<   2008年 05月 ( 25 )   > この月の画像一覧

食べる乳香・・・乳香(7)

TVで乳香を扱っていた。
服を焚きしめるなどは以前に紹介したとうりだが、ちょっと気になったことがある。
c0067690_11195747.jpg


◆昔は食べることもおこなわれていたと司会者が解説していた。
 しかし、実際は自分でも普通に口にする。

 はじめて乳香にであったのはカタールの人からいただいたとき、こうやってガムのようにかむのだと教わったのだ。
 したがって煙を出すよりは、まずは食べていた。ちょっと見た感じでは石のようにが、実際は乳香の木の樹液であるのだから口にするのに違和感はない。香りの良い柔らかガム、いや食べられるからグミといったところだ。口が香辛料ほどにきつくなくさわやかな感じがする。
 抗菌作用・鎮静効果効果、胃腸薬・若返りの薬、さらには神に近づき悪霊(アラブではジン)退治までおこなう、さしずめ万能薬扱いである。
 TVでは甘酸っぱいという声もあったが、あえて言うなら「甘さわやかな生薬風グミ」・・・これではなんとも想像しにくいか・・・香りほど表現が難しいものはない。

 
c0067690_9244326.jpg

                       ↑アラブ・イスラーム学院展示の香炉
香りはソロモンにアレクサンドロスからハトシェプスト・クレオパトラに至るまで各国の王や女王の垂涎の品であり、当然自分の王国にこの木を移植した王たちもいたがことごとく枯れてしまった。
  乳香は乱獲にも移植にも弱いデリケートな木あり、イエメンの木はなくなり、今ではオマーンとソマリアなどごくわずかな地域で採取できるに過ぎない。古代ほどではないが貴重であることは変わらないし、今後気候の変動などがあれば絶滅さえも心配してしまう木である。

  乳香の産地であるオマーンでは男性のアラブ服ダシュダーシャの首もとに房がでている。これをファラーハという。
c0067690_23474053.jpg

                   ↑世界不思議発見より引用
 このような房は他の地域のアラブ服でも見かけることがあり、自分が持っている民族衣装もこれが付いている。しかしこれほど大きくはない。
 なんだろうかと思っていたものだ。それがこの番組で明らかになった。なんとこの房に自分ならではの香水をつけで出かけるのだという。なるほど~。これは使いやすいし、忘れずに香りの身だしなみを整える習慣がつく。
 なお、この香りは世界最高といわれる香水アムアージュの原料の一つとして使われている。

 香りの文化は香道の発達した日本と共通していたが、その後日本ではどちらかというと無香に進み、アラブは強い香水をつけるほうへすすんだ。
 かなり強い香りを身に付けるイスラーム地域の人もいる。自分としては強い香りは食品やそのほかへの移り香もあり日本のように低い天井・狭い家屋には向かないと思う。

 しかし、乳香の自然で甘さわやかな香りだけは気に入っている。

                            応援クリックお願いします。  
by miriyun | 2008-05-31 23:50 | Comments(16)

クラスター爆弾全面禁止へ

NGO主導型の国際会議が、21世紀の型なのだろうか?

1.対人地雷禁止条約
 1999年発効の対人地雷禁止条約もNGOが主体であった。そうでなければ成り立つはずがなかった。それを見事にやり通し、賛成した各国もそれを守った。日本も数多く所持していた地雷をすべて廃棄した。そして、日本を含め多くのNGOがアフガニスタンやカンボジアなど多くの地域で地雷除去という静かで慎重な戦いをしている。

 注)手作業で一つ一つまいたり埋めたリした地雷でさえ、いまだに世界に掘り返すことができないほど(1億個)埋まったままである。アフガニスタンやカンボジアでの被害は報道されているが、最も驚いたのは、地雷残存数が最も多いのがエジプトであったことだ。エジプトには西部砂漠のなかに2千万という世界最大数の地雷があるという統計であった。しかも英独の争いの中で仕掛けたものであるという。

2.クラスター爆弾の禁止へ
 地雷であってさえ。除去が遅々としてすすまないというのに1個の爆弾が88もの子爆弾に別れるクラスター爆弾は危険極まりない。
(最近の使用例→ レバノン戦争の停戦直前の3日間にイスラエルがレバノン住宅密集地に投下)

