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2009年 02月 28日

ミニアチュール閑話*虫歯

 バザールを歩けば、カリグラフィーや細密画にあたる。とくに細密画は、イスラームでとくに発達していた科学や医学・薬学の分野を図示するのに大切な手段とされた。
 したがって、かなりそういった内容の絵が博物館には残されていて、物語の有名なワンシーンよりもおもしろかったりする。
 伝統の文化が背景にある国は、トルコのバザールの品にもそれを写したようなものを簡単に見出すことができる。

 そんな中から、
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 昔も今も、虫歯といえばこのイメージか?日本ではバイキン君が槍で歯をつつく姿がかっての虫歯のイメージであった。イスラーム地域でも同じようなイメージかとほほえましく思っていたら、よくよく見ると歯の中のあやしいものはバイキン君より、ずっとグロテスクな絵だった。このくらいにしないと虫歯の怖さがわからないのかも~。

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 そして、歯医者さん。
道具は、火おこしの弓とツルのように中心部がくるくると回るようになっている。先端部をどのようにするのか歯を治療するために穴を開けているように見える。開けたあとどうするのか、あまり想像したくない・・・。

 どこの国でも必要とされる歯医者であるが、ダマスカス・バグダッド・カイロ・イスタンブールと続く繁栄した都市ではたくさんの食材とともに砂糖やハチミツも早くからたっぷりと流通し、そしてバクラバやシャーベットのような甘味デザートが好まれた。
 アルコールを飲まないイスラームであるから、尚更甘いものにお茶があったのだろう。気候的なものもあるかもしれない。(日本人でも、乾燥したこれらの地域に行くと甘いお茶がとてもおいしく感じられる。)

 こういった地域では、他より早くから虫歯への注意や歯医者が必要となったかもしれない。


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by miriyun | 2009-02-28 15:35 | トルコ | Comments(4)
2009年 02月 27日

ムスタファ3世のトゥーラと生涯 

 儀礼の門の上にはマフムト2世のトゥーラがあったが、その下にも金の文字で緑の装飾枠のトゥーラがある。門の下なので、ちょっと見た感じでは、同じマフムト2世か、あるいはそれよりも後の時代のスルタンの花押かと思っていた。
 ところが、読んでみると予想とは違った。

1.トゥーラを読もう

◆右の掲額
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 これは、ムスタファ3世(Mustafa Ⅲ)のトゥーラであった。
ムスタファ・ハーン・ビン・アフメト・アル・ムザッファルダーイマとある。
意味は、「永遠の勝利者、アフメトの息子であるスルタン・ムスタファ」といったところ。

◆左の掲額
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 下の文章部分と、トゥーラの中の花飾りは異なるものの、トゥーラはムスタファ3世で、右のものと変わらない。
 
 ◇また、こののトゥーラ部分と、下のナスタリーク書体の部分はよくよく見ると別々に作っている。周辺の装飾枠に入っている文様が上下で微妙に異なっている。同じときに異なる職人が分けて作ったか、のちの時代に付け足したのかはわからないが、文様を考えない接合の仕方からすると別の時代である可能性も強い。
 一見美しさと豪奢さがいっぱいのトプカプ宮殿は、このように、つけたし・修復・改造の段階では案外おおざっぱなことをやっている部分もあり、見ていて違和感を感じてしまうこともある。

2.ムスタファ3世の生涯

 ムスタファ3世(在位は1757~1774)は23代アフメト3世の息子である。母はフランス人だったといわれる。父の時代が終わったとき、ムスタファ(3世)は13歳であった。1730年、22代スルタンのムスタファ2世の息子たちが24代・25代を継ぐ。そのあいだ、ムスタファ(3世)は、宮殿内で幽閉されていた。(当時、オスマン朝はそういう習慣だったという。他の皇子をすべて殺してしまう時代もあった)
 25代に跡継ぎがなく、その死去にともない幽閉先から出されたムスタファ3世が、40歳で26代スルタンとなった。

 開明君主で、列強に立ち遅れたオスマンの軍隊や国の制度の近代化を推し進めようとしたが、イェニチェリなどの抵抗を受けていた。衰退著しいオスマンを何とか立ち行くようにと努力した。イスラムの歴史研究を自ら行なうとともに科学アカデミーなども創設した。慈悲深く、イスタンブールに大地震が起きた時は自らの財産をもって救済したといわれる。
 軍事において武器もしくみも列強に大きく立ち遅れた現状をしっかりと認識していたので、できるだけ戦争を回避していたが、ロシアの侵入にたいして軍備の不利を承知で戦わざるを得ず、その中で病死した。

