<   2008年 08月 ( 27 )   > この月の画像一覧


16世紀、オスマン帝国の支配下に入るが、イエメン人はオスマン帝国に対し抵抗。1世紀後にオスマン勢力を駆逐し、ザイド派勢力による支配となる。

◆南北分断の始まり
 ザイド朝がイエメンを支配した後どうなったのか?
 イエメン南部地方を統治していたスルタンは1729年、イマーム・ザイディから独立を勝ち取り、以後、260年に及ぶ(・・ほぼ江戸幕府の統治時代と同じ長さである)南北分断の歴史が始まった。 

◆3C政策と3B政策に巻きこまれていくイエメン
 それから110年後の、1839年、古代からの交易の要衝であったアデンに大きな力が押し寄せる。

※アデンとは
アラビア半島の貿易の要衝。
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                                ↑象の鼻と呼ばれる印象的な岬
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 街のそばの標高500mを越す山の上にはオスマントルコ時代の城がある。
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 海のシルクロードの西の果てとして東からの文物はここに集積され、そののちエジプトやトルコを経てヨーロッパへ入っていった。

 ここをトルコとは違う国が狙った。イギリスである。イギリスはこのころからインドへの航路を確保し、この後の3C政策へとつながる政策としてアデンを占領した。最も重要な都市を押さえ、イギリス支配の港湾として大きくなっていった。
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 したがって、ここはイギリスの影響下での街づくりが行われてしまい、サナアやシバームのようなイエメンならではの建築は全く見当たらない。

 それに対抗するオスマン・トルコは1848年には紅海に於ける権益確保のため北イエメンの支配を強め、1905年には南北イエメンの国境が画定した。これは、ドイツを中心とした3B政策とつながっていく。ほとんど知られていないが、ここイエメンにおいても3Cと3B政策とも表現される2つの大きな勢力による侵略がここイエメンにも影響していたのである。

なお、アデンにはアルチュール・ランボーが一時住んだ家があり、資料と共に残されている。ランボーは日本にも影響を与えた天才肌の詩人だ。かれが、ここに住み着いたのもイギリスとフランスがこの頃は協調関係にあったことで納得できる。
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 しかし、天才詩人ランボーはここで何をしていたのか、資料館もなにやら退廃的な感じのするものであった。左は世を皮肉っているような目のランボー、右はアラブ巻きをしているランボー。いずれもランボーの実際の姿であり、こことエチオピアをいききして、彼はエチオピアの皇帝に武器を売りつけようとしていた武器商人をやっていたということである。 これは彼の詩の心とは別の世界と捉えていたのだろうか・・・。

◆南北に別れ、それぞれトルコとイギリスに支配されたイエメンはどうなっていくのだろうか?  
 一つの国が同じ民族同士で争う戦国時代があってもいつかはおさまる。
しかし、分断されたところが異なる国によって支配されたり、
    利権を求める国が群がってきた場合、
            元に戻るには幾多の試練が待ち受けている。

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by miriyun | 2008-08-31 13:33 | Comments(4)

光の技…蜃気楼

 もともと人間関係でも世の中の実質的な動きにも鈍い自分が、唯一ちょっと敏感なのはカメラを持っているときだ。

 突然空気がいつもと異なるような気がしてカメラを持って、外に飛び出したりすることがある。
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 これもそんな時のこと、日本国内にて。
 太陽が二段に団子状にみえる。これだけなら、以前にものせた太陽の蜃気楼かもしれない。しかし、その上にも段々になっているのでややこしい。
 これは空気の密度が異なるためだろうか。水蒸気の集まりである雲に層があり、そこに太陽が写っているのだろうか。あるいはその両方・・・雲と蜃気楼効果が重なったのかもしれない。

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 こちらはチュニジアの蜃気楼。蜃気楼は日本なら富山県が多い。温度差により、空気密度が異なる層さえあれば蜃気楼は起こる可能性がある。
 まず、浮いていること、見ている自分が座るなど低い位置目線を移すと見えなくなることなど特徴がある。

―――☆ いずれもちょっと幸運な自然との出会い
                            光の技との出会い・・・・


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by miriyun | 2008-08-30 22:43 | Comments(6)

