端のカニばさみの部分は塩野さん言うとおり男の二の腕という表現がふさわしい。

 この鎖の前後にラテン人たちの船が集まり、防備する。それに対して、この鎖を何としても突破したいトルコ軍と船同士の海戦のときが刻々と近づいていた。

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by miriyun | 2008-06-14 15:40 | トルコ | Comments(4)
2008年 06月 12日

最後のよりどころテオドシウスの城壁

 ビザンチン帝国を1000年もの間守ってきたのはテオドシウスの城壁である。
        テオドシウスの城壁と位置
二重の分厚い壁、その間あいだに林立する頑丈な四角い塔、そしてそれぞれ空間は十分に開けながら、最も内側の塔からはすべてが見渡せるようになっている高さ、更に二重の壁の外にはまた空間、そして三番目の柵、更に幅20mの堀が横たわる。

 ビザンチンの宮殿は現在のトプカプの位置にほぼ等しく、ここを廻る三角形の城壁のうち、陸から攻められるのは北西方面だけで、ここがこの強固な三重の城壁と堀で守られているのだった。

 そして、他の三方は海で囲まれていること自体が防御であった。

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★マルマラ海から見るテオドシウスの城壁
使われなくなって久しいが、まだなお、峡間胸壁と矢狭間もしっかりしたテオドシウスの城壁がこの岬の周囲をずっと廻っている。
上の建物はトプカプであるが、この位置にビザンチンの宮殿もあったので、このような景観だったと考えられる。15世紀、まだこの城壁の中にビザンチンの皇帝が君臨し、周りからトルコ軍がせまっていく。そのイメージで城壁を眺めてみよう。人が歩いているのにr対して、城壁が高く聳える。

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  手前に城壁が見える。しかし宮殿の壁は窓を極端に少なくしてほとんど壁にしてあるので、この宮殿の壁も含めて城壁の役目をしている。
尚、帝国の中心である宮殿がこのように見える場所にあり、テオドシウスの城壁が一重のみであることは防御の上で弱いように見える。が、この海はボスポラスからの潮の流れが10km/hを超えてまるで川のごとく激しい。また風も強いことによって、船は思うように操れない場所でもあった。

 したがって、都のマルマラ海側は天然の要害であり、歴史上一度もここから城壁を破られたことはないという。

◆このころ、すでにオスマンの1~6代によって、コンスタンティノープルはトルコ領土内の陸の孤島となっていた。しかし、ビザンチンの皇帝は、この1000年前の城壁とキリスト教国の援助を頼むばかりで、バヤズィットの代の危機をたまたまティムールの来襲のおかげで乗り切ってから、なんら新しい工夫も配置もおこなっていなかった。

・・・・1453年メフメット2世は、この城壁に守られ3つの海を睥睨するビザンチンの都・コンスタンティノープルに挑もうとしていた。

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by miriyun | 2008-06-12 22:45 | トルコ | Comments(0)
2008年 06月 11日

4ヶ月でルメリ・ヒサール城塞を築く…オスマン朝の歴史(3)


7代 ファーティフ メフメット2世(1446~44、1451~81)

1、自らの即位
 (少年スルタンとしての時代については、ムラト2世の項で記載。)
 1451年、スルタン・ムラトが亡くなった。47歳での急死であった。

 *トルコには先代のスルタンが亡くなった場合、すぐには公表されず、一番先に駆けつけた皇子がスルタンの座を引き継ぐという遊牧時代からの伝統が残っている。

 メフメットは、自分をクーデターで追い出した大臣・暴動を起こしたイエニチェリ、父の寵姫が生んだ異母弟がいる都へ馬を疾駆させて戻った。
 そして、ついにメフメット2世として今度は自分の力で即位したのだった。少年時代のメフメットをクーデターで追放したに等しい大臣たちは、戦々恐々としていたが、メフメットはこれらの父の代からの大臣をおおむね残留させ、周囲をほっとさせている。
 (ただし、この時幼い異母弟は殺され、以後オスマン朝におけるスルタン即位にともなう弟殺しの先例となったのである。)


