<   2008年 06月 ( 20 )   > この月の画像一覧

ボスポラス海峡トンネル…アジアとヨーロッパをつなぐ

 ファーティフ・メフメット2世が、イスタンブル攻略の最初の拠点としてまず作ったのがルメリ・ヒサールであった。
 ◆ファーティフ・メフメット大橋
 1988年、そこにアジア側とヨーロッパ側を結ぶ2番目の橋が通った。名前はもちろん、トルコ人が敬愛する名をとり、ファーティフ・メフメット大橋となっている。前長1510mの巨大なつり橋には日本の橋作りの技術が惜しみなく使われた。
c0067690_22485166.jpg


 ◆ボスポラス大橋
 さらに旧市街に近いボスポラス大橋から2つの大陸を眺めてみよう。
c0067690_22493466.jpg

・正面――ヨーロッパ側の旧市街だが、最もオスマンの偉業が残り、伝統と歴史が色濃く残るところである。
・右――ヨーロッパ側の新市街、スルタンの近世に於ける近代的宮殿と新しい街があるところで、旧市街とは金角湾で隔てられている。
・左――アジア側で、トルコ半島そのものである。
 なお、この橋も耐震工事などで1999年に日本が補強をおこなっている。

 2本の橋によって現在二つの地域はつながってはいる。しかし、発展するイスタンブルの拡大にこの橋だけで十分な物流は不可能であり、押し合いへしあいの大型船から小船までがいきかい、事故が起きて当然という混みようである。

 EUへの参加と全面的な貿易の拡大をめざすトルコ、まだ難問は山済みとはいえ、いつかEUへという息ごみはますます盛んになりつつある。

 ◆ボスポラス海峡トンネル
 そこで、日本の企業,大成建設が請け負って進めているのがボスポラス海峡トンネルである。トンネルが完成すればアジアとヨーロッパをつなぐ大動脈となる。

・・・と、ここまでは原稿を用意していたが、その後の進捗状況がわからない。すると今夜のNHKでちょうどその場面が出てきたので、具体的な数字を聞き取り、それを参考にまとめる。
 
① 日本の建設会社の技術をしても難しい海
 深さ60m、60気圧の海水、さらに、ボスポラス海峡は潮流が激しい。
 
 *コンスタンティノープルの陥落で書いたように、1453年の攻防においても、この海峡からの潮流が激しいため、この潮流がまっすぐに当ってくるマルマラ海側の城壁はほとんど攻められる心配をしていなかった。だからわずかな兵で見張るだけですんでいた。 
 その潮流の速さは時速10kmと川に匹敵する速さで、船や重機から作業をしようとしてもみな流されてしまう世界有数の難所なのであった。

 ② それでもつくる
 「技術者冥利に尽きる」とインタビューを受けていたエンジニアが答えていたが、これは日本人として本当に頼もしい。考え、生み出し、不可能を可能にする力。これこそが日本が持つ最大の資源かもしれない。

 ③ 135mの管をつなぐ
  関門海峡やドーバー海峡では、巨大モグラのような穴掘り機が活躍したが、ここではできない。なんと、巨大な管を沈めてそれをつなぐという構想だ。
 それも一本の長さは135mの管・・・そんな化け物のような管を作る、それを11本つなげて1つのトンネルを作るという。
 *これには人がやらないことこそを考えたメフメット2世も天国でたまげているかもしれない。

 激しい潮流のなか、じわじわと管を下ろしていく。18000tの管が海峡に届く
ダイバーがもぐって前の管と接合できたかを確かめる。ずれが1cm以上あればやり直しというが、計ったらわずか数mmだった。たいした技術だ。


 ④ ヨーロッパとイスラームがつながる
 完成は2009年5月の予定であるという。しかもあと残すところ500m、残す3本の管をおろしつないでいくのだ。
 もう、完成は見えてきた。このトンネルには鉄道が通る。物流は一躍改善される予定だ。

 とうとうアジアとヨーロッパはここイスタンブルで確実につながろうとしている。
                      (数字についてはNHK「沸騰都市」より主に引用した。)


                                    応援クリックお願いします。  
                         ☆いつも応援ありがとうございます♪
by miriyun | 2008-06-29 23:06 | Comments(4)

パピルス(1)

 パピルスは筆記具の材料として古代エジプト王国から、ヨーロッパまで広く長く使われたものである。
そもそもパピルスとはどういう植物なのか。そして、どうやってつくるものだろうか。

