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何の夢見る

木陰の本屋街   

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イスタンブール、グランドバザールで必ず行くところはここ。
バザールの屋根の下から外れて階段を数段上がると、
そこに本屋街がある。

喧騒から離れて、木陰 に並び立つ本屋街。
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他では見つからない書や本がある。

スルタンのトゥグラー集はオスマン帝国の歴史へと誘ってくれるだろう。
イマードの書があれば、書のリズミカルなラインで脳内が満たされるだろう。
ミマール・シィナン(シナン)の建築の特集本があったらそれをもとに、シナンの跡をたどる。

そんなことに気持ちがぐっと入っていく夢の空間。


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本を見ていたはずがこちらに目が行ってしまった~!

本に囲まれて木漏れ日の中で気持ち良さげに眠る、
タイル本の上に寝て、イスタンブルの見所と書に囲まれて

君の見る夢は何だろう・・・。


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by miriyun | 2015-11-09 06:56 | Comments(4)

客船の似合う街2 イスタンブル

1.乙女の塔    
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アジア側からトプカプ方面の乙女の塔をのぞむ。 

2.客船の似合う街2 

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ヨーロッパ側の新市街には、白い客船。

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船の名はセレブリティ・イクノス(Celebrity Equinox)。
12万トンの豪華客船だ。
以前紹介したクインエリザベスは横浜のベイブリッジをくぐるのに干潮時でないとくぐれず苦労していた。あのクイーンエリザベスは9万トン。
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世界の客船は、長足の進歩を遂げていて、横浜で大型客船を見られなくなっている間に
とんでもなく巨大化している。
イスタンブルでは金角湾などの狭い海峡以外は橋の拘束がないので、
どんなに大きな客船も次々とやってきて停泊する。

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by miriyun | 2015-11-08 12:15 | Comments(4)

客船の似合う街1 イスタンブル

客船の似合う街1   

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イスタンブルで海を眺めるとかなりの頻度で客船が目に入る。
巨大なビルのような豪華船客船も軽快な小型フェリーも定期航路のフェリーも、
なんともこの街の風景にしっくりとなじんでしまう。

行き交う小舟にも豪華客船にも
等しく見渡せる素晴らしい景観がここにはある。


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左からブルーモスク・アヤソフィア・トプカプ宮殿

上の写真は一部で、実はもっと続いている。
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    ↑(写真の上でワンクリックすると大きい写真で確認できます。もうワンクリックで元に戻ります。)

上の3つが続いた先には、さらに丘陵に沿って段差のある4本の塔のスレイマニエモスクが続く。


海から見ただけで絵になる街、イスタンブールよ!


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by miriyun | 2015-11-08 11:56 | Comments(2)

ハセキ・ヒュッレム・ハマムに見る修復の結果

1.新旧  
 イスタンブールの新旧比べ。
誰からも振りかえられずにいたハセキ・ヒュッレム・スルタンハマムが気になったのが2007年だった。

 
 自分ではそのさびれた写真しかないので、きれいになったハマムを撮ってきた。

では新旧比較を!
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 ヒュッレム(トルコの歴史ドラマ『壮大なる世紀*Muhteşem Yüzyıl』の主人公の一人)の名があるのだから気になっていたが、何しろ建物が汚い。このように煤まみれになっていたら、何十万にもやってくるアヤソフィアとスルタンアフメットモスク(ブルーモスク)の間にあるよと言っても気付かれないのではないかと思うくらいさびれていた。

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それが現在では、入り口の前には野外カフェ(ハマムの利用者がここで食事ができる)のようになっているし、かって煤まみれになっていた痕跡は探せない。上の写真と比べれば、落とし切れなかった煤汚れは若干あるだろうが・・。 