ラクダだって怒る

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☆無垢なるラクダ
 目は閉じているが二重のまつ毛は愛らしさを感じさせる。
 まだまだ幼さが残る。ラクダにもこども顔、老成顔があり、よく見るとかなり年齢のちがいがわかる。ベドウィンは他人のラクダも年はわかる。

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☆怒れるラクダ
 哲学者のような顔をしながら、ラクダだって怒る。
ラクダ市でそれまでの親元から離されて売られていくとき、彼は怒った。何十mも先にいた私が何事が起きたかと思ったくらいの声をあげて怒っていた。 

 家族愛が強く、感情が豊かなラクダ。
    怒れるラクダ、もう親子で二度と会うことがないことを察したのだろうか・・・。
        
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by miriyun | 2008-08-29 07:04 | Comments(12)

アフガニスタンの悲報

 日本人として他国のために農業指導のために打ちこんできたペシャワール会所属の伊藤和也さんが遺体で発見された。
 タリバンがアメリカ軍や政府に手出しできないので、もっと狙いやすいソフト・ターゲット、すなわちNGO関係者や民間人を狙いだしたとは聞いていた。

ペシャワール会
 この会の現代表、中村哲医師は自らアフガニスタンで僻地こそ無医村こそ必要ということで、奥地へと入り込んでいった医師であり、その信念と実行力に満ちた生涯の業績に対して人道のノーベル賞としてのマグサイサイ賞が授けられたのをはじめ、その冷静にして厳しい現状認識と度々おこる非常事態にも常に果敢に立ち上がり対処してきた人物である。
 彼の行動こそが日本のNGOであり、米国のアフガニスタンン攻撃の時、政府の避難命令でやむなくすべての日本人がアフガニスタンを離れなければならないとき、分かれの席で現地の長老は言った。「たとえあなた方がもうこれないとしてもあなた方日本人がやってくれたことを忘れない。」 そして、中村医師は退避命令がなくなると、またアフガニスタンに戻ってさらにその道を尽くしたのだった。

◆アフガニスタンとNGO
 アフガニスタンは今よりずっと緑豊かで美しい国であった。本来の緑の大地がまた復活するようにと動いたのは、ペシャワール会だけではない。
 中田正一は、日本の昔からの井戸掘り技術で、現地調達の材料でできる井戸掘りでアフガニスタンの緑を取り戻そうとした。この技術はペシャワール会がたくさんの井戸を掘るときに使った。そして、中村医師は病気を治すだけではだめで水の問題に本気で取り組んだという。井戸・用水路・・・中村医師のエネルギーなしに現地の人をしてそれらをつくる意欲をおこさせ、自分たちのくらしのための労働に駆り立てることは無理であったろう。そして中村医師の示してきた道に賛同する人々が自らその道を選んで集まってきた。
 ペシャワール会のみならず、アフガニスタンにはいろいろなNGOとJICAが入っている。難民アフガニスタン人が戻ってきて農業をして生きていくためにやらなければならない地雷除去、タリバンに虐げられていた女子教育などいろいろな分野で活躍したNGO・・・・その働きを、命をかけて発信してきた「平和」と「人への愛」を、踏みにじる行為が行われた。 
 
 復活アフガニスタン、再生アフガニスタンを目指していた人、見守っていた人の夢がついえ去るのか? 

◆アフガニスタンに緑を
 伊藤さんも私が見た中田正一氏のアフガニスタンと上総掘りへの情熱を知っていて、動機のひとつとしてペシャワール会にはいった。そして地元に溶け込んで活動していた。
 伊藤さんのお父さんがインタビューに答えておられた。「本人には頑張ったといってやりたい。家族が認めてあげたい。」
 本当にそうだ。よく5年も頑張られた。そして、家族が、友人が、そして日本が認めてあげたい。そしてペシャワール会がもしいったん引き上げたとしても、可能な形で援助を続け、伊藤さんのしてきたことを無にしないように立ち上がってくれればと思う。

 ペシャワール会はもちろんだが、伊藤さんとまじかに接していたアフガニスタンの村人がもっともその死を悼んでいるだろう。そして、世界でNGO活動に励む人々がその死を悼むだろう。


                        すべての宗教や信条に関わらず、自らの気持ちとして
                                                       合掌
    
