写真でイスラーム  

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2010年 09月 30日

船が行く

 船はゆく     
トルコの陶器には花が多いが、そればかりかというとそうでは無い。案外多いのが海にちなむものである。
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風に帆がまう勢いのある図柄、
アジアとヨーロッパにまたがるくにであり、トプカプ宮殿の敷地の先端からはマルマラ海とボスポラス海峡と金角湾を望む位置にある。オスマンのスルタンはここから、帝国を目指してやってくる各国の船を自分の箱庭に浮かぶ模型のように数限りなく浮かぶのをみおろしたのだ。
そんなトルコに勢いのある帆船がえがかれるのは当然のことだ。
波の模様は日本ならさしずめ青海波というところだが、こちらは三宝珠がたくさん!
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船のしたで泡立っているのも三宝珠である。


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                     ↑ 文化センター廊下部分の壁装飾         
            
この大皿を見ていると、東京ジャーミーの1階、トルコ文化センターに迷い込んだような気になる。それほどの三宝珠づくしだった。


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by miriyun | 2010-09-30 22:24 | Comments(4)
2010年 09月 28日

ようやく秋・・実りは?

 酷暑去り、秋来たり・・・      
エアコンが壊れ、言葉で表しがたいほどの酷暑を過ごした。
植物にとっても、厳しい夏で 、人の背丈よりも高く太くて頑丈な茎を持つ皇帝ダリアの葉が熱暑で枯れ始めていた。いつもは9月2週には咲き誇っていた彼岸花は咲き時をとらえそこなって、いまごろ痩せた茎の上にしょぼい花をさかせていた。野菜は高騰、秋の果物は高いだけでなく収穫が少ないのかあるはずのものが見当たらない。
こんなわけで心配していたんだ。
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よかったー!!
一番心配していたあなた!さすが熱帯原産、しっかりと成長してこんなにも立派な実をつけていた。重い首を垂れる米、春の冷害のあとよくぞ立ち直ってくれた。


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用水路にザリガニを発見した。涼しくなり、水も足りて元気にハサミを振り上げていた。
子どもの頃には毎日、ザリガニ獲りか、ドッジボールだった。
今は外で遊ぶ子をあまりみなくなった---

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by miriyun | 2010-09-28 07:08 | Comments(6)
2010年 09月 26日

コーヒーの道具の話

 コーヒーポット 

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 この形こそが、玉ねぎ型の屋根とともに、アラビアの象徴的なフォルムではないだろうか?
これはサウジアラビアのもの。
 ディスプレー用に時々人より大きいのを見ることがある。

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 コーヒーのサービス。もちろん、カルダモン入り。

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 カタールの場合の、テントの中のコーヒーセット。台の周りの装飾もこっている。
左端にあるのがコーヒー豆をつぶして粉にする道具。金属製だ。

 偶然にも!!  
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エチオピアン・コーヒーサービスの席で・・・。ここでも豆をつぶすための臼がある。台の右隣におかれているが、こちらのは木製の臼である。   
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レバノン在住のパレスチナ人のお宅でのコーヒーをいただく。人数が多いときはこのタイプの陶器が多いのねと何気なく写真を確認していて驚いた。
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このカップ、上のエチオピアのカップと同じ花模様だ。


 ◆◆さてさて、世界は広いが、物流世界は狭し!
      はたして、この茶碗がどこ製か、想像してみよう~~!!


