<   2009年 09月 ( 21 )   > この月の画像一覧

高原の支配者

 パサルガダエ
紀元前6世紀、シラーズの北東のイラン高原に、創始者キュロス大王(キュロス2世)によるアケメネス朝最初の首都が造営された。それが「ペルシア人の本営」と呼ばれ、それが現在、パサルガダエ(パーサールガード)の名称となっている。

 
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ファールス地方の王キュロ ス2世(B.C.600頃~B.C.529)は、宗主国メディアを倒してイラン高原の支配者となり、BC559年 にアケメネス朝を起こした。キュロス2世はさらにリュディア、バビロニアを征服した。
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 キュロス2世の墓は切石を6段積み上げて、その上に切妻屋根をのせた墓であり、石灰岩でできている。高さ11m。200年のちにアレクサンダー大王が征服者としてやってきた時に、ここは墓の周りにいろいろな木が繁る美しい庭園があったという。広い空間の中央部にこの墓があり、周囲には円柱の回廊めぐらされていた。入口は1箇所だけであり、中には、黄金の棺、真紅の服・刀・装飾品などが収められていたという。もちろん、それらはアレクサンダーの軍が持ち去ったわけだ。 
 
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 のちに、イスラム勢力が入ってきたときに壊されないようにするために
ソロモンの母の墓廟であるといったという。また、アラビア語を刻み込んだとも言う。この文字が本当にその時代かどうかというと、もう少し検討を要する。

 二つの守護神

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 宮殿跡に、珍しいレリーフがある。片方の足は人の足だが、もう一方は魚になっている。半人半魚なのか。これはペルシアの伝説の中でカル魚、正式には魚のアプカルル(Fish-Apkallu)と呼ばれるもので、メソポタミア地方の伝説の中の生き物だ。半身は頭から背中にかけて魚をかぶったような姿をしている。知恵を授けた賢者の名を持つこの守護精霊であり、メソポタミア平原からこの地域に文明をもたらしたとされている。
アプカルルは、ヘレニズム時代のバビロン神官ベロッソスが著した『バビロニア誌』にオアンネス(Oannes)として現れる。オアンネスはペルシア湾から上陸してきて、ごく短期間に人々に文明を授けたといわれている。(Wikipediaより引用)


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 酷暑の中、いかにも粗雑な撮り方をして後悔した写真。
 なんと肝心な冠部分が入っていない。
 これはれっきとした人間型の守護神像。宮殿入口の門にあるレリーフで、翼が目を引く。
アッシリアの彫像各種につき物の翼と同じで、これもメソポタミアからの守護神といえる。

 このどうしょうもない写真の頭の上には大きな横広がりの冠と飾りがあり、それがエジプトの彫像と同じ形をしていたのだった。

  実は、メソポタミア地域に広がるメソポタミア文明の東西への広がりの様子や、エジプトからメソポタミアへの文明の影響が顕著に見られるのがイランのこの地域なのだ。
 今は干からびて、完全な廃墟にいくつかの巨石や柱があるだけなのだが、かって西からの文明パワーを次々にやわらかく受け止めて、使えるところは使っていった古代ペルシアが見え始めてきた。
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by miriyun | 2009-09-30 06:22 | Comments(2)

灌木の山

日本の山
 自然環境の違いは子ども達が絵を描いてみるだけですぐにわかる。まず山の色が異なる。日本では山は
緑で塗るのがほとんどだ。実際どこに出かけても山は緑である。あとは紅葉の色、茶色、雪が降れば白・・と、季節変化がある。

中東の山
 中東の山、ある程度降水量があるところでも、土は薄い褐色、であり、降水量が0に近づくにつれ、岩や赤い土だけの色になっていってしまう。

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                                 ↑ イラン中部 ↓