 ◆パピルスという植物
c0067690_1330941.jpg

    ↑パピルスの穂先
 パピルスはナイル川などに繁茂するカヤツリグサ科の植物である。これをもとに古代エジプト王朝では「記録するための紙とした。

 ◆エジプトに於けるパピルス
c0067690_14295726.jpg

パピルスは文字ともなり大切にされ、死者を弔う葬送でさえ重要な役割を果たした。
c0067690_1345869.jpg


 ◆パピルスのみわけかた
 川辺では上の絵のように穂先が開いた形になる植物はたくさんあって、パピルスを初めてみる人には判別しにくい。 
 そういう時、迷ったら茎をみることだ。はじめてパピルスを調べ始めた頃の百科事典などのパピルスの図には度々、丸い茎のパピルスがのっていた。
c0067690_1341188.jpg

             ↑我が家の痩せやせパピルス
 実はパピルスは茎を切ってみれば鈍三角形なのであって、普通の植物のように丸い茎ではない。丸みを帯びた三角形であったなら、それこそがパピルスである。

 ◆パピルス実験
c0067690_14261749.jpg


我が家の大切にしてきた観賞用パピルスが冬を乗り切れず、あるいは手入れの悪さに耐え切れずダウンした時に、実験用に供してしまった。

c0067690_13593080.jpg

 この皮をそいでから中の白い部分をうすくそいで、同じ幅のリボン状にする。
 過去において読んだ本によると3日ほど水につけてから布の上で、縦・横に並べて加圧するという。残念ながら上の実に実験ではパピルスが細すぎて大阪県民の友人がそばにいたら、「お前はパピルスでかやをつくっとるんか~}と突っ込まれそうな出来で大失敗だった。乾燥による収縮が激しかったのですきまだらけで紙とは言えなくなってしまったのだ。

 まあ、成功の裏にはいつもこういう失敗があるものだと実感したのであった。


                                植物物語に応援クリックお願いします。  
                    ☆いつも応援ありがとうございます☆
by miriyun | 2008-06-29 13:49 | エジプト | Comments(2)

まなざしは語る

湾岸地域の女性の服装は黒のアバヤにヒジャーブである。

目だけ見えて他は見えないが、話しかけてくれる人は気さくで、そこが公共の場でなければ、つまり女性だけならば黒のヴェールも気持ちも解きほぐしてくれるだろう。

 目しか見えないとよけいに目の印象が強く残るものだ。ある国でステキな女性に出会った。
c0067690_2542039.jpg


 彼女の写真を撮っていいのよという言葉と、聡明で考え深く、何かを語っているごとき目が忘れられない。女性として共に共通の言葉で語り合いたかった女性である。

 外国人がそばにいるだけで避けて逃げていく人もいれば、いつの間にか寄ってきて質問を浴びせてくる人もいる。
 服装は習慣であり、個性はそれぞれのものである。

                                           応援クリックお願いします。  
by miriyun | 2008-06-28 16:58 | 写真館 | Comments(6)

ドッピの刺繍と柄考

まずは、これが何か見ていただこう。
c0067690_10262745.jpg


これだけ見てわかった方、中央アジアお好きですね!

 被り物の文化はシルクロードから北アフリカまで多数ある。ほとんどが布をターバンやヒジャーブとしてかぶるものだが中央アジアや東アジア、それにかってのトルコ帽、チュニジアのフェルト帽など成型した帽子も発達した。
 その中でチュルク系遊牧民出身であるウズベキスタンでは、ドッピと呼ばれる帽子がある。
c0067690_10273915.jpg

 これが、ドッピ、ソ連時代にはチュビチェイカといわれていたが、現在はドッピといわれている。まだ確かめていないが、チュビチェイカはロシア語だったのだろうか。

 花柄のほうが女性用、特に未婚の女性用であり、男性は老いも若きも黒地のを使っていた。刺繍の様子は結婚式用や身分の高い人用は金糸がふんだんに使われているが、通常のオシャレにはこの花やかな色合いで刺繍されている。男性用はいたってシンプルで、こだわりのない人はふだん用はミシン刺繍のものも使う。
 表を見ると左は手刺繍で右はミシン刺繍であった。
c0067690_104271.jpg

