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蝋の話(1)王家の封蝋

1.蜜蝋とは・・
 ろうそくは世界中誰でも知っているものだが、最初に使われたのは蜜蝋(みつろう)、ハチの巣の枠組みを作っているのは働きバチの蝋分泌腺から分泌される蝋成分であり、それを煮溶かせば蜜蝋となる。
 世界で最初のろうそくは蜜蝋であったが、何しろハチのつくるものであるから手に入れにくいものであった。
 融点は摂氏62ないし65度なので、純粋な蜜蝋は溶けやすい。

2.シーリングワックスとしての使われ方
今、CS 銀河チャンネルで放映されている「オスマン帝国外伝」の中から例を見てみよう。

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第一宰相の机に置かれているものに注目した。
この左端のろうそく。物流の拠点を抑えていたオスマン帝国であるので、インドを中心として蜜蝋の産地からの流入はゆたかにあっただろう。したがって、中世宮殿生活の必需品であるろうそくは当然蜜蝋と考えられる。

ドラマの中では、これらの道具の扱いは描かれていないので、この辺は推測を交えて。
ろうそくの裏に隠れている銅の壺とおそらくは長い柄の金属スプーン。
更にその手前の箱には何やら赤いものが置かれている。蜜蝋をスティック状に固めたシーリングワックスである。形ははっきりしないが、脇に蜜蝋を削るための道具が置かれている。

そのスプーンに蜜蝋でつくったシーリングワックスを削りいれ、それをろうそくの火であぶる。

ここからは「オスマン外伝」の中の画像を引用。
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削った蝋に火がつき、とろとろに溶けてくる。

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それを、印よりもやや大きいくらいに手紙の上にこぼす。

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蜜蝋がやわらかいうちに、刻印を押し当て手紙の中での自分の身分と名前の証明とする。

そして、他人に開けて見られないための封蝋としても使われ、羊皮紙や紙を丸めてひもで結び、その上に封蝋として同じように印を押した。
 当時の手紙は王や貴族が自分の家令を用いて、相手まで手紙を届ける仕組みだが、途中で開けられたらすぐにわかるように封蝋をしたのだ。

 以前に古代文字のところで紹介した
粘土の封筒 
印章の使い方
に記したが、メソポタミア文明において、楔形文字の印章を粘土板の手紙に押して壊さないと見られないように工夫したのと同じしくみである。

 素材が粘土板から紙や羊皮紙になり、
  粘土の上に刻印する代わりに溶かした蜜蝋の上に刻印することにしたのだった。

それにしても、今歴史物を扱うチャンネルが増えて、「オスマン外伝」「クイーン・メアリ」「ヴィクトリア」など、その中に出てくる日常生活で使われていたものがとても興味深い。
   
                                          
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by miriyun | 2017-08-12 10:36 | Comments(5)

『オスマン外伝』とハレムのしくみ 

1.トプカプの至宝


オスマンの力とトプカプ宮殿の宝物を解説する動画があった。
リンクはこちら↓
トルコ・トプカプ宮殿 至宝が語るスルタンとハレムの真実



2.異民族・異教徒への考え方とハレム
上にリンクした動画の中でも鈴木教授がハレムについて説明しておられた。

 その内容と、今回放映される『オスマン外伝』の中のハレムについて一致する内容を見ていきたい。
 『オスマン外伝』には、異国から連れてこられたアレクサンドラがスルタンのハレムに入れられるくだりがあった。スルタンは近隣の姫君を正式な花嫁にせず、異教徒の奴隷を改宗させ、宮殿で教育し、その中から側室を選んでいったのか、鈴木教授によると、初期のころのスルタンは異国の王家との婚姻をしていた。ところが9代セリム1世までにオスマン帝国は近隣をおさめ世界最強の帝国となっていった。そのため結婚に釣り合う王家がなかったということだ。また臣下の息女を娶ればその臣下の一族が外戚となって権力をもったり、政治をゆがめたりするのは日本も諸外国も枚挙にいとまがないほどである。