2、青年スルタンのルメリ・ヒサール建築

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 さて、19歳で新たに即死したスルタンを周辺諸国は、ムラト2世の残したものを引き継ぎ守るのがやっとの器と見ていた。
 しかしメフメットはアナトリアやバルカンをにらみ威圧するとともに、ビザンチンの首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブル)を征服する準備を進めた。

 4代ユルドゥルム・バヤズィットがたてさせたボスポラス海峡をアジア側から望むアナドル・ヒサールを検分し、その対岸のヨーロッパ側に、メフメット自ら設計したルメリ・ヒサールを建設した。
 ヨーロッパ側はもちろんビザンチンの領土であるが、それに断りもいれず、突如5000人の職人を集めて城塞を建築し始めた。
  3人の大臣を競わせてたった4ヶ月で完成させたルメリ・ヒサールは漏れのない構えの堅固な城塞であった。

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                      ↑ルメリ・ヒサール全容
 全長250m、高さ15m、幅30mの城塞で囲まれた70mを誇る3つの大塔と9つの小さい塔で要所要所を押さえている。海峡から逆三角形に競りあがる形をした城塞で海を通る諸国の船から見てもその圧力は驚異であった。

 しかも、その位置はボスポラス海峡の最も幅が狭くなるところで南から海峡をすすむと左にルメリ・ヒサルが聳え立ち、大砲の照準を合わせており、右に寄ればアナドル・ヒサールが控えておりという状態である。
 完全にこの海峡の制海権を握ってしまう要所であり、ここに目をつけ短期間でこれだけの威容を誇る城塞をつくるのを若干20歳のスルタンがおこなっているのだ。

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 急峻な地形を削るのではなくその地形をうまく利用することで、城壁を高く、さらに聳えるごとく見えるようにしている。

 この城塞だけでもメフメットが何を最終目的にしていたかは明らかだった。1451年に劇的にスルタンの座を勝ち取り、翌1452年にはこのルメリ・ヒサールを迷うことなくつくりあげている。これはスルタンになってから突然考えたものではない。少年スルタンのころ、あるいは不遇の時代に彼の頭の中で、あるいはコンスタンティノープルを廻る地図の上で練りに練った方策だったのだろう。
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          参考*オスマンの歴史に関しては次の本を参考としてさせていただいている。
               「トルコ、その人々の歴史」セルマン・エルデム他
               「地球の歩きかた」
               「コンスタンティノープルの陥落」塩野七生(小説ですが、資料重視の作家なので、数字部分を中心に参考にさせていただいている。歴史好きの方にはオススメの本!)
                                                                     

by miriyun | 2008-06-11 07:10 | トルコ | Comments(6)
2008年 06月 10日

希代なムラト2世…オスマン朝の歴史(2)

☆オスマンが力を付け始めたころのビザンチン帝国はアナトリアと同じようにいくつもの諸侯や王国にわかれ、ビザンチンの皇帝はこれらの国に対する影響力は失われ、強固な要塞に守られているものの、軍事力は弱ってきていた。
 