                                                          
by miriyun | 2008-08-28 00:33 | Comments(8)

イエメン☆街ゆく人々

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 サナアの町のど真ん中、石畳の道を行く人々は民族衣装がほとんど。年がいくほどに歩き方に風格があるように見える
 
☆そして、服装もさまざま
◆男性はクーフィーヤの頭に巻きつけるものあり、肩にかけるものあり。こどもたちのほうがせかせかと動いている。
◆女性はちょうどよくさまざまな年齢層である。10~12ぐらいでは好きな服装をしている。もっと幼い子供は足をいっぱい出したドレスもよくきている。
 10代前半の子はヒジャーブをしてロングスカートだがブラウスは普通だ。
 お母さんか姉さんは黒のヒジャーブに黒のアバヤだが顔は出している。奥の二人は真っ黒にしか見えないのでよく足元を見ないとどちらに向かっているかもわからない。かろうじて一人がこちらに向かっているのがわかる程度だ。

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 この顔のすべてかくしているのはどういう状態なのか。
 歩きにくくないのか疑問に思ったものだ。

 これは紗幕(しゃまく)のように、目が粗い布で、まじかにかぶるれば向こう側が見える布であり、外からは見えないが本人からはよく見えている。実際借りてかぶってみたら思ったより見通しが利くことに驚いた。
 同じように暑くないのかという問題についても中東・北アフリカのように乾燥しているところでは決して苦痛ではない。日差しをさえぎり、楽なくらいである。(裾が長いので歩きにくいというのはあるが・・・)

 ただし、強烈な湿気のドバイの夏や日本の夏、そして東南アジアはどうなのだろう。これは被ってみないとなんともいえない。そういえば、ドバイ首長のプリンセスであるシェイカ・マイタは暑い暑い北京で凛とした雰囲気でアバヤを着こなしていらした。あんなに涼しい顔で着こなすなんてとてもできそうにない。

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by miriyun | 2008-08-27 13:56 | Comments(4)
自然素材のお話
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◆イグサ
 はじめて歴史を学んだ頃、なんと多くのものが中国から入ってきたのかと驚かされた。 しかし、これもそうに違いないと思っていて、全く異なったものがある。

中国には畳はないのだった!

お茶の文化は中国を通ってきて器の文化としては伝わっただろうが茶道に見られる茶室でのお作法に当たるものは畳文化のうえに成り立っていた。
 畳は中はわらで畳表はイグサでできている。このイグサこそが日本の畳とそれをもとにした文化を生み出したといえる。見た目に涼やかで美しく丁寧な折込で敷物といっていいほどの美しさがよい。湿度の高い日本に向いた素材である。
 そして靴を脱ぐ習慣、高床で畳を敷いたために清潔で塵一つなく生活する清々しさ、きちんとすわって挨拶する習慣、穏やかな立ち居振る舞いなどがうまれてきた。

←写真はイグサの一種。
  まっすぐに伸びた緑の花茎が美しい。ほんとに節も曲がりもない。
  これこそ工芸に使ってくれといわんばかりの自然の恵みの植物である。
  花茎の上にそれぞれ緑の小さな花がある。

 実際の畳表は改良種のコヒゲといい、更に長い種類である。
この緑の美しい茎がイッパイに生えた写真が欲しいものだと思っている。それだけでも癒しになりそうだ。

 洋風化と共に減ってきた畳、しかし日本の文化をはぐくんできた畳は、減りはしてもなくなりはしない。畳の上に培ってきた文化は残していきたいものだ。
 
◆イラクの葦
 イラクではティグリスとユーフラテス流域の沼沢地に丈が3~4mの葦が群生し、イラクの沼沢地に住む人々は葦で家をつくる⇒ マーシュ・アラブの葦の家

 葦の茎をカサブーという。これをつぶして籠などの日用品もつくっている。
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 これは、20年以上前まだ平和だったイラクに駐在してこられた方が、縁あってくださったものだ。大事にしまっておいたが、自然素材が気になってきて、これを思い出し保存箱の中から探し出してきた。

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  葦細工。芯も何もかもすべて葦でつくり外の素材は使っていない。これで籠も皿も編む。
 浮島の生活にはこれは軽いことも適している。染めた葦がアクセントになっている。