山と川、牛がテクテクと歩む。言葉でいうなら当たり前すぎる光景だが、よく見ると川の水の色が違う。川底の岩盤や砂の色が異なるのだろうか。
 そして山は丈の低い灌木はぽつぽつあれど、背の高い樹木はみあたらない。
 中東では夏は枯れ川(ワディ)になってしまう。だから放牧や遊牧がなされるのはほとんど羊や山羊なのだが、ここは川があるので珍しく牛が飼われている。

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 緑なす畑らしきものは見えるが他はやはり潅木あるいは草だけの山sであり、上のほうは山が形成された時のままのするどいラインをみせている。

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                                 ↑ ミニアチュールの岩山の部分のみ引用

 似たような気候の地域は、多かれ少なかれこのような光景になる。だから、絵にあらわされた風景は、山一つとってもまったく色が異なるのだ。 

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by miriyun | 2009-09-29 04:12 | イラン(ペルシア) | Comments(4)

危ない風景

 イエメンの道

 イエメンは石と日干しレンガの伝統の家づくりを崩さずにきた。それが1000年も前の町そのものでしかも美しい。そんな伝統の街である。
 しかし、近代化、工業化には遅れた。

 この国に旅客のための鉄道はない。イギリスの支配地が南部の狭い範囲だったことも一つの理由になるだろう。イギリスは植民地ではまず鉄道を敷くことが多い。物資の集散・軍隊の移送のためだった。しかし、それをやるだけの時間もなかっただろう。もちろん自然環境の厳しさが一番だろう。こも国はほんとうに山岳地帯で凹凸が激しい。、
 自分の国の道路作りは物資と人の移動に欠くべからざるものだったので、がんがんつくった。 ただし、それも中国の援助で中国人労働者がつくった道路が多いという。

 イエメンはアラビア半島にあって富士山級の山も擁する山岳地帯であるので、本来は徒歩とらくだ・ロバの生活であったが、道路が1960年代に整備されると急速に車が普及した。そこで、急勾配の上り下り・ジャリにも強く砂地にも強い日本製4WDやトラックが行き交うようになったわけだ。
 
 歴史的な要因と部族の対立などで危険なことがあるイエメンであるが、道路事情から見るとどうなのか。

① まず日本でもカラコルムでも中央アジアでも共通の危険・・・・それは高地を走るので、時には転落した車の残骸が見られること。

② 崖
手前のほうだけの岩の連なりを見て、日本にもこんなところが若干ある・・・と思ってみていた。

崖を見上げれば!!

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                                        ↑ (走行している車から撮影したので画質が悪いが・・・)
  
そのうち前方に見えてきたのは、山が割れているとびっくり!
 さらに見上げれば、その割れた岩山の上に立ちのんびり見渡している人がいる。

 危ない風景である。

ちょっとでも下の岩から崩れ始めたら、岩の上の人はもちろん、下の道路を通る車、さらにがけの下に家があったら、被害は計り知れないだろう。

③ 運転技術はかなり高い。日本ではないような厳しい道を毎日走るので、運転技術も修理技術も高いすごい人たちもいる。ただし、その中になれていない若者が実地で練習しているわけだから、危なっかしい人も混ざっている。熟練者が教えている場合もある。大体運転の教習所なんてものが中近東であるものだろうか。

④ 敬虔なイスラム教徒の国なので、原則酔っ払い運転の心配はない。

⑤ 道路標識・車のライトの点灯などは、壊れたらそれまでという場合もある。旅行者は夜の運転などはしないほうがいい。

 まあ、時がたてばこういった道路事情も次々と変わってくるだろうが、例の崖についてはコンクリートと金属のネットが渡されることはなさそうだ。

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by miriyun | 2009-09-26 10:09 | Comments(4)

「涙の柱」を求めて

 イェレバタン・サラユの涙の柱
 
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 治水のためのイェレバタン・サラユ(地下宮殿)には、古代ローマの柱がびっしりと再利用されている。
その中で、とくに目を引くのが、涙の柱といわれるものだ。
 光っているのと、緑なのは常に水が上のどこからか出ていて柱がしっとりとぬれているためだ。
 
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 涙のような形で、しかもぬれているから涙の柱といわれている。
だが、よく見ると涙のドロップ型から出る筋の向きが涙の形としては逆さに見える。だからピーコック型ともいえる。すなわち、クジャクの羽根型である。
 しかし、地中海沿岸、いたるところにローマ遺跡はあるが、ローマの文様にこのような文様は見たことがない。 イスタンブルの歴史は古くローマ帝国以前から、いろんな民族がきている。しかし、これだけの柱を作るとなると、ギリシア・ヘレニズム系だろうか?