 それに対して14~15世紀、オスマンの子や孫は、武運つよきもの、人柄優れ、政治力あるもの・信仰篤きもの、学問・科学に造詣の深いものが続いていく。それと共に領土は拡大、首都の位置も変わってエディルネ(アドリアノーポリ)になっていった。しかし、ティムールによってアンカラの戦いで大敗北を喫し、それによる勢力の後退、支配者の分裂を招いた。

~~~・~~~・~~~・~~~・~~~・~~~・~~~・~~~・~~~ 

 ◆5代 メフメット1世(1413~21)

その痛手を修復したのがチェレビー・メフメット,すなわちメフメット1世である。

 1402年より、分裂し混乱していたアナトリアを再統一したのが彼だった。アンカラの戦い以後の混乱から実に12年たっていた。かれは弓の上手でもあり、優れた政治家でもあったといわれている。


 ◆6代 ムラト2世(1421~44、1446~51)

 ムラト2世は軍人としても政治家としても優れた人物であった。そして、この時代の君主としては異例の戦争を好まない性格を持っている。話し合いや講和では平和を重んずる態度を貫き、帝国の東のアナトリアでも、西のハンガリー・セルビアとも平和を確立した。  

 なんと、ここで譲位!?   
 しかし、教皇は十字軍を結成。平和の誓いを破ってハンガリー王もそれに参加して攻めてきた。またベネチアの艦隊はトルコ軍を動かせないよう海峡を封鎖した。このとき、1444年ヴァルナの戦いで十字軍を破り、ポーランドとハンガリー王を倒した。すると、ヴァルナの戦いで圧勝したムラトは40歳という若さで幼い息子メフメットに譲位し、自分は引退してマニサで文人生活を送った。
 
◎少年スルタン・メフメット2世(後の征服王である)はムラト2世の3男として産まれた。母親はもと奴隷で身分は低い。2歳で小アジアに送られる。5歳で長兄が亡くなり、メフメットはアマシアの総督に任命される。さらに6年後次兄が暗殺された。
 これにより、特に父から目をかけられていたわけでもなかったメフメットがスルタン・ムラトの跡継ぎとしてアドリアノーポリ(エディルネ)の宮廷で早くも父の留守を守る立場になり、ついには11歳でスルタンになったのである。

  しかし、前出のように、外因は諸国の攻撃に対するため、そして内因は大臣たちの少年スルタンへの不安を持つ大臣たちのクーデターにより、ムラト2世は突如隠居先のマニサからエディルネにやってきて復位した。
 
◎メフメットが少年スルタンとして実権を握っていたのはたった2年で、父の復位ごはマニサに追放された。メフメットはこの時14歳、しかしただの14歳ではない、スルタンとして君臨してきた誇り高き14歳が地方に追いやられ、やりきれない若さの中で活躍の場を与えられずにいた。

 その後、ムラト2世はアルバニア・ハンガリーを再度打倒(第2次コソボ戦争)し、ドナウ川とサヴァ川までのバルカン半島はすべてオスマン朝の支配下としたのだった。

 このムラト2世はなにやら不思議な人物だ。
戦争をしなくてはならない時は果敢に迅速な対応をするが、常日頃は文化を大切にし、教育・芸術の普及を推し進めた。自らも文化に親しむ生活を好み引退生活をする。わが子メフメットに対する態度も冷徹であったようにも見えるし、実は君主として育てていたのかなとも思えなくもない・・。果たして、心のうちはどうだったのだろう。 

 また、若くしてスルタンの重責と屈辱とを経験した少年メフメットはこの体験から何を得ていったのだろうか・・・。  
                                                                    
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by miriyun | 2008-06-10 05:45 | トルコ | Comments(2)
2008年 06月 09日

初代オスマンからバヤズィット…オスマン朝の歴史(1)

 オスマン朝の支配者をスルタンという。
     スルタンは36代まで続いた。
 トルコの中には歴代スルタンの名においてつくられた建築物や工芸品が数多く残されている。しかし、徳川15代くらいなら、なんとか名前を覚えたり特色をつかんだりしやすいが、36代となると分かりづらい。しかもメフメットにアフメット・ムラト・ムスタファ、挙句の果てにアブデュルにつづくこと、ハミドやメジド・アジズと似たような名前が続出して紛らわしい。