 フセイン政権の時の迫害でこの地を追い出され、葦との共生ができなくなったマーシュアラブの人々、テロの恐怖と外国勢力の圧力とに抑圧されている人々。

  ☆この葦細工からそんなことがなかった時代の生活が見えてくる。
      これに焼きたてのホブズをのせ、家族で丸くなって笑いながら過ごした生活
         そんな姿が見えてくる・・・・・・    

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by miriyun | 2008-08-26 23:24 | Comments(4)

メディナの湾曲する道

 イスラームでは中世までに大都市が出来上がっていく。バグダッドを第一としてアル・カーヒラ(カイロ)、ダマスカス、チュニス、フェズ、イスファハン、イスタンブルなどには数十万の人口がメディナ(旧市街)に集中し、しだいにその範囲では足りなくなり、周辺部にも住居を作るようになる。

 旧市街にあるスークは地元の人々にとって重要な生活物資の供給先であり、旅行者にとっても興味が尽きることのない場所である。こうした意味でスークは多くの人が見に行くところではあるが、旧市街のほとんどは実は住宅地であり、住宅地に向かうと、どの国でもなにやら似た雰囲気を持つ。それは一体なぜなのだろうか。

◆袋小路かそうでないのか?

 メディナには袋小路が多い。地元の人はわかっていて歩いているが、知らないで入ってきたものにはまよいのもとである。
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     ↑チュニスのメディナ。日ざしよけになる高い通路の天井はレンガで積み重ねた紋様が見える。
ここから見ただけでは、袋小路なのか、道が続いているものか、全く判別できない。
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                            ↑ダマスカスのメディナ
 この道、主たる門から入り主道路からこの道に迷い込んでくると、この道を左に見ながら通っていくことになる。行き止まりに見えたが、近くまで歩くと正面の家は奇妙なカーブを持って斜めになっており左には道が続いている。

 このように袋小路なのか、続いているのか奥のほうまで歩いてみないと判別できないところが多いのだ。実際にメディナの道が袋小路である率はダマスカスが43%、迷路として有名なフェズは52%である(数字は『イスラームの都市世界』三浦 徹著から引用)。
 日本の住宅地でも若干の袋小路はあるものの、こんな半分にもなろうとする数字はありえない。

◆湾曲する路地

 メディナ(旧市街)は城壁で囲まれていた。そしてその中を網の目のよう、条里制とは全く反対の網の目のような、ありの巣のような道がある。スークなどの商業地はともかく住宅地は多くが道がわずかに湾曲しているのだ。
 
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 チュニジアならではの青の扉や鉄鋲で飾った扉が歩くごとに見えてくる。先を行く人たちの姿もカーブで見え隠れする。
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 ダマスカスは中心に古代からの『まっすぐな道』と呼ばれる道が通っているので、他よりは直進的な道があるように見えるのだが、その道もよく見ると曲がっていく。
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                               ↑チュニス・メディナ
 こどもが突然追いかけっこをして走ってきた。かろうじてカメラを構えたがシャッタースピードの調整まではまにあわなかった。これがまっすぐな道であったならずっと前から視界に入っていただろうに・・・。

★ こうした建築の仕方はやはり日干しレンガや焼成煉瓦・石などで自由に作り上げられるという点、ツーバイフォーなどの木造建築よりもずっと自由が利き、湾曲やアーチはお手の物である。
 また、城壁で囲んでいたわけだから外敵がやってきたときの一気に侵入できないようにという事も考えてのつくりでもあるだろう。
 このゆるやかな曲線と、家と家の間の道をまたぐようなアーチなどが独特の雰囲気を出している。こんなメディナはどこもかしこも味わいがあって散策が楽しい。ただし、微妙なカーブのためにいつの間にか同じところに戻ってくることがあるのでご用心!