 1556年の歴史遺産であるから基本的なデザインは変えていない。ただ、建物が何であるかは以前は入り口の上に釣り下がっていたプラスチックボードに小さく見えにくい色で書いてあるだけだった。
 今は外側のアーチの下にぴたりと嵌め込んだ看板がついていた。
窓の木枠は白く塗っている部分もあったがそれを茶色にした。外の白い円柱もお化粧直しし。特に金の輪がはいり、玄関上の金箔の上の文字と調和している。

 なぜ、こんなに汚くなっていたのかは過去記事→ヒュッレムのハマム…風呂の話(7)
               

2.ミマール・スィナンの残したハマムがよみがえった。 

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 男女用有るので左右対称型に連なる大がかりなハマム。
トルコを知る人なら必ず目にするミマール・スィナンの名前。彼はスルタンの信頼を得た建築デザイナーであり、エンジニアであり現場監督でもあった。彼はスルタンの戦争に必要なものからハマムまでつくり続けた。98歳まで。驚異的な人物である。有名なモスクだけでなくちょっとしたところにも彼の遺作が残っている。まあ、よほど時間がないとまわれないので、自分でもいつそれらを見て回れるのだろうか、98まで見て回れるのだろうか(笑)

 *自分はとても自信がないが、毎回旅をする中で日本の戦中戦後をまたいできた人たちの強さに感嘆する。今回も80歳をゆうに超えているような杖を突いた男性の方が、洞窟の岩絵を見るような上り下りが急なところまで見て回っていたのに驚く。

◆ハマムの左右対称になっている全体像を撮ろううと思った。
 
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わ~ぉ、噴水で見えなくなった。
この噴水も変わっていた。もともと大きな噴水のある池ではあったが。これではない普通に地味な作りの池だった。しかし、現在はデザインされた地色が入り、ヘリにはライトアップ用のライトが埋め込まれている。池の周廻りの壁面は外側が斜めになっていて、そこにモザイクでイスタンブールの歴史遺産のある街並みを描いてあった。さらにその周りにアクリルの囲いもあって、モザイクの上にのってしまったり池には行ったりできないようになっていた。

人通りが多いが通路まで下がって全体像を
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 うん、美しい大小のドームがまっすぐに並んだ完全な左右対称だった。
間違えてはいけないのは、ミマール・スィナンは決してブルーモスクとアヤソフィアの真ん中に風呂をつくろうとしたわけではない。アヤソフィアがビザンチン時代につくられ、オスマントルコがそこをモスクに変え、トプカプをつくった。
 トプカプ宮殿から見て西に祈りの場であるアヤソフィアがあり、さらにその先にハマムはつくられた。ブルーモスクは17世紀に入ってから作られたのであるから、歴史的にはこのハマムの方が深いわけなのだ。


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by miriyun | 2015-09-05 16:03 | Comments(2)

水辺のアヤソフィア

夜の姿 

  ――アヤ・ソフィア

    ビザンチンの皇帝たちの思いを込めて建造し、
       メフメット2世が勝利した日にアッラーに感謝の祈りをささげ、
           アタチュルクはどの宗教の人も入ることができる博物館と位置付けた


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    長い歴史の重みを感じさせるアヤ・ソフィアの姿がそこにあった。


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by miriyun | 2012-11-14 06:11 | Comments(6)

ゲリボルの戦い…ケマル・アタチュルク(2)

第1次世界大戦の中東戦線
第1次世界大戦の中のトルコが関係する中東戦線は、日本ではあまり知られていない。一つはトルコがドイツと組んだことによりアラビア半島でハシミテ家のファイサル王子らが英国からの顧問T.E.ロレンスとともに起こすアラブ独立戦争がある。
 もう一つがダーダネルス海峡を攻め入らんとする英仏からの攻防戦、ゲリボルの戦いがある。


ゲリボルの戦い(ダーダネルス戦役・ガリポリの戦い)   

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                     ↑ ワンクリックすると大きい画像を見ることができます。