 そこで、建築や文化面との関連を見ながら関連あるスルタンの歴史をまとめてみる。


 ◆オスマン朝の成立 
 カイウ部族の長であったガーズィはアナトリアに領地を持つベイリク(諸侯)としてセルジューク朝に仕える形をとっていた。

 数多い諸侯のなかでオスマン・ベイリクは、ビザンチン帝国の領土との境界にあったのは幸運だったといえる。なぜなら同じトルコ諸侯の持つわずかな土地を廻って限りのない戦いを続けしかも禍根を残すということをしなくてすんだからである。弱体化し始めていたビザンチンに戦いを挑み容易に領土を増やすことができたのである。

 ガーズィの息子オスマン・ガーズィもビザンチン帝国相手に短期間で勝利を挙げ領土を増やし名声は高まっていった。これをしたって勇気ある若者が結集していった。1299年にはセルジューク朝のスルタンから独立の徴として旗を受け取るという形でその支配下から離れて一国をなした。これがオスマン朝であり。その名はオスマン・ガーズィすなわち、オスマン1世(在位1299~1326)に由来する。

 こうしては、 彼はトルコ民族の建てた国のなかで最も長く栄えることになるオスマン朝の創始者となったのである。現在ブルサのオスマン・ガーズィ廟に眠っている。なお。彼にはまだトゥーラ(オスマン朝スルタンの花押)はなかった。したがって廟を見てもトゥーラはない。

 ◆2代 オルハン(1326~62)

 オルハンは父の方針に忠実であり、かつ人望のある人物だった。かれは、わずかな間にアナトリアのブルサを手に入れ首都とした。他にもイズニク・ヘレケ・ムダニア・ゲムリクなどマルマラ海に臨む都市も次々と陥落させた。
 それをみてビザンチンの皇帝は娘を彼に嫁がせ友好関係を結んだほどである。オルハンがなくなった年、オスマン朝はアンカラも領土に加えた。
 帝国の組織作りを含めてしっかりとした下地作りがなされた。


 ◆3代 ムラト1世(1362~89)

 ムラト(ムラード)1世はバルカンへも進出し、これはキリスト教徒を結集させることになる。セルビアが進軍してくるとエディルネ近郊でトルコ軍はこれに大勝した。彼の時代に首都をエディルネに移し、またイェニチェリという常備軍を創設した。
 
 また、バルカンのキリスト教徒が結集したコソボの戦いでは辛勝した。この戦いではトルコ軍は初めて砲兵隊を使って勝っている。しかし、ムラト1世はこの後一人のセルビア人によって殺害された。


 ◆4代 ユルドゥルム(稲妻)・バヤジット(1389~1402)
  
  かれは父祖の望んだとうり、まずアナトリアを統一するために果敢に挑んでいき、ユーフラテス川まで及ぶアナトリア統一をほぼ成し遂げた。
 彼の勇敢なる戦いぶりは稲妻(ユルドゥルム)とあだ名され、以後ユルドゥルムと呼ばれる。
しかし、むやみに戦うばかりではなかったようで、このアナトリア制服においても彼は戦争のほかに領土をお金を出して買い取ることや、諸侯の娘と積極的に結婚し、その持参金として都市を受け取るという方法も使ったという。
 またこれ以後の帝国の経済基盤のもととなった税のしくみを整えたのも彼である。

 こうしてアナトリアを征服したバヤジットはビザンチンの首都コンスタンティノープルを目指した。そして、このときアナドル・ヒサールを建築(1390年頃)して、首都攻めのための城としたのである。

 このときビザンチン皇帝はもちろんローマ教皇も慌てふためき、十字軍を結集する。ハンガリー王ジギスムントとドナウ川岸のニコポリスの要塞で雌雄を決し、十字軍は全滅した。こうしてバルカンの従属は決まり、残すところはビザンチンへの総攻撃だけだった。

ティムールが攻めてきた(アンカラの戦い 
 ところがここにサマルカンドを首都にして帝国を作り上げていたティムール・ハンがアナトリアへ出撃してきた。アナトリアでバヤズィットに敗れて土地を失った諸侯が中央アジアまで行ってティムールの援助を求めたからであった。
  当初互いに戦う気はなかったというが、この時代が、そして周囲がそれを赦さなかった。使節を互いに送りあいながら対に意見の一致ができず、1402年に東西の雄は決戦に至った。このとき、バヤズィットを驚かせたのはティムール軍の操る””部隊だったと伝えられている。この時の戦いでバヤズィットはついに捕虜となる。
 ティムールはこの土地に執着することなく中央アジアに帰ってしまったが、アナトリアは混乱を極めた。バヤズィットがなくなり、息子らが争い、また諸侯が争う時となった。

