T.E.ロレンスとヨルダン王家の誕生
トランス・ヨルダン王国の成立とT.E.ロレンスは密接につながっている。 ヒジャーズ地方のシャリーフ、フサイン・イブン・アリーには男子が4人おリ、長子のアリはそのままヒジャーズの最後の王となる。次男アブドッラー王子と三男ファイサル王子が1916年のアラブの反乱に参加した。そして、ファイサル王子のほうにイギリスからの顧問としてT.E.ロレンスがついていたのだった。 王子たちと、族長とT.E.ロレンスがアカバ攻撃やダマスカス入場を果たしてオスマン・トルコからこの地を取り返した。これが、英仏の帝国主義国に対してアラブが独立を要求していく力となった。つまり、影で動いた3つの密約等によって、大きな禍根を残すことになるのだが、この当時としては独立運動をして、それにはロレンスの考えや作戦も価値あるものであったのだ。 1920年、ダマスカスでのアラブ民族会議でアブドッラーはイラク王に、弟のファイサルはシリア王に選出された。同年6月フランスのダマスカス占領及び弟のファイサルのシリアからの追放が起こり、これに対して、アブドッラーはファイサルのシリア王権を支持するために軍を率いて北上した。このときもヨーロッパで開かれた国際会議にロレンスはアラブ側の事情通としてファイサルに付き添い王国維持のために援助している。 イギリスはヨルダン川東部の広大な乾燥地帯にトランスヨルダン王国の建国を認めると提案したために、アブドゥッラ-はこれを受け入れ、トランスヨルダン国王、アブドッラー1世となった。しかし、イギリスの委任統治領の地位であったため、正式な独立は1946年となる。1949年には今の国名ヨルダン・ハシミテ王国となる。 したがって、ヨルダンの祖、アブドッラー自身がロレンスと近かったわけではないのだが、ここまではともに戦う同士だったわけなのだ。 アブドッラー1世暗殺事件 アブドッラー1世はその独立からわずか5年後、エルサレムのアル・アクサー・モスクに孫のフセインをつれて礼拝しているところを暗殺された。そして、このときフセイン王子も撃たれたのだが、アブドッラー1世が孫につけさせていた勲章に弾丸が当たり助かった。 このあと、タラール1世が即位するが、わずか1年で、息子フセイン王子が地位を継ぐことになった。 映画『アラビアのロレンス』とフセイン国王のロマンス ![]() わずか、16歳で即位(正式には17歳になってから)しフセイン1世となり、少年王として難局続きの中東・国際関係を乗り切っていくことになった。フセインは19歳で6歳年上の女性と結婚させられているがすぐに離婚している。結婚は4回繰り返したが、同時に妻を持つことはしていない。離婚や死別によっての結婚だった。 ◆フセイン国王は、リーン監督の『アラビアのロレンス』撮影に当たって、部下達のエキストラ出演など、全面的に協力したのはなぜか。 ――――それは建国の流れとこの映画が関係あるからだ。まさに1918年のアラブ軍の砂漠の反乱(アラブ側からいうとアラブ独立戦争)を描く映画であり、祖であるアブドッラー1世については映画でほとんど触れないとはいえ、ヨルダンの歴史に大きく関わるからであろう。 熱心な国王は撮影現場に何度も足を運び、部下達がエキストラとして働く現場を何度も視察のために訪れていた。そのとき、撮影現場で秘書アシスタントとして働いていたイギリス人、アントワネット・アヴリル・ガーディナー20歳と知り合う。王は26歳だった。適齢期だったのだ! 彼女は1961年5月25日のフセインとの結婚後、ムナー・アル=フセインと改名し、1962年の第一子アブドゥッラー誕生後は「ムナー・アル=フセイン王妃」と称され、離婚してもその称号を認められている。