 それを避けて、何のつながりも力関係も生み出さない奴隷をハレムに入れてそこから気に入ったものを徐々に力のある側室としていった。

 *江戸時代の大奥もハレムに似た仕組みだが、大きく異なるのはその人選であり、やはり、実権があるのは皇室からの降嫁、公家の姫、大名の息女、大名の養女といった権威あるものが力を持った。側室として権力を持ったものの中には商人の娘などもいたが、一応、名のある武家の養女扱いとして大奥に入ったのである。

 オスマン帝国は日本と違って、広大な領地、多民族、多宗教の国だ。ここでは改宗して、トルコの言葉をしっかりと学んでいけば異民族・異文化も受け入れるというある種のおおらかさもあったということだ。
 男の場合はどうか。
物語の中で、スレイマニエ1世の信頼を得たイブラヒム、彼も奴隷から這い上がり、鷹匠頭から内廷の小姓頭へ出世するが、そこには廷臣たちがあからさまな妬みや不満をもつ様子が描かれ、スルタンが代替わりしたばかりの不安定さがかいまみえる。  

 物語の初めから、衣装や美術品にくぎ付けになりながら、これからの波乱の展開が想像されて楽しみでならない。

                                   
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by miriyun | 2017-08-08 16:06 | Comments(4)

『オスマン帝国外伝』が日本初放映へ

1.『壮大なる世紀*Muhteşem Yüzyıl』
 5年ほど前に遡るが、このブログで『壮大なる世紀*スレイマンとヒュッレムをめぐる話』というテーマでこの大河ドラマを紹介した。
 
 オスマントルコの第10代スレイマン大帝の時代の皇妃になったヒュッレムをヒロインとした話で、時代は最もオスマントルコが繁栄した時代であり、舞台はイスタンブルに今も残るトプカプ宮殿であるのだから歴史好き・旅行好きな人にはもちろんだが、初めて接しても実に興味深い時代設定であると思う。
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 Muhteşem Yüzyıl、『壮大なる世紀』トルコ語版

           
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       『オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム』日本語字幕版

トルコにおける大河ドラマで、しかもトルコ史には必ず登場してくるスレイマン大帝と皇妃ヒュッレムをめぐる話なので、宮廷の権謀術策はもちろん、当時の文化も習慣も衣装もすべてを見られる絢爛たるドラマという意味でまさに大河ドラマであった。
 多くの国(80か国に上るらしい)で配信され、TV放映されたり、それがない国でもトルコ語や英語字幕でインターネット上での配信を見ることが出来た。
 日本では、中東ものを丁寧に描く篠原千絵が「夢の雫、黄金の鳥籠 」というコミックスとして書きはじめており現在は9巻まで出ていて、今月10日には第10巻が出る。もちろん、作者オリジナルな設定もあり、そっくり「壮大なる世紀」をなぞっているわけではないが、いずれも面白い。



2.いよいよ今日から日本へ
新聞にCSの銀河チャンネルで本日無料放送があり、第1話・第2話まで見ることが出来るというので、早速番組表を見たら、CSの305 チャンネル銀河で確かに無料視聴できるようになっていたので早速予約してみた。
 トルコ語の英語字幕版で語学力のたらないのを、時代背景や当時の文化背景だけを頼りに想像していたものが、日本語字幕になればずっと物語として肩の力を抜いて楽しめそうだ。明日からの本放送は有料放送になるようだが・・。⇒訂正 8月7日深夜0:00に第1話と8日深夜0:00に第2話まで無料放送なのでスカパーなどでチャンネル銀河に入っていなくても見ることが出来る。

チャンネル銀河のottomanHP

 なお題名は、トルコ語直訳の「壮大なる世紀」ではなく『オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム』となっていて、なんとなく日本ぽい題名だなあと思っている。2回目の放映が行われている『クイーンメアリ 愛と欲望の王宮』ととても似ている題名になってしまっているのがちょっと残念だ。

☆予告動画↓
https://youtu.be/tGAIytPN1k0


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スレイマン1世が座っている椅子、トプカプ宮殿に展示してあった象嵌細工ものだ(撮影にはレプリカだろうが)衣装の重厚さや、当時のオスマン帝国での習慣など興味は尽きない。