 今回もクラスター爆弾の恐ろしさ・戦争終結後も残るクラスター爆弾による一般人の被害、子どもたちの被害を調べ示し説得したNGOが活躍した。それがクラスター爆弾連合(CMC)と赤十字国際委員会(ICRC)でクラスター爆弾被害者の体験を含めて根気強く訴えた。

 世界に75カ国程度であろうといわれているクラスター爆弾保有国のうちのほぼ3分の2の国がこの条約に調印することになるだろう。

 【クラスター爆弾禁止条約の一部】
◎ クラスター爆弾の使用・開発・製造・保有・移転を禁ずる。
◎ 条約発効から8年以内に保有するクラスター爆弾を廃棄。
◎ クラスター爆弾の残存物除去を技術的・財政的に支援。
 
 そして、最後に英仏独日が希望して条項に加えた21条は次の条項である。
◎ 条約不参加国と、条約が禁止する活動を伴う作戦に従事することは可能。


3、締結への障害を乗り越え
 当初、イギリス・フランス・ドイツ・日本は全面禁止は不可能といていた。この会議に参加していること自体で少なくとも規制に賛成しているのだが、全面は無理というグループだ。ここには参加をしていないアメリカとの共同作戦が取れなくなってしまうこともあっての反対でもあった。

 しかし、骨子の最後21条に共同して作戦参加ができることになって、この4カ国は次々全面禁止に動いた。これによって世界の有志国110カ国が全会一致でクラスター爆弾禁止条約案をこの国際会議において採択した。正式な締結は12月3日である。もちろん子の21条があるということ自体も問題なのだが、これがなければ全面禁止もなかった。
 議長国のアイルランドのマーティン外相は、「今回の条約は政府とNGOの協力で完成した。ICRC とCMCの、深い知識に基づいた疲れを知らない活動に敬意を表する」とNGOの活動を高く評価した。
 CMCの代表は、「人道主義は山を動かし、英独仏日も動かした。新しい外交の形が生まれた」と述べた。(読売新聞2008.05.31朝刊より引用)

4、不参加国こそが最大の問題  
 ただし、当然問題点は、とんでもなく大きなものが残っている。これに強固な姿勢で不参加としているのがアメリカ・中国・ロシアなどだ。こういった武器を大量に保有し最も参加すべきであろう国なのだ。これらが参加しないのには国の利益最優先、そして何よりもわが道をかってに行くという大国主義が見える。

 民主主義という言葉が全世界でもてはやされた頃、確かにリーダーだったし、ヒーローだった国がある。しかし、今もそうであるのか。それぞれの国民の中にも意識がとても高い人もいれば、国によっては情報が制限されているために、世界の人々を理解するための根底の知識がない場合もある。

5、新しい国際会議の持ち方
 国というものだけに頼ってきた国際社会が、国を背負ったままではどうしても国の利害が優先して、良いとわかっていてもそちらには踏み出せない。そういう時代になっている。そのためにしがらみがないNGOが、使うほうの立場でなく使われたほうの立場を知っているものとしてその武器なり危険物について警告し、国際会議を引っ張る。

 そういう動きがこれからの動きであるのなら、それも視野に入れて国際社会を考えていくべきだろう。国際交流もある程度おこなわれるようになり、こうして国民ではなく地球の市民としての時代を迎えている。国として参加しない国があっても、その中の意識の高い人々が行動していくことができる。地球市民としてのシティズンシップな考え方が必要な時代が来ている。

                            応援クリックお願いします。  




 
by miriyun | 2008-05-31 11:10 | Comments(4)

金箔のカリグラフィー

c0067690_784149.jpg

  オスマン・トルコのカリグラフィーは、これまで発展してきた書体の充実度を高めると共にディーワーニー書体も確立させてきた。ここではカリグラフィーは多彩な発展を遂げた。

 これは葉脈の上に、金箔の文字を張ったものであり、19世紀の作品。書家はブルセヴィー・サアトチ・メフメット・エフェンディである。文字はスルス体を中心としているが、最下部はナアス・ターリーク体で横線を意識して書かれている。
下地はバラ・クワ・タバコ・栗・アイボリーなどの葉脈で、そのため透明感のある作品になっている。
 書家の技量だけでなく、金箔の工芸家の技量が高度で、それを愛でるスルタンがいて初めて出現した作品であるといえよう。
 