(Wikipediaを参照した) フセイン国王は長くきわどい中東の国際問題の中で手腕を発揮し、優れた王であった。兄弟を跡継ぎとしていたが、国王は晩年、このムナー・アル=フセイン王妃、つまりアラビアのロレンスの撮影で知り合ったイギリス人女性との間に生まれたアブドッラーを跡継ぎに指名して世界は驚いたのだった。 アブドッラー2世 ![]() そして、今そのイギリス人女性との間に生まれたアブドッラー2世は、パレスチナ人のラニア妃とともにヨルダン王室をしっかりと運営している。 そればかりではなく、若手の王族・政治家の中で群を向いて活動的で、各地での演説等を聞くとこの人物には確かにあの嵐の中東を乗り越えてきたフセイン1世の血が流れていると思わせられる。たびたび来日しているのにほとんどこの若きリーダーのことを報道しないメディアにいつも物足りなさを感じる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ *最後にヨルダン・ハシミテ王国の王を再確認すると、 ①アブドッラー1世・・・②タラール1世・・・③フセイン1世・・・④アブドッラー4世と、続いてきている。 フセイン王は若い時、今のアブドッラーに近いかんじがした。またアブドッラーは年を経るごとにしまってきて、フセインに似てきている。 ◆ ヨルダン・ハシミテと書いてきているが、実際はハーシム家のヨルダンと言う意味でムハンマドから続くアラブ世界きっての由緒正しき家である。 オスマンの支配下から抜け出ようとして、イギリス・フランスの思惑の中でに利用されながら、それでもイギリス人ロレンスも関係して建国した国であり、その位置からパレスチナ問題にがっぷり組み込まれている宿命がこのときからある。 そんな宿命ともいうべき難しい立場にありながら英邁で行動的なリーダーである国王がイギリス人の后とをもち、その人を母として生まれた現王がいて、現アブドッラー2世は、パレスチナ人の后を持つ・・・。 ここまでの歴史を見ていくと、大きな歴史の渦の中で翻弄されつつも、国籍と民族に関わらず人間そのものを見つめて進んできたヨルダン王家が見えてくる。3代目が日和見といわれつつも、この渦中におかれた小国を維持し、4代目が新しい秩序を模索し続けていることが頼もしく感じられる。 ⇒ ⇒応援クリックお願いします。 ![]()
1.エステな死海・幻想の死海
死海には、たくさんの川から流れ込んだミネラル成分がいっぱいである。そのため、死海の泥パックがかなり以前から行なわれている。 ![]() いまや湖岸の高級ホテルのエステルームで行なわれている。 しかし、別にぷかぷか気分を味わったその場で自分たちでパックすれば同じだ。 この若夫婦も楽しげにおしゃべりしながらパックを楽しんでいた。 ![]() ↑ ヨルダン大使館観光局のカレンダーより引用 浮く場所は比較的泥のところで、このような結晶は見られないが、湖岸にはこのようなところがある。白の結晶は時間によって幻想的に変化するはずである。カメラマン的にはそそられる対象であり、いつか浮くためではなく撮るためにおもむいてみたい場所でもある。 2.死海の水位低下の意味するもの 先日、新聞で死海の水位が低下し、湖の面積が7割にまでなっていると書かれていた。 ![]() ( ↑ 2009.04.14読売新聞夕刊より) その文は浮こうとしてお尻がついてしまわなければいいが・・・というしめくくりになっていた。 ◆ まあ、そこまでは深さがあるのでならないが湖岸のホテルによっては今後の行方次第で死活問題にもなる。 ◆ そしてもっと問題なのはこの水の減少の原点は何かということだ。 そこには当然ヨルダン川の使い方、取水をしている側の使い方、取水制限されている側の悲哀がある。 力がある側が考えなければならないのは何か? 弱いものにはやらないという姿勢ではなく、いかに人間として共存し、川そのものを大切にしていくかを民族を超えて話し合う時期に来ている。 ◆またこの問題の奥には、世界的に水不足になってきている現実が見え隠れしている。 ⇒ ⇒応援クリックお願いします。
