<   2007年 03月 ( 31 )   > この月の画像一覧

ペルセポリスのライオン…ライオン紀行(1)

 今からやく2500年前、アケメネス朝ペルシアが栄えていた。現在ペルセポリスという宮殿遺跡が残されている。実際に生活し、政治を行う都はスサやバビロンであり、ここは春分の儀式を行い、朝貢者たちを謁見する場所だったといわれている。
 ペルセポリスの名はアレクサンドロス大王がこの地を滅ぼしてから後、ギリシア風に呼び習わした名である。そもそもポリスはギリシア語の「都市」であり 、ペルセはファーリス「ペルシア」のという意味からと考えられる。ペルシアの都ということになる。また、破壊(ペルシス)された都市という意味とも言われている。

 燃やされ、破壊された遺跡でありながら石造であるためにそのレリーフの見事さは尚後世の私たちを感嘆させる。

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  ↑ライオンと一角牡牛のレリーフ。

ペルセポリスのダレイオス1世宮殿の40メートルの基壇を有名なレリーフがある。その中でもとくに
 冬を象徴する牡牛座を、夏を象徴する獅子座が襲っている。これは冬と夏の境である春分を象徴するといわれている。

 このようにライオン像は宮殿に飾られたり、剣や印章に英雄と共に飾られたりした。これらのライオン像はいつから使われ、地域によってどのように変遷していくのだろうか。

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by miriyun | 2007-03-31 01:24 | 文様の伝播 | Comments(2)

高炉に賭ける男たち…タタ財閥と日本(3)

 最近のテレビ番組で、『華麗なる一族』というので、阪神製鉄を起こす万俵鉄平を主人公としたドラマがあった。ずっと以前には中国残留孤児と育ての父の慈愛・まことの父の愛をテーマにした『大地の子』があった。
 この二つに共通しているのは製鉄所の高炉建設を取り組む男たちの志の高さを物語の背景の一つとして持っている点だ。
 これによって、何でもいいから商売をするというのではなく、国の隆盛をかけてという思いが高炉建設という大工事に向けて話が展開していく。

 鉄は『産業の母』であり、日本の輸出産業の花である自動車一つにしても、安くて安定した鉄鋼の供給がなければ発展は続けられない。どの国も自前の鉄で産業を興し、ビルを作りたいものだ。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
1、さて、タタ・グループ(タタ財閥)の創業者J・N・タタ。
 彼は、くだんのタージマハルパレスを作るにあたって、世界中から優れた資材やインテリアを集めたという。とくに骨組みについてはエッフェル塔と同じ鉄骨を使い、その鉄骨がいまでも旧館のドームを支えている。

2、 そしてJ.N.タタはインド人の手でインド国内に製鉄所を作ることを悲願とし、イギリス植民地支配下のインドで数多くの困難を乗り越えて、タタ・スティール創設に熱意を持った。かれは、完成前になくなってしまったのだがその遺志はつがれて、1907年、タタ・スティールは開業した。今年はちょうどそれから100年を迎える。タタの宝とも称されるこの製鉄所は、2006年から積極的な戦略で、旧宗主国イギリスの製鉄所コーラスの買収に成功した。その買収規模は1兆円規模で、鉄鋼生産400万トンのタタが、1000万トンを産するコーラスを買収したというのだから驚きだ。
 そして、宗主国の製鉄所を買収するというのはスケールの問題だけではなく、以前とは違うんだという魂の叫びになりそうなものを感じる。
 2005年のタタ・スティールので世界の52位であったが、八位のコーラスの買収を決め、六位に浮上した。

3.新日本製鉄とタタ・スティールの合弁ニュース
 さて、日本の製鉄の歴史も同じ頃に始まった。 1901年、官営工場として始まった八幡製鉄所であり、現在の新日本製鉄である。
 
