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スルタンアフメット・ジャーミィ

 オスマンのアフメット1世は、日本で言うなら徳川家康と同時期に力を持ったスルタンである。
 スルタンアフメット・ジャーミィ (別名ブルーモスク)は彼の命を受けてミマール・シナンの弟子であったメフメット・アーが設計した。
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 ↑ジャーミィの西北西から見た。背景の海はマルマラ海でその先の陸地はトルコのアジア側の大地である。
 
 高さ43m、直径27,5mの大ドーム、4つの副ドーム、30の小ドームからなり、そこの6本のミナーレが囲み、均整の取れたモスクとして完成している。
    *ミナーレとは
      マナーラ(光塔:アラビア語)をトルコ語で表したもの。
      礼拝への呼びかけ(アザーン・エザン)をするための塔だが、象徴的な意味や、
      街を敵から守る塔、砂漠の灯台的な役割も派生的に生じた。

 ここまで、ミナーレはスレイマニエ大帝でさえ4本のミナーレを建てていたが、なぜ6本ものミナーレを建てたのか?
 言い伝えではメフメット・アーはアフメット1世の金でという命令を6と聞き間違えたというものだ。
 最近トルコ語の基礎の基礎をわずかに習ったがその中に数字がある。
1(ビル)   2(イキ)   3(ウチュ)   4(ドォルトゥ)  5(ベシ)
6(アルトゥ)  7(イェディ)  8(セキズ)  9(ドクズ)  10(オン)
 そして、金(アルトゥン) 銀(ギュムシュ)
こうしてやってみると確かに6(アルトゥ)と金(アルトゥン)は似ているといえる。ただし、必ず設計図を見ているはずだから途中では気がついているはずだが・・・。

 14代目のスルタンであったアフメット1世は14歳で即位し14年間その地位にあった。文武両道をこなし意気盛んであった青年スルタンはこのジャーミィの完成した1616年の翌年には亡くなってしまった。しかし、オスマン朝の最高建築の名として、後世にその名を残したのである。アフメット1世はこのジャーミィの北側にある廟に眠っている。

 現在このジャーミィの近くのアヤ・ソフィアやトプカプ宮殿も含めてスルタンアフメット地区として呼ばれている。
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by miriyun | 2007-07-31 23:31 | トルコ | Comments(9)

ミニアチュールに見るライオン…ライオン紀行(20)

 そもそもライオンのたてがみってどうなっているのか・・・気になっていた。
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 なぜならサマルカンドのシールダールのライオンが頭の後ろだけに巻き毛の鬣が描かれていたからだ。
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 しかし、ペルシアのミニアチュールで同じたてがみを見つけた。

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                     ↑「The Shanameh of Ferdosi」 1991より引用
 ペルシアのシャーナーメ「王書」の中の一節。
 Yazdgerd王がなくなった後、ペルシアの王冠をかけて二人のペルシアの王子BahramとKhosroが二頭のライオンと戦うことで争った。Bahramが牛の頭の形の鉄槌でライオンを倒し、王冠を手に入れたというお話であった。
 中央の玉座の上にあるのが王冠。ライオンは一頭ずつロープでつながれているので、いっぺんに2頭が王子を襲うことはない。重臣たちはあれやこれやといいながら隣と話し、次の王について意見を交わしている。
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 そのうちの1頭をさらに拡大!
顔の特色、尾の細長く先端がやや丸みを帯びるところ、ネコ科の脚、ここまで自然体のライオン像なのだが、たてがみはサマルカンドでオヤッと思った後ろたてがみだけになっているのだ。

 なぜ、実際にライオンのいたペルシアでこのような図になるのか、資料が見つかったら尚更謎が深まった感がある。なお、他のページのライオン狩りも同じようなたてがみであった。

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by miriyun | 2007-07-29 09:33 | 文様の伝播 | Comments(4)

チベットとスリランカの国旗の獅子…ライオン紀行(19)

チベットのライオン 
 透明感のある優れた感性で世界を感じていらっしゃるぺいとんさん(ぺいとんの小さなおうち)から、チベット亡命政府の旗に獅子像があるというコメントをいただいたので、国旗の中の獅子像について調べてみた。
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 1949年に中国によってチベットが占領され、ダライ・ラマによって1959年インド北西部に中央チベット行政府を樹立した。そこの旗が↑である。