死海* البحر الميت
アルバフル・ル・マイイトゥ ・・・アラビア語でもろに死んだ海という命名である。 ![]() 首都アンマンから55km。海抜400mの地上の最低地点である。 海水の塩分濃度が約3%であるのに対し、死海は23~30%の濃度を有する。湧水の発生する1ヶ所を除き、魚もすまないことから死海(英語*Dead Sea)として知られている。ただし、緑藻類のドナリエラや高度好塩菌の生息は確認されている。 内陸部でどうしてこんなに低いのかというと、アフリカから連なる大地溝帯がヨルダン川が通るところであり、盆地状に山に囲まれたこの地に川から水は流れ込む。あとからあとから流れ込むがここが最も低いのだから出口はない。 ミネラルも塩分も何もかもがここにたまっていく。日本ならどんどん湖が大きくなっていって、どこかで出口を見つければそこから川となって海へと向かう。 しかし、ここは中東。乾燥し雨は少ない。湖があふれるどころか、次々と蒸発が進む。その結果、ここは塩分の濃さで名をはせる湖となったわけである。 ◆ 真夏の8月で、日かげで高さ1.5mくらいの風通しのいいところで41℃という気温の日であった。日なたで45℃、ここは湿度が高い。砂の温度は61℃である。 ハエが飛んで入るのだが、その力は弱々しく、なんとヤシの葉葺きのビーチパラソルの下だけで飛んでいる。日なたには絶対出まいとするかのように確実に日かげだけを選んで飛んでいる。狭い日陰に人も虫も集まるのでイヤでも目の前に遭遇してしまうのだった。 ◆塩だけが濃いわけでなく、マグネシウムもカルシウムも何もかもが濃度が高いのだが、塩は結晶するから目立つ。 ![]() ↑ ヨルダン観光局のパンフレットより引用 人が泳ぐ場所は普通の砂浜に見えるが場所によって、塩はこうなる。こういう状態は2000年以上前も同じだったようで、旧約聖書で塩にかえられてしまった人という話はここを舞台にした話である。 ◆ ウキウキ(浮き浮き)体験 死海は濃度の濃い塩水であるからモノが浮く。 *卵は水に沈むが、塩をどんどん水に入れ濃度を高めていくと、そのうち卵が浮き始める。 これと同じ現象が起こるから、波を抜きに考えればプールより海のほうが浮きやすいし、それが死海くらい塩分が濃くなると浮くまいと思っても浮いてしまう。 死海で浮いてみるのは、学校時代に地図帳で死海を見かけて以来の願望でもあった。 まずざっと眺めたところ、だれも泳がずおとなしく浮いている人ばかりである。 水しぶきを上げてクロールや平泳ぎしている人もいない。何故だろうか。 ◆ 実はこの湖に入る上での注意は、2つ。 1.塩分が濃すぎるから、15分以内に! ・・・・塩漬けのきゅうりのように体内の水分が出て行って塩分付けの漬物のようになっていくのだろうか。 リアルにしなびた人間を想像したら、気持ち悪いので15分を守るようにした。 2.目や耳に塩水が入らないように! ・・・・目や耳に入れないためには必然的にもぐらず、水をはねず、結果的におとなしくしていることになった。 全く泳げないかなづちと呼ばれる人も浮く。 この言葉を頼りに入ってみる。まず感触は、サラッではなく、ヌルッに近い。濃度が高いからだ。 ?ここで疑問が生ずる? 雨がなくて蒸発も多いのだから夏のほうが冬よりも濃度は高いのではないだろうか・・・。 さて、まずは塩水をなめてみる。まずなめるあたり、子どもと同じだ。痛いような刺激がある塩水だ。 ◆「足がフワフワする!」 