              応援クリックお願いします。  
by miriyun | 2008-05-30 05:15 | トルコ | Comments(8)

住んでみたい日干しレンガの家

自由建築のきわみ、日干しレンガの家。
 気候風土にあってこその家であって、しかも少しでも雨が降るなら毎年の修復が必要になるが、建築の自由さは抜群!
c0067690_22103230.jpg

上方下円の家、四角い部分が出っ張っているのもほほえましく、こんな風に自由デザインの家を一生に一回くらいはつくってみたいものだ。
c0067690_22105440.jpg

屋根のツンのところも、この家の主のこだわりがでている。
あの窓辺に座って外を眺める・・・そんな気持ちになってごらん下され!
           
              応援クリックお願いします。  
by miriyun | 2008-05-28 06:15 | イエメン | Comments(8)

イエメン車の直し方

 
c0067690_78739.jpg


日本車は世界で抜群の信用がある。
地元ドライバーも嬉しそうに言うし、実際こういう車を運転していることに誇りを持っている。技術もたいしたものだと思う。運転免許をとるしくみがあるのかどうかは知らないが・・・。

 さて、山また山、時に砂漠、なんていうところを走っていると、すぐにエンストする。
そういったとき、いわゆる日本における工具のようなものは彼らは何も持っていない。誰でもできるわけではないようだが、ベテランのドライバー、例えば写真の左の人物は、いつでもよく切れない刃のないジャンビーアですべて直していた。なにやら部品の一部を切ったり叩いたりしてあっという間に直して、仲間にエンジンをかけさせてみる。
 エンジンの元気な音が響き、仲間のドライバーに笑みがこぼれる。

いまだにこのアナログな直し方、すごいなあと思う。
  たしかに道具がなければないで、それでも経験を積み重ねてやっていくしかない時はあるものだ。

 以前には日本でもあたりまえだった時もあったに違いないが、今はそういう生活もしなくなって久しい。

 それにしてもトヨタの4WDって、そんなにアナログな方法が通用する車だったんだ~!

                        応援クリックお願いします。  
by miriyun | 2008-05-27 07:18 | イエメン | Comments(8)

イスラム化とザイド朝…イエメン史3

****イエメンの歴史をちょっぴりまとめている****
1.異民族の侵入  
 紀元一世紀以後になると、まずはローマ帝国やエチオピアがたびたびこの地域に侵入したが、長期支配にいたったものはなかった。

2.イスラーム化
 628年、当時地域を支配したペルシア出身の王はイスラム教に改宗し、彼にしたがってすべての部族がイスラム教徒となった。

☆この時代に建立されたモスク
c0067690_2144226.jpg

 タイズ近郊のアル・ジャネット・モスク。
国内に3つ残る預言者ムハンマドの時代に建てられたモスクの一つ。伝道者の一人、モアッド・イブン・ジャバルによって628年建立されたという。
c0067690_22433.jpg

子どもたちが声を合わせてコーランを読誦していた。
c0067690_22236.jpg

また、このモスクの中庭の中央に背丈ほどの支柱があり、これが何を意味するのか不明。(大きな日時計の可能性もある)

 正統カリフ時代、イスラームの一員として聖戦に従事した。
 イスラームの発展期、ウマイヤ朝のダマスカス、アッバース朝のバグダッドと帝国の首都は北になり、このアラビア半島南端の地には支配の力は強く及ばなくなった。そこでいくつかの部族が独立に近い状態で王と名乗るものもあった。

3、ザイド朝

 ザイド朝が9世紀に半島南部をほぼ勢力化に収める。指導者はシーア派のイマーム。

*ザイド朝とは―――
 シーア派の一派。アリーの曾孫ザイド之名に由来。ウマイヤ朝から政権をシーア派に奪取しようと企て、740年にクーファで反乱を起こしたが鎮圧される。その後、ザイド朝はカスピ海沿岸とイエメンという辺境地域に存続した。イマーム論ではアリー以前の3人のカリフを認め、教義はスンナ派に近いほうである。