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by miriyun | 2010-09-26 11:18 | Comments(10)
2010年 09月 25日

荒川静香という人物、高橋大輔という人物・・・フレンズオンアイスを通して

 ときおりイスラーム地域というテーマからは離れるが、紹介したい人物像を語りたくなる。
 きょうは、8月末に横浜で行なわれたのに見ることができなかったフレンズ・オン・アイスの放映があった。待ちに待ったという感じで楽しみにしていた。

  見ていて思ったのは、日本のフィギュアスケート界には日本の人物像として紹介するにふさわしい人物がいるということだった。急遽、ここにのせてみる。


荒川静香という人 
 かって、日本の中でナンバー1、世界でも有数のスケーターになった人は数多くいる。それぞれ実況解説やコーチとして活躍されている。解説のうまいへたはあるが日本のフィギュアを世界的レベルに牽引していったその存在が懐かしくあった。

 トリノオリンピック女子シングル金メダリスト・・・荒川静香も念願のプロ転向、アイスショーの世界に足を踏み入れ、華やかに成功していることが伝えられてきた。またオリンピックを初めフィギュアの大会では名解説者として言葉に無駄のない明快な解説で好評だ。

 しかし、それだけではなかった。フレンズオンアイスを企画運営するプロデューサーとしての彼女をはじめてみた。彼女のプロ意識、徹底してファンに喜ばれる演出を考え、実行する。
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                                        ↑ シルエットの高橋大輔
 例えば、オープニングでメダリストたちが紗幕のなかにいて、シルエットからまずは観客にワクワクさせる演出も考えた。

 荒川静香はプロデュースのほうに回ってしまって、動くほうは現役の選手達のあとおし程度かと思いきや、
・・・・・・・・・・・・・・・・ちがった!!
 その体の線を見るとわかる。解説者として地味なワンピースとカーディガンで立っているだけでも、なんて美しくなったのだろうといつも思っていた。
 しかし、このアイスショーで見た彼女の身体は現役のスケーターそのもの、金メダリストをさらに昇華させるとここまで美しくなるのか・・・というようなスケートの女神のように見えたのだった。現役を引退したからといって、プロデューサーをやっているからといって余分な脂肪の一片さえ身につけなかった。ジャンプのための筋肉の一筋も衰えさせなかった。トリノのときと同じよう、いやそのときよりももっと内側から光り輝いていた。それこそ、プルシェンコやランビエールのようにオリンピックにだって戻れそうなくらいだ。
 会場確保、チケット、音響、照明、衣装、ありとあらゆるものをスタッフとともに手配し、全体像をまとめていくプロデュサーであることを理由にせず、今でも週に5日は現役選手のようにスケート場に立ち練習しているという。高橋に1曲の構想と振付を任し、そういう体験をすることが将来につながっていくという大事な経験をさせていく。
 そして、彼女は昔の自分を見るのではなく今の荒川静香を見てほしいという。
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 そんな彼女の身体からは鍛えたスケートによる自信に裏打ちされた美が、
            顔からは気品と知性がにじみ出ていた。
      
                 素晴らしい日本人を発見という想いだった!


進化し続ける高橋大輔 

 その慧眼で高橋を見出し、やさしく厳しく見つめ続け、大輔という人物を世界に押し出してくれた歌子コーチがいること。
 アクティブで、広く見つめ平常心で戦い後進を育てることを身をもって教えてくれている荒川静香が姉のように身近にいること。

 この二人は高橋大輔にとって、とても大きな精神的な影響をもたらしている。そして、彼自身のほかの番組でのトーク、歌舞伎役者や水泳の金メダリストであったり、スマップであったりするが、いずれも気負わない大ちゃんトークがでていて、この人の人柄そのもので話していてその素直さが人をひきつけるのだろうなと思った。やさしい大ちゃんである。
 むろん、演技中はその曲想に入り込み、顔も目も指先もオーラを放つばかりに曲を表現する。時には男っぽく、ときにはあまやかに時には泣きたいほどに表現する。
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 こんな高橋だが、今回のアイスショーで6人のスケーターたちのヒップホップを含む曲を企画し、ともに踊った。
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                               ↑ 日本TV、フレンズオンアイスを撮影して引用
荒川に指示され始めて取り組んだがいい経験でたいへんだが楽しかったという。選手としてきりきり舞いするのではなく人としてスケーターとして自然に幅を広げていく。いいことだ!
 