 第1話は父王セリム1世が崩御し、スレイマン1世が即位するというところから始まる。
久しぶりのワクワク感がある。

                                         
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by miriyun | 2017-08-06 05:33 | トルコ | Comments(11)

何の夢見る

木陰の本屋街   

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イスタンブール、グランドバザールで必ず行くところはここ。
バザールの屋根の下から外れて階段を数段上がると、
そこに本屋街がある。

喧騒から離れて、木陰 に並び立つ本屋街。
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他では見つからない書や本がある。

スルタンのトゥグラー集はオスマン帝国の歴史へと誘ってくれるだろう。
イマードの書があれば、書のリズミカルなラインで脳内が満たされるだろう。
ミマール・シィナン(シナン)の建築の特集本があったらそれをもとに、シナンの跡をたどる。

そんなことに気持ちがぐっと入っていく夢の空間。


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本を見ていたはずがこちらに目が行ってしまった~!

本に囲まれて木漏れ日の中で気持ち良さげに眠る、
タイル本の上に寝て、イスタンブルの見所と書に囲まれて

君の見る夢は何だろう・・・。


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by miriyun | 2015-11-09 06:56 | Comments(4)

客船の似合う街2 イスタンブル

1.乙女の塔    
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アジア側からトプカプ方面の乙女の塔をのぞむ。 

2.客船の似合う街2 

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ヨーロッパ側の新市街には、白い客船。

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船の名はセレブリティ・イクノス(Celebrity Equinox)。
12万トンの豪華客船だ。
以前紹介したクインエリザベスは横浜のベイブリッジをくぐるのに干潮時でないとくぐれず苦労していた。あのクイーンエリザベスは9万トン。
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世界の客船は、長足の進歩を遂げていて、横浜で大型客船を見られなくなっている間に
とんでもなく巨大化している。
イスタンブルでは金角湾などの狭い海峡以外は橋の拘束がないので、
どんなに大きな客船も次々とやってきて停泊する。

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by miriyun | 2015-11-08 12:15 | Comments(4)

客船の似合う街1 イスタンブル

客船の似合う街1   

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イスタンブルで海を眺めるとかなりの頻度で客船が目に入る。
巨大なビルのような豪華船客船も軽快な小型フェリーも定期航路のフェリーも、
なんともこの街の風景にしっくりとなじんでしまう。

行き交う小舟にも豪華客船にも
等しく見渡せる素晴らしい景観がここにはある。


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左からブルーモスク・アヤソフィア・トプカプ宮殿

上の写真は一部で、実はもっと続いている。
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    ↑(写真の上でワンクリックすると大きい写真で確認できます。もうワンクリックで元に戻ります。)

上の3つが続いた先には、さらに丘陵に沿って段差のある4本の塔のスレイマニエモスクが続く。


海から見ただけで絵になる街、イスタンブールよ!


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by miriyun | 2015-11-08 11:56 | Comments(2)

ハセキ・ヒュッレム・ハマムに見る修復の結果

1.新旧  
 イスタンブールの新旧比べ。
誰からも振りかえられずにいたハセキ・ヒュッレム・スルタンハマムが気になったのが2007年だった。

 
 自分ではそのさびれた写真しかないので、きれいになったハマムを撮ってきた。

では新旧比較を!
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 ヒュッレム(トルコの歴史ドラマ『壮大なる世紀*Muhteşem Yüzyıl』の主人公の一人)の名があるのだから気になっていたが、何しろ建物が汚い。このように煤まみれになっていたら、何十万にもやってくるアヤソフィアとスルタンアフメットモスク(ブルーモスク)の間にあるよと言っても気付かれないのではないかと思うくらいさびれていた。

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それが現在では、入り口の前には野外カフェ(ハマムの利用者がここで食事ができる)のようになっているし、かって煤まみれになっていた痕跡は探せない。上の写真と比べれば、落とし切れなかった煤汚れは若干あるだろうが・・。 