             ↑手縫いの刺し子
裏の丈夫な綿生地への刺し子も手縫いとミシン縫いがはっきりしている。

 さて、これらの帽子の使用頻度はどうか。男性は今も昔もよくかぶっている。ただし、近年は他のイスラームの影響だろうか丸型の帽子がぐっと増えてきているようだ。
 女性で街中を歩く人は無帽か花柄のスカーフであり、特別な行事でもないと見かけなくなってきている。もともとこれらの帽子を良くかぶっていたのは民族舞踊団の女性で、長くてつややかな細い三つ編みをたくさんたらして、その上にドッピをかぶって踊る姿はこういう髪のおしゃれがあったのかと驚かされたものだ。
 
◆女性用はさまざまな花を模しているが、男性用はどういう柄が多いのだろうか。
c0067690_10433896.jpg

 ウズベキスタンに、疫病にかかった時。勧められて唐辛子を飲んだらよくなったという言い伝えがある。それ以来、帽子の柄にもありがたい唐辛子を描いているということだ。
 実の中に唐辛子の種がびっしり入っている状態を表している。
う~ん、これはたしかに病気から守ってくれそう!

◆さて、この帽子の四角形ならではの特色は「たためる」ことにある。
c0067690_10493956.jpg


 トルコ系であるウズベキスタン人は遊牧民の流れである。遊牧系の民族の生活用具を見ているとどこかしらで、
      「たたむ文化」・・・に遭遇する。
                                           応援クリックお願いします。  
by miriyun | 2008-06-27 23:51 | 中央アジア | Comments(8)

パルミラの目覚めのとき

c0067690_21242073.jpg

                     
パルミラがささやくように目覚めを見せていく

 じわりと色が変化する
    ・・・・・・・そんな一瞬に酔いしれる


 ☆ パルミラはシリア砂漠の真ん中にある。 シリア砂漠は単調に走り続けるしかない。砂丘もなければ奇岩もない、ひたすら乾いた大地の続くシリア砂漠を行く。 
  ここはシルクロードの西端に近い。
 はるか東からやってきた旅人にとっては苦しい山越え・砂漠越えをした後に更に続く変化のない大地である。これはつらいものだ。

 そうしたところに突如現れる375本の列柱とその柱の台座にのっていた彫刻群がキャラバンを歓迎するかのように居並ぶ。もちろん、水の湧くオアシス都市である。豊かに穏やかに暮らす人々、商売の活気、こういった姿がどんなにか旅人を元気付けたことか。
 パルミラはこうしてシルクロードのバラと讃えられた。
                               
                                            応援クリックお願いします。  
by miriyun | 2008-06-25 07:19 | シリア | Comments(8)

最初のトゥーラ

 オスマン朝のスルタンのサイン(花押)であるトゥーラ(トゥグラ)は、いったいいつから使われたのであろうか。
 初代オスマンにはトゥーラはなかった。

☆トゥーラがかかれるようになったのは2代目のオルハン・ガーズィからであった。

c0067690_9252018.jpg

                 ↑「オルハンのトゥーラ」 ただし解説用

「オルハン・ビン・オスマン」
          ・・・・・・・・・・・・・なんとも単純明快な呼び名である。

意味は「オスマンの息子のオルハン」

  領土を広げ、ブルサを都としたこの人望厚き人物・・・その安定した人物像とこのトゥーラの3重の横線の安定感がかぶって見える。

◆ トゥーラに欠かせない3本の縦の線は間隔が同じではない。まださほど意識的にデザインしたようには見えない。また、よく知られたトゥーラにあるような二重の弧はない。
 しかし、ヌーンをあらわす連なりが、上へと伸びていきそうな雰囲気は持つ。また、書いているうちにヌーンの横への伸ばし方もしだいに大きくなっていったにちがいない。

 トゥーラには程遠いようであるが、ここからもう次の3代ムラト1世の時にはアームと呼ばれる弧が二重にかかれるようになる。
 そして、前出の、7代目メフメット2世のトゥーラは、横に広がった形であるがそれなりにバランスの取れた姿になってきている。

   ・・・・トゥーラは時代と共に進化しながら書かれていくのであった。

                                 応援クリックお願いします。  
by miriyun | 2008-06-23 23:11 | トルコ | Comments(2)

船が丘を越える(2)

 船頭多くして山に登る・・・ということわざがある。
大勢で好き勝手なことをいってまとまらないと、できっこない方向に行ってしまうという意味で使われるのであって、船が山に登るというのは、「ありえないこと」の代表的例えとして用いられている。