 衰退がはじまっていたオスマン朝で本気で軍隊の改革に乗り出したが、それができぬまま戦場で亡くなったスルタンの悲劇であった。

3.二人のスルタンのトゥーラ
 
  ムスタファ3世のトゥーラの上に、自分のトゥーラを飾らせたマフムト2世。前回、書いたようにマフムト2世は啓蒙的専制君主で、軍隊改革の中で、とうとうイェニチェリを全廃したのだった。
 マフムト2世は4代も前のムスタファ3世のイェニチェリ改革のやりかけた仕事を知り、それをやり遂げた自分の名とともにこの掲額があるのがふさわしいと考えた・・・ともいえるのではないだろうか。

 ・・・・・・・二人のスルタンのトゥーラから歴史を垣間見た。

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by miriyun | 2009-02-27 23:36 | トルコ | Comments(0)
2009年 02月 23日

儀礼の門のトゥーラ

 オスマン朝のスルタンの花押にあたるトゥーラの美しさに魅せられて写真を撮り集めたままになっている。時間がたつとなんと読んだのかさえ忘れてしまいそうなので少しづつ載せていくことにしよう。

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  ここはオスマンのスルタン、メフメット2世からドルマバフチェに移るまで使っていたトプカプ宮殿の儀礼の門の入口の上にあるトゥーラ。
 マフムト・ハーン・ビン・アブドュルハミド・アル・ムザッファルダーイマと読む。
これは、マフムト2世をさす。

マフムト2世(Mahumd Ⅱ)とは              
◆マフムト2世は1808~1839年在位のオスマン朝の30代スルタンで啓蒙的専制君主であった。
 大宰相の権力削減やイエニチェリの全廃と西欧式軍隊の編成、教育・郵便・検疫制度の導入など一連の改革によって18世紀以来失われていたスルタンの中央集権的支配力を回復した。
 しかし、バルカンの諸民族の蜂起とロシアの干渉に苦しみ、またその政策の強引さはアナトリアの民衆の不満を増大させた。
 1838年にイギリスと結んだ通商条約はオスマン朝の関税自主権を失わせ、この後のオスマンの半植民地化への道となっていった。

 *この辺の歴史は日本の幕末から明治への道と重なっていることが多く、政治を行なうリーダーにも庶民にも大変な時だったんだろうな~と、思わず気持ちが入ってしまう。

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 コーランの語句をいただき、その下に自らの花押をおいていた。
 なお、このトゥーラの飾りの中の数字が一つ失われているように見える(あるいはこの頃の表現で省略する習慣があったかどうか?・・・)。230という数字が見られるが、実際は1230であろう。
 イスラーム暦1230年は西暦では1814~1815にあたり、マフムト2世がこの門を修復したのがこの年だということができる。 


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by miriyun | 2009-02-23 01:28 | トルコ | Comments(10)
2008年 07月 20日

ウルバンの巨砲

 ウルバンというハンガリー人がいた。かれは自分の大砲についての斬新なアイディアを持って、最初ビザンチン帝国を訪れた。規格外の大きな大砲の話で現実味がなかったので追い返した。
 するとウルバンはトルコのスルタンメフメット2世のもとに出かけていって自説をとうとうとしゃべった。スルタンの家臣たちは乗り気がない話であったが、スルタンだけが興味を示した。これが1542年のことであった。

 スルタンはこの人物の到来をきっかけに、巨大な大砲をもって鉄壁を誇る三重のテオドシウスの城壁を攻める決心をしたようだ。
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 この大砲はエディルネ(当時のオスマン朝の首都)で製造され、長さは8mを超え、16,8tもあるため、砲身だけでも2つに分離して運び、布陣する時に2つをソケットをはめ込みねじで連結するというものであった。


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ポーツマス王立兵器庫保管の青銅のウルバン砲                      
 ←(Wikipedia 日本語版よりpublic domain画像を引用)