 1556年の歴史遺産であるから基本的なデザインは変えていない。ただ、建物が何であるかは以前は入り口の上に釣り下がっていたプラスチックボードに小さく見えにくい色で書いてあるだけだった。
 今は外側のアーチの下にぴたりと嵌め込んだ看板がついていた。
窓の木枠は白く塗っている部分もあったがそれを茶色にした。外の白い円柱もお化粧直しし。特に金の輪がはいり、玄関上の金箔の上の文字と調和している。

 なぜ、こんなに汚くなっていたのかは過去記事→ヒュッレムのハマム…風呂の話(7)
               

2.ミマール・スィナンの残したハマムがよみがえった。 

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 男女用有るので左右対称型に連なる大がかりなハマム。
トルコを知る人なら必ず目にするミマール・スィナンの名前。彼はスルタンの信頼を得た建築デザイナーであり、エンジニアであり現場監督でもあった。彼はスルタンの戦争に必要なものからハマムまでつくり続けた。98歳まで。驚異的な人物である。有名なモスクだけでなくちょっとしたところにも彼の遺作が残っている。まあ、よほど時間がないとまわれないので、自分でもいつそれらを見て回れるのだろうか、98まで見て回れるのだろうか(笑)

 *自分はとても自信がないが、毎回旅をする中で日本の戦中戦後をまたいできた人たちの強さに感嘆する。今回も80歳をゆうに超えているような杖を突いた男性の方が、洞窟の岩絵を見るような上り下りが急なところまで見て回っていたのに驚く。

◆ハマムの左右対称になっている全体像を撮ろううと思った。
 
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わ~ぉ、噴水で見えなくなった。
この噴水も変わっていた。もともと大きな噴水のある池ではあったが。これではない普通に地味な作りの池だった。しかし、現在はデザインされた地色が入り、ヘリにはライトアップ用のライトが埋め込まれている。池の周廻りの壁面は外側が斜めになっていて、そこにモザイクでイスタンブールの歴史遺産のある街並みを描いてあった。さらにその周りにアクリルの囲いもあって、モザイクの上にのってしまったり池には行ったりできないようになっていた。

人通りが多いが通路まで下がって全体像を
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 うん、美しい大小のドームがまっすぐに並んだ完全な左右対称だった。
間違えてはいけないのは、ミマール・スィナンは決してブルーモスクとアヤソフィアの真ん中に風呂をつくろうとしたわけではない。アヤソフィアがビザンチン時代につくられ、オスマントルコがそこをモスクに変え、トプカプをつくった。
 トプカプ宮殿から見て西に祈りの場であるアヤソフィアがあり、さらにその先にハマムはつくられた。ブルーモスクは17世紀に入ってから作られたのであるから、歴史的にはこのハマムの方が深いわけなのだ。


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by miriyun | 2015-09-05 16:03 | Comments(2)

水辺のアヤソフィア

夜の姿 

  ――アヤ・ソフィア

    ビザンチンの皇帝たちの思いを込めて建造し、
       メフメット2世が勝利した日にアッラーに感謝の祈りをささげ、
           アタチュルクはどの宗教の人も入ることができる博物館と位置付けた


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    長い歴史の重みを感じさせるアヤ・ソフィアの姿がそこにあった。


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by miriyun | 2012-11-14 06:11 | Comments(6)

ゲリボルの戦い…ケマル・アタチュルク(2)

第1次世界大戦の中東戦線
第1次世界大戦の中のトルコが関係する中東戦線は、日本ではあまり知られていない。一つはトルコがドイツと組んだことによりアラビア半島でハシミテ家のファイサル王子らが英国からの顧問T.E.ロレンスとともに起こすアラブ独立戦争がある。
 もう一つがダーダネルス海峡を攻め入らんとする英仏からの攻防戦、ゲリボルの戦いがある。


ゲリボルの戦い(ダーダネルス戦役・ガリポリの戦い)   

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                     ↑ ワンクリックすると大きい画像を見ることができます。