 トルコの地図を見ると、戦略をたてたくなるような地形をしている。

 トルコの要となるのは地中海からマルマラ海へと入るダーダネルス海峡、それと、マルマラ海から黒海へと向かうボスポラス海峡だ。この2つを制したらもうトルコは何もできない。いや、マルマラ海に入られた時点でのど元に敵の刃が迫った状態になる。
 左下のピンクのところがゲリボルでダーダネルスのイスタンブルへの海峡の出口にあたり、戦略上大事なところである。右奥のところにイスタンブル。イスタンブルはボスポラス海峡と金角湾とマルマラ海に面している。
城壁はあるものの大型大砲の時代になると、その射程内に軍艦が入るということは致命的なものになる。
 
◆陸・海・空3軍の総力を結集した大規模上陸作戦

 そして第1次世界大戦でこのダーダネルス海峡のゲリボルの高地を狙ったのがチャーチル(当時は海軍大臣)だった。1915年、連合国側の作戦が始まった。この高地をめぐって2度にわたる総力戦があり、最後は英仏も大軍を擁しての上陸作戦に出た 世界大戦での連合国の大規模上陸作戦としてはノルマンディー上陸作戦があるが、実はゲリボルの戦いが世界初の上陸作戦だった。

 オスマン軍は上陸先を予測し厳重に防御線を構築していた。その中でケマルは前線に自らたち、銃弾をかいくぐりながら奮闘し、ついには高地を先取し、英仏軍に撤退を決意させた。


 英仏連合軍は、当時すでに「ヨーロッパの病人」と呼ばれ末期症状であったオスマン帝国軍を軽んじて短期決戦を想定しての戦闘準備であった。しかし、オスマン帝国の予想外の頑強な抵抗にあって多大な損害を出して撤退、作戦は失敗に終わり、チャーチルはこのために失脚した。

 そして、この時、チャーチルをして甘く見過ぎたと後悔させた相手はケマル・パシャ・・・すなわちのちのケマル・アタチュルクなのだ。

 日本ではあまり知られていないがオスマントルコが新しく生まれ変わり、しかも植民地にされないために実に重要な戦いだったと言える。


オスマン帝国の崩壊とトルコ共和国の建国・大統領へ
 大戦でオスマン帝国が敗北し、その解体が決定された後、1919年5月19日、ムスタファ・ケマルが黒海沿岸のサムスン港に上陸。外部勢力に対する抵抗運動をここから始めていった。(ちなみにトルコでは、ケマルがサムスン港に上陸した5月19日を祖国解放戦争開始の記念日としている)

 抵抗運動の盛り上がりに驚いた連合軍が1920年、首都イスタンブルを占領すると、首都を脱出したオスマン帝国議会議員たちアンカラで大国民議会を開いた。彼らは大国民議会議長に選出されたムスタファ・ケマルを首班とするアンカラ政府を結成した。
 西からはギリシャ軍がアンカラに迫っていたが、ムスタファ・ケマルは自ら軍を率いてギリシャ軍をサカリヤ川の戦いで撃退した。

 1922年、、11月1日に大国民議会にスルタン制廃止を決議させ、更に1923年には総選挙を実施して議会の多数を自派で固め、10月29日に共和制を宣言して自らトルコ共和国初代大統領に就任した。

1926年には大統領暗殺未遂事件発覚を機に反対派を一斉に逮捕、政界から追放した。これにより、ムスタファ・ケマルは党首を務める共和人民党による議会の一党独裁体制を樹立した。
(この過程も、不思議とフランス革命の延長線上でナポレオンが暗殺未遂事件にあい、その後終身皇帝の座に選挙でなっていった過程と似ている)
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 独裁状態になったケマルは、急速にトルコの近代化を行った。