実物をこのように見ることができて嬉しい。

 しかし、イギリスにはなぜか世界中のものが集まっている。大英帝国時代の遺産であるのか、その収集方法はともかく、その徹底した収集ぶりには驚かされる。
 


 小さい大砲は逆茂木を立ててそこに立てかけて打つことも可能であったがウルバン砲は台座をしっかりと組んでつくっておかなければならなかった。
 その砲台と共に動かすのに30頭の牛が左右に分かれてすすんでようやく動く。(この重さを牛で運んだ経験は、後に船の丘越えに生かされている。)

 砲身が巨大であれば、石弾も巨大であり重さも500kgに達した。これを1600m飛ばすことができたという。
 1543年4月12日に、この大砲はつかわれはじめた。大きすぎるため、熱もこもりさめてから使わなければ砲身が破壊される。発射の反動で土台からずれることもあって、一日に7発しか発射できなかったとういう。20km先まで届く轟音がこの日から続くことになった。

 こわされれば、直す・・当然であるが城の攻防は、自分たちの命がかかっている。砲撃がやむとビザンチン側は必死の修復作業で寝る時間を削ってでも翌朝までに修復をしなければならなかった。
 この修復作業がよくおこなわれたことと、三重の城壁はやはり強固であり、ウルバンの巨砲ありといえど落とすことはたやすいことではなかったのである。

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by miriyun | 2008-07-20 10:02 | トルコ | Comments(6)
2008年 07月 19日

浮橋作戦

コンスタンティノープルは終焉に向かっていた。 

 トルコ艦隊の丘越えによって、ビザンチン側の将兵はこの世の終わりかと思った。だがしばらくして彼らは感じ始めた。数だけは多いものの海戦に慣れていないトルコ側が金角湾の内部にいるというだけであって、すぐには海戦を得意とする大型のジェノバ船には戦いを挑んでこないだろうと・・・。

 だが、金角湾のおくに70隻の艦隊を送り込むことに成功したメフメット2世はもう次を考えている。
 艦隊が金角湾に入ったのであるから、金角湾の北側(現在の新市街)にじんどっていたサガノス・パシャの15,000の軍勢はここに留め置く必要はなくなる。かといってはるかに北まで遡り金角湾の角の先まで行って現在の旧市街側に来るには時間がかかりすぎる。 合戦の時にそれでは戦況に対応できないこともある。

 そこで、またテオドシウスの城壁から見ていたビザンチン側の城兵は目を見張る。時は1543年4月末、艦隊の丘越えから、まだ一週間あまりだった。
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                            (上は博物館の地図に解説を加えたもの)
 突然金角湾の奥に浮橋がつくられ始めた。それは樽をつないで浮かした上にきっちりと板を渡していくという古典的手法である。地図中では狭く見えるが500mはある。2列の樽を等間隔で並べその上に板を渡した。しかし、斬新なのはところどころに張り出させた広い台が設置されているところだ。
 そして出来上がるとその台の上に何と大砲が城壁に向けて設置されていったのである。まさしくそれは 樽の上のお台場であった。
 (注)お台場とは、砲台を設置した場所のことを言う。東京のお台場は現在は大きな計画都市となっているが、ここは幕末の諸外国の驚異に対して江戸の防衛のために埋立地に作った大砲の設置場所であり、そのためにお台場といわれるようになった。

 もっとも浮橋の上の大砲がどれほどの命中率があったかは疑わしい。ここに設置した大砲は小さいほうであるがそれでも大砲を撃ったときの反動があったはずである。
 だが、ビザンチン側からすればここからも打たれてしまうという衝撃のほうが実際の砲弾よりも影響したであろう。

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(これまでの話は下のtag「コンスタンティノープルの陥落をご覧ください。)

by miriyun | 2008-07-19 11:14 | Comments(4)
2008年 07月 02日

ボスポラス海峡トンネルの位置

ボスポラス海峡トンネルの工事について映像を見るに及んでますますこの海峡トンネルについて気になってきた。ここの工事は、大成建設が1023億円で入札したという。

 この海底トンネルの位置がどこなのか、地図で表してみる。
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 黄色の線がヨーロッパ側の地上の駅から、アジア側の地上の駅を結ぶ地下トンネルと鉄道予定地である。

 地下トンネル・海底トンネル総延長13.6kmで、ことに今回見ているのが海底トンネル部分は1.4kmの沈埋トンネルをつくる。
 現在、トラムで西から金角湾方面にすすむと、エミノニュに至るが、その一つ手前の駅はスィルケジ駅という。国鉄の終点でもあるが古い鉄道で今現在は重視されていない。
 しかし、ここの地下数十mのところにスィルケジ地下駅ができ、そこから西北西に向けて海底トンネルがつくられつつある。