 その新日本製鉄とタタ・スティールが合弁生産する交渉に入ったというニュースが先日流れた。
 新日本製鉄にとってはインド国内で鉄を手に入れ、自動車産業の進出にも何としても必要なことだ。自動車用鋼板を現地で合弁生産する交渉に入った。
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日本の鉄鋼大手で初めてインドに進出、2010年にも日系自動車メーカーなどに供給を始める。現地の自動車最大手スズキやホンダ、トヨタ自動車が生産を拡大するなど需要はさらに増える。日系メーカーはこれまで、自動車用鋼板を日本や韓国などから輸入してきたが、現地調達の必要性が高まっている。
  欧州大手コーラスの買収で世界六位に浮上した夕夕と組み、急拡大するインド市場を開拓する。自動車向けの最先端技術をテコにした海外大手との提携戦略で、世界市場での勢力拡大を目指す。(日本経済新聞より引用)

4、今後の日本とBRICsの急成長
 新日本製鉄は急速に生産を伸ばす要因はなさそうだが、インドは異なる。買収や合弁以外にも、自国の生産をふやす働きをする自国の工場の増設などを積極的に行い、生産量は着実に増えている。

 このように急速に伸びてきている国に、ブラジル(Brazil)、ロシア(Russia)、インド(India)、中国(China)があり、この頭文字をまとめてまとめて、BRICsという。
 BRICsは  広大な国土、原油や鉄鉱石などの豊富な天然資源、労働力の源泉となる膨大な人口を持つのが特色で、実際各産業面で著しい発展を見せてきている。

 経済界の人には常識であっても、世界のこういった経済界の動きに自分をはじめとして日本全体としてもうとい。産業の中の売りどころとしているところも労働者の人件費も何もかもが異なるのだから、ただ単に、中国やインドと比較することはできない。
 しかし、想像以上に急成長してきて、産業の母である鉄鋼の世界でも大きな変化が生じてきている事実は確認しておこうと思ったのだ。
            (・・・・・・・ここにはあまり目新しいことは書いていない。あくまでも覚書として・・・)
                        
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by miriyun | 2007-03-30 00:46 | インド | Comments(0)

インド航路の始まり・・・タタ財閥と日本(2)

 タタを調べていたら江戸期に遡ってしまった・・・。

1839年 ジャムシェードジー・ヌッセルワンジー・タタが生まれる。
1840年 渋沢栄一が生まれる。

 この年が1つ違いの「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一とインドの産業革命の立役者で、タタ財閥の創始者あるJ.N.タタは後に日本で遭遇することになる。

1、渋沢栄一とは、
 武蔵野国の生まれで、家は藍玉の製造販売と養蚕を兼営し米の生産も手がける大農家であった。農家であるが、原料の買い入れと販売を14歳から担ったため経済の才覚がこの頃から求められていた。学問や千葉道場で居合いを身に付け、幕臣となりパリ万博の随行員となった。
 帰国後、フランス式の株式会社を設立しようと1868年、商法会所を設立した。だが、説得され大蔵省に入り、退官後は第一国立銀行(現みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。 また、東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、京阪電気鉄道、東京証券取引所、キリンビール、サッポロビールなど、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上とされている。
 「渋沢財閥」 を作り巨富を得ることも当時の渋沢には簡単に出来たのであろうが、「私利を追わず公益を図る」考えを自身も生涯に渡って貫き通したのである(GHQが財閥解体を命じた時、岩崎家(三菱)の総資産は33億円、一方渋沢家は625万円だった)
 また、実業界の中でも最も社会活動に熱心で、福祉・震災復興・他国の災害復興活動・平和活動にも全力で取り組んだ。(Wikipediaより簡略化して引用)


2、J.N.タタとは
グジャラート州の小さな町ナブサリで生まれる。13際でボンベイに移り、大学に通った。父は貿易会社を遣っていたので、そこから商売を学ぶ。
1868 ジャムシェードジー・ヌッセルワンジー・タタは貿易会社を始める。
1874 織物業界で中央インドSpinning、Weaving、およびManufacturing社を設立.
(1893 日本で渋沢栄一らと会う)
1903 インド最初の豪華ホテルタージ・マハルパレスを開業
1907 タタ・スティール設立
 *ここまでが創業者のJ.N.タタがかかわった事業である。(彼は1904年にはなくなっているが、タタ・スティールは彼の計画に基づいてインド初の製鉄事業を成し遂げたのだった。)