博物館での置かれ方
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                      ↑ 周囲の建物も柱と同じ灰色で見にくいので、背景は淡色にしてある
 ローマ帝国以前のものであるというが、詳しい解説は本やWebでもなかった。

 そこで考古学博物館へ行ってみた。
館内に展示はなかったが、外で見つけた。なんと野ざらし状態で番号を付けられただけで置かれていた。
もちろん説明書きなどない。

街の中にも・・

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 イェニチェリレル通りを西に向かっていったら・・・

あった!!
本来ここにあったものなのか、地下宮殿よりもずっと太い柱の残骸が残されている。

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なかにはこのように柱が突き刺さっているのもあった。
しかも、涙文様(ピーコック文様)が逆さ!? 

こんな町の中にごろごろ、ローマ以前と思われる遺跡の柱がある。

 これこそが、イスタンブルのすごいところなのだと改めて感嘆した。
しかし、いまだこれがいつのものか確定できないのが残念だ。(なにか情報のお持ちの方がいらしたらどうぞよろしくお寄せくださいませ~!)

            ・・・・・・・なかなか真実を見せてくれない『涙の柱』紀行でした。

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by miriyun | 2009-09-25 07:04 | トルコ | Comments(0)

トルコを愛した人へ

 ほんとうに心からトルコを愛した人
彼女は、いつも微笑んでいた。柔らかな頬の線、そして暖かいまなざしで・・。
 今から10年近く前に出会い、9年版前にはロビー展にアラビア書道の作品を出していた。
ナスヒーで名前を書いていた。長くトルコにいたらしいとしか知らなかった。
だが、音楽を愛し、トルコの楽器にも詳しいことを折々に聞くことがあった。
 

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 最近ではペルシャ書体も丁寧に気持ちを込めて書き込んでいた。
しかし彼女は飛び立っていった、 彼女の愛したイスタンブールの思い出とともに。
そこでともに働いた人、ともに歩んだ人を残して・・・。ご主人の寂しげな姿に心が痛む。

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 彼女はいつも凛とした姿勢が美しかった。
 花びらも、葉もピーンと伸びたエブルのチューリップのようだった。
 そしてその葬儀には、その人によって愛され慈しまれた若者達が大勢つめかけていた。
 そして彼らの「大地讃頌」の歌におくられて逝った。

 忘れないでおこう。彼女の思いを、彼女の存在を・・・。
彼女は、かの地でピアノを弾き、竹のカラムで書をしたためて愛する人を待つに違いない・・・。

                (葬儀の日からずっと胸にひっかかっていました。
                彼女の存在をここに書くことで、ふれあった方がどこかで気づいてくださればと思います。黙祷)

<追記> 
その後、教室の彼女がよく座っていた後方の席に花が捧げられた。
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       その中に、トルコキキョウが香っていた・・・
by miriyun | 2009-09-23 15:51 | Comments(12)

夏の名残りと秋の色

日本の文化は季節感と強く結びついている。
  カメラを通して季節を感ずる。そんなことが日常における小さな喜び・・・。

        
 夏の名残り色

 
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   ビルの合間から飛行機が見えた。

   そこに残した飛行機雲は
       西の空に始まりつつあるの夕焼け色に染まった。



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  夕焼けもここまで行くと電線も何も溶けてしまったように見える。
      今沈まんとしているのに、なんと力強いことだろう。