 しかし、メフメット2世にとってありえないことではなくて、やろうと思うことはやるという考え方であった。このことだけでコンスタンティノープルを陥落できたわけではないのだが、味方にとっても、敵にとっても心理的影響ははかり知れないものがあったであろう。

 このときの様子がタイルアートとなってイスタンブルにある。現代作家の手によるものであろうが、さすがにタイルの国である。
c0067690_92372.jpg

 横幅数mの大作品であり、また、北側から南に位置するガラタ塔方面を見渡したものである。艦隊の丘越えをイメージングしたアートとしてよくできている。

一方、南から北をみると、
c0067690_9234921.jpg

 ジェノヴァ人居住地はその後城壁はなくなったが、ガラタの塔は昔と同じ位置にある。
 鉄鎖で封鎖していた金角湾入口方面から北を望むとガラタの塔と町並みは見えるが、その背後で大工事がおこなわれ、前代未聞の艦隊の丘越えがおこなわれているとは誰が想像しよう。

絵地図タイルアートで見ると次のようになる。
c0067690_947857.jpg

  (絵地図であるため、岬の位置や距離感は正確ではない。城壁と街の雰囲気とおおよその位置関係を見るにとどめよう。丘越えのイメージラインはmiriyunが記入した) 

 唯一の可能性は、中立を表明していたジェノヴァ居住区の城壁の見張りである。いくら、鎖のあたりで砲撃がおこなわれ、トルコの軍楽隊が大音量をたてていても、全く気付かないというのも不自然だ。
 中立であるということと、スルタンの怒りがこの町に向くことへの恐れがビザンチン側への注進をとどまらせたと考えたほうが理にかなう。

 ≪注≫このとき、ジェノヴァ居住区はあまりにも無防備でスルタンの一声で全滅する可能性のあるところなので中立を表明、スルタンに挨拶しつつ薄氷を踏む生活をしていた。一方、ジェノヴァ本国はビザンチン帝国の危機にたいして船と人員を派遣して皇帝コンスタンティヌス11世を援助していた。
c0067690_9243955.jpg

                ↑ 赤はビザンチン・ジェノヴァの艦隊
                   紫はトルコ艦隊
 こうして、70隻を越えるオスマン艦隊が金角湾に半日で滑り込んだ。地図を見るとわかるようにこれによって、海での形勢は逆転。ビザンチン・ジェノヴァ船はトルコ艦隊に挟まれた形となったのであり、いつでもトルコ側はこれを倒せるという優位にたつことになった。

                                目で見る歴史に応援クリックお願いします。  
by miriyun | 2008-06-22 09:54 | トルコ | Comments(4)

船は丘を越える(1)

◆メフメット2世は屈辱に震えた ・・・1543年4月20日のコンスタンティノープル包囲中の海戦の結果である。
 彼は寝もやらず考えた。金角湾を鎖で封鎖されている劣勢、操船技術が敵にかなわない劣勢、これらを何とか挽回しなければ全体の士気にも関わる。
 
◆明くる、4月21日・・・ メフメット2世は、早朝から指令を出していた。
 ジェノヴァ人居住地の城壁の東側に各部隊を集めて、ふだんも使っていた城壁の外側にある道を幅を広め、かたく地ならしをさせた。兵士たちには何のためかはわからない。部隊ごとに分担しての地ならしで、競争するかのように作業をしていくので早い。地ならしが終わるとその上に木材を並べていった。

◆4月22日 艦隊は丘を越える?!

 ① 動物の脂
 坂を上る道に敷き詰められた材木には動物の脂をどっぷりと塗る。
c0067690_1415716.jpg

           ↑
② 台車に押し上げる
 車輪つきのそりのような台が一対用意され、ボスポラス海峡に集まったトルコの船をその上に押し上げる。そして台車と縛り付ける。

c0067690_13481720.jpg

③ 牛は引く、兵士は押す 
 台車に載せられた船は道の左右に数十頭ずつ分かれた牛によって引かれていく。後からも人の手によって押されていく。白馬にまたがり指示をしているのはメフメット2世。21歳なのにこのおじさん顔は威厳を表すためだろうか。