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by miriyun | 2008-08-25 14:19 | Comments(5)
 8月24日・・・北京オリンピックが閉幕した。
★閉会式
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 「オリンピックの競技者の義務である本質は己に打ち勝つことだ」というクーベルタン男爵の言葉をNHKアナウンサーが紹介してオリンピックは終わった。そうして己に勝っていった人たちがメダルを取ったり、自己最高記録を出したり、予選であろう自国を代表して初めての選手として活躍したりしたのだ。
 TV放映はほとんどなかったが、メダルのない国の人々を讃えたい気持ちでイッパイだ。明日の総集編にはそういう面がたくさん取り上げられるといいと思う。

◆古代ギリシアからのオリンピックの本質は「戦っている国も戦闘をやめて競技で競う」・・・・この精神が生かされたかというと、グルジアとロシア、中国国内の民族問題等の問題はあったのが大変残念だった。
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  民族を意識した閉会式ということで上のように中国の少数民族のたくさんの民族衣装で踊っている様子も出てきた。
しかし、
 「開会式の民族衣装のこどもがほとんど漢民族だった」という報道。「そんなのは普通のことだ」という漢民族の市民の言葉。「俺たちには関係のない、オリンピックは漢民族の祭典だ」という少数民族の言葉、これらからすると、民族の服を着ている人が必ずしもその民族ではないということもあるかもしれない。50もの民族からなる国であることをうたい文句にするならば、それぞれの民族やその子供たちを呼んで参加させて共に謳歌する・・・その方がずっといいオリンピックになるのだが・・・。それから、9歳の子に歌う形をさせ、歌ったのは7歳の子という。その状態についてもきっちり歌った子のことも紹介して、別の場面でもいいから、例えば閉会式に出演させたり、実はこの子の歌ですと全国に流す番組で紹介してあげるとか、そういう個人を慮る懐の深さがほしいと思った。

  2012年はロンドン、警戒は必要だが自国民の言論まで抑えることのない、みんなで伸び伸び応援できるオリンピックに発展していくといい。

★アラブのシェイカ
 なお、開会式で旗手を務めた一選手のことを、”映画の1シーンのように印象的な方”と紹介していたが、その選手についてコメントがあり、教えていただいた。
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                          (↑3枚ともNHKTVを撮影して引用)
 UAEの入場で6人の選手のうち4人までもがドバイ首長国の首長家マクトゥーム一族であるという。そしては何と例の旗手はシェイカ・マイタ 、[詳しく言うと、シェイカ・マイタ・ビントゥ・ ムハンマド・アルマクトゥーム [シェイカはシェイク(首長)の女性形、ビントゥは娘]・・・現首長マクトゥーム家のムハンマドの王女であった。プリンセスはテコンドー選手として参加したが、テコンドーのみならずキックボクシング・空手の実力者でもあり、、自国で各種武道の会長を務めている。
 今回は1回戦で敗退したとはいえ、シェイカ・マイタはアラブの女性と気品と社会進出を垣間見せた。 また、6人中4人が王族ということはあまりスポーツというものが盛んでない国の中で、首長一族がスポーツ振興を率先して行っているということかもしれない。

 なにしろ、ドバイはUAEの中でも考え方が非常に前向きで、女性の社会進出についても率先して出るように指示していると聞き及ぶ。アバヤを着るところは着る。しかしスポーツウェアでスポーツをすべきことはする。毅然としていて、それでいて柔軟、そういう王女を今回見て、マクトゥーム一族の雰囲気の一端を感じ取ることができた。
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 ◆かって、オマーン国王が退位後に来日、日本女性が王室に嫁ぎ王女が産まれたがイスラームの国であるだけに女性については他と接触することがなく半分日本人でありながらずっと公の場に姿をあらわすこともその生涯が紹介されることもなかった。日本女性がオマーンに乗り込んで接触してようやくその姿が明らかになった王女である。若い頃はずっと不遇で外にも出られない状態であったという。
 それとは明らかに異なるイスラームの時代になってきている。

 何はともあれ、北京オリンピックの開会式の演出は歴史に残るものであり素晴らしかった。選手の努力とそこに至るまでにはドラマがあり、素晴らしさを見させてくれた。夢の祭典だが、たくさんの若者がこれに触発されてまた頑張る人がでてくる。そういったことに期待して夢の祭典を見終わった。 

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by miriyun | 2008-08-24 23:35 | Comments(4)
☆ワディラムにて
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ワディ・ラムの朝、