 トルコの地図を見ると、戦略をたてたくなるような地形をしている。

 トルコの要となるのは地中海からマルマラ海へと入るダーダネルス海峡、それと、マルマラ海から黒海へと向かうボスポラス海峡だ。この2つを制したらもうトルコは何もできない。いや、マルマラ海に入られた時点でのど元に敵の刃が迫った状態になる。
 左下のピンクのところがゲリボルでダーダネルスのイスタンブルへの海峡の出口にあたり、戦略上大事なところである。右奥のところにイスタンブル。イスタンブルはボスポラス海峡と金角湾とマルマラ海に面している。
城壁はあるものの大型大砲の時代になると、その射程内に軍艦が入るということは致命的なものになる。
 
◆陸・海・空3軍の総力を結集した大規模上陸作戦

 そして第1次世界大戦でこのダーダネルス海峡のゲリボルの高地を狙ったのがチャーチル(当時は海軍大臣)だった。1915年、連合国側の作戦が始まった。この高地をめぐって2度にわたる総力戦があり、最後は英仏も大軍を擁しての上陸作戦に出た 世界大戦での連合国の大規模上陸作戦としてはノルマンディー上陸作戦があるが、実はゲリボルの戦いが世界初の上陸作戦だった。

 オスマン軍は上陸先を予測し厳重に防御線を構築していた。その中でケマルは前線に自らたち、銃弾をかいくぐりながら奮闘し、ついには高地を先取し、英仏軍に撤退を決意させた。


 英仏連合軍は、当時すでに「ヨーロッパの病人」と呼ばれ末期症状であったオスマン帝国軍を軽んじて短期決戦を想定しての戦闘準備であった。しかし、オスマン帝国の予想外の頑強な抵抗にあって多大な損害を出して撤退、作戦は失敗に終わり、チャーチルはこのために失脚した。

 そして、この時、チャーチルをして甘く見過ぎたと後悔させた相手はケマル・パシャ・・・すなわちのちのケマル・アタチュルクなのだ。

 日本ではあまり知られていないがオスマントルコが新しく生まれ変わり、しかも植民地にされないために実に重要な戦いだったと言える。


オスマン帝国の崩壊とトルコ共和国の建国・大統領へ
 大戦でオスマン帝国が敗北し、その解体が決定された後、1919年5月19日、ムスタファ・ケマルが黒海沿岸のサムスン港に上陸。外部勢力に対する抵抗運動をここから始めていった。(ちなみにトルコでは、ケマルがサムスン港に上陸した5月19日を祖国解放戦争開始の記念日としている)

 抵抗運動の盛り上がりに驚いた連合軍が1920年、首都イスタンブルを占領すると、首都を脱出したオスマン帝国議会議員たちアンカラで大国民議会を開いた。彼らは大国民議会議長に選出されたムスタファ・ケマルを首班とするアンカラ政府を結成した。
 西からはギリシャ軍がアンカラに迫っていたが、ムスタファ・ケマルは自ら軍を率いてギリシャ軍をサカリヤ川の戦いで撃退した。

 1922年、、11月1日に大国民議会にスルタン制廃止を決議させ、更に1923年には総選挙を実施して議会の多数を自派で固め、10月29日に共和制を宣言して自らトルコ共和国初代大統領に就任した。

1926年には大統領暗殺未遂事件発覚を機に反対派を一斉に逮捕、政界から追放した。これにより、ムスタファ・ケマルは党首を務める共和人民党による議会の一党独裁体制を樹立した。
(この過程も、不思議とフランス革命の延長線上でナポレオンが暗殺未遂事件にあい、その後終身皇帝の座に選挙でなっていった過程と似ている)
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 独裁状態になったケマルは、急速にトルコの近代化を行った。