 さて、今シーズンのショートプログラムを発表するというので注目された。振付ができて2週間でもう観客の前で発表するのだという。
 マンボのハッ、ウッ!!という声にあわせての動きは小気味いい。
 完成されたeyeを何度も見たあとなので、まだまだという気はするが、ひとつの振付をそのままにしないで踊りやすく表現を高めて変化させていくのが高橋流なのでこれからこれがどのようになっていくのかが楽しみだ。
 今回は単純な赤の衣装であったが、選手権に向けては自分で最もふさわしい衣装に替えていくはずである。そして今でももちろん人よりも切れがよいが、それ以上に音にスパッと合った切れ味を出してくるものと想像される。
                                    
 長々と書いてしまったが、いろいろなアスリートが活躍する中で、今フィギュアスケートは世界に冠するトップスケーター・クリエイターがひしめいている。日本が世界に誇っていい人材に注目していきたい。

     
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by miriyun | 2010-09-25 15:28 | Comments(4)
2010年 09月 24日

乳香とコーヒー

 飲料と香りの関係だが、日本でもお茶席で香炉で丁子や白檀などの香木の小片を焚く。
また、練り香を使うことがある。練り香は、香木の木屑を粉にしたものを蜜蝋などで固めて持ち運びやすくしたものだ。お茶席ではこれを小さく丸めて釜の灰に埋め、香りを楽しむ。
 こうした香とお抹茶がともに存在することと同じようなものだろうか・・・。

 乳香とコーヒー 
人を招いての席でコーヒーが供される。そうした時、乳香がたかれることがある。
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                                          ↑ アフリカンフェスタ エチオピアのコーヒーの席にて
 ときおり、炭の上に新しい乳香をくべる。白い煙が立ち上る。
それとともに、そこが海のそばであろうと倉庫の中であろうと、立派な邸宅であろうと、香りに包まれその場を楽しみ、くつろぎムードに入っていく。
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                                                ↑ 乳香
 爽やかな香りである。しかし柑橘系ではない。不思議な甘さわやかな香りで、人はぐっと落ち着いて座り込み歓談しという状況に入っていく。したがって乳香は来客の予定があるときは、客が来る前からその部屋でたいておく。
 こうしておいて、次に主がコーヒー豆を挽き挽き、珈琲を入れていくのだ。
しかし、コーヒーという香りが強いものを入れるときに、はたして乳香が必要かと疑問に思っていたものだ。が、実際にその場にいると、乳香は他の香りとぶつかり合わない、つまりそれほど強烈な香りではないのだ。
 しかし、コーヒーの香りは強烈なはずだ。
 じつはこれもアラビックコーヒーにおいてコーヒーは薄く、カルダモンをたくさん入れることによってコーヒーだけの香りでないこれまた爽やかな飲み物になってしまう。
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そのためか、自分で想像していたよりも、アラビック・コーヒーの香りと乳香はけんかしないのだった。

    ★乳香の香りと、シャーイ(紅茶)またはカフア(コーヒー)、それに水タバコ
                                        ・・・・これが中東の安らぐ空間構成といえる
                             


 
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by miriyun | 2010-09-24 23:27 | Comments(6)
2010年 09月 23日

コーヒー(1)・・・コーヒーの発祥

 1.カフア 
 コーヒーは紅茶・緑茶と並んで世界経済上でも重要視される栽培物である。いまや、世界中に植えられて大量消費されている。産地は中南米・アフリカ・インドネシア・ネパールまで広がっている。ともするとコーヒーはブラジルとかコロンビアがもとかと思ってしまいそうなくらいに中南米では大量に生産されている。
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 コーヒーという言葉の語源はカフアだ。カフアはアラビア語である。アラビア語が語源である語句はたくさんあるが、その中の一つとして知られている。
 ちょっとわかりにくいが、カフアの木でカフアの文字をつくってみた。