☆アフメド・ベン・イーサーの墓
c0067690_3363749.jpg

 11世紀にメッカからイスラームを広げるためにやってきた人物の墓である。がけにへばりつくようなつくりであるが、白とイエメンのグリーンで、美しい。

では、シーア派だけの国であったのか。更に歴史をたどるとスンナの影響も見えてくる。

☆1173年にはアイユーブ朝をうちたてたサラディン(サラーフッディーン)により兄弟が派遣され、この地はアイユーブ朝に制圧された。アイユーブ朝はスンナ派。しかし第7代のサーリフの時、マムルークのクーデターによって1250年アイユーブ朝は滅んでしまう。これにともなってふたたびイエメンの王朝は独立した。

4、アデンをめぐる攻防 
 1513年 ポルトガルがアデンを攻撃するが、敗退。
 1514年 マムルーク朝がアデンを攻撃するが城壁に阻まれ、敗退。
 1547年、マムルーク朝を征服したオスマントルコが侵攻。アデンを含む南部一帯を支配。
 1636年、ザイド朝のイマームが復位し、オスマントルコから独立する。

◆南北イエメンに分かれたことや。イマームのことがすんなりわかりにくいので歴史を順にたどっている。ザイド朝は出てきた。次には3C政策まで関係しそうだが、早く現代までたどり着きたいものだ。
 資料は少ないし、わかりにくいところが多いが、現代を知るにはこうしてみる時間も必要かなと思っている。
                         応援クリックお願いします。  
by miriyun | 2008-05-26 03:41 | イエメン | Comments(2)

繁栄とかげり…イエメン略史2

1.幸福のアラビア
c0067690_1805850.jpg

 イエメンが最も栄えていた時代には、ここは「幸福のアラビア」と呼ばれていた。アラビア半島において、国土は山岳により守りが構えがかたく雨が降り緑が豊か、そして紀元前と紀元後で交易ルートは変わるがヨーロッパから見て燦然と輝く国だったのだ。
 
2、ダムの建設と繁栄
 シバ王国は交易キャラバンから通行税をとることによって莫大な税収があり、それをもとに栄え続けていた。イエメンは雨が多い。7~8月は思った以上に雨が降る、しかし、乾季は乾燥するから、水の確保が重要なことはほかの国と同じだ。
 マーリブは交易ルートと好位置にあったが、やや低地の砂漠地帯であったので、増える人口を支える食糧生産をおこなうには水が不可欠であった。では紀元前800年ごろに、当時としては』世界最大規模の公共事業をおこなっていた。高さは16mにも達する巨大ダムで長さも680mあったという。
 これによって農地の灌漑を行ったため、この後シバ王国はもちろん、王国が衰え、他の支配となってからもダムが壊れると補修してマーリブの水を確保し続けた。
(*なお、マーリブなど国土の北部・東部などの一部は依然、安全が確保されていない)

3.交易の変化とアデン
 紀元1世紀になると大きく変化したことが2つある。
 さしもの乳香を中心とする交易ルートも航海術の発達と共にアデン港、更に紅海、ナバテア人のペトラからガザ、あるいはエジプトへのルートに変化してくる。 ローマ帝国の時代となり、民族や文明を超えて便利なルートがとられだしたのだ。
 また、宗教的にも乳香を大量に生じする在来の種々の宗教からキリスト教に変化してきて受容は減少し、ナバテア経路で十分に足りるようになってしまったのだった。
 これによってマーリブは急速に衰え、歴史から姿を消していった。次々と外敵がやってくる中、570年にはダムも崩壊して、今度は修復されることもなく住民も離散して言った。

一方新しい交易の中心地になったアデンは水確保の公共事業でも活況を呈した。水確保のタンクがアデンで作られている。
c0067690_17295170.jpg

↑アデン・タンク
 1世紀にアデンに作られた18の貯水池のうちの1つ。3層の濾過装置も付いていた立派なものであり、4500万tの水を蓄えるようになっていたという。長いことゴミ捨て場になっていたのを19世紀、イギリスがこの地に勢力を伸ばした。イギリス人サールーン・バートが発掘して、現在はこの歴史的タンクを見学できる公園のように整備されている。

c0067690_17483866.jpg

 アデンはこの後、海のシルクロードの要として、常にアフリカ・インドをつなぐ船が行き来することとなる。鄭和の艦隊もここに来ているし、また今でもアフリカの舟など停泊して荷おろししている様子が見られる。