昔からあるクズ塔という城塞跡が海の中に灯台のような塔として存在するが、その塔の少し北を通る。これが目安となる。そして地下トンネルはアジアのユスキュダルへとつづく。

 青い線は、ボスポラス海峡からマルマラ海にかけて影響の大きい川のような潮流である。
 
 この潮流を施工会社である大成建設は細かい調査をしたようだ。
 なんと!
 ボスポラス海峡トンネル位置の潮流は二層になっており、上下で動きが違うということがわかったのだ。上部の潮流は秒速2mで動いている。そして海底に近いところには逆向きの潮流が秒速1mで動く。そんな難所だったのだ。
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    ↑二つの穴が通った巨大な管を沈めてはつないでいく。(写真はNHKTV沸騰都市より引用)

☆だからこそ、海底を掘削し、1幅15.3m。高さ8m、長さ135mにも及ぶf管を沈ませてつないでいく工法になったのである。 そしてそのままでは不安定な管を埋めてしまう。これによって、埋設といういいかたをしている。
 ( 参考:土木学会岩盤力学委員会ニューズレターNo,7 執筆大成建設)


想像以上の壮大な計画であり、陸路はやはりモグラのように掘りながらすすむシールドマシーンで掘削しながら、海底のは上記のような方法で沈めてから埋設する。
 そこに鉄道が通り国鉄も一新する。
すると、郷愁のオリエントエクスプレスではなく、ユーラシアの経済の大動脈としてのオリエントエクスプレスが通ることになる・・・。

    21世紀、イスタンブルは変わっていく。
         イスタンブルに別の意味が加わっていく。
                                                           
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by miriyun | 2008-07-02 02:05 | Comments(8)
2008年 06月 29日

ボスポラス海峡トンネル…アジアとヨーロッパをつなぐ

 ファーティフ・メフメット2世が、イスタンブル攻略の最初の拠点としてまず作ったのがルメリ・ヒサールであった。
 ◆ファーティフ・メフメット大橋
 1988年、そこにアジア側とヨーロッパ側を結ぶ2番目の橋が通った。名前はもちろん、トルコ人が敬愛する名をとり、ファーティフ・メフメット大橋となっている。前長1510mの巨大なつり橋には日本の橋作りの技術が惜しみなく使われた。
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 ◆ボスポラス大橋
 さらに旧市街に近いボスポラス大橋から2つの大陸を眺めてみよう。
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・正面――ヨーロッパ側の旧市街だが、最もオスマンの偉業が残り、伝統と歴史が色濃く残るところである。
・右――ヨーロッパ側の新市街、スルタンの近世に於ける近代的宮殿と新しい街があるところで、旧市街とは金角湾で隔てられている。
・左――アジア側で、トルコ半島そのものである。
 なお、この橋も耐震工事などで1999年に日本が補強をおこなっている。

 2本の橋によって現在二つの地域はつながってはいる。しかし、発展するイスタンブルの拡大にこの橋だけで十分な物流は不可能であり、押し合いへしあいの大型船から小船までがいきかい、事故が起きて当然という混みようである。

 EUへの参加と全面的な貿易の拡大をめざすトルコ、まだ難問は山済みとはいえ、いつかEUへという息ごみはますます盛んになりつつある。

 ◆ボスポラス海峡トンネル
 そこで、日本の企業,大成建設が請け負って進めているのがボスポラス海峡トンネルである。トンネルが完成すればアジアとヨーロッパをつなぐ大動脈となる。

・・・と、ここまでは原稿を用意していたが、その後の進捗状況がわからない。すると今夜のNHKでちょうどその場面が出てきたので、具体的な数字を聞き取り、それを参考にまとめる。
 
① 日本の建設会社の技術をしても難しい海
 深さ60m、60気圧の海水、さらに、ボスポラス海峡は潮流が激しい。
 
 *コンスタンティノープルの陥落で書いたように、1453年の攻防においても、この海峡からの潮流が激しいため、この潮流がまっすぐに当ってくるマルマラ海側の城壁はほとんど攻められる心配をしていなかった。だからわずかな兵で見張るだけですんでいた。 
 その潮流の速さは時速10kmと川に匹敵する速さで、船や重機から作業をしようとしてもみな流されてしまう世界有数の難所なのであった。