   
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  さんさんと日をあびてきたオリーブは実をつけ収穫は近い。
    ビン詰めオリーブ、パンにねりこんだオリーブ、ピッツァの上のあなた。ハリッサ(北アフリカの唐辛子入りの香辛料ソース)と一緒のあなた、みんな中東にいくようになって好きになった。
  
 
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 嵐のあと、色の饗宴が始まる。おしよせる雲は影にその合間からは色が満ちあふれた。
このあと、空いっぱいの雲がオレンジの海のようになっていった。最近見たことないくらいのすごい色だった。

 秋の光と色

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              秋の光はやわらかく、
                    大地は木の葉から秋色に染まりだす。

◆自然の織りなす色の豊かさに驚かされる。その驚きが心地よい。

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by miriyun | 2009-09-22 14:27 | Comments(4)

イード・ムバーラク2009!Eid Mubarak!

 2009年のラマダンがあけました。
イード・ムバーラク!!

 どのくらいの方がラマダンの断食をされていたのかは別にして、世界のイスラム教徒の人口は、昨年の春にカトリック人口を抜いたと、なんとバチカンが発表していた。国連の統計を基にしているものであることと、出生率がカトリック教徒よりも多いことから、カトリック教徒も増えているが、それ以上にイスラム教徒が増えつつあると考えられる。
 そしてその数字は世界人口65億人(2008年)のうちの19%以上がすでにイスラム教徒だということだ。

 これだけの人々が一斉にラマダンをすることはとても同朋意識が強まることになるだろう。とくに暑い・苦しい時期を乗り切った方は達成感も、そして純粋にコーランの精神性の中にじっくりと浸れた方も多いに違いない。

 そして、ムスリムでなくても同じ地域に住んでラマダンの街を経験されたり、ともにイードを祝ったりする人もいる。中には、アフガニスタンのKさんのようにムスリムではないけれど現地のラマダンをする人たちの中でともにやってみることで何かが見えてくると頑張っておられる方もいる。ペルシア・トルコの方、また他の国へ出かけている人はやっていない場合も多々ある。やるかやらないかはそれぞれが心の中で如何に神を対話するかによるのだろう。何しろ神は寛容であられ、また、世界は多様であるのだから・・・。

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                        ↑ 書とバラは手書き。背景はPCデザイン                   
 「写真でイスラーム」より、世界のムスリム・ムスリマの方々へ、そしてイスラームの地域や文化を知ろうとされている皆様へ、
 ご挨拶のカードを気持ちを込めて贈ります。 

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by miriyun | 2009-09-20 23:27 | Comments(8)

ラクダのたてがみ考・・・ラクダ(33)

 ヒトコブラクダの鬣(たてがみ)      
 鬣(たてがみ)というのは、哺乳類の頭の上に一列になった体毛をさす。

 身近には馬のたてがみがあるが、ラクダはどうなのか?モンゴルのフタコブラクダはまるで帽子のように分厚いたてがみを持ち、首にも毛がびっしりだ。もちろんこれはー40℃にもなる自然対応の中でできてきた身体のつくりだろう。

 一方、ヒトコブラクダは乾燥した地域で、どちらかというと暑熱激しいところが多い。そこではたてがみは申しわけ程度にある。これまで紹介してきた32の話に出てきたラクダをふり返ってみたが、たてがみのある動物だという認識はできるのだが、ほとんど見えないほどに少ないラクダもいる。わずかにインドで撮影した宮殿暮らしのラクダはたてがみがやや多かった程度である。

 
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 しかし、ヒトコブラクダもたまには見事なふさふさとしているたてがみを持つものもいる。

 たてがみには頚椎に沿うように生える馬やキリンのほかに、頭全体に生えるライオンやヒヒがいる。そして人間もまた頭全体に鬣が生えた状態なのだ。
 ラクダは頸椎に沿うように生えている。そしてその毛がふさふさしている場合はアゴヒゲではなく首ヒゲのごとく長い首に沿ってたてがみ?がある。