                         応援クリックお願いします。  
by miriyun | 2008-05-25 18:01 | イエメン | Comments(2)

葦ペンと楔形文字

1.古代文字と粘土
 古代からの文字はいろいろあれど古代文字として最も多く残っているのはメソポタミア文明における楔形文字であろう。
 なぜなら、筆写のための材料が頑丈であったからだ。
チグリスとユーフラテスの二大河にはさまれ湿潤な地域にあって最も豊富なのは建築材料でもある粘土である。
 粘土はまずどこにでもある。そして費用はかからない。やわらかいうちに文字を刻み、乾燥させたり焼いたりしたならば、虫に食われることもかびることもまた、火事に合おうとも生き残る。したがって、粘土板に刻んだ文字は、積んでおいて地中に埋もれた宮殿跡などから数千枚単位で発見される。耐久性でいうならば抜群の筆写用品なのだ。 

2.筆記用具 
 ではペンは何なのか?これはアラビア書道と同じ葦ペンである。葦は日本にもある。
c0067690_1272561.jpg
c0067690_1273947.jpg


 川には葦の原がどこにもあり、川に行ったら難なく見つかった。そして太そうなところを持ってきた。しかし日本の葦は太さは手ごろであっても手で折って持ち帰ることができるくらいだったのでアラビア書道に使うには明らかに弱すぎる。

 この葦を加工しながら思った。
 
 これでも粘土板ならいけるかもしれない・・・と。
 忙しいのに何をやっているやら。しかし思い立つととまらない。粘土を用意してみた。
葦はミニのこぎりで切り口をキレイに揃えた。更に縦に半分に割る。これで出来上がり。

3.楔形文字を書こう!   
c0067690_1281077.jpg

   用意した粘土板と自作葦ペン

 はじめて世界の歴史を学んだころ、こんな面倒な楔形を何故わざわざ使うのか疑問を持ったものだ。こんな三角形のクサビの大きいのや小さいのを縦・横・斜めに書くなんていうのは普通のペンで写してみた時は何て面倒な字だとあきれた。何もクサビ形になんかしないでヒエログリフのように絵にしたほうがいいのにと思っていた。

c0067690_1283252.jpg

 しかし、なかなかの書き心地だ。
 葦ペンではことのほか押し当てるだけなので書きやすいし、きりっとした文字跡を残すことができる。

*絵文字のほうはどうか実験してみた。
c0067690_12542921.jpg

     ヒエログリフで王の名を書いてみた。
 粘土というものは棒で書くようにすると粘土の引きつれが盛り上がり汚いし読みにくい。つまり絵文字はぐちゃぐちゃになってしまうことになる。


 ◎その土地の材料が文字の形もつくっていったのだろうということがよくわかった。

                  ↓これは完成版
c0067690_1284669.jpg

上の段は、ダレイウス(ダリウス、アケメネス朝のペルセポリスを作った大王の名)
楔形文字は最初はシュメール人によって発明された文字である。アッカド、バビロニア、エラム、ヒッタイト、アッシリアでもそれぞれの言葉を表すのに3000年以上にわたって使われ続けた。もじは民族によって時代によって変化している。これは紀元前6世紀の楔形文字で表音文字なので比較的書くのが簡単。
下の段は、紀元前14世紀のウガリットの文字で書いた自分のサイン。

メソポタミアな時間を過ごしてみた。
    粘土のうえをわたる風は、日本の風だろうか、メソポタミアの風だろうか・・・。

                         応援クリックお願いします。  
by miriyun | 2008-05-24 12:24 | Comments(6)

安全ということに関する雑感

  イスラームの世界は私などが一言では語れないほど複雑だ、歴史的にも欧米が逆立ちしても届かぬほどの歴史を持っているし、ましてやその栄光ある歴史を踏みにじられた経験も持っている。物も人も、交錯し現れては消える。

 そんなイスラームについて、文化や自然・人々を見つめてという展開をしてきている。政治的なことは私の分野ではない。 
 ところが、ここのところコメントで聞かれたことに関してしばらく考えていることがある。思いのままに、(きっとまとまった文にはならないだろうが・・・)記す。