そんな感じで、湖に入ったときから足が浮きたがっている感じである。 座ったとたんにふわりと浮く。 しっかりと強烈に浮いてしまう。沈みたくたって浮いてしまうとぴう感覚だ。これならお盆にグラスを置いて飲むことも本を読むこともできそうだと思いつく。 そのとき思い出した。よく死海の写真には新聞を読む人が写っていたっけ。新聞読んでみたいと思った。するとそう思って準備した人が多いらしいことが岸辺に置き去りにされた新聞がたくさんあることでわかった。それをもってもう一度入ると、 あらら~不思議、浮いたまま新聞読めてる~。 ![]() ↑ 観光局パンフレットより引用 名古屋でかって開かれた愛・地球博でヨルダン館はこんな空間を出現させて、死海体験を日本でできるようにしていた。 ![]() 湖水を運ぶなんてなんて大変なことをするんだろうと思ったが、これで体験できた人も多いだろう。浮くというのは体験してみる価値のある体験である。 ◆さて、上ってからのこと、 シャワーを浴びるところまで、ほんの少しの時間にぎらぎらの太陽に照らされて肩からどんどん水が蒸発していく。するとそこから光り始める。 なんだ、なんだ!? そんなに死海の水は肌がきれいになるのかと思って喜ぶまもなく、 それが塩そのものだとわかる。それが太陽光でひかっていたのだ。 大いなる自然は塩を残しての蒸発実験を人間の身体の上でやって見せてくれたのだった。 ⇒ ⇒応援クリックお願いします。 ![]()
◆マダバのモザイク地図
![]() ↑ヤシの木に囲まれた中央の町はエリコ(IEPIXW)である。 旧約聖書の中でメデバと表された土地、それがマダバであり、ナバテア王国盛んな頃はその版図に入っていた。しかし、A.D.106にローマ帝国の支配下に変わり、そのご東ローマ帝国が7世紀まで支配した。7世紀からはウマイヤ朝に属す。 マダバは746年の大地震に見舞われ、再建不可能ということで廃墟になった。1100年を経て1880年にアラブ人キリスト教徒が移り住み、古代の廃墟の上に現在のマダバの町が築こうとした人々は町の各所からモザイクを発見した。1896年には明らかに地図の形をしてローマの文字で地名が書かれたパレスチナ・ヨルダンの地図が出土した。 町の人々はこれらのモザイクを大切に保管し、現在はこの町の重要な観光資源となっている。 マダバは死海の近くの町であり、アギオス・ゲオルギオス聖堂(英語:セント・ジョージ教会)というギリシア正教の教会の床にこの聖地を中心とした地図があらわされていた。破損部分も多く全貌はわからないがナイル川まで書かれている実に大がかりな古代地図であった。 ![]() ![]() 教会ならではの聖人像もあるが世界の人々が訪れるのは世界最古の聖地の地図がモザイクであらわされたものが現在も尚、ここの教会の床として存在するからである。 ◆エルサレム 2000年前のエルサレムはローマ帝国に支配されていた。その支配に対してユダヤ人はA.D.60年に大反乱を起こす。時の皇帝は暴君として知られるネロ。エルサレムは70年に陥落、ユダヤの神殿も破壊された。73年にマサダも陥落した。しかしまだエルサレムに残るユダヤ人が132年ローマに対して反乱を起こした。ローマ皇帝ハドリアヌスはこれを鎮圧、すべてのユダヤ人を追放した。ハドリアヌス(Publius Aelius Traianus Hadrianus)はエルサレムをローマ風の町に再建した。名をアエリア・キャピトリーナと名づけた。 ![]() そのエルサレムの町の6世紀後半の姿がこれである。 まず方位を確認しよう。この地図は北は左である。つまり上下が東・西、左右が北・南である。 ハドリアヌス帝によってローマ風の町として再建されたということは列柱通りが必ずあるということだ。