東には大きな岩がそそり立つ。
 朝日が目の前の岩山の上に突如姿をあらわした。
    仕事に向かう人とラクダの影が突然焼き付けられるように濃くなった。

ラクダが行く、もちろん左前脚と左後脚をそろえた側対歩
 あれれっ!
   それを引くベドウィンも右足と右腕を伸ばして側対歩?なんだか揃っているみたい。そもそも歩き方なんて自由。どちらの人もいるかもしれない。

☆ 武士の歩きは側対歩だった
 本来、日本人は側対歩だった。着物で走る。はかまで走る。そもそも手なんぞ振る習慣がないのでわかりにくいが、側対歩でないと着付けも乱れやすい。
 日本舞踊も盆踊りも手足の運びは側対歩.であり、能・狂言・歌舞伎もそうである。そうでないとあのススススッという動きはでないし、側対歩のほうが肩が揺れない。

 また、わかりやすいのは「赤穂浪士」の一場面。赤穂藩の若き藩主が将軍家の大切な接待を任され、正装(はかまの裾が長くてずるずる引きずるもの)で松の廊下を行くとき、堪忍袋の緒が切れて吉良上野介にきりつける松の廊下の場面。この長袴こそ、側対歩でないと絡まってしまって動けなくなる。

 他の時代劇で普通の着流しや袴でも武士はパタパタ走っていない。武士も町人もお女中も走ったとしてもスタスタという感じで腰を落として走っている。これがどうも側対歩だったようで、のちに藤澤周平小説の映画化された『隠し剣 鬼の爪』の中で扱われていた。 
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↑TV画面より引用。「あった~!」とあわてて撮ったので極めて映りが悪いが参考までに
幕末から近代兵器の流入と共に欧米式訓練が各藩や幕府で行われ、そのときに側対歩ではだめだということで斜対歩に直されたということなのだ。

 側対歩の人が斜対歩に直すのはとても大変だ。小学校の時など、手足が揃ってしまって行進をしている子がまわり中からおかしいといわれて泣く泣く直していた。今だったら言えるのに、「あなたのほうが日本人らしいんだよ」と・・・。

※側対歩の試し方 
逆に側対歩を今私たちがやってみるのは簡単だ。以前に馬の訓練でアラブ馬を側対歩にするには右と右を等間隔でしばりそろえて動かす訓練をするということを書いた。
 それから思い当たってやってみたら自分でもすぐにできた。それはこうやる。右手で右のズボンのひざ上20cmくらいのところを軽くつかみ、左も同じようにする。こうしておいてご家老様か何かになったつもりで胸を張って堂々と歩くとよい。あるいは大奥のお女中になったようにちょっと内股にしながら静々と歩き、曲がる時などには大きくうちかけをさばきながらまわる。このイメージで歩くとけっこうすぐにできるものである。

だから、もしかするとこの写真のアラブ人と武士は一緒に歩くと息が揃うかもしれないと、なんだか時間と空間を越えた空想を味わった。

  いつのまにやら900話、
       いつも他愛もなき言の葉にお付き合いいただき、皆様に感謝を・・・。
     
      
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by miriyun | 2008-08-22 17:23 | Comments(10)
1.丁子(クローブ)とは
 丁の形でもあるし、またそれは釘の頭と細い部分の用でもあるのでこう呼ぶ。また中国では丁香といい、香りが遠くまでわかるので百里香ともいう。
 フトモモ科の花のつぼみであり、つぼみのときに収穫して干したものだけが世界で珍重される芳香がある。クローブ特有の清々しく刺激的でやや甘い芳香である。
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 現在のインドネシアの島々の中でも東の方のスラウェシ島とニューギニア島のあいだに位置するモルッカ諸島の産であった。

★モルッカ諸島とイスラーム 
モルッカ諸島といえば、世界史の上では大航海時代にヨーロッパ諸国がめざし利権争いが激しく行われたということで知られている。
 しかし、そもそもモルッカとは何語なのか。
それは、
جزيرة الملوك 

ジャジーラトゥ・(ア)ル・ムルクとイスラームの商人たちが呼んだことから始まる。ムルクとはマリク(王)の複数であり、『王たちの島』という意味である。 ここに特有のクローブ交易に大がかりに手を付け始めたのはイスラームの商人(アラビア商人)であった。
 