 たてがみの有無は雌雄に関係があるのだろうか。
ライオンはたてがみのあるなしだけで雌雄の見分けが簡単にできる。しかし、馬は雌雄いずれもたてがみがある。
 ラクダは、外観で雌雄の区別はつかないのでたてがみとの関係も不明なままである。もちろん飼っているラクダの所有者も売買するラクダ市の販売者も雌雄はしっかりわかっていて値をつけたり、使い方を考えたりしている。年齢だって何歳何ヶ月というところまで、自分の生年月日よりもよく知っている。
 その見分け方を伝授してもらいたいものだ。

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 雌雄はわからないものの、左奥のラクダの目がふさふさたてがみのラクダを見つめているのが妙に気になったのだった。

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by miriyun | 2009-09-19 08:48 | Comments(2)

エルトゥールル号の遭難

1890年9月15日に日本の海軍から台風が危険だと横浜港を出航したエルトゥールル( Ertuğrul)号は、日本列島沿いに西進した。
 台風に遭遇す
 
 9月16日夜には和歌山県潮岬の隣、大島沖に到達していた。しかし危惧されたとおり、台風に遭遇し、荒れ狂う台風の暴風雨に木の葉のように揺さぶられ座礁した。、旧式木造船はまったく持ちこたえられなかった。
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ここは本州における最南端であり、太平洋に向かって突き出した岬と島がある。 樫野埼灯台下の岩礁「船甲羅」とよばれる岩礁があちこちに顔をのぞかせる難所であった。

その中で船は砕け、総員609名は暗い海に投げ出された。

↓ ↓ <地図中の手の形を動かせば、日本の中の位置から 潮岬や紀伊大島の詳細まで見ることができます>

その場所が紀伊大島の東側、樫野崎灯台があったその先の海だった。
波に打ち付けられながらも岩場にしがみつき、かろうじて断崖絶壁を這い上がったトルコ将兵がいた。彼らが助けを求めたことから、外国船の座礁を村人が知ることとなる。

 村人の救助活動

 すわっ、これはたいへんだと、大島村の男達は救援のため、岩礁のある海に駆け付けた。トルコ将兵で助かったものも岩礁に打ち付けられて大ケガをしていた。村の女達、子どもたちも次々と運び込まれるけが人を助けるために手当てをし、また湯を沸かし、食糧を炊き出し・・と全力で救助作業を行なったのだった。農業もままならない漁村が台風で出漁もできず食糧が極端に少ない中、非常用である貴重なニワトリまでつぶして救助活動をおこなった。

 
 こうして、夜が明け、寺や学校に収容された生存者が69名、そしてオスマン・パシャ提督をはじめ540名が犠牲となる惨事となったことが明白となる。この惨状は村から県へ、県から国へと知らされ、明治天皇も心を痛め、政府として可能な限りの援助を指示した。
 
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                              ↑ 神戸の病院に移され、手当てを受けたトルコ将兵と赤十字関係者

 イスタンブルへ
 日本国内の反響も大きく義捐金も多く集められた。

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     ↑ 日本海軍の将校。 
    (以上、3枚の写真はトルコ外務省主催友好親善より引用。所蔵:IRCICA(イスラーム歴史芸術文化センター) 

 10月5日に東京の品川湾から出航した日本海軍の「比叡」「金剛」2隻により、生存者たちは翌1891年(明治24年)1月2日にオスマン帝国の首都イスタンブルに送り届けられた。

 もちろん、アブデュルハミト2世によって、「比叡」「金剛」の乗組員達は歓迎され、直接引見されたものは勲章まで賜った。
 この遠い地での悲劇は、トルコの新聞にも衝撃をもって伝えられるとともに、大島村の人々の献身的な救助と、日本政府および日本国民の心をも伝えた。

 大島町、のちの串本町は1891年に慰霊祭を行なった。和歌山県串本町の樫野崎灯台そばには、エルトゥールル号遭難慰霊碑およびトルコ記念館が立つ。また、町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭も5年ごとに行われている。