 2.コーヒーの伝承 

◆コーヒーの伝承として二つある。
一つはエチオピア説・・・エチオピアのカルディ(en:Kaldi)という名前のヤギ飼いの少年が、山中でコーヒーを食べたヤギが興奮状態になることに気づいたことから発見したという説
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      ↑ エチオピアのコーヒー豆

もう一つはアラビア半島説・・・アラビアの回教僧オマールがイエメン山中に追放されていたとき、鳥がついばんでいた赤い実を食べたところ疲労が癒えたという伝説で、1258年ごろとされている。

 だが、今となってはあくまでもいずれも伝承であって、確たるものではない。
だが、コーヒー栽培と引用のルートとしては、ほぼ次のような流れになる。

 エチオピアのアビシニア高原⇒イエメン⇒オスマン朝がイエメンを支配。アラブ各地でカフアと呼ばれ飲料広がる。トルコではカフヴェと呼ばれ、カフヴェハーネ(コーヒー店)で飲料されるようになる⇒1683年オスマンの第2次ウィーン侵攻⇒ヨーロッパに広がる⇒オランダがコーヒーをセイロン島・ジャワ島へ、フランスが西インド諸島へとそれぞれコーヒーを移植し栽培に成功する。以後プランテーションとして中南米やインドネシアなどで大量生産的に栽培。 ・・・きわめて雑駁だが、主な流れだけ書きとどめる。

 さて、いまでこそ、キリマンジャロとかブルーマウンテンとか世界各地の地名が着いたコーヒーブランドがあるが、アラビアコーヒーの最初のブランドはモカであった。それはイエメンのモカというところから出荷されるコーヒーのことだった。
    
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          ↑ イエメン イッブのモカコーヒーの豆 (のからか?)
*イエメンではコーヒーが手間をかけて香り高くつくられ、出荷するときに外皮をはずすなど気を使ったので、素晴らしいコーヒーであったという。その反面、イエメンで聞いたのは輸出用に豆のいいところはつかってしまい、そのため、地元民はそのはいだ豆の皮と規格外の豆を炒ってコーヒーとして飲用するのだという。
 その割合が今はどうなのか、味は豆コーヒーに匹敵するのかなど知りたいものだ。

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コーヒーの実は最初きみどりで次第に赤く、最後は黒ずんでくる。
 これは最初はそのままかじったり、薬として煎じたりという使い方があったが、焙煎されるようになったのは15世紀ごろだろうといわれている。

 3.コーヒーの飲用の論争・見解・洗礼!? 
  現在も知られているように、覚醒作用が若干あるため、薬学の進んだイスラーム地域では薬としても使われた。宗教学的には飲用を進めていいものかどうかということについては各宗教とも論争があったという。
 
 イスラームでは、論争が長くあったが、1454年アデンの法学者、ジャマールッディーンがイスラム法学上の見解で合法と判断して以来、やがて飲用しても構わないという見解が主流となって、それ以後広がっていった。

 キリスト教側では、1605年、当時のローマ教皇クレメンス8世が、それまではイスラームの飲料として知られていたコーヒーに洗礼を施しキリスト教徒も飲用することを認めた。(この項は、Wikipediaを参考にして簡単にまとめた)


 4.『私の名は紅』では・・・ 
 政治的には・・・
強大な為政者が国を治めて入る中で、庶民が勝手に集まり好きなように世間話をしたり、当然のごとく知識人が集まり政治に対する批判もするような・・・そんな格好の場が、トルコのカフヴェハーネやコーヒーハウスであったので、たかがコーヒーの店なのだが、あからさまに禁止した場合や、胡散臭い場所としてにらまれた時もあった。
 その例は、ノーベル文学賞受賞のオルハン・パムクの『私の名は紅(あか)』にも、オスマン朝における世情の一つとして描写されている。

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by miriyun | 2010-09-23 15:02 | Comments(10)
2010年 09月 22日

砂漠のバラ(6)