 *その後、タタ財閥は、次のような発展を遂げている。
1910 タタ・パワーの前身が設立
1911 バンガロールにインド科学インスティチュート
1932 タタ航空設立
1939  タタ・ケミカル設立
1962  タタ・ティーの前身設立
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その後もソフトウェア・通信・自動車・出版・時計などあらゆる業界に発展、現在ではインドの中でこのロゴマークを見ないことはないといわれるまでになった。

3、日本とインド 
 明治期の日本は、殖産興業の方針の下、紡績業で第一次産業革命を行っていくのであるが、その紡績業を行うのにどこの綿花を使うのか?これは当時海運と大英帝国傘下の物品移動についてはイギリスが完全に握っていた。日本との間のついてもイギリスのピーオー汽船が高い運賃・高い綿花で日本との商売を行っていた。
 
4、J.N.タタのエピソード その2
 1893年、J.N.タタは日本にやってくる。Spinning、Weaving、およびManufacturing社を設立.していたタタは紡績業と日本への綿花の直接取引を胸に来日した。このとき、54歳ぐらいか?
 J,N.タタの行動力と渋沢栄一の日本を見つめる目と日本郵船(三菱汽船と共同運輸が政府の斡旋でまとまった会社)が成し遂げたこと・・・明治26年、イギリスのピーオー汽船に対抗して、日本郵船の広島丸が神戸より出航・・・それが日本の初めての遠洋航路である自前のインド航路の始まりであった。

 積荷は紡連(大阪紡・東洋紡・鐘紡などか?)の紡績会社がタタ商会(日本ではそう呼んでいた)から綿花を直接買うという契約に基づき、神戸とボンベイ間を結んだ定期航路が、こうして始まった。 
 むろん、順風満帆とはいかない。
 
欧州系三社との競争は激烈を極めた。特に、英系は「運賃引き下げのほか、あらゆる手段を弄して当社を抑圧」(日本郵船社史)し、日本郵船は多大な損害を出しながら、耐え切った。
 今日、鉄鋼を初め32の上場企業を有し、インドのGDPの三%弱に当たる年商二兆円超を誇るタタ財閥の創始者である。この一〇〇年以上前の歴史的逸話は、創始者を曽祖父に持ち、現在タタ財閥を率いるラタン・タタ氏がある日本の金融機関首脳に披瀝したのだった。(週刊ダイヤモンド誌掲載 辻広雅文 創業者のエピソードより引用)


5、なお、このときの考え方を裏付ける記事が神戸大学にあった。
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 大御所渋沢氏を先頭にして、ピーオー汽船の印綿運賃独占を打破すべくタタ商会と紡連、郵船との間に印綿積取り契約が実施され(二十六年)~~~更に注目すべきは、日本産業の農本主義より商工立国への転換の指標たるべき綿花輸入税の廃止(二十九年)が数年のチーム・ワークの後に戦いとられた。(神戸大学 報知新聞 1931.3.17より一部引用)


 ここで「印綿運賃独占」とある。印綿とは字のごとくインドの綿花のことで、それをピーオー汽船が独占価格で運賃を取っていた。それを『打破すべく』とはっきりと目的を述べている。