◆政教分離と欧化政策
 1928年、憲法からイスラムを国教と定める条文を削除し、トルコ語の表記についてもトルコ語と相性の良くないアラビア文字を廃止してラテン文字に改める文字改革を断行するなど、政治、社会、文化の改革を押し進めた。
 男性の帽子で宗教的とみなされていたターバンやトルコ帽(フェズ)は着用を禁止(女性のヴェール着用は禁じられなかったが、極めて好ましくないものとされた)され、スイス民法をほとんど直訳した新民法が採用されるなど、国民の私生活の西欧化も進められた。1934年には創姓法が施行されて、西欧諸国にならって国民全員が姓を持つよう義務付けられた。「父なるトルコ人」を意味するアタテュルクは、このときムスタファ・ケマルに対して大国民議会から贈られた姓である。
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 *文化財についても、政教分離は影響し、アヤソフィアはモスクとして使っていたのを、博物館として位置づけられた。そのおかげで、ビザンチン時代のキリストの絵柄のモザイクも、コーランの言葉を表したミフラーブも、私たちは今それらをいっぺんに見ることができるのだ。

 ◆ほとんどラテン文字で一部点が二つ付いたトルコ語独特の文字があるがほとんどがラテン文字であるため、地名なども読みやすいトルコ文字はアタチュルクの改革でおこなわれ、そのため文盲率はぐっと減ったという。かたやジャーミーに書かれた文字は一部のアラビア語を学習している人や書道をやっている人でないと読めないということもおきている。
 日本では、第二次世界大戦で敗北したときに、文学者や新聞社が漢字廃止論を唱え、また、連合国軍最高司令官総司令部によってよばれた教育視察団が学校教育における漢字弊害やローマ字の利便性を指摘された。漢字廃止はしなかったが、当用漢字などの制定に影響していった。


*エルトゥールル号の義捐金を届けたのち、日本語教師としてトルコに住みついた山田寅次郎は、敵国となってしまった第1次世界大戦のときは一時帰国したが、その後も長く日本とトルコの礎として働き、日本の中のトルコ大使館創設にも助力するなどして、90歳の生涯を全うした。

 また、エルトゥールル号が遭難した場所に建てられた石碑を天皇が手を合わせたことを知ったケマル・アタチュルクは串本町にトルコ式の慰霊碑を建てた。

 アジアの東の果ての国を西の果ての国が見詰めていた。
 今回、アタチュルクについて、とくに名前について押さえておきたいと書きはじめてみたが、
その中でも日本とのかかわりや、影響というものも見えてきた。

◆ケマル・アタチュルクの手法は一党独裁で自分が動きやすいよう、改革が通りやすいように合法的に積み上げているものだった。手法としては初期のカダフィー大佐などと近い面もある。

 もし、彼が100歳までも生きて、子孫が多く、一族で利権を支配したなら、今のようなトルコ国民の敬愛を一身に集める存在にはならなかっただろう。

 彼は、実子を持たず、戦争孤児を養子にした。
          そしてたった58歳で執務中に逝ってしまった。
しかも、それまでの病人のようなオスマン帝国からも先進国の支配からも抜け出させ、前進し、成功させた共和国を作っている最中に逝ってしまったのだった。

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by miriyun | 2012-11-11 15:20 | Comments(8)

ケマル・アタチュルク(1)

アタチュルクの日    
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このシンプルだが美しい剣は誰のものか。

一見、装飾から身分あるオスマンの重臣の持ち物のようにも見えるかもしれないが、くっきりと刻み込まれたトルコ共和国の国旗と同じ月と星の印がそれを否定する。

そう、これは
ケマル・アタチュルクの持ち物である。

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 11月10日はケマル・アタチュルクのなくなった日である。毎年11月10日はアタチュルクを追悼日とし、なくなった時刻である9時5分には空砲を鳴らし、一斉に1分間の黙とうをささげる。また、11月10日から1週間をアタチュルク週間として定めたりもしている。