1、安全について 
*5月4日朝にこういうコメントをいただいている。
「5月2日にイエメン北部でテロが起きた。どうしてこんな惨いことがおきるのでしょう。~」
とその方はあたたかい気持ちをもってイエメンの人々ことを思いやって心配されていた。
 
*5月4日の晩に次のようなお返事を書いた。
「マーリブといい、先日のサーダといい、以前から危険だといわれていたところではまだまだ反政府勢力による事件が多いです。旅行者など地元につながりのないものは少なくともこういった紛争地は避けたほうがいいでしょう。これまでテロはほとんどその危険とされていた地域とアデン沖合いで起きていました。しかし、ここのところ首都のサナアでも事件は起きており、一般のイエメン人にとっては迷惑なこまったことばかりおきています。長い南北イエメンの内戦をこえて統一されたのにこういう紛争が続いていることが残念でなりません。」

*5月7日にイエメンのマーリブで日本人の女性がさらわれる事件があった。
 幸い半日で無事相手の部族の人が返してくれたということで本当に良かったと思う。そして、この事件自体の背景も旅行社のことも知らないし、個々のことを取り上げたいわけでもない。

 しかしこのとき、イエメンを書いていた後だけに、自分として何か書くべきではないかと気になった。
 イエメンはたしかに良いところだし人柄もユーモアがありいい人たちだ。自然の変化も伝統的な家のつくりも素晴らしい。

 実はイエメンに限らず中東全域、歴史好きにはたまらない、自然派にもたまらない、工芸愛好家にもたまらない魅力がある。メディアが危険ばかり・悪いニュースばかり発信するので、ここではそれ以外のことを発信している。

 読者もそういったこともよく知っておられる方が多い。
 だが中にはそういったニュースや外務省安全情報を見ないで、旅行会社のうたい文句と旅行記録のみしか見ない人がいるとしたら、それもまたかたよっていることになる。

 良いところがたくさんある―――という事実と、
 世界にも日本にも危険はいっぱい―――という事実は相反するものではない。
                                   一緒に存在するものなのだ。

 今、それぞれの人が住んでいる街で、いつ強盗に襲われ、地震にあい、テロに襲われるかわからない。そしてその危険度も刻々と変わっていく。自衛できるところは自衛し、できないところは準備を整え、それぞれに対処していく。

 旅行については、一部指定の仕方がかたよっていないかと思われる節もあるが、それでも世界のニュースがまとめられている外務省安全情報は、慣れていない人にとっては必見だろうし、一国の中を細かく安全度を分けた地図も見たほうがいい。中心部はいいけど国境付近だけは緊張状態にあるとか、日本に住んでいると考え付かないことが地図の中に見えてくる。それ以外にも旅行社・在住者の意見も大事だろう。
 例えば掲載したばかりのマーリブについて言えば前々から危険情報があり、昨年は欧米人が殺されている。55万平方キロメートルという日本よりずっと大きな国でありその山岳地帯に反政府勢力があり、そこについては政府側が治安に自信がないのだということがいろいろなニュースから見えてくる。一つの国を一からげに見ることができない場合があるのだ。
 
 また、以前はほぼ安全と思われたサナアも事件が起きてきている。そういう時の変化もある。

 かといって、昔ながらの南北イエメンがまだあるのだろうという人がいたり、イエメンてまだ鎖国をしているからイエメンには入れないのだろうとか、イエメンは危険で町も歩けないというのももちろん違っている。

 あえて言うならそういう危険なところもある・・・といえるだろう。それは他の中東地域も、あるいは世界の各地にもあてはまる。
 一時、日本がテロにあう危険な国だとされた。ある南米出身の人は、日本に来るのに故郷の人から、地下鉄には絶対に乗るなと釘を刺されてきたという。
 このときも日本人はたしかにそういうこともあったが、全部がそうではないのだ、今はたぶん大丈夫だといいたくなる。他の国の人もそういう思いはあるだろう。

 いずれにしろ、そのときそのときの安全性や国民感情・歴史的背景などを見ることは必須であろう。


2、日本人への評価
 海外に出ると日本人への評価が痛いほどわかることがある。
日本人がその国で何をしてきたかということが直結する。

  今回のマーリブの場合も、日本人は手荒なことはされずにすぐに返された。これは背景に日本人に対する思いがある。
 中東で日本は宗主国ではなかった、つまり植民地支配や戦争で関わらなかった日本、しっかりとした仕事や輸出品に定評のある日本を評価している。また、戦後のJICA・NGO、などの活躍・援助、それに住みついている日本人の誠実さについての評価が日本の評価になっている。