6,追記 今回のテーマの核心であるでもあるインド航路の様子を後に描いた絵がある。
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             ↑深谷市『油絵で見る渋沢栄一の生涯』・・・渋沢敦雄氏の作品
 また、渋沢栄一の生涯の中で次のようなことがあったという。
「渋沢栄一が実現しようとしたもの。それは まず、第一に、「官尊民卑」(政府・官吏を尊んで、人民をいやしむこと)の打破ということが挙げられます。17歳の栄一が、岡部の陣屋の役人にさんざんに愚弄される話はあまりに有名ですが、この時の経験は、栄一に、家柄や身分によって人間が差別されることの非をさとらせ、そういうことのない社会の実現をめざすきっかけとなりました。数々の企業の創立や運営にたずさわった栄一ですが、こうした事業活動を通じて、優れた人物を育成し、民間の地位を高めることに努めました。」
               ↑深谷市 『渋沢栄一物語ー12、渋沢栄一のめざしたもの』・・・筆者:新井慎一氏

ここの生い立ちと、その後の信念についてはJ.N.タタのイギリス人から差別を受けて奮起したというエピソードと合い通じるものがある。

 (*追記部分2点について深谷市と作者のご好意により転載させていただいた。)
なお、テーマに関係のあるところのみ引用させていただいたが、この深谷市のHPは、平易な言葉で丹念に渋沢栄一の生涯をつづった見やすいHPで、他にも興味深い記事が多い。
 自分も日本の明治期の産業界で活躍したとしか知らなかったのだが、明治期の日本の男は強い信念を持ち気骨あり奥が深いなといたく感心した次第である。興味をもたれた方にはオススメである。
 深谷市の渋沢栄一のページ


7、まとめ
 当時はまだ関税自主権がないころだった。欧米の商品に自主関税をかけられない。日本の紡績品をより安くつくらなければ、海外どころか国内でも売れない。しかし、原料の綿花を直接インドから購入しようとしても、ピーオー汽船等の高い運賃を払わなければならない。原料が高ければ如何に人件費が安くても欧米に勝てない。

☆ そういうジレンマを感じて何とかしたいと考えていた渋沢栄一
     イギリスに支配されながらも自主事業を展開していきたいと願ったインド人T.N.タタ
         実際に経営に苦しみながら乗り切った日本郵船
これらの人たちの出会いと決断があってインド遠洋航路が始まり、欧米への航路も次第に確立していき、日本の産業革命は成功していく。インドでもタタは貿易と自分のところの紡績業で次のステップへの財を成していったのだ。

 ――― 大きなできごとではないけれど、何かが変わっていくとき、その原点には必ず人と人の出会いや切磋琢磨がある。そういった人間がやっていることが歴史となっていくんだといつも感じている。・・・日本とインド、いずれも自分の領域外のことを書いてしまった(おかしなことを書いていたら教えてくだされ~)が、その人を感じとる歴史の一端に触れられて良かったと、しみじみ思っている・・・。
 
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by miriyun | 2007-03-29 07:01 | その他 | Comments(3)

ミント入りアイラン

夏の乾燥して暑い日に一度飲むと癖になるアイラン
 口当たりのさわやかさが好きで、コーラや・ファンタ・7upなど炭酸飲料の多い中、伝統のアイランのほうが気に入ってしまった。

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 ミントの葉がいっぱい入っていて見た目にも涼やか、酷暑の中でこれを飲んでなんとも嬉しかった。チュニジア南部タメルザ・パレスのレストランのアイラン。写真を撮っておいて良かった。なぜならその後、これほどざっくりとミントを入れたアイランにはお目にかかれなかったからだ。

 アイランとは、ヨーグルト・ドリンク。国によって若干の違いはあるかもしれないが、日本のヨーグルト・ドリンクとの最大の違いは砂糖ではなく塩味だということ。
 乾燥した土地では、・・・汗をかいてもすぐに乾燥してしまって塩分が失われていることにも気づきにくい。身体にすーっと入り込んで不足な塩分を補ってくれるようなところがぴったりなのだろう。本当においしく感じる。いつのまにか、好きな飲み物のひとつになっていた。

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 街のジュース屋でもあるが、長距離セルビスに乗り込むときなどあわてて買うのは紙パック入り。小さな雑貨屋さんでも冷蔵庫のあるところならかなり置いている。(レバノンのアイラン)