④ 目くらましの砲撃と軍楽 この間ビザンティン側の目をそらすために金角湾の鎖のあたりで激しく砲撃を加えた。すべてのビザンチンの船は鎖を守る体制をとっていた。

 こうして、見る人々が唖然とする中、メフメット2世は当然のごとく顔色も変えずに采配をふるっていった。

 現在でもガラタの塔に行くだけでもけっこうな坂であるし、海辺から車でタクシム広場に向かってもかなりな坂を上っていかなければならない。最も高いところは海抜60mのところであった。だれがここを船を登らせようと考えるだろう。しかも一艘・二艘ではなかった。七十艘を越える艦隊を超えさせようというのだ。

c0067690_1691386.jpg

 丘を上りつめるとあとは下りになる。そうなればわずかに押すだけで滑っていく。そして、これまでラテン人の強固な守りで一隻も侵入できなかった金角湾の奥に、次々と70隻の船がすべり進水していくのであった。
 テオドシウスの城壁で守りに付いていたビザンチン側の人々は声もでなかった。浸水した船はすぐに周りを囲み、防御の陣をはり、次にやってくる船を守った。しかし、その必要もないくらい、ビザンチン側はあまりの事実に驚愕し、目の前の事実を信じられず、呆然とするのみであった。

~~☆~~~☆~~~☆~~~☆
 艦隊の丘越えはメフメット2世でなければ考えないし、実現しなかったのではないかと思う。

 海戦での屈辱から、すばやい決断と迷いのない指令と無駄のない工事、さらに一糸乱れず、20万人近い軍勢を働かせる統率力・・・これが21歳のスルタンのなせることなのか、少なくとも、彼は少年時代からの経験で身体は21歳でも、精神面は実年齢とはかけ離れていたのだろう。

                                 応援クリックお願いします。  
by miriyun | 2008-06-21 14:25 | トルコ | Comments(6)

メフメット2世の教科書

 メフメット2世は苦しい少年スルタン時代、不遇で荒れた時代、征服欲に燃えて躍進した時代とあり、19歳からは誰一人として逆らえないような力を持った。
 驕慢で自己満足に陥ってしまいそうな年齢と権力であったが、彼がいつも冷静に学ぶ気持ちや、アレクサンドロスやカエサルなどの人物をめざしていたことは、自分なりの基準を持ち続けたということが言える。

 歴史はローマ帝国史などを毎日、自分のためによませたというし、また彼のための教科書も作製されていた。
c0067690_16523273.jpg


そしてその一部をじっと見ると・・・
c0067690_16524253.jpg

 左上の円形の中にメフメット2世のトゥーラが入っている。これはメフメット2世のための数学の教科書であり、15世紀の工芸品としてもさすがにうつくしい。
 また、権勢を極めたメフメット2世が常に学び続けたという点が、やはり違うんだなあと感じさせられた。

                                 応援クリックお願いします。  
by miriyun | 2008-06-19 07:10 | イスラームの工芸 | Comments(8)

メフメット2世のトゥーラ

 スルタン・メフメット2世のトゥーラを自分なりに書いてみた。読み方・書き方を覚えるためにも書いてみた。
c0067690_4398100.jpg

                                 ↑自作*スルタンメフメット2世のトゥーラ
  メフメット・ビン・ムラト・ハーン・ムザッファル・ダーイマ
  ムラトの息子であり、ハーンである永遠の勝利者メフメット・・・という意味である。
  
  *トゥーラ(トゥグラー)とは・・・アラビア語)はスルタンの署名、日本の大名の花押にあたる。


 スルタン・メフメット2世はどんな人物だったのか。少年にしてスルタンになったという経緯は書いたが、何しろ誇り高き人物で、簡単に自分を出すような人ではなかったようだ。 内なる情熱を秘めながら「、表には冷徹な面しか見せないようなところがある。
c0067690_657644.jpg

 また、トルコ語・アラビア語はもちろん、ギリシア語・スラブ語を話し、歴史・地理に強い関心を示した。

さて、彼の名前は各種の本にマホメット2世と書かれていたりする。塩野氏の本もそう表記されている。ヨーロッパではそう呼ばれてきたため、日本もヨーロッパ周りのマホメットが入ってきて、過去においては世界史教科書をはじめとして多くがマホメットと表記していた。

 しかし、実際はトゥーラで確認するとアラビア表記の彼の名は預言者ムハンマドと同じmhmdの子音からなり、アラビア語ではもちろんこれをムハンマドと読む。
 そして、トルコ語ではMehmedと読みをラテン文字表記する。するとメフメッドとなる。それではここで書いているメフメットは何なのか。トルコ語は語尾ではにごらない読み方をするということであった。
 するとMehmedと書いて、メフメットと読むのがもっとも正しいということになる。

                                 応援クリックお願いします。  
by miriyun | 2008-06-17 06:37 | Comments(6)