  この旗の株に一対の獅子像がくっきりと描かれている。
これの歴史は古く7世紀にチベット国王のソンツェン・ガンポが国を統治していた間、強大な軍隊を所有しており、各連隊は、それぞれの軍旗に、向かい合っている1対のスノー・ライオンや直立した1頭のスノー・ライオンなどをそれぞれ描いていた。
 このような歴史から、チベット亡命政府は、ライオン像に次のような意義付けをして旗を定めた。
1対のスノー・ライオンの勇ましい姿は、チベットの精神的、および世俗的な方策が完全な勝利をおさめることを象徴している。
ライオンが支えている3つの輝く宝石は、3つの源(ブッダ、その教えである法(ダルマ)、そして僧侶たち)に対する尊敬の念を象徴している。ライオンが持つ、円形で2つの色が塗られているものは、自律を意味する。――ダライ・ラマ法王日本代表部事務所HPより引用

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☆このライオン像で最も分かりやすいのは、尾がふさふさである点である。先日のネパールとは近い地域であるが、姿はすっかり変わっている。すでにもう実際のライオンからはかけ離れた想像上の動物になっている。たてがみはあごまで達している。また前脚にもふさふさしたした毛がびっしりと生えている。これは日本に伝わった唐獅子系のライオン像とよく似ている。

スリランカのライオン
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1948年にセイロンとして独立した時には、古代カンディ朝の旗を基にしたものを採用した。その旗は、赤地に金のライオン(「シンハ」=シンハラ族のシンボル)と剣が中央にある。1951年に緑と橙色の帯が、少数派であるイスラム教徒とヒンドゥー教のタミル人を意味するものとして付加された。1972年に国名がセイロンからスリランカに変更された際、多数派の仏教徒を意味するものとして4枚の菩提樹の葉が付加され、1978年にそれが公式に採用された。(Wikipediaより引用)


 ☆この旗は宗教の融合を象徴していることが分かる(実際は旗のように並べたら平等というわけではないようで争いは続いている)。
 さて、ライオン像だが、尾は細身ながらネパールの唐草文様の経過型になっている。ライオンの生息するインドに近いことが分かる造形である。たてがみも巻き髪はなく、ギザギザの線で表している。このギザはタイのトゲトゲたてがみにつながるかもしれない。

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by miriyun | 2007-07-29 08:00 | 文様の伝播 | Comments(2)

ネパールの木彫ライオン…ライオン紀行(18)

 タイのライオンは胸までのたてがみがなくなっていて、その代わり?になるのか、前垂れがかけてあった。つまり頭の周りのたてがみはだいぶかたちが異なるが、前垂れのところは日本の狛犬にぐっと近づいてきた。

 しかし、仏教でも建築や文様でも海沿いの国と山側のシルクロードの近いほうでは全く様相が異なる。
 ネパールのライオンはどんな姿なのか?
 
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これは、ネパールの木彫を奈良市の奈良町で見つけたものである。

 まず、このライオンは胸までのたてがみが存在するのでライオンらしい・・・といいたいところだが、もうライオンの伸びやかさ、ネコ科の俊敏さなどが想像できる部分はなくなっている。やはり、標高は高く実際のライオンを見る機会はほとんどなかった地域であるだけに、タイとは違う形の想像の世界に入ってきている。

 想像であるといえるその証しとなるのは尾の形である。尾の形が本来のライオンの尾ではなく、かといって日本の狛犬キツネの尻尾のようにふさふさして、しかも渦を巻いているというのとは明らかに違う。
 この尾は唐草文様のシルクロードを伝わっている時の形であり、このカーブやひねられた形が、後に東の果てで渦を巻いた尾になッ他という可能性も考えられる。

 ただし、ネパールのライオンが皆そうであるかは分からない。来歴やネパール全体がこのタイプのライオンであると一般化できるわけでもない。あくまで一例としての紹介である。

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by miriyun | 2007-07-28 13:11 | 文様の伝播 | Comments(4)

エェ~ッ!?忍者?…イスラームの街角

 街角を歩くと、ひょんなところに日本を見つけることがある。日本の車、日本のアニメはもちろんだが、エェ~~と思ったのが、これ。
 ダマスカスの街角で見つけた映画のポスター
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 題名は、もろにNINJAだ。 Jの文字の上が日本刀の柄とつばになっているのがデザインの工夫をしたところらしい。よく見ると、車が吹っ飛ぶアクションものらしいが、その上をシュルシュルと手裏剣が飛んでいる。(いったい、どこの映画か?よもや日本ではないだろうと思っているのだが・・・)

よく日本にやってきた日本通の外国人が、当初は街の中に普通に忍者とかいるのだと思っていたという。それほど、一部には忍者は日本を代表する文化の一種と考えられているようだ。しかし、車やハイテク産業で名だたる日本のイメージと同居していることが、妙におかしい。

 ◆ ところで、日本に来た外国人は忍者はいなかったとがっかりしているが、この武芸?がまったく廃れてしまったのかというとそうではない。

 実は・・・・!