◆アタチュルクはトルコ建国の父として世界史上名だたる人物である。
 晩年 ドルマバフチェ宮殿に執務室を構え、トルコ共和国の屋台骨のすべてを背負い、軍隊から義務教育普及のための地方まわまでり、忙しい生活を粗食と4~5時間の睡眠とラクとでのりきっていたアタチュルクは58歳という若さで執務中に脳卒中で倒れた。
 それが9時5分であり、そのため、トルコ建国の父である彼の敬愛するトルコでは、この宮殿のすべての時計を9時5分で止めたままにしてある。


彼の生い立ちから1938年11月10日に亡くなるまでを知ると実に才能あふれ、頑固なほどの信念とともに行動したユニークな人物として浮かび上がってくる。

彼の名前
彼の本名はムスタファであるが、学校時代に同じムスタファの名を持つ先生が素晴らしい数学的才能を持つ彼に幼年期の生徒を教える助手をやらせ、その時に同じムスタファ先生では困るので、ケマル(完全な)という名を与えたと言われている。

 公式に残っている名前では尉官までは、ムスタファ・ケマル・エフェンディ 、佐官時代は、ムスタファ・ケマル・ベイ 、将官時代 (1916年以降)は、ムスタファ・ケマル・パシャ、1921年9月19日以降は、ガーズィ・ムスタファ・ケマル・パシャ、1934年以降、ムスタファ・ケマル・アタチュルクと呼ばれた。

 なお、アラブと同じく、トルコも姓というものがない。生まれたときにつけられた個人名の後に親の名・祖父の名などをつけて認識しているにすぎないので、一人の人物が場面が異なると別の呼び方をされるなんて言うのは特別珍しいことではなかったのだ。
 なお、現在のアタチュルクは『トルコの父』という意味だ。

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彼の名前は、私たちがトルコに行ったときに最初にお目にかかることになる。アタチュルク・エアポートに航空機が降り立つからだ。


彼の才能
 彼の得意なのは数学と歴史で、他は得意でないのに、この2つについては群を抜いていたらしい。
(フフッ、かのナポレオンもそうだったのはあまりにも名高い事実である。)
やはり、数学ができるのは明晰に理論立てて先を考えられるのだろうか。

 普通の学校を嫌がったムスタファが選んだ道は自らの石で陸軍士官学校に入ること。なんと、正規の志願年齢よりも若い11歳で志願してしまった。
 
 数学的才能の他に、後にわかってくるのは語学的才能、
士官学校時代にドイツ語とフランス語、日本語まで学び、ドイツ語を喋り原語のフランス民権思想書を読み、片言の日本語と英語もできた。
 この日本語を学んだのは、エルトゥールル号難破事件後に、民間人でありながら奔走して義捐金を集め、トルコまでやってきた山田寅次郎が教えた士官たちの間に彼がいたことを、後のアタチュルクがいっており、山田の方がそれに驚かされたという。
 日本についてはトルコ全体として、エルトゥールル号以来親密な国として感ずるとともに、アジアの東の果ての国ながら、アジアで唯一近代国家としての返還の成功した国として意識的に見ていたようだ。とくに明治維新における数々の改革はケマル・アタチュルクの意識の中にこのころおさまったのであろう。

オスマン末期における動き
 灰色の目の眼光鋭いケマルは陸軍大学にいたころから将校としての時代に、「祖国と自由」を仲間とともに設立、後にサロニカで単独世それのマケドニア支部を作る。後にこれは青年トルコ党に吸収され、エンヴェルと出会い1909エンヴェルとともに反革命の暴動が起きたのを鎮圧し、暴動の責任を負ったアブデュルハミト2世は退位し、メフメット5世にその座を譲った。

◆若きリーダーの考え方の違い
エンヴェル・・・中央アジアからバルカンにいたるテュルク系諸民族をオスマン帝国の旗のもとに大統一するという汎トルコ主義の理想とし、汎イスラーム主義を唱えてイスラーム世界の団結を呼びかけ、イランや北アフリカで連合軍に対する抵抗を起こさせ洋ともしていた。
ケマル・アタチュルク・・・トルコ半島とトルコ民族で納める民族子㏍なお設立を理想とする。
このような違いのなか、ケマルはエンヴェルとは目指すものが異なるということで、結局袂を分かっていった。