 慰霊碑の変遷・・・大島村・県・貿易協会・アタチュルク
 慰霊祭の行なわれた1891年、村と県の力で慰霊碑が樫野埼灯台のある地の村有地に建てられた。それから40年近くたった1929年には「大阪日本・トルコ貿易協会」によって追悼碑が建立された。のちにこの碑に、和歌山県南部を行幸された昭和天皇が手を合わせられたという。

 このことを伝え聞いたトルコ人も動いた。
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すでにオスマン・トルコは滅び、革命後のトルコ共和国の指導者ケマル・アタチュルクである。彼はエルトゥールル号遭難犠牲者の墓地の整備と、トルコ式の慰霊碑建立を、1937年に完成させた。

 100年以上にわたるこの間に、この慰霊碑や墓地は近くの小学校の児童によって清掃・整備されてきた。紙くず一つ落ちていることがないというこの地を訪れたトルコ人は、この小学校(現大島小学校)を訪れて感謝を述べるのが常であるという。

 また、大島村は現在串本町としてトルコ記念館を作り、しっかりとした資料を展示運営している。
 2008年にはトルコ共和国アブドゥッラー・ギュル大統領も追悼のため、ここを訪れ、大島の人々に感謝の念を伝えている。

 ◆こうして、
  アジアの東の果ての日本でおきたエルトゥールル号の悲劇とそれに対する日本の誠意は、
        西の果ての国トルコで長く語り継がれ、日本ートルコの友好の礎となっていったのだった。  
              
                                 参考:トルコ大使館HP。 Wikipedia.
                                    100年にわたる日本とトルコ交流展解説キャプション            

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by miriyun | 2009-09-16 04:14 | Comments(0)

東の果て&西の果ての国・・・エルトゥールル号の派遣

  横浜の港は、いろいろな歴史がある。欧米はもちろん、インドや中東につながる歴史もある。

119年前の9月15日、この横浜港を出航していった船がある。トルコの船だ。
 アジア州の東の果ての日本と西の果てのトルコとは、明治天皇とアブドュルハミト2世の時に交流があったのだった。
1.日本とトルコの19世紀後半     

 日本は明治維新、トルコも近代化への過渡期にあたり、共通の不安としては欧米の圧力、資本力、技術力に旧態のしくみしか存在しない両国がいかにその危機から脱するかと汲々としていた時代である。
 日本では勝海舟・坂本龍馬らがいち早く近代化、海に乗り出す必要を唱え、多くの人物が、日本のことを憂い、且つ対策を次々とたてていった。
 一方、トルコは、かって広くて柔軟な人材登用など優れたものを持っていたのに、国益より自らの利益を重んじ、自分の一族を登用するなど官僚システムや軍事機構が内部から崩壊していったたために、「寝たきりの病人」「ヨーロッパの病人」とまでいわれていた。

 31代アブデュルアジズは官営工場を150もつくった。理想は求めたが、欧米人投機家だけをもうけさせることになり抜本的な産業振興・職人の育成にはならなかった。


2.アブドュルハミト 2 世とは・・・     
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                         ↑アブドュルハミト 2 世・・『近代イスラームの挑戦』 山内昌之署 中央公論社刊より引用

 1876~1909在位。オスマントルコの34代スルタン
 彼はバルカン諸民族の保護を口実としたヨーロッパ列強の干渉を交わすためにミドハト憲法憲法を発布、議会政治も始めた。しかし、ロシアとの戦争を気に廃止し専制政治を行い、汎イスラーム主義をシンボルとした。
 ロシアに敗北後、バルカンの領土の大半を失い、イギリスフランスの侵攻を防ぐためにドイツに接近し、政治的独立を保った。しかし、経済的には、帝国内の特権を多くの外国企業に与えざるを得なくなり、経済的植民地になりつつあった。         
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      ↑アブドュルハミト2世のトゥーラ(トゥグラー・花押)