 実は、身近にも日々、古武道および手裏剣技などを伝える家柄の人がいて、そういう家に生まれた人は日々子どものころから鍛錬しているという。
 手裏剣などもかなりの威力がある反面、下手に扱えば自分でも怖いものらしい。その人は長い槍も使うし、吹き矢も使う。この人の家に泥棒など入ったら、泥棒のほうが散々な目に会うだろう。
なお、この人は先日,飛んでいるハエを素手で捕まえ(つぶしたわけではない)、また放してやっていた。後で詳しく聞くと、なんでも指と指の股にはさんで捕まえるそうだ。
 簡単そうに言っていたけど、そんなこと普通はできない!

 この人の家は忍者の家ではないが武道を伝える家ということだ。しかし、忍者の家柄も続いているそうだ。
 
 あなたの隣にも実は普通の格好をした忍者がいるかもしれない・・・。

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by miriyun | 2007-07-26 16:17 | シリア | Comments(6)

フルーツの間…アフメット3世の食堂

 トプカプ宮殿でとくに気になる部屋はフルーツの間といわれる部屋である。ミニアチュール(細密画)は本の挿絵として発展し壁を飾るためではないと前に述べたが、ここは例外的に同じような技法で壁いっぱいの絵が描かれている。
 
 
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 フルーツの間はアフメット3世が食堂として作らせた。フルーツのモチーフ・花と果物・ニッチ・木と花のモチーフなど下から天井まで施されて、どれもが美しい。それが壁面にいっぱいに広がっている。
 ハレムの中もざっくばらんに各部屋を公開しているが、このフルーツの間には入れない。廊下側から覗き込むことしかできない。むき出しの絵は人が入ればぶつかり損傷してしまう恐れがあるからだろう。
 
山盛りの皿には何のフルーツがのっているのだろう。
  
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 左からザクロにブドウ・洋ナシ・プルーンのような果物が描かれている。
そのフルーツ皿の上には花瓶に入れた花々とその下の果物が見える。各絵の区切りや段に当たるところには金を使っているので輝いている。華やかだが、あくまでも主役は果物という部屋のつくりである。
 こういう趣向は日本にはないものなのでとくに印象深い。
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by miriyun | 2007-07-26 00:29 | トルコ | Comments(0)

スルタンの金のゆりかご

 オスマン朝がビザンチン帝国を倒して、イスタンブルを手に入れて以来400年、トプカプ宮殿は他国に侵略されたことはない。
 したがって、トプカプにはスルタンが暮したハレムはもちろん、衣服ら生活用品まですべて残っている。

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 ハレムの儀式用大広間は壁も天井もびっしりと文様がある。右がスルタンの席である。トプカプは代々のスルタンが増築して70万㎡もの広大な敷地に建つのだが、敷地はともかく、一部屋ごとの広さはさほどではなく、威圧するほどではない。
 京都の二条城の大政奉還を行った部屋を見たときと同じようなこんな狭いところだったの?という意外な感じがした。
 しかし、博物館になっているこの状態と、スルタンにかしずく多くの人々がうごめいていた時はまた違う風景だったに違いない。実際残された調度を見ると、風呂にしてもテーブルにしても決して大きくはないが、そこには装飾がこれ以上はないというくらいにびっしりと行われているのが標準なのだ。
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 例えば、この18世紀の金のゆりかごを見ると、金の地に彫金と宝石の象嵌がなされていて、重そうだ。あまり実用的とは思えないのだが、きっと有力な王子誕生の時につくられたのだろう。

 この豪奢なゆりかごにとくに赤ちゃんのためになる作りはあるのだろうか。一つだけ見つけたのは前後の円形部分に放射線状に穴があけてあることだ。これによって頭の辺りに風が通り、少しは涼しくなるというつくりだった。

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◆情報・・日本でここ数年トルコ関係の展示が多い。
トプカプ宮殿の至宝展~オスマン帝国と時代を彩った女性たち~
8月1日(水)~9月24日(月)
東京都美術館

 上の金のゆりかごも展示される。
 ←チラシの中のスルタンのターバン飾りの中心のエメラルドは5cm×4cmの超特大のエメラルドである。エメラルドの剣は出品されないが、このターバン飾りが出品される。


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by miriyun | 2007-07-24 23:37 | トルコ | Comments(4)

ミステリアスな写真とスルタンの兜

 オスマン朝では跡継ぎの王子が即位する時、そのほかの王子は命を絶たれてしまう。女性たちも誰が次のスルタンになるかで、権力のあるなしが決まってくる。だから、トプカプの400年には華麗な宮殿ならではの話のほかに血なまぐさい事件も秘められている。