 こうした中で、オスマン朝の弱体化、列強が国土を分割せんと圧力がかかってくる。まるで日本の幕末と同じような状態が出現するのである。実際のところは幕末と同じにいろいろな勢力が複雑に動いている時期なので、、こうしたときにこそ、下級武士が活躍し、ケマルやエンヴェルが出てくるのだった。。


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by miriyun | 2012-11-10 23:41 | Comments(4)

壮大なる世紀*スレイマンとヒュッレムをめぐる話

壮大なる世紀*Muhteşem Yüzyıl
 2011年初頭からトルコで人気の大河ドラマがある。第10代スレイマン大帝の時代の皇妃になったヒュッレムをヒロインとした話で、時代は最もオスマントルコが繁栄した時代であり、舞台はイスタンブルのトプカプ宮殿のハレムであるのだから面白くないわけがない。
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 題名をMuhteşem Yüzyıl、壮大なる世紀という。

◆大河ドラマの魅力
 それは何と言っても実在の人物で歴史に偉大な影響力を残した人物がごろごろ出てくるということだ。
スレイマンと言ったら、オスマン・トルコでメフメット2世と並んで尊敬される偉大な指導者だ。
皇妃ヒュッレムも実際奴隷として始まりそこまで上り詰めたのだ。

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スレイマニエモスクにあるスレイマン廟への入り口。この中に皇妃ヒュッレムもスレイマン大帝の傍らに眠っているのだから、権謀術策うごめくハレムの中で最後まで力を持っていたのだと想像される。

 ドラマの中では、そのカーヌーニ・スレイマンが中心にデ~ンとしている。なんという俳優かは知らないが、さぞ力のある人がやっているのだろう。日本でいうと渡辺謙がやっているような感じだ。そこに多くの妍を競い、策をめぐらす女性たち、そして外で働く男たちにとっては進化との関係対外的な他国との力関係に芸術や建築面も優れていたスレイマンが有能な人物を使いこなしていくさまなどが出てくるのだろう。


 日本でもNHKで毎年1年間に及ぶ大河ドラマがあり、歴史的人物を取り上げて時の有望な俳優がそれを演じて話題をさらう。それと同じような大河ドラマなのだが、何しろ世界に君臨していったような力のあるトルコの時代であったからきらびやかで、ドラマがある。

 このドラマがあると知った時点で見たいなあ~と望んでいたが、さすがに日本のTV局はアメリカや韓国のドラマは放映しても、トルコのドラマまでは見ていないのか。全く気配がない。働いている人にも見やすい時間で毎週やっていったら絶対に惹きつけると思うのだが・・・。

 ところが、近年の動画時代。ずいぶんと私自身も動画を見ているうちに面白いドラマならばインターネット配信だってあるのではないかと探してみたら見事ヒットしたのだった。


◆TURKWEB.TVとしてyou tubeにのせているので、画質はTVを見ているほどに美しい。
Muhteşem Yüzyıl  第1回

◆第1回の出だし
 マニサにいたスレイマン皇子のもとに足音を立てて何かが近づいてくる。緊張感が走る側近と皇子は身構える。やってきた使者は手紙をさしだし、ひざまづく。
 父王の崩御、すなわち、王子はこの時からスルタンとしての人生が始まる。スレイマン大帝の物語が始まる。

 片や、北の土地の小さなむらに攻め入られ、村の娘たちはさらわれ、奴隷として売られる。
気の強い娘、アレキサンドラも奴隷としてトプカプ宮殿に入ることになる。
 当時だれでもスルタンの寵を得れば側室として部屋をいただき、豊かな暮らしをすることができた。そうしたところで始まる生活。

