カテゴリ:中央アジア( 19 )

カザフスタンのウェアと世界遺産の動物文様

質問があったので、抱えていた写真でお答えを。

ご質問は、カザフスタンのスピードスケートウェアの文様についてなのですが、ググっても写真が出てこないし、スピードスケートを録画もしていなかったので、開会式のウェアと同じ流れではないかと推測してお答えします。
 (でも、スピードスケートの選手のウェアの文様が写っている画像があったらおしえてください・・解決しました。下の方に記載)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

1.カザフスタン開会式のウェア  
 実は開会式で民族衣装を見るのが好きな自分は夏のオリンピックではかなり深く選手入場の行進を見ている。冬はどうかというとスキーウェアやダウンウェアのような服装でおしゃれかどうかというのはあるが、民族や国の特色をあらわすものは少なくて、録画を止めてみるものは少なかった。
 
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その中で、あれっと思ったのがカザフスタンだった。
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なぜなら動物に見えたからだ。動いている人の中のピントもあっていない服の文様を見るのは難しいが、牛と判断した。
 なぜなら、カザフスタンでこの文様を見たことがあるからだった。


2.カザフスタンのタムガリ岩絵群
 今から〇〇年前、ロシアがソ連だったころ、当時のソ連の一部であったカザフスタンのアルマアタ(現在はアルマトイと都市名が変わっている)に行ったときに見たのがこれだ。
 耳から聞いたことはすぐに忘れてしまうのに、こういうビジュアルは妙に脳裏に残るのだ。それ以来、ここのことをブログに取り上げたことがないのだが、頭の片隅にこの岩絵は残っていたので、ソチの選手入場を見ながら一致した。

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 アルマアタのカザフスタン博物館で青銅器や黄金を用いたスキタイ文化の展示とともに岩絵の写しを見てきた。スキタイ文化よりもずっと前なので極端に足を折り曲げたスキタイ独特の様式化はしていない。
 もっと素直に自然界にある動物の姿をしている。
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カザフスタンの古い先史時代の誇りでもある岩絵には角の立派なうしに頭が太陽のような人に頭がごく小さい点になっている人が描かれていた。
自分の印象では牛の頭にのった形で描かれている人が牛を仕留めるような英雄なのであろうと感じたものだ。(こういう博物館はキリル文字でしか解説がないので、そうやって想像するしかなかったのだ)
 しかし、後に調べてみたらこれがsun-headと呼ばれる太陽神を表していた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
◆ところで、最初のご質問のスピードスケートのウェアの絵について、
早速コメントで教えてくださった方がいて、ず~っ探していったら、ようやく文様が鮮明に見える写真を探すことができた。感謝です!
 
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カザフスタンのスピードスケーター
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きれいな空色はカザフスタンカラー。そして、黄色で描いている線描は、まさしく岩絵。そしては私がかってみてきたのと同じsun-headの太陽神が大きく描かれている。また、狩猟民・鹿・戦う人など、人類の歴史を刻んだ岩絵からの絵だった。太陽神からしっぽがでているようだが、これについては何らかの研究資料を見ないとわからなそうだ。 
 尚、国旗は空を表す空色に中央に太陽と鷹があらわされている。
イスラームの国は一般的には月や星を使って国旗を表すことが多い。ところがここでは太陽を中心に置いている。これはイスラームが入る遥かに昔からのこの国の太陽信仰と関係があるのかもしれない。


 これで疑問は一応解決。私が開会式で見たウェアも、ご質問いただいた方のみたスピードスケーターのウェアも一貫して岩絵という文化遺産でトータルデザインされていたのだった。

3.世界遺産登録・・・カザフスタンの誇り
 これは紀元前14世紀以降に描かれた岩絵であった。場所はアルマトイから北西180kmのところにあるタムガリ岩絵群で、なんと5000もの線刻の岩絵が残されているのだ。
 世界中に実は岩絵はあり、有名なところではアルタミラやラスコーの岩絵は誰もが知るところだが、リビアやアルジェリアにも大規模なのがある。中央アジアにもたくさんある。しかし、ここは中央アジアで最も規模が大きく研究が進んでおり、そしてsun-headを持つ太陽像という特徴を持つ遺跡であった。そして、周辺に残る住居や祭祀場の跡とともに中央アジアの傑出した文化遺産であると認められ、2004年に世界遺産に登録された。

 ◆今回、この動物文様を入れたウェアをきてきたのには、世界遺産を誇りに思うカザフスタンの気概が含まれていたのだった。
 そしてカザフスタンは、このソチでデニス・テンがフィギュアで銅メダルを得たことで、
岩絵以外にもカザフスタンの誇りを一つ増やしたことになった。

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by miriyun | 2014-02-16 12:29 | 中央アジア | Comments(4)

金の刺繍・・・ウズベキスタン今昔

 ウズベキスタンなど中央アジアの国々は、ソビエト連邦の一員であったのが、1991年9月1日にソ連から独立した。今年は独立20周年にあたっている。

ウズベキスタンの金の刺繍
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 民族衣装にまぶしいほどに輝く金の糸・銀の糸。刺繍に金・銀を使うのは日本はもとよりチュニジア・トルコ・インド・マレーシア・中国いろいろとあるけれど、ここの民族衣装は大きな文様を胸元から足までぎっしりと刺繍をして、顔を見る前に目が刺繍にいってしまいそうだ。