 その土地の気候や風土にあったものこそ・・・と思うのだった。

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by miriyun | 2007-03-28 18:34 | 食べ物・飲み物 | Comments(9)

J・N・タタ&ガンディー…タタ財閥と日本(1)

 タタ・スティールと新日本製鉄が合弁かというニュースが流れた。
そこで、気になるインドのタタ財閥の話をしばし・・・

タタ財閥とは
  インドには、古くからのビルラ・グループとここ10年で急成長してきたリライアンス・グループもあるが、着実で手堅く信用できる商売をしてきているのがなんといってもタタ・グループといわれる。タタ自動車をはじめ、タタ航空(現・エア・インディア)、電力、ホテル、紅茶など幅広く着実な歩みをしてきた。昨年あたりから旧主国イギリスの製鉄会社を買収するなど活発化した動きで話題を呈している。

 タタ財閥はパールスィーといわれるインドの中のゾロアスター教徒である。インドの西、パキスタンに接するグジャラート州がある。そこから、ボンベイ(ムンバイ)をへて、全インドへと展開した百年以上の歴史のある財閥である。
 
2.マハラジャとの約束を守っているパールスィー  
 インドのパールスィーは1100年頃に、イランから移住した。 イランから船に乗り、インドのグジャラート州にたどり着いた。そのとき、とうぜんゾロアスター教の永遠の火ももってきており、それは現在も連綿と受け継がれている。
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 ↑ヤズドのゾロアスターのしるし(現在のイランではゾロアスター教徒は激減してしまい2~3万人いるかどうか・・・)

 ◆インドのパールスィー共同体に伝わる話でとして、グジャラートの現地のマハラジャとの間に次の様なやりとりがあったと言われている。
 
 パールスィーの代表がマハラジャに定住の希望を伝えるが、マハラジャは「あなた方のための場所は残っていない」と伝える。代表はコップにいっぱいのミルクを希望する。ミルクをコップにあふれる程注いだあと、代表はそこにスプーン一杯の砂糖をミルクに溶かしこんで見せる。コップからは一滴のミルクもこぼすことはなかった。そうして言った「このように私達がこの地に溶けこんで、地域を甘くすることが出来ます」。
 この話に感銘したマハラジャはゾロアスター教の布教を行わないことを条件とともに定住を許すことになる。 (Wikipedia:ゾロアスター教より引用)
 現在インドのパールスィーはイランより多く180000人ほどといわれている。減少傾向にあり、この布教しないという約束が生きていると考えられている。

 インドで商売をするのに・・・カーストはまだ生きている。だから商売はやりにくい。体面や慣習や、身分の誇りや何やらがついてまわるので動きにくい。その点、パールシィーはなんらカーストに関係しないから不自由がない。そういう意味で、パールスィーであったことは経済界では有利であったのだ。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・
 ≪追記≫・・・ek-japaniさんにそのほかの理由やカーストの実際を挙げて深めていただきましたので、ありがたくまとめさせていただきます。
 ①男親がパールスィーでないと子はパールスィーにならないと聞いていたが、それ以上に厳格な場合もあるということで、両親ともパールスィーでなくてはその宗教を引き継がない。血統重視で排外的に「改宗を認めない」主義なのが原因の一つ。
 ② また都市部在住で比較的高学歴・高所得な家庭が多いので、少子化・晩婚化による人口減少との相乗効果も起きている。
 ③カーストについて
 パールスィー外部の社会全体においては。「地縁・血縁・職縁に基づくコミュニティー内の人的ネットワーク」みたいな意味で「カースト」と同様に見られていた。
 ただ、「パールスィーはなんらカーストに関係しないから分業制に拘らない」というのは植民地支配したイギリス側も当時考えた可能性があり、植民地時代少数派のパールスィーを優遇した分割統治政策を考えればパールスィーであった事は経済界で有利だった、とも言える。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