 途中で出てくるスレイマンの信頼する側近、侍従長イブラヒムが回想する。自分も村からさらわれてきた奴隷上がり、その記憶がよみがえる。彼はスレイマンに心から従っている。スレイマンの力を若いと侮っている他国を抑える方向性でスレイマンとイブラヒムは一致している。それにたいして古老たちは若きスレイマンをあまり買っていないので、反対派である。また、低い身分からのし上がってきたイブラヒムを邪魔にし陥れようと窺っている。


 アレクサンドラはスレイマンの目を引くことをしたり、踊りで魅せたりする。これにより部屋に呼ばれることになるが、部屋に入る前に正妃に邪魔されてしまう。このあたりまでが第1回の話。
 
 
このような長いドラマが延々とある。まだ第2回までしか見ていないが、トルコ語がわからないで聞いていても時代背景をつかんでいればかなり楽しめる。

 そして、ちょうどいい時にコミックスで「夢の雫、黄金の鳥籠 」というのが出始めていた。作者は篠原千絵、以前に「天は赤い河のほとり」という本でヒッタイトとエジプト・ミタンニ王国などの拮抗する中での物語を長編コミックスで描き表わした人だ。それだけに中東の歴史や背景・小物の描写はしっかりとしている。
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 これを読むと細かな演出は違っている。たとえば、ドラマではヒロインは踊りが得意であり、コミックスでは
美しい声で歌い、朗読をする。
 しかし、その時代背景と登場人物がほぼ同じなのでおおよそを掴みやすい。これを読んで、1520~1566年の織田信長よりも少し前の時代だと意識して見れば結構楽しめる。

 自分の場合、トルコ語がわからないのに何を楽しめるか。
言葉のわからないオペラを楽しむのと同じに意味を想像しながら、演技で楽しむ。
 ついでに家具調度・タイルにカフタン・女性たちの衣装・アクセサリ・ハマム・アラビア書道・絨毯、隼など目に入るすべてが、「写真でイスラーム」としてはツボにはまったタコ状態なのだ。
 一番上のドラマの壁紙でスレイマンが座っている椅子はトプカプ宮殿の宝物庫にあった貝象嵌の椅子であるし、いたるところにトルコの文化が見え隠れする。

 尚、第2回ではアレクサンドラはスレイマンにその快活さが気に入られ「ヒュッレム(陽気・快活なるもの)」という名を賜る。しかし、そのあとに危機もやってきて、牢に入れられてしまう。~~というような展開で、気を抜けない話が続いていく。
日本語字幕でBSかどこかでやってくれないものだろうか。


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by miriyun | 2012-08-01 19:24 | Comments(12)

ヒュッレムのハマム・・・風呂の話(7)

ハセキ・ヒュッレム・スルタン・ハマム 
 2007年11月のことだった。アヤ・ソフィアとブルーモスクの間をあわただしく歩いた時、ふと見えた建物、古びているし、スルタナハメットの巨大な二つの建物に挟まれているため小さく見えて見過ごしてしまいそうな建物が気になった。こんなすごい場所にあるならば何か意味があるはずだが、同行者がいたので何なのか確認する暇はなかった。
 そこで、ひとまず写真を撮っておいた。
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 その写真がこれだ。
地味な入口の前に青い文字で小さな看板が出ている。
「haseki hyurem sultan hamami」とあった。(最後は i となっているが、トルコ語では i は”u”と発音するのでハマムと読める。
 なんと、壮麗王スレイマニエ1世の奴隷から側妾、そして妻となり、跡継ぎの母にまでなった人だ。オスマントルコの歴史の中でも群を抜いている女性だ。
 そんな女性の名がついたハマムが名だたる名建築の間に埋もれるように存在していた。汚れ方から長年の粗雑な扱われ方がわかる。

 しかし、スレイマニエ大帝がヒュッレムのために建てたハマムであるならば、自分のお気に入りの建築士を使うはずだ。そう思って調べてみるとやはり、
 そう、まごうことなき、ミマール・スィナン(シナンと書かれることが多い)の建築であった。
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  この建築物は横から見ると75mに及ぶ長い建物で、実は男女を左右に分けて同じような設備が並ぶ最初のハマムであった。