3.日本への伝来
  クローブはアラビア商人からいろいろな民族を通して大量に運ばれていった。中国まで運ばれたものは遣唐使によって日本にも届き、貴重な丁子としてもちろん正倉院にも保管された。しかし、遣唐使の恩恵だろうか、しだいに一般的にもお香として、防虫剤として用いられるようになった。貴族や武士の家の家紋などにもこの芳香のある丁子の形が使われるようになる。屋号でも丁子屋などという名前があるくらいだから丁子というものが一般的な用語として理解できるほど使われ始めたということになる。

4.武士と丁子
 しかもこれはその芳香のゆえに武士の社会でも特異な使い方が知られている。戦国の世では戦場で勝ったものは自分が倒した者の首を取り、洗い清めて主君に差し出す。それが恩賞の元になるわけだが、名のある武将ほどいつか自分も首となるという覚悟を持つ。
 そういうときに備えて、戦場に臨む武将たちのうち、あるものは髷(まげ)の中に丁子を埋め込み、またあるものは兜(かぶと)のほうに丁子のお香をしっかりと焚き込んで出陣した。
 こうして、例え生首になろうとも清々しくあろうとする武士の心構えがあったのだ。

5.丁子油と武士

 イスラームは、科学分野で古代のギリシアの文化・インドの数学などを吸収していき、世界の中の科学・医学・薬学の中心になっていった。
 
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 これは中世のダマスカスの病院で使われていた蒸留器である。
このような中では花から香水を作るとか、精油を抽出して薬に使うとかはイスラームの人々にとってはごく簡単なことであり、当然クローブからも精油をつくるにいたる。

  これが、日本では丁子油と呼ばれるものである。

 日本ではその後、椿油と丁子の精油をあわせたものを日本刀の手入れに使っている。これはクローブがもつ特性のうち、錆び止めの防錆効果が知られていたからであり、これをごく薄く練って刀剣を保存することは今も昔も変わらない。

6.丁子の成分と薬効
 日本薬局方には7種の精油(ウイキョウ油・オレンジ油・ケイヒ油・チョウジ油・テレピン油・ハッカ油・ユーカリ油)が記載され、その中の重要な芳香性精油である。
 精油チョウジ油の主成分はオイゲノールといい、特有の芳香を有し、殺菌防腐剤、局所麻酔薬としても利用されることがある。
 芳香性健胃薬、鹿消毒、防腐、止痛に用いる。また、顕微鏡標本の封鎖剤、刀剣の防錆剤としても用いられると薬学の本にも明記してあった。

★☆★もっとわかりやすく身近な例を探してみたら――
◆薬として
 ・イソジンガーグル・・・うがい薬
 ・今治水・・・・・・歯痛止め
 に入っていた。あの蕾の形のものを直接噛んでいるだけでも効果があるらしい。
◆防虫効果
 ・虫がこの香りを嫌うので、長期保存の文物の保護やゴキブリよけにもなる。
◆世界史の中で
 ・身分が高い人に合う時は口にくわえて芳香を漂わせる習慣があった
◆香辛料として
 ・スリランカカレーとか、現地の人が作るカレーには粉にせずに、クローブのこの蕾の形そのものでボコボコ入れてある場合もあった。むろん普通のカレーやインドのカレーにも入っている。
 ・市販のウスターソース・ケチャップの香りにはこれが含まれている。
 ・お菓子類にももちろん使われている。
 ・インドネシアではクローブで香りをつけたタバコがある。

☆ 先日、秋田で刀剣の防錆油に丁子が使われていることを伺ってから、どうしても丁子の日本への伝来と武士の使い方を知りたくなり、ようやくまとめることができた。
 丁子とは意外に身近で、想像以上に多様な使い道があるもので、日本にもしっかりと根付いているものでもあった。
 
 私たちはいつの間にか、遠い国の産物の芳香と効用にお世話になっていることがある・・・。

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by miriyun | 2008-08-20 23:04 | Comments(10)

*写真を使って、イスラーム地域や日本の美しい自然と文化を語ります。日本が世界に誇る人物についても語ります。フィギュアスケーター高橋大輔さんの応援ブログでもあります。


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