 砂漠の薔薇の花びら 

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砂漠の薔薇
砂漠の砂の下、かって水が通っていたところにできるという。
中央のバラの花びらがめをひく。とくに手前にくる花びらの柔らかさよ‼
とても石とは思えない。
左下に連なる小さな花弁は子どもの頃に野原でつくった花冠を思いおこさせる。
目にするたびにこの自然が為す造形に魅せられていく・・・。

 *自分の砂や石の収集癖はこのような砂漠の薔薇の一輪との出会いから始まっていた。

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by miriyun | 2010-09-22 07:12 | Comments(6)
2010年 09月 20日

大胆なロウケツ染め

 繊細なろうけつ染め

インドネシアのバチック、ジャワ更紗以外でもろうけつ染めはいたるところで行なわれている。

◆ 日本における現代ロウケツは次の手順で行なわれる。
①青花付け・・・生地に下絵を書く(鉛筆・青葉なの汁)
②豆汁引き・・・豆汁(大豆)を生地全体に刷毛で引く。これは色むらを防ぐため。
③ろう伏せ・・・白で残す部分をチャンチンまたは筆で描いていく。
④色染め・・・薄い色から模様を染める。色を重ねていく場合、うすいままのこしたいところにはまたろうを置いていく。
⑤脱ろう・・・わら半紙や新聞紙の上からアイロンでろうを溶かしてとる。
⑥蒸し・・・染料を定着するために蒸気で蒸す。
⑦水洗い・・・流水ですすぐ
⑧仕上げ・・・アイロンをかける
ジャワ更紗や日本のロウケツ染めはかなり複雑な紋様と色を出すので、その手間たるやたいへんで、この上に書かれたコースに+色を一色ふやすごとに作業が加算されていく。
 手間隙かけた布は繊細な紋様がきれいに治まる


 大胆なアフリカのろうけつ染め
◆アフリカでもロウケツの布はよく見られる。
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これも、ろうで防染してその間に濃淡はあるが藍と泥色の2色しか使っていない。
それでも藍色に大胆な図案が暑い時期にはシャキッとしていい。これの大きさ、ベッドサイズよりも大きく、両脇を折り込んで壁に掛けたが無理があってすぐにはずしてしまった。
 完全にベッドカバーか、6~8人がけのテーブルクロス向けの大きさなのだ。

 いつもテーブルには小花模様または無地のクロスを使い、特別な時だけシリアの刺繍テーブルクロスを使う。
 今回はこのろうけつ染めを使ってみたら、かってない大胆さでリビングの雰囲気がいっぺんにアフリカンになった。(ただし、壁にはアラビア書道がかかっていて棚にはラクダがいるが・・)
 ラフィアヤシの織物も、キリンのロウケツも、暑い季節に向いている。

 アフリカの布は、アジアほど細かい紋様で埋め尽くされることは少ない。とても単純簡潔だ。
織りでも染でも大胆な図柄・生命力などを楽しむものだと眺めながら思っている。
 
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by miriyun | 2010-09-20 12:24 | Comments(4)
2010年 09月 18日

写真で綴ってきたイスラーム…100万アクセスありがとうございます。

 
写真でつづってきたイスラーム 

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  ◆チュニス夕景◆

  太陽が雲ひとつない空を赤く染めながらじわりと沈んでいく。
     沈むにしたがって、色はますます鮮やかになり、
        街はシルエットとなって昼間の喧騒を忘れさせていく


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     これだけ沈んでも太陽は蜃気楼が起こることなく、まん丸なままおリていく。        
         大気に水蒸気もなく、また空気の層の違いもないのだろう
     このあと、家々に灯がともされていく。
         太陽のきっぱりとした光から、家庭の柔らかな光へと変化していく。
         こんな光の変化を感じながらレンズの向うを見つめるのが好きだ。

            イスラームの都市の美しい夕景だった。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
100万アクセス、みなさま応援ありがとうございます 