 ② それでもつくる
 「技術者冥利に尽きる」とインタビューを受けていたエンジニアが答えていたが、これは日本人として本当に頼もしい。考え、生み出し、不可能を可能にする力。これこそが日本が持つ最大の資源かもしれない。

 ③ 135mの管をつなぐ
  関門海峡やドーバー海峡では、巨大モグラのような穴掘り機が活躍したが、ここではできない。なんと、巨大な管を沈めてそれをつなぐという構想だ。
 それも一本の長さは135mの管・・・そんな化け物のような管を作る、それを11本つなげて1つのトンネルを作るという。
 *これには人がやらないことこそを考えたメフメット2世も天国でたまげているかもしれない。

 激しい潮流のなか、じわじわと管を下ろしていく。18000tの管が海峡に届く
ダイバーがもぐって前の管と接合できたかを確かめる。ずれが1cm以上あればやり直しというが、計ったらわずか数mmだった。たいした技術だ。


 ④ ヨーロッパとイスラームがつながる
 完成は2009年5月の予定であるという。しかもあと残すところ500m、残す3本の管をおろしつないでいくのだ。
 もう、完成は見えてきた。このトンネルには鉄道が通る。物流は一躍改善される予定だ。

 とうとうアジアとヨーロッパはここイスタンブルで確実につながろうとしている。
                      (数字についてはNHK「沸騰都市」より主に引用した。)


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by miriyun | 2008-06-29 23:06 | Comments(4)
2008年 06月 22日

船が丘を越える(2)

 船頭多くして山に登る・・・ということわざがある。
大勢で好き勝手なことをいってまとまらないと、できっこない方向に行ってしまうという意味で使われるのであって、船が山に登るというのは、「ありえないこと」の代表的例えとして用いられている。

 しかし、メフメット2世にとってありえないことではなくて、やろうと思うことはやるという考え方であった。このことだけでコンスタンティノープルを陥落できたわけではないのだが、味方にとっても、敵にとっても心理的影響ははかり知れないものがあったであろう。

 このときの様子がタイルアートとなってイスタンブルにある。現代作家の手によるものであろうが、さすがにタイルの国である。
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 横幅数mの大作品であり、また、北側から南に位置するガラタ塔方面を見渡したものである。艦隊の丘越えをイメージングしたアートとしてよくできている。

一方、南から北をみると、
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 ジェノヴァ人居住地はその後城壁はなくなったが、ガラタの塔は昔と同じ位置にある。
 鉄鎖で封鎖していた金角湾入口方面から北を望むとガラタの塔と町並みは見えるが、その背後で大工事がおこなわれ、前代未聞の艦隊の丘越えがおこなわれているとは誰が想像しよう。

絵地図タイルアートで見ると次のようになる。
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  (絵地図であるため、岬の位置や距離感は正確ではない。城壁と街の雰囲気とおおよその位置関係を見るにとどめよう。丘越えのイメージラインはmiriyunが記入した) 

 唯一の可能性は、中立を表明していたジェノヴァ居住区の城壁の見張りである。いくら、鎖のあたりで砲撃がおこなわれ、トルコの軍楽隊が大音量をたてていても、全く気付かないというのも不自然だ。
 中立であるということと、スルタンの怒りがこの町に向くことへの恐れがビザンチン側への注進をとどまらせたと考えたほうが理にかなう。

 ≪注≫このとき、ジェノヴァ居住区はあまりにも無防備でスルタンの一声で全滅する可能性のあるところなので中立を表明、スルタンに挨拶しつつ薄氷を踏む生活をしていた。一方、ジェノヴァ本国はビザンチン帝国の危機にたいして船と人員を派遣して皇帝コンスタンティヌス11世を援助していた。
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                ↑ 赤はビザンチン・ジェノヴァの艦隊
                   紫はトルコ艦隊
 こうして、70隻を越えるオスマン艦隊が金角湾に半日で滑り込んだ。地図を見るとわかるようにこれによって、海での形勢は逆転。ビザンチン・ジェノヴァ船はトルコ艦隊に挟まれた形となったのであり、いつでもトルコ側はこれを倒せるという優位にたつことになった。