3.創業者のエピソードその1・・・ホテル業
 19世紀末、若き創業者ジャムシェドジー・N・タタは当時イギリス統治下のボンベイで遭遇したこと。それはホテルのレストランでインド人であることを理由に店に入ることができなかったという屈辱・・・それが彼にホテルを作らせた。インドで名高いタージマハールホテルはこのときの屈辱をばねにして、インド人が誰でも入れるホテルをという気持ちでつくったという。その気持ちは、お客を大切にし、充分なサービスを提供する現在もタタ・ホスピタリティとして生かされている。インドを中心に57ホテルを展開するタージホテルは、タタ財閥経営で、このボンベイ このタージマハールホテルの創業が104年前、それからタージ・グループとして次のようなホテルを抱える一大ホテルグループとなった。
 
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 かってのマハラジャ宮殿、上の写真のレイクパレスをはじめにランバーグパレスなどの豪壮なホテルをはじめ。絶好のロケーションに建築したタージ・ビューホテルなどをかかえ、インドに行けばどこかしらで名を聞くホテルばかりだ。

☆ この創業者のイギリス支配、白人支配による屈辱から立ち上がる姿はマハトマ・ガンディーと共通する。
 まずは共通点から。二人ともイギリス支配下でグジャラート州出身の富裕層に生まれた。宗教は異なるが、グジャラートの先からパキスタンになることでわかるようにイスラームも多い、パルシィーもいるというところで、ガンディー自身も宗教に柔軟な考えを持っていたと考えられる。
 そして、ガンディーはイギリスの大学で学び、若き弁護士として南アフリカに行く。そこで有色人種への激しい差別を身を持って体験する。列車の1等チケットを買ったにもかかわらずインド人で肌の色が異なるために列車から追い出されたのだった。
 これによって、ガンディーは、イギリス風の紳士の服装を脱ぎ捨てて、南アフリカで同胞のために働き、インド帰国後は白い布一枚を身にまとい、インド産の布しか身に付けないと言い切るのだった。ここからインド独立への長い戦いが始まった。

 ☆この二人の人物が差別をされることによって、片方はインド人の産業振興へ、一方はインド独立への精神的支柱となって動いたことをインド人は忘れないだろう。


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by miriyun | 2007-03-27 08:25 | インド | Comments(5)

1章 砂漠・砂漠化・砂・蜃気楼・・・目次

第1章◆≪砂漠と砂・蜃気楼≫
439 ★砂の世界3…自然の宝石箱 2007-01-13
438 砂の世界2 2007-01-12
437 砂の世界1 2007-01-10
436 砂漠の旅情 2007-01-09
435 ドバイ・砂漠へ行くには? 2007-01-08
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382 砂漠のバラ(3)…砂を取り込む結晶 2006-11-06
379 砂漠のバラ(2)…いろいろなサンドローズ 2006-11-03
378 砂漠のバラ(1)…バラの名前のゆえん 2006-11-02
270 砂漠とオアシスの境 2006-07-04 自然
241 砂の力 2006-06-06
135 砂漠化…家をのみこむ 2006-02-19
40 チュニジア・・・湖と海の蜃気楼を見た 2005-11-14
39 上位蜃気楼・・・チュニジア・太陽がのぼる連続写真 2005-11-13
38 サハラの夜明け・・・この太陽の形は何? 2005-11-12
35 砂漠は生きている・・・足跡(2) さそりは? 2005-11-08
34 砂漠は生きている・・・足跡(1) 2005-11-07



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by miriyun | 2007-03-26 02:54 | その他 | Comments(0)

ヘンナの染め方(4)