3.交流・親善

 1887年、明治天皇の甥にあたる小松宮彰仁親王殿下、同妃殿下がイスタンブルを親善訪問した。
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                                        ↑ 小松宮彰仁親王

 この際に、アブドュルハミト2世は明治天皇より勲章を賜り、それに対し日本に答礼使節を派遣することを命じた。この使節にイスタンブルの造船所で建造された軍艦エルトゥールル号が選ばれた。
なお。エルトゥールル( Ertuğrul)とは、オスマン朝の始祖オスマン1世の父である。
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 この軍艦は三角の帆をもつ機帆船であった。排水量 2400 トンの木造艦であるエルトゥールル号は建造より 25 年を経ていた。1 年前に木造部分が修理されたが、機関部分は放置されれいた。
 実は、トルコ海軍のもつ軍艦は、1897年のギリシアとの戦争で旧式のはもちろん使い物にならず、最新鋭のトルコ海軍造船廠で完成させたばかりのハミディエも絶え間ない浸水に悩まされ、人海戦術で水をくみ出す有様であった。砲もほとんど破損状態で使い物にならなかったという。
 オスマントルコは国産の造船技術と自国民による兵員と技術者の要請に失敗していたとのちにわかったのである。

 しかし、このアブドュルハミト2世の決定により、エルトゥールル号は出航した。11ヶ月に及ぶ長い航海であったが、アブドュルハミト2世は汎イスラーム主義を掲げて、期待を込めてこの老朽木造艦を出航させていた。

 イスラームのカリフとしての力を持つオスマントルコがアジア各地のイスラームと連帯を組むことで、列強はトルコを滅ぼすことはできないだろうという考えだ。アブドュルハミト2世はアジアのイスラーム地域の多くを支配するイギリスを刺激することなく、連帯を呼びかける密使を派遣したかったようだ。それにはアジアの東の端にある日本への答礼訪問はなんとちょうどよかったことだろう。
 その意味もあり、この船はスエズを通り、アデン・ボンベイ・コロンボ・シンガポール・サイゴン・香港とゆっくり進み、各地のムスリムの大歓迎にあうのだった。

 さて、 艦には特別に選抜された 56 人の将校を含め 609 名が乗員していた。   
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                             ↑ 以上、3枚の写真はトルコ外務省主催友好親善より引用。
                               所蔵:IRCICA(イスラーム歴史芸術文化センター)
 艦上での将校とその名前が帰されている。今のトルコがラテン文字を用いているのに対してこの頃はアラビア文字を使っていたことがわかる。(テーマと関係ないのに、文字オタクなので、こういうものについ目がいってしまう)
 その年、海軍士官学校を卒業した若い少尉たちのほとんどがエルトゥールル号に配置され、この遠洋航海で経験を積むことが目的とされた。この軍艦はアブドュルハミト2 世より明治天皇への勲章や贈物を携えていた。

 軍艦エルトゥールル号は 1889 年 7 月にイスタンブルを出航し、様々な港に寄港しながら航海を続け、出航より 11 ヶ月後の 1890 年 6 月 7 日に横浜港へ到着した。

 明治天皇はトルコの提督を歓迎し、日本国民もトルコの提督(あり大佐は航海途上で提督に昇進していた)とその船を歓待した。また、軍艦エルトゥールル号では日本の海に停泊している 3 ヶ月間、軍楽隊の演奏による交流をなし、また、修復が必要な部分は日本が便宜を図り修復した。

 さて、出航を決めた日がやってきたが、日本は反対した。
日本に近づく台風があることを理由に出航の延期を勧めたが、これにもかかわらずエルトゥールル号は予定通り 1890 年 9 月 15 日に横浜港より出航したのだった。

                 参考*トルコ大使館HP。 『近代イスラームの挑戦』 山内昌之署 中央公論社
                     イスラム事典。『百年にわたる日本とトルコの友好親善展』の写真キャプション   

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by miriyun | 2009-09-15 00:17 | Comments(0)