 この9月初めでページビューが100万アクセスを記録していた。
エキサイトのネームカードによるページビューがのるようになってからの累積だ。3日坊主覚悟で始めた「写真でイスラーム」なのでこんな数値になるまで続くとは夢にも思っていなかった。
 ちなみに何回見ても何ページ見ても一日一回だけカウントするのをユニーク数というのだそうだが、こちらは52万。いつもページビューの半分くらいである。このブログは見やすいように一回に9日分くらいまとめて表示されるようにしてあるが、それだけでなく他のページを見ていただいていたり、同じ日のうちにまた見ていただいているということなのかと思う。
  記事数も1300を越えた。一番新しい記事を見られている方ばかりでないのも特徴だろう。何割かは検索用語から調べてこちらにこられたかたが多いようだ。この2年間くらいでいつも多いキーワードは
 乳香・ラクダ・食の禁忌・なつめやし・民族衣装・アラビア書道・東京ジャーミー
 人物では、本田孝一氏、サヘル・ローズさんだった。
 (謎なのは星というキーワードで統計があるのだが、星なんていう漠然とした言葉でなぜここにはいってこられるのか不思議でならない。)

◆イスラームのメディアを通しての怖さばかりを伝える報道、
  そして、国際理解といいつつ、欧米社会ばかりを向いた日本
     それはちょっと違うんではないの・・・せめて自分の知っていることだけでも、メディアが伝えないことを伝えられたらと思ってはじめた。

今でも、イスラームの国名が出ると、「怖くない?」 「危ないよ」といわれることはある。興味のない人にはずっと埋まらない溝かもしれない。

 でも、通りすがりであっても、何らかの誤解を解く助けになったり、素敵な土地や人のぬくもりが感じられることがあったならうれしい。少しはそう思ってくれた人もいたかもしれないと思うようになった。
 そういう意味で、間違いだらけの文字変換が度々ありながら読んでいただけたことに、そして励ましてくださった方々に、ひたすら感謝なのです。
      
             ・・・・ありがとうございました♡                                         

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by miriyun | 2010-09-18 15:10 | Comments(20)
2010年 09月 16日

茶人・山田寅次郎とトルコ・・・エルトゥールル号その後

宗徧流*山田寅次郎 
鎌倉の鶴岡八幡宮三の鳥居を正面に見て、そこで右に進む道がある。それを道なりに行くと報国寺があり、そのちょっと先には現代6流派の一つ宗徧流(そうへん流)の茶道会館がある。

  宗徧流とは千利休(室町末期)の利休流の流れを汲み、利休の孫、 宗旦による質素簡明を第一とした、真の侘び茶を現代に厳しく伝えるもので宗徧(1627~1708)を祖とする茶の湯の流儀である。宗徧は利休の簡素な真の「侘び茶」を宗旦から直に学び継承した江戸初期の偉大な茶人のひとりである。
 この流派の8代家元宗有(そうゆう)・・・すなわち山田寅次郎はトルコとの関係が深く、場合によってはこの流派の関係者以外の日本人よりもトルコ人の間でよく知られているかもしれない。

エルトゥールル号の遭難 

日本ートルコ親善のために現れたトルコの戦艦エルトゥールル号が9月15日に横浜港を出航した。
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              ↑ 現在の横浜港を船の上から眺める

日本からは嵐の危険性も含めて止められたにもかかわらずの出航であった。
そして翌9月16日、つまり、いまから120年前のきょう、紀伊半島先端の沖でエルトゥールル号は遭難し、乗船していたトルコ人の540人ものいのちが海に奪われた。

① 武士として・・・家老の家に生まれる
 山田寅次郎はそもそも、沼田藩の江戸家老、中村雄右衛門の次男として生まれた。大政奉還の2年前のことである。家老の家柄ではあっても次男は次男。長子相続の「武士の家にあって次男は冷や飯食いである。よい婿入りか養子の話は大事にされた。ましてや明治となり武士という身分もなくなった後、15歳になった彼は請われて家元になるべく山田家の養子になった。しかし、若き寅次郎はすぐに家元としての仕事に打ち込んだわけではなかった。