この地図の南北(つまり横)に列柱通りがつき抜けている様子が白の柱型に組んだモザイクで表されている。周りは城壁によって囲まれている。左の一本の柱がくっきりと立つ門があり、ここは現在でも「柱の門」(バーブ・アル・アムド)と呼ばれている。そして北向きのこの門はダマスコ門としてより知られている。 通りの中央に面してドーム屋根を下にして描かれた建物は聖墳墓教会である。 なお、このモザイク地図と現在のエルサレムの地図とはまず町の大きさが異なる。現在は城壁がこの地図よりずっと大きく広い面積を取り囲んでいる。それは中世の十字軍来襲からの攻防を経て、16世紀になってからはオスマン朝のスレイマン大帝によって城壁が作り直されたからである。 なんとも絵地図というものはいつの時代、どこの国からでもわかりやすい。無味乾燥な地図記号よりもずっとその町の様子が浮かび上がってくる感じである。 それとともにこの地域の歴史の深さを思いおこさせるものである。 ⇒ ⇒応援クリックお願いします。
日が暮れようとしている。 さしものぺトラの山の色もモノクロになっていく。
それとは逆にぺトラの山並みが空にぺトラ色をにじませているのではないかと思うばかりに、空は鮮やかに染まりゆく。 ![]() ぺトラは濃いグレーに変わった。まだ、山のふもとの樹木や家々がたたずみ、絵画のような柔らかな光景が見える。人々の生活はこのくらいではやたらと人口的な光をきらつかせない。 ![]() 中東の夕景というのは息を呑むような色になる。無言でこの時間はただ見つめていたい。 ![]() はるかに奥の町にちらほらと明かりがつき始めた。太陽が沈んだ後の空は、これまた冴えた青色との競演を見せてくれる。 ![]() ワディ・ムーサーの町の明かりがつきそろうころ、空はきょうの日の始まり(*)をとびっきりの明るい赤で祝福しているかのようだ。家々の小さな明かりが小さな宝石のように散らばりかわいらしい。 *イスラームでは一日の始まりは日没からと考える ご一緒に夕闇の中の色を楽しんでいただければ幸いです・・・。 ポチッと応援をよろしくく
☆ペトラの基本色と色を変える要因
ぺトラの岩の基本色は赤砂岩の色だ。 ![]() 赤砂岩はもろく、土に帰するとポロポロの土になる。 右には影を入れた。陰になることで深い色になる。日のあたり方で全く様相を変える色の日かげの部分を出してみた。実際はこれに岩の陰影と光の当たる角度、そして時間帯による光そのものの変化が影響して同じ赤砂岩でも微妙に変化してくる。 では、水はどのように影響するのだろう。雨のペトラを写真に撮ったことがない。(めったに雨にそ遭遇するなんてことはない地域だが、もし大雨が降った時には早急に避難しないとこのあたり一帯に降った雨がペトラを濁流に飲み込ませてしまう。) ちょうど、水がしみ出てくるところがありそれを撮ってみた。 ![]() 乾いている砂岩は冴えた赤で、水に触れた部分の色は黒ずみえるかと思ったのだがやはり暗くは鳴らすやや紫になってきている。なお、色の違いをはっきりさせるため近くに落ちていた白い石灰岩をのせてある。これと比べるとペトラ色の深みがわかる。 なお、この赤砂岩を私は絵などの仕上げをする時に使う。なぜなら赤砂岩は普通の絵の具の赤とちがって黒が入っていない。画面を黒くしない沈まない赤茶だからだ。 ☆色のカルテット 赤砂岩以外にも色は様々だ。 ![]() ↑ 青紫・紫・赤紫と赤砂岩 ![]() ↑ 白い石灰岩が混ざってできる 紫・白・サーモン色など様々な色が混ざっている。 これらの岩によって山そのものの色も普通の山とは異なって見える。 ☆ 昼の表情 朝の遠景に続いて昼の遠景で、再確認。 ![]() 奥の薄紫に見えるのがペトラのシークとその奥の遺跡を隠す山である。 ヨルダンの王の道に沿う山々は他で見る風景とは異なり神々しいほど荒削りな自然を感じさせる。それらの山の中でもひときわ紫がかって見える山が見えてきたらそれがペトラだ。 最初に見たように基本色は赤砂岩だが、太陽の光、空気の湿度の高低など様々な要因でこのように紫がかって見えることが多い。 カメラを持つものとして、どうしても色にこだわってしまうのであった。 ペトラの色楽しんでいってくださいね、応援よろしくくく