 そんなことが頭をよぎった一枚の写真
            ↓
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 スルタンの礼装用兜(かぶと)である。カリグラフィーがぐるりとめぐり、前たての菩提樹の葉のような飾りには「アラーの他に神はなし、ムハンマドは神の使いなり」の文字がある。兜の円周にもびっしりと金象嵌の文字がスルス体で入れてある。
 唐草のような植物文様も、極めて繊細に華麗にこの鉄の兜に刻まれ、金象嵌とルビーにトルコ石などの貴石象嵌で埋め尽くされている。

 そして、視線が兜に絡みつく。
             ↓
その兜の持ち主とお知り合いか?と尋ねたくなってしまう。
     実は、これ展示品に見入っていた見学者だった。
   展示ガラスに映る姿が美しくまた、ミステリアスだったのでシャッターを切っていたもの。
  
  しかし、もし中世のガウンなど着ていたなら、私もぞっとしてしまったに違いない。 
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by miriyun | 2007-07-23 23:20 | トルコ | Comments(2)

エメラルドの宝剣…トプカプの宝物

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  全長35cm。柄に3個の大きなエメラルド、鞘の先端に小さなエメラルドが1つ輝く。そして金の地に花のミニアチュールがエナメル七宝で描かれている。最初は気づかなかったがこの剣には更に細工がある。3つのエメラルドのついた柄の頭部分に時計が埋め込まれているのだ。贈り物として作られたもので、これ以上の工芸の粋を集めたものはない。 

 この華麗さを誇る剣は、オスマン朝のスルタン、マフムト2世(1730~1754)がイランのナーディル・シャー(1736~1747)からの贈り物に対して、返礼の贈り物としてつくらせた。

 〈サファビー朝の摂政だったナーディルはサファビー朝のシャーを退位させたあと、アフシャール朝を打ち立てナーディル・シャーを名乗った。ペルシア史の中の梟雄であり、第二のアレクサンドロスとも言われる。短期間にアナトリア東部からイラン、中央アジア、インドにおよぶ広大な領域を支配下にいれ、オスマン朝をも破り、ペルシアの力を示した。〉

 当時の情勢からすると、豪華すぎる贈り物には意味があったオスマン朝のスルタンにとって、豪奢な贈り物でその国力・高度な文化背景を見せつけることは、勢いのあるナーディル・シャーと戦争をすることよりずっと安上がりだと考えてのことだったと言われる。
 
 しかし、オスマンからの贈り物を持った使いがペルシアに向かって出発したあとで、ナーディル・シャーが直前に家臣によって殺害された。贈り物を渡す相手がいなくなったため、エメラルドの剣はトプカプの宝物殿に収められることになった。
 世界一の贈り物を受け取りそこなったアフシャール朝はこのあと衰えていった。

一振りの短剣が語る歴史がここにある・・・。
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by miriyun | 2007-07-23 01:40 | トルコ | Comments(4)

トプカプ宮殿…儀礼の門・カリグラフィー

 トプカプ宮殿(トプカプ・サラユ)は15~20世紀元まで強大な力を持ったオスマン朝の城として建てられた。

 イスタンブール(イスタンブル)は金角湾を挟んで南西に旧市街、北東側に新市街がある。
 トプカプ宮殿は、その歴史的遺産の残る旧市街の東の端の小高い丘の上に位置する。ボスポラス海峡とその先のアジア側の大地をもにらむ戦略上欠かすことのできない要害の地を占めている。

 400年間ものオスマン朝の支配の拠点であったため、その中に現在保管・展示されている宝物から鍋に至るまで目を引かないものはない。

 そして、近世の城塞都市はいずれも大砲を備えていたのだが、この丘の上にあり東西交易および軍の戦略上の要衝のち地であった宮殿にはもちろん大砲が備えてあって、列国を威圧していた。
 このことから、トプ(大砲)・カプ(門)・サラユ(宮殿)と呼ばれるようになったといわれている。
 
◆儀礼の門
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第一庭園と台に庭園の間にあり、この門の手前で入場券を買う。八角形の塔を左右に置いたオスマン様式の門である。
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この門をくぐる時に上を仰げばこのようなカリグラフィーに早速遭遇する。
   上はラー・イラーハ・イッララー・ムハンマド・ラスール・アッラー
    (アッラー以外に神は存在しない。ムハンマドはアッラーの使徒である)

  その下と左右にトゥグラー(トゥーラ)と呼ばれるスルタンの花押が飾られている。

 なお、イスラーム国家であるオスマン朝は、言語はトルコ語であったが、文字はアラビア語を使った。また、クルアーンはアラビア語で伝えるというものであったため、コーランの語句はそのままアラビア語で表記している。
 また、単語の中にはアラビア語から来たものがかなり多く取り込まれたようで、今でもオヤッ、おなじかなと思うものがある。
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by miriyun | 2007-07-22 14:03 | トルコ | Comments(2)