◆政教分離と欧化政策
 1928年、憲法からイスラムを国教と定める条文を削除し、トルコ語の表記についてもトルコ語と相性の良くないアラビア文字を廃止してラテン文字に改める文字改革を断行するなど、政治、社会、文化の改革を押し進めた。
 男性の帽子で宗教的とみなされていたターバンやトルコ帽(フェズ)は着用を禁止(女性のヴェール着用は禁じられなかったが、極めて好ましくないものとされた)され、スイス民法をほとんど直訳した新民法が採用されるなど、国民の私生活の西欧化も進められた。1934年には創姓法が施行されて、西欧諸国にならって国民全員が姓を持つよう義務付けられた。「父なるトルコ人」を意味するアタテュルクは、このときムスタファ・ケマルに対して大国民議会から贈られた姓である。
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 *文化財についても、政教分離は影響し、アヤソフィアはモスクとして使っていたのを、博物館として位置づけられた。そのおかげで、ビザンチン時代のキリストの絵柄のモザイクも、コーランの言葉を表したミフラーブも、私たちは今それらをいっぺんに見ることができるのだ。

 ◆ほとんどラテン文字で一部点が二つ付いたトルコ語独特の文字があるがほとんどがラテン文字であるため、地名なども読みやすいトルコ文字はアタチュルクの改革でおこなわれ、そのため文盲率はぐっと減ったという。かたやジャーミーに書かれた文字は一部のアラビア語を学習している人や書道をやっている人でないと読めないということもおきている。
 日本では、第二次世界大戦で敗北したときに、文学者や新聞社が漢字廃止論を唱え、また、連合国軍最高司令官総司令部によってよばれた教育視察団が学校教育における漢字弊害やローマ字の利便性を指摘された。漢字廃止はしなかったが、当用漢字などの制定に影響していった。


*エルトゥールル号の義捐金を届けたのち、日本語教師としてトルコに住みついた山田寅次郎は、敵国となってしまった第1次世界大戦のときは一時帰国したが、その後も長く日本とトルコの礎として働き、日本の中のトルコ大使館創設にも助力するなどして、90歳の生涯を全うした。

 また、エルトゥールル号が遭難した場所に建てられた石碑を天皇が手を合わせたことを知ったケマル・アタチュルクは串本町にトルコ式の慰霊碑を建てた。

 アジアの東の果ての国を西の果ての国が見詰めていた。
 今回、アタチュルクについて、とくに名前について押さえておきたいと書きはじめてみたが、
その中でも日本とのかかわりや、影響というものも見えてきた。

◆ケマル・アタチュルクの手法は一党独裁で自分が動きやすいよう、改革が通りやすいように合法的に積み上げているものだった。手法としては初期のカダフィー大佐などと近い面もある。

 もし、彼が100歳までも生きて、子孫が多く、一族で利権を支配したなら、今のようなトルコ国民の敬愛を一身に集める存在にはならなかっただろう。

 彼は、実子を持たず、戦争孤児を養子にした。
          そしてたった58歳で執務中に逝ってしまった。
しかも、それまでの病人のようなオスマン帝国からも先進国の支配からも抜け出させ、前進し、成功させた共和国を作っている最中に逝ってしまったのだった。

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by miriyun | 2012-11-11 15:20 | Comments(8)

ケマル・アタチュルク(1)

アタチュルクの日    
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このシンプルだが美しい剣は誰のものか。

一見、装飾から身分あるオスマンの重臣の持ち物のようにも見えるかもしれないが、くっきりと刻み込まれたトルコ共和国の国旗と同じ月と星の印がそれを否定する。

そう、これは
ケマル・アタチュルクの持ち物である。

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 11月10日はケマル・アタチュルクのなくなった日である。毎年11月10日はアタチュルクを追悼日とし、なくなった時刻である9時5分には空砲を鳴らし、一斉に1分間の黙とうをささげる。また、11月10日から1週間をアタチュルク週間として定めたりもしている。

◆アタチュルクはトルコ建国の父として世界史上名だたる人物である。
 晩年 ドルマバフチェ宮殿に執務室を構え、トルコ共和国の屋台骨のすべてを背負い、軍隊から義務教育普及のための地方まわまでり、忙しい生活を粗食と4~5時間の睡眠とラクとでのりきっていたアタチュルクは58歳という若さで執務中に脳卒中で倒れた。
 それが9時5分であり、そのため、トルコ建国の父である彼の敬愛するトルコでは、この宮殿のすべての時計を9時5分で止めたままにしてある。