 ★このときのティムールは領土欲があったわけでもない。チンギス・ハーンを意識した大遠征だったのかもしれない。
 東西の雄はいずれもトルコ民族であり、互いにつぶしあいをしたことは、キリスト教徒側、ビザンチン側などに幸いした。中央アジアの覇者が西に興味を持ったばかりに、稲妻とまで称されたバヤズィットが倒され、オスマンに半世紀にも及ぶ停滞をもたらしたのはなんとも皮肉なことである。

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by miriyun | 2008-06-09 10:27 | トルコ | Comments(2)
2008年 06月 08日

オスマンの『華』

トプカプ宮殿において往時の文化隆盛を感じさせるものは、タイルばかりではない。

 人々がガイドの解説を受けながら壁のタイルばかりを見て通り過ぎてしまう廊下。その廊下の天井にそれはあった。

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 トプカプ宮殿のハーレムの廊下。天井画。デザインのみを取り出し、周辺部を彩色した。枠の中は無修正である。

 このオスマンの花々は見過ごすには惜しい、まことのオスマンの『 華 』であると思う。
まずは中心部につんとしたオスマンの古典的チューリップデザイン、5弁の星のごとき小さな花々、ザクロのように先端がとびでた花、カーネーション、そして上下に水仙が置かれている。

 黒ずんでいるのは金彩がはがれたためだろう。つまりこれは彩色画ではなく文様の周りを金彩した大きな天井画が、しかも廊下にこの文様が連続してある。白い花部分を彩色したい気持ちにされるだろうが、天井であるために金彩のみにして重苦しくならないようになっている。

 技術的には茎の細さと花の勢いにたしかな技量が見える。


 オスマン朝の寵姫たちの行き交うさまを見続けてきた花々が、今も天井でさりげなく咲いている。

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by miriyun | 2008-06-08 07:45 | トルコ | Comments(4)
2008年 05月 13日

アヤ・ソフィアの透かし彫り

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それぞれ、アヤ・ソフィアの1階と2階から見たもの。ミフラーブに向かって左側に位置する。
部屋ごと透かし彫りをめぐらせて文様が美しい。

 これはスルタンの座として作られたものである。スルタンの御座所(ロッジ)は、もともとは後陣に位置していたという。
 Gaspere Fossatiが、1847年に新たに設計し、後陣と照らし合わせて置き換えた。公衆の目にされることなく、儀式に参列するためであり、また暗殺者などからスルタンを保護するためにもであった。
 透かし彫りのグリルは大理石で、ロココ様式の彫りがなされている。それを支える列柱は、ビザンチン様式の形を踏襲している。

 
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by miriyun | 2008-05-13 07:13 | トルコ | Comments(2)
2008年 05月 10日

夜明けのアヤソフィア

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――――夜明けのアヤソフィアを西から望む。
後付けの塔(ミナーレ)は4本。時代が異なるのでデザインもまちまちである。その中にはスィナン(シナン)が手がけた塔もある。なお、手前に見える塔はとなりにあるモスクのもの。決して小さくはないはずだが、アヤソフィアに近いため小さく見えてしまう。
 
   ☆キリスト教聖堂としての1000年
 
        モスクとしての500年
 
              博物館としての70年

    ・・・・・・その存在そのものが歴史を物語る
            その圧倒的な存在感は今なお生きている

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by miriyun | 2008-05-10 00:39 | 写真館 | Comments(8)