ペトラの遺跡の中で、岩山全体が墳墓群になっているところがある。
強烈な日差しにさらされた墳墓にカメラを合わせる。手前の植物はシルエットのように黒ずんでしまうが、その植物はその中でもしっかりピンク色の花を主張して咲いていた。 ![]() このピンクの花は夾竹桃。インド原産で乾燥に強いこの花は酷暑の中を5月から9月まで咲いている。(この写真は8月撮影。) ◆夾竹桃(キョウチクトウ)とは―― 夾竹桃というのは葉の形が竹に似ている細い葉であり、花は桃に似ているということからこのように書かれているという。雨がしばらく降らなくても枯れることがない丈夫な木であり、排気ガスにさらされても強いので街路樹にも多い。 これは、インドから中国を経て日本へ渡ってきた典型的な植物であり、日本でもよく見る珍しくもない花だ。 だが・・・、 ぺトラのように酷暑・乾燥の厳しい環境の中でその姿を見ると別の感慨がわいてくる。サボテン種ではない普通の木が普通の花弁を持った花をつけている。しかも何ヶ月も咲かせ続ける。・・・・これはなかなか驚異だ。 夏の中東を好んで歩いているが、花を見ることは向いていない時期である。(大きなトゲのついた、近づくと痛い思いをするような植物なら花をつけているが・・・。) また、ペトラにはたくさんのロバとラクダが働いている。 ラクダは大きなウチワサボテンのトゲだってムシャムシャ食べてしまう動物だ。 それにこの木があるところは午前中は日陰になっているので、ロバがこの夾竹桃の木につながれているのだ。 そこに花のついた木が程よい高さであったなら、3日と待たずに柔らかな葉と花芽は食べられて枝ばかりの木になり、ついには枯れてしまうかもしれない。 それなのに、そんなに多くはない木のすべてに花も葉もふさふさとある。 ◇なぜだろう? どうして? いつもの???で頭に渦が巻く。 じつは、このキョウチクトウ(夾竹桃)は自己防衛機能とでもいうべきか、毒をもっている。それもアガサ・クリスティの小説によく出てくるジギタリスと類似点もある。強心作用や利尿作用もあるが、毒性が強い ので素人に扱える代物ではないというくらいの毒なのだ。 昔から、家畜が食べてしまうことがあり、そうしたときに中毒症状があらわれ、量が多ければ死んでしまう。 キョウチクトウの別名がある。インドでは「馬殺し」、イタリアでは「ロバ殺し」という物騒な呼び名である。また、牛も死んでしまうとされているので草食動物にはとても危険なものなのだ。 ![]() このペトラのロバはこのようなところにつながれて大丈夫なのだろうか?それとももう危険だと学習したのかもしれない。なにしろ、ロバたちは私の見る限りでは、目の前にあるキョウチクトウの一枚の葉も食べていなかった。 これが、キョウチクトウが花芽や葉を食べられないでずっと花を咲かすことができる理由だった。 ラクダ殺しという言葉は聞かないので、体が大きいので死ぬことはないのか?ただ単に嫌いなのか?・・・これについてはわからないが、私はラクダは人間が思っているよりずっとかしこいと思っているので、これは危険だとわかっているかもしれないと想像している(何の証拠もないが・・・) なお、人間にはどうかというと、牛や馬よりずっと体の小さな私たちはもっと注意しなければならないようだ。 木に親しむ日本人はキャンプに行って箸がなければその辺の木を切ってきて箸にして使う。