 このような衣装はソ連時代はどうもつくられなかったようで、以前は全く見ることがなかった。
ソ連時代はこのようなぜいたく品で、しかも民族衣装は認められなかったのだろうか・・・旧ソ連時代から自分の中にはいくつかの疑問をかかえていた。
 20年もたったので、ウズベキスタンの今昔を見直してみたい。U

 ◆金糸・銀糸の刺繍
見事な民族衣装に金糸で大胆な柄を刺している。

刺繍の方法。
まず厚紙をきっちりと切り抜いて布の上に置く。
その厚紙を布にかんんたんに縫い付ける。
その上を金糸を行ったり来たりさせて刺繍する。普通の刺繍と異なる点は表だけの刺繍をする点だ。
(普通の刺繍にもそういうやり方があるのかもしれないが、知識がないので、知っている範囲で)
高い糸なので、裏に渡すのは無駄であるのだろう。だから、他の糸で止めながら表側だけに糸を渡していく。



刺繍職人のことば
 ウズベキスタンの現在、金の刺繍を母から娘へとその技術を伝え様子をTV番組で紹介していた。
その中から、知りたかった言葉を拾う。

 「今でこそ、民族衣装やお祝いの帽子などを自由に作ることができる。
 旧ソ連時代は、自由にできなくなり、ほとんどの職人が仕事を辞めていった。」

 「ソ連時代、請け負った唯一注文があったのは軍服につける肩章だけでほんとに嫌だった」という。
 「いまは自由に選べるのが幸せ」という。 (エル・ムンド地球テレビでの女性の言葉より)


☆ やはり、ソ連時代は伝統の技術、とくに民族色の強いもの・宗教色の強いものは発展するどころか衰退していったようだ。その中で優れた技術も後を継ぐ者がいなくなった。だから、伝統技術はほとんど消えかけていた。そんな時期があったので、それを回復するのに、今それぞれの分野・・・陶芸・書道・建築・工芸などに励んでいる・・・それが今の中央アジアだと考えられる。

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by miriyun | 2011-11-13 16:49 | 中央アジア | Comments(8)

青のアクサライ・・・シャフリサブス(6)

アク・サライ
 ティムールは、故郷シャフリサブスを帝国の王都として、宮殿やモスクをここに築いた。
中でもアクサライと呼ばれる宮殿はティムールの夏の宮殿として壮大なものであったという。ホラズムの職人たちを移住させて1380年にはじめ1404年になって完成したという巨大な建築であった。現在はその門にだけその壮大さがみてとれる。
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                               ↑ ワンクリックで大きい画像で見ることができます。
 エントランスの幅は22.5m。中央アジア最大である。
アクサライを入口側から見れば、青のカリグラフィーと幾何学文様が様々な形で飾られた勇壮無比な門として残っている。中央部にあったアーチ部分は落ちてしまい左右に分かれた形であるが、高さは現在38m。それでも十分すぎるほど大きいが、アーチ部分があって完全であった時は65mとも言われている。

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この門を入って、宮殿のあったはずの内側から見るとこのように茶色のレンガ肌が見えるだけであるので、や青い側が素晴らしいと言える。
 なお、このように激しく壊れているのは、16世紀後半にブハラの支配者アブドゥル・ハンによって破壊されたからだと伝えられている。しかし、下部のタイルをはぎ取ったようなところはともかくも、この巨大な建造物のアーチ部をこれだけ壊すのは並大抵のことではなかっただろう。

 サマルカンドなどではだいぶ修復が行われたというが、まだ、ここの壮大な門までは修復の手が及んでいないようだが、それでもティムールの力のほどがわかる宮殿跡である。


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by miriyun | 2011-05-08 19:18 | 中央アジア | Comments(5)

人々とメロンと・・・シャフリサブス(5)

シャフリサブスの人々とメロン
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シャフリサブスのバザールに行くと屋台の上も地面も、スイカとメロンがごろごろしている。
ごろごろという言葉のままに地面が埋まっている。何を見るという間もなく声がかかる。

 メロン売りの親子が屈託のない笑顔で話しかけてくる。これを持って行けとメロンをくれようとする。それでは申し訳けないと固辞してしまった。だが、結局このあと、スイカ売りのおじさんからはみたこともないほど大きい(人間の頭の2倍くらい)スイカをプレゼントされてしまったり(小さいのに変えてもらって、チャイハナで地元の人と一緒に食べた)、シャシリクを買ったら焼いていたウズベク人青年からウォッカをどうぞとさし出されるし、まあ、一切裏のない人の好さと気前の良さに驚かされどおしの旅をした。

 それらの思い出がこの1枚のメロン売りの親子の写真に凝縮されている。そういう意味で今でも忘れられない写真である。

◆メロンの切り方
 中央アジア鉄道に乗る際も食料を持ち込むのに最もいいのはこれかなと思い、大きなのを買って持ち込んだ。もとよりまな板はない。どうあつかうのかといえば、現地流で割ることなしに直接ナイフで縦に筋を入れ次に15度くらいの向きでナイフを入れ三日月型のを一つ切り出す。あとは食べる分だけそうやって三日月型に切っていけばよい。まな板の上で切り分けていく方法はまとめて切るには早いが、移動しながらは難しい。人とも分け合いながら食べるにはこの方法は実に合理的なものだと思った。この方法でいればまったくまな板はいらないのだから・・・。

 味のことを書き損なった!

 このメロン、大きいだけでなく甘さも十分、絶品メロンだった