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by miriyun | 2008-06-22 09:54 | トルコ | Comments(4)
2008年 06月 21日

船は丘を越える(1)

◆メフメット2世は屈辱に震えた ・・・1543年4月20日のコンスタンティノープル包囲中の海戦の結果である。
 彼は寝もやらず考えた。金角湾を鎖で封鎖されている劣勢、操船技術が敵にかなわない劣勢、これらを何とか挽回しなければ全体の士気にも関わる。
 
◆明くる、4月21日・・・ メフメット2世は、早朝から指令を出していた。
 ジェノヴァ人居住地の城壁の東側に各部隊を集めて、ふだんも使っていた城壁の外側にある道を幅を広め、かたく地ならしをさせた。兵士たちには何のためかはわからない。部隊ごとに分担しての地ならしで、競争するかのように作業をしていくので早い。地ならしが終わるとその上に木材を並べていった。

◆4月22日 艦隊は丘を越える?!

 ① 動物の脂
 坂を上る道に敷き詰められた材木には動物の脂をどっぷりと塗る。
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           ↑
② 台車に押し上げる
 車輪つきのそりのような台が一対用意され、ボスポラス海峡に集まったトルコの船をその上に押し上げる。そして台車と縛り付ける。

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③ 牛は引く、兵士は押す 
 台車に載せられた船は道の左右に数十頭ずつ分かれた牛によって引かれていく。後からも人の手によって押されていく。白馬にまたがり指示をしているのはメフメット2世。21歳なのにこのおじさん顔は威厳を表すためだろうか。

④ 目くらましの砲撃と軍楽 この間ビザンティン側の目をそらすために金角湾の鎖のあたりで激しく砲撃を加えた。すべてのビザンチンの船は鎖を守る体制をとっていた。

 こうして、見る人々が唖然とする中、メフメット2世は当然のごとく顔色も変えずに采配をふるっていった。

 現在でもガラタの塔に行くだけでもけっこうな坂であるし、海辺から車でタクシム広場に向かってもかなりな坂を上っていかなければならない。最も高いところは海抜60mのところであった。だれがここを船を登らせようと考えるだろう。しかも一艘・二艘ではなかった。七十艘を越える艦隊を超えさせようというのだ。

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 丘を上りつめるとあとは下りになる。そうなればわずかに押すだけで滑っていく。そして、これまでラテン人の強固な守りで一隻も侵入できなかった金角湾の奥に、次々と70隻の船がすべり進水していくのであった。
 テオドシウスの城壁で守りに付いていたビザンチン側の人々は声もでなかった。浸水した船はすぐに周りを囲み、防御の陣をはり、次にやってくる船を守った。しかし、その必要もないくらい、ビザンチン側はあまりの事実に驚愕し、目の前の事実を信じられず、呆然とするのみであった。

~~☆~~~☆~~~☆~~~☆
 艦隊の丘越えはメフメット2世でなければ考えないし、実現しなかったのではないかと思う。

 海戦での屈辱から、すばやい決断と迷いのない指令と無駄のない工事、さらに一糸乱れず、20万人近い軍勢を働かせる統率力・・・これが21歳のスルタンのなせることなのか、少なくとも、彼は少年時代からの経験で身体は21歳でも、精神面は実年齢とはかけ離れていたのだろう。

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by miriyun | 2008-06-21 14:25 | トルコ | Comments(6)
2008年 06月 19日

メフメット2世の教科書

 メフメット2世は苦しい少年スルタン時代、不遇で荒れた時代、征服欲に燃えて躍進した時代とあり、19歳からは誰一人として逆らえないような力を持った。
 驕慢で自己満足に陥ってしまいそうな年齢と権力であったが、彼がいつも冷静に学ぶ気持ちや、アレクサンドロスやカエサルなどの人物をめざしていたことは、自分なりの基準を持ち続けたということが言える。

 歴史はローマ帝国史などを毎日、自分のためによませたというし、また彼のための教科書も作製されていた。
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そしてその一部をじっと見ると・・・
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 左上の円形の中にメフメット2世のトゥーラが入っている。これはメフメット2世のための数学の教科書であり、15世紀の工芸品としてもさすがにうつくしい。
 また、権勢を極めたメフメット2世が常に学び続けたという点が、やはり違うんだなあと感じさせられた。

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by miriyun | 2008-06-19 07:10 | イスラームの工芸 | Comments(8)