 手をヘンナで染めることは女性たちにとって大切な習慣だという。そして、結婚式の前の晩には花嫁をお祝いする式を行う。花嫁の手に念入りに美しく繊細なヘンナを施し、女性たちも手のひらを赤く染めたり、指先だけを染めたり、花模様を付けたりする。
 これを、『ライラート・アル・ヘンナ』と表現している。アラビア語で「ヘンナの夜」というわけだが、前出のトルコ語の『クナ・ゲジェシ』と意味は全く同じだ。
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 ヘンナを搾り出すのに、昔からクリーム状にしたヘンナを絞り袋に入れて行う。だが、最近は注射器が便利らしい。何しろ均一に細い線を描くことができる。
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 ヘンナを使い終わって、ヘンナの入った深皿に注射器を差し込んで1秒ほどで吸い上げ、すぐに次の文様を描くことができる。たくさん使うときはいとも簡単に補充できるところが便利だ。
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なお、ヘンナをしている様子を見ているとやってくれる人に左の手はこんな風に指先まで、右手はこんな花をという具合にテキパキと注文している。
 そして、その描き手の指先から生み出される文様の華麗さを参列者が見つめる。参列者は顔を寄せ合うように周りに集まり、そのなかでおしゃべりしたり、人のヘンナの模様について感想を言い合ったりして、しばし興ずるのだ。
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 言葉も民族も異なっても結婚という祝の場でのヘンナの習慣は一緒なのだ。インドももちろんそうであるし、ヘンナという習慣はほんとに民族を超えて広がっている。
 

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by miriyun | 2007-03-25 21:44 | 日本の中のイスラーム | Comments(2)

雪をもつくるドバイ…驚異のイスラーム(2)

 オイルマネーは時として、大きすぎる夢を現実の計画としてしまうようだ。

 ドバイの気温は冬はともかく夏は50度にまでなる。超のつく高湿度である。シリア・ヨルダンなら雪も降るが、アラビア半島南端部ではそうはいかない。そのアラビア半島でスキーやスケートをするというのは、究極のリゾートなのだろう。

 まず、ドバイはスケート場をつくった。そして、白くて長いアラブ服にスケート靴を履いて滑る姿がたくさん見られた。
 次に日本のザウルスに目を付けた。ザウルスが経営不振で閉鎖となる話を聞きつけてきて、」それを買ってそっくりドバイまで送ろうという案だった。
 しかし、これは解体・再設置・他の関係でこの話は成立しなかった。しかし、それであきらめたのかというとそうではなく、今ではザウルスを超える設備で新設したのである。
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 それがスキー・ドバイ。(↑そのロゴ)
このスキー・ドバイは2005年12月にオープンして、巨大ショッピングモールとホテル・ケンピンスキーが併設されている。

 中東で初めての屋内スキー場、そして世界最大の屋内スキー場である。親子でそりを楽しんだり、スキーやスノーボードは初心者コースから上級者まで楽しめるコースが用意されている。山岳リゾートをイメージし、400メートルに及ぶコースを滑ることができる。
 収容力は1500名といわれる。まあ、そんなに入ることはないと思うが・・・。

  スキーや衣服のレンタルはもちろん、リフト・カフェ・レストラン・小売店など、すべてそろえてアラブ服でやってきて、突然雪の世界へと入って楽しむことができるわけだ。子どもたちのパーティ用のプライベートルームも用意されていて、パーティをしながら、雪国遊びもできるわけだ。

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                             (現地旅行社の案内ちらしより引用)
 家族で、スキーにお手軽に行く子rとができる。あの酷暑のドバイでは冷たいということは極上のリゾートということになる。日本人にとっては珍しくもないものだからさほど興味は引かないだろうが、アラブ人にとってはこれを達成するにはそれなりの意義があったのだろう。他のアラブ諸国からも是非これを作りたいと声がかかっているというから、アラブでは人気なのだ。
 これについて、いかにここまで冷やすのが大変だったか?
 その答えが、先日の週刊ダイヤモンドに載っていた。なんと冷やして、これだけの雪を作るまでにまるまる2ヶ月かかったというのだ。

 
 ★そして驚くことに、ドバイはこのスキー・ドバイに飽き足らず,さらにスキー施設を作ろうとしている。海中ホテルも着々と進行している。もちろん、埋立地のパームには別荘のほかにホテルが建てられ、観光客を迎えいれることになる。
 