そういうのを自分でもワイルドで頼もしいと思っていたのだが、広島でそうやってキョウチクトウの箸を使ってなくなった人がいるそうだ。(Wikipediaを参考とした) また、古くはアレクサンダー大王の配下から、近代では戦時中の日本軍の兵士まで、戦時下での移動のなかで、この夾竹桃の毒による被害を受けている。 花咲く遺跡の写真を見ながらこわいお話になってしまった。皆さん、どうぞご注意を! 初めて知った方ポチッとよろしく ![]() ドレープのある服装、肩からケープかマントのように重厚な布を下げている様子の彫像である。 ぺトラには本来彫像がいくつもあったはずであるが、エル・ハズネのハサードの見えなくなったアマゾネスなどほとんどわからなくなったきている。 シークにもそういった彫像がある。 上の像の全体像はこれ! ↓ ![]() 戦争等の人為的な要因で岩に彫られた彫像が上の部分を壊されたのか? あるいは崩れたのか、いずれにしてももろい岩質のところなので、割れた岩のアトもきれいに風化と水による侵食で滑らかになってしまった。 まるでフーッと岩の中に溶け込んでいくようにも見える。ここにはどんな人物の顔や髪型があったのだろう。 ペトラは、岩も人工物も時の流れを感じさせるものばかりだ。 ぺトラに興味をもったらポチッとよろしく
久しぶりのぺトラ。
ぺトラは2000年前に交易による利益をもって大都市として発展した。大都市として発展するのにどうしても必要なものは水だ。今見ても川はない。過去においても川はない。 そんなところで、ぺトラの人々はどのように工夫して住んでいたのだろうか。 まず、ぺトラの岩山を歩くと水の道が案外簡単に見つかる。 ![]() そして、そのあとをたどっていくと、岩を削った小部屋の中に日のあたらない貯水池が見つかる。 ![]() 左から徐々に低くなっていて、ここを右に向かって流れて、洞窟内の小貯水池におさまる。 近年においてはシークの脇の岩にくっきりと水の道があるのが見出せる。 ![]() ![]() ![]() 以前にはこれほどはっきりしてはいなかった。シークの道の瓦礫を取り除くとともに、風化した水の道を整備したのだろう。こんなに目だっていいのか?と思うほどくっきりとした水の道が続く。 また、近年の発掘では岩の中に水道管も発見されたそうだ。 ![]() ↑TV番組ぺトラから引用 天水は山頂の貯水池にも集められ、洞窟の貯水池にも集められる。 だが、天水を頼りにしただけでは当然水は足りない。ぺトラは最後の100年はローマ帝国の一部として存在したのであり、ローマ人がわずかな水で我慢するわけはない。 では、どこから水を引いたのか。 ぺと羅入り口近くの小さな町はワディムーサーという。ムーサーとはモーゼのアラビア語だが、その町にはムーサーの泉という泉が今も飲用できる水をコンコンと湧き出させている。 そこから、上記のシークの道を通って、奥の街まで水を引いたのだという。 その水を引く距離のイメージを表してみる。 ![]() ↑ Google Earthを引用し、水の道のイメージを加えた地図。 延々と水を引いた都市、ぺトラの街づくりのすごさの一端が見えてくる。こうして引いた水でぺトラ人は生簀まで作り、魚を生きたまま飼い、遠来の客人をもてなしたという。 ぺトラ発掘はまだ、端緒についたばかり、ぺトラ全容の2%しか見えていないにもかかわらず、十分その威容に驚く。 残りの98%の発掘が楽しみだが、私たちの生きている間には完成しない。 ・・・・それもまた、長い歴史を持つところならではのことだ。 興味があったらポチッとよろしく < 前のページ次のページ >
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