ヒュッレムのハマムの歴史
 このハマムはスレイマン大帝の全盛期、1556年にスィナン(シナン)によって建てられた。アヤソフィアに近いこの場所には532年に崩れてしまったゼイクシッポスの浴場(テルマエ)があった場所であった。
 それまでは女性の日とさだめられた日だけが女性専用となったハマムであるが、このハマムの出現で男女とも専用の浴場があり、いつでもたのしめるようになった。屋敷に個人用の風呂を持つ上流階級の人たちも召使を連れてハマムを訪れ一日中そこで世間話や年頃の娘のうわさを聞き、我が家の嫁さがしをしたりと社交場としても重要なものだった。
 こうして1910年までハマムとして使われていたが、オスマン帝国の崩壊とともに閉じられた。その後、刑務所が一杯になったときにはあぶれた囚人を収監する場所としたり倉庫として紙やガソリンの倉庫となったことさえあった。1957年にいったん修復してからは国のもつ建物として、絨毯販売所になっていたりした。

 ◆2008年に修復を専門とする大学を中心に国家的プロジェクトとして元の伝統建築を損なわないように修復がはじまった。

 最初にのせた2007年11月に撮影した写真は、その修復に入る直前の姿だったのだ。

復活したハマム
2011年に修復を終えた歴史的建造物は現在、本来のハマムとしての機能を回復し、美しいまっ白な大理石をふんだんに使った内部構造で清潔感に満ちたハマムとして観光客に開放されている。
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水道のある大理石の水盤のある場所

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                    ハマムの内部写真はハマムのHPより引用
メインの部屋は高いドーム屋根になっている。男女別になるので2つの大きなドームを持つ建築である。


中でタオルにくるまってお茶やシーシャを楽しむことはもちろん、庭に出てから屋外で食事もできる。

 そんな複合施設がスルタナハメットにできたということなのだ。観光客相手なので高めの設定だが、それでもミマール・スィナンが手掛け、ヒュッレムの思い入れのあるハマムが本来の目的に沿ったものとして再生しているのは喜ばしい。

                             *ヒュッレムとは・・・どんな女性なのかは、次回紹介します。


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by miriyun | 2012-07-26 04:32 | Comments(8)

華麗なるビザンチン美術

 アヤ・ソフィアは美術宝庫       

アヤ・ソフィアには地味だけどすごいなというところがたくさんある。なんといってもビザンチンの圧倒的な力と技術をつぎ込んでいる。

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 キラキラのキリスト教に基づく黄金モザイクだけに見入ってしまうことが多いが、ちょっと目をそらすと黄色地の装飾が壁にもアーチにもいっぱいに広がり、。それ以外のビザンチンらしさも見えてきて面白味がある。
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 天井は金色地に文様を入れた華麗な装飾がある。この後のイスラームのような文様同志の連続性はないが、背景に金を多用していて華やかなのが、いかにも力のある皇帝の時代と感じられる。

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 耐震用の金属棒があるので、見えづらいが、ガラスモザイクが今でも輝いている。


柱頭の見事さよ!!
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黄色と金の天井を支えているのは緑の大理石による柱。
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その上の柱頭こそがギリシア・ローマのどこでも見かける様式ではない独特のものである。
葉の透かし彫りが華麗なビザンチンの柱が連なっている。 
    
 こまかな植物文様の透かし彫り。石で彫ることはできても、あまりに華奢なつくりで屋外向けではない。このような巨大建築物であったからこその柱頭であったと言える。
 この柱頭、2階の中にあるのだが、天井は高すぎて見えにくいのだが、じっと見てみたい逸品である。                                                                                                                      人気ブログランキングへ
                      
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by miriyun | 2011-11-26 14:13 | Comments(8)