 ☆いま、ドバイの首長シェイク・ムハンマドの意志から始まった変革は、U.A.E.の経済界において確固たるものとなった。人々に計画すればできるという自信を持って迅速に進んでいる。
 ドバイは不可能なことないというような気持ちで次々と新たなプロジェクトを打ち立てている。スキー場ぐらいはかわいいものだが、高さ1000メートルを越えるビルや海中ホテルなんていうのは構造力学的にどうなのか。
 ドバイはいったいどこまで行こうとしているのだろうか・・・。

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by miriyun | 2007-03-24 16:13 | U.A.E. | Comments(0)

目でも味わう甘露!

 中近東・北アフリカ・シルクロードの乾燥した地帯のフルーツは、野性味があり、甘み・酸味・風味など充分だ。
 そして、値段はというと日本のスーパーなどでは考えられない安さなのでお菓子やジャム作りにもたっぷりと使う。

 ☆ジャムの話 
 シリアの安ホテルでパンとゆで卵とジャムとチーズだけのあっさりとした朝食がついている。そこでは何泊しようと毎朝食これに決まっている。 給仕係りのおじいさんがプラムとアンズのジャムなど2種類ほどのジャムをお皿に載せてくる。アンズの酸味が好きな自分はアンズばかりを食べてしまったが、すると翌朝からは、プラムは少しで、アンズをさらにたくさん山盛りに出してくれた。
 ただのパンでなんでそんなに食べるのか。大ホテルのバイキング朝食に付きものの小さい四角にパックされた普通のジャムでは絶対にこんなに食べることはない。ここのは家庭料理のジャムだからだ。 
 家庭料理のジャムはいわゆるフルーツコンポートタイプで、フルーツの実の形でごろごろ入っている。味は最高。中近東の人たち、とくにフルーツの豊富なところではこんなジャムをたくさん家庭で作る。

 ☆フルーツのお菓子の話 
 アンズが大好きなもので、先日のバザーのシリアブースでフルーツを使ったものを探し出してしまった。
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 上はアンズ、下は洋ナシのごく小さいもの。フルーツの甘露煮だ。 
 日本でもキンカンなどを姿のままに煮ることがあるが、シワだらけになったり形がふっくらしない。でもこれはキンカンより数倍大きいのに型崩れせずツヤツヤだ。

 ふっくらとしながらシロップがたれるほどでなし、かんだ時のほどよい歯ごたえはしっかりとある。洋ナシのザラザラ感もナシらしい。しかし、いったん口に入るとやわらかく、甘みと共に本来のフルーツの持つ芳しさが口の中にただよう。
 しばし、至福のティータイムとしたくなる。 

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by miriyun | 2007-03-23 09:52 | 食べ物・飲み物 | Comments(10)

刺繍の文化・・・アラブチャリティ(4)

女性の服には刺繍がよく使われる。服の刺繍部分を見ていく。
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 クウェート。金糸を使った刺繍が多い。
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 バハレーン。金糸と金のスパンコールで複雑な文様を描いている。アラブでは金色は好まれる色なので男性の服でもたびたび金糸は使われる。
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パレスチナ地方はそれぞれ町や地域に根ざした民族衣装があるが、パレスチナ刺繍はその代表であろう。
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 伝統的な暮らしをしているところほど、生活に根ざした色糸で味のある刺繍があるし、文様も民族の歴史が組み込まれている。

    とくに気になっているのは、文字を入れた服。
 
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ファッション体験のところでとくに目に付いたのは文字入りのドレスである。生地は地模様が入っている。そこに中央部にはクロスステッチで、文字は金糸・銀糸による重厚な刺繍が施されている。

≪追記≫
 最後の刺繍に興味を持っていただいたので中心部の刺繍を追加します。
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 しかし、この服なかなか日本の感覚では着こなせない色合わせです。

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by miriyun | 2007-03-22 23:32 | 日本の中のイスラーム | Comments(6)