 そして、日本の首相の発言や閣僚のちょっとした発言、自衛隊がどう活動したかといったことがその地では大きく響く。日本にいると読みもしない首相発言に、海外ではえ~っ、こんなこと言ってる!と敏感にならざるを得ない。

 私たちはまだ先人たちの努力の上での評価に守られているけっして日本人が大事にされるのは日本人がえらいからではない(時々勘違いしている人がいたりするのは残念だ)。
 
 その国の歴史を知ると共に、これまでの日本人のかかわりも知って世界と向き合っていきたいものだと思っている。

  (2008年5月の時点での記事です)
               
                                              人気ブログランキングへ
                      
                                                       一日一回、ポチッと応援していただけると励みにもなります   
by miriyun | 2008-05-20 22:46 | イエメン | Comments(11)

乳香の道とシバの女王…イエメン略史1

 イエメンには女王の話が多い。特に紀元前10世紀のシバ王国の女王は旧約聖書に現れてくるだけに興味深い。
 本拠地がエチオピアでマケダ女王がそれに当たるとする説と、イエメンのビルキス女王のことであるという説がある。また、その双方に領土がまたがっていたという説もある。
 いずれにしろ実在の証拠は出ていない。ただ3000年前の文明のあととしてマーリブが可能性が高いとされている。

c0067690_22574177.jpg
 
 古代においてイエメンが栄えたのは乳香交易による。アラビア半島南部の交易ルートを支配したシバ王国にとって、地中海東部の交易の要であった古代イスラエル王国との友好政策を行っていた。
c0067690_22571336.jpg

これは当時の乳香が運ばれた交易路をあらわした地図だ。海岸側からはいった乳香はハダラマウト地方の谷に沿って運ばれていく。その乳香の道はタリム・サユーン・シバームというハダラマウトに発展した交易都市が出現する。
 そしてこのルートを北にとるとそこにマーリブがある。
 つまり、今でこそ、マーリブは首都サナアの東の山岳地帯に存在する地方であるが、古代においてはマーリブこそが交易ルートの中にしっかりと位置していたのである。
 (尚、地図中の水色の円筒形で表したのは紀元前後にナバテア人の活躍と共に重要な交易路となっていったところであり、現代では二つのイエメンの首都となった場所でもある。時代が全く異なるが参考までに。)

c0067690_6513086.jpg
乳香はカンラン科の植物の樹液で白い樹脂が出てきてそれが固まってできる。
 このアフリカや現在のオマーンで取れた乳香は当時黄金に匹敵する価値の高い香料であり、原始宗教ではこれが度々使われた。
c0067690_6514728.jpg

           (↑小写真2点はNHKシルクロード・イエメンより引用)
聖書において、シバの女王が乳香を最上の宝としてソロモン王への贈り物として持っていったことが示されている。それを後世に絵に表したもの。

 古代イスラエルのユダヤ教の祭事には乳香をたくさん使ったため、必需品であったといわれる。しかし、古代のユダヤ人の王国が滅亡していくにしたがい、徐々に乳香交易は衰え始める。そしてあらたな交易路ができたこともあり、マーリブを通る交易路はすたれていったのであった。
c0067690_232343.jpg

  これは、乳香の道であったタリム・サユーン・シバームがあるハダラマウト地方で今もわずかに流通している乳香である。
イスラームの世界では、モスクで乳香やろうそくなどを使った祭事を行わない。あるのは人々の神との対話だけであり、それ以外のものは必要ない。だからモスクには特に乳香はない。あってもいいが別に必需品ではない。
 しかしイエメンの人々にとって、乳香は生活の一部としてごく普通に使われているものである。さりげなくくゆらせ、お客を歓待する。あるいは衣服に炊き込め、乳香の香りの白湯で新年を祝う(使い方は、以前の記事に記載。)ここでもイエメンの精神性が日本人に近いかなと思わせるような面が見られる。

 ―――その香りは人々を魅了し、その色は人々を夢にいざなった。

                         応援クリックお願いします。  
by miriyun | 2008-05-19 23:07 | イエメン | Comments(4)