② 国際ボランティア活動の先駆者
 日本ートルコ神前のために現れたトルコの戦艦エルトゥールル号が遭難したさい、その悲劇にいてもたってもいられなくなり、寅次郎は、いまでいう民間ボランティア活動として日本全国から義捐金を集めることに奔走した。そして今で言うところの1億円を越える金額が集まったところで、時の外務大臣に託そうとする。
 ところが外務大臣は、これだけの義捐金を集めた君が行くのがよろしかろうといったのだ。
 これが寅次郎とトルコとのつながりへと発展していった。

③ トルコでの歓迎・貿易・日本語の先生
 遭難から2年後、全国から集まった義捐金を持って、寅次郎はイスタンブルに渡る。
 民間人である日本人が義捐金を持って現れたということで、熱い歓迎を受けた。オスマン朝のアブデュルハミト2世にも拝謁する。スルタンからの勧めが合って、すぐに帰国せずにこの地にとどまって、貿易のための中村商店(中村は生家の姓)を設立する。それとともに請われて、将校達に日本語や習慣の講義をし、また東洋の美術品の整理を依頼されて行なっている。
 このとき、のちのアタチュルクも山田寅次郎の講義を受けていたという。

 トプカプ宮殿にはこのとき寅次郎が持ってきた生家、中村家伝来の鎧兜が収められていて、今でも時々展示される。

④ 貿易商として20年
イスタンブルに20年住み続け貿易商としてやっていく。ただし、トルコと日本は正式な国交を結んでいなかったので貿易面では大きな進展につながらなかったようである。
 しかし、公式にも非公式にもトルコを訪れた人たちは寅次郎のところで世話になってトルコに接することができたのだった。

⑤ 実業家にして宗徧流家元 
、1905年には一時帰国し、タバコを巻くライスペーパーでの成功大阪で東洋製紙株式会社(現・王子製紙)を設立した。第一次世界大戦後は帰国して、製紙業中心に活動し、関西実業界で活躍した。
 茶道の家元になったのは、かれが57歳になってからだ。トルコに出かけたまま空席となっていた家元の座はようやく埋まり第8代宗有となったのである。茶道界での家元として、弟子を率いて発展につとめた。 
 では、お茶の道だけに専念したのか?否である。
 こののちも寅次郎は1927年、吹田製紙を創業,1936年には三島製紙と合併、のちに三島製紙の社長、会長を歴任した。引退してからは茶の道にうちこみ後継に後を託し、90年の生涯を閉じた。
 どの仕事においても全力で打ち込んできた山田寅次郎。家元にして実業家で、トルコ理解の先駆者であった。
 
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 茶人としての道が早くから出来上がっていたにもかかわらず、山田寅次郎は自らの心に従って動き、トルコに渡り、請われるままに単身20年も滞在し、その生涯はトルコ友好親善の魁(さきがけ)としての役割を為していた。

 現在、大学生達が海外への留学を渋り、その数は激減しているという。先日アメリカの大学で哲学の教授が講義し、活発に学生が答えている姿がBSで紹介されて、あまりの面白さに連続して聞きほれた。しかし、このローマの劇場型ホールでで行なわれた講義に参加している日本人学生は1名だろうという声が聞こえてきた。
 また、自主的に自分の力で世界を見てやろうという気概も激減しているという。
 明治から昭和にかけての先人たち、あるいは平成になってからも活発に世界へと目を向けてきた日本が動かなくなっている・・・これも日本の危機の一つかと思う。

 こんな今だからこそ、9月16日にちなんで、トルコと山田寅次郎を見直してみた。

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by miriyun | 2010-09-16 23:14 | Comments(6)