彼の生い立ちから1938年11月10日に亡くなるまでを知ると実に才能あふれ、頑固なほどの信念とともに行動したユニークな人物として浮かび上がってくる。

彼の名前
彼の本名はムスタファであるが、学校時代に同じムスタファの名を持つ先生が素晴らしい数学的才能を持つ彼に幼年期の生徒を教える助手をやらせ、その時に同じムスタファ先生では困るので、ケマル(完全な)という名を与えたと言われている。

 公式に残っている名前では尉官までは、ムスタファ・ケマル・エフェンディ 、佐官時代は、ムスタファ・ケマル・ベイ 、将官時代 (1916年以降)は、ムスタファ・ケマル・パシャ、1921年9月19日以降は、ガーズィ・ムスタファ・ケマル・パシャ、1934年以降、ムスタファ・ケマル・アタチュルクと呼ばれた。

 なお、アラブと同じく、トルコも姓というものがない。生まれたときにつけられた個人名の後に親の名・祖父の名などをつけて認識しているにすぎないので、一人の人物が場面が異なると別の呼び方をされるなんて言うのは特別珍しいことではなかったのだ。
 なお、現在のアタチュルクは『トルコの父』という意味だ。

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彼の名前は、私たちがトルコに行ったときに最初にお目にかかることになる。アタチュルク・エアポートに航空機が降り立つからだ。


彼の才能
 彼の得意なのは数学と歴史で、他は得意でないのに、この2つについては群を抜いていたらしい。
(フフッ、かのナポレオンもそうだったのはあまりにも名高い事実である。)
やはり、数学ができるのは明晰に理論立てて先を考えられるのだろうか。

 普通の学校を嫌がったムスタファが選んだ道は自らの石で陸軍士官学校に入ること。なんと、正規の志願年齢よりも若い11歳で志願してしまった。
 
 数学的才能の他に、後にわかってくるのは語学的才能、
士官学校時代にドイツ語とフランス語、日本語まで学び、ドイツ語を喋り原語のフランス民権思想書を読み、片言の日本語と英語もできた。
 この日本語を学んだのは、エルトゥールル号難破事件後に、民間人でありながら奔走して義捐金を集め、トルコまでやってきた山田寅次郎が教えた士官たちの間に彼がいたことを、後のアタチュルクがいっており、山田の方がそれに驚かされたという。
 日本についてはトルコ全体として、エルトゥールル号以来親密な国として感ずるとともに、アジアの東の果ての国ながら、アジアで唯一近代国家としての返還の成功した国として意識的に見ていたようだ。とくに明治維新における数々の改革はケマル・アタチュルクの意識の中にこのころおさまったのであろう。

オスマン末期における動き
 灰色の目の眼光鋭いケマルは陸軍大学にいたころから将校としての時代に、「祖国と自由」を仲間とともに設立、後にサロニカで単独世それのマケドニア支部を作る。後にこれは青年トルコ党に吸収され、エンヴェルと出会い1909エンヴェルとともに反革命の暴動が起きたのを鎮圧し、暴動の責任を負ったアブデュルハミト2世は退位し、メフメット5世にその座を譲った。

◆若きリーダーの考え方の違い
エンヴェル・・・中央アジアからバルカンにいたるテュルク系諸民族をオスマン帝国の旗のもとに大統一するという汎トルコ主義の理想とし、汎イスラーム主義を唱えてイスラーム世界の団結を呼びかけ、イランや北アフリカで連合軍に対する抵抗を起こさせ洋ともしていた。
ケマル・アタチュルク・・・トルコ半島とトルコ民族で納める民族子㏍なお設立を理想とする。
このような違いのなか、ケマルはエンヴェルとは目指すものが異なるということで、結局袂を分かっていった。

 こうした中で、オスマン朝の弱体化、列強が国土を分割せんと圧力がかかってくる。まるで日本の幕末と同じような状態が出現するのである。実際のところは幕末と同じにいろいろな勢力が複雑に動いている時期なので、、こうしたときにこそ、下級武士が活躍し、ケマルやエンヴェルが出てくるのだった。。


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by miriyun | 2012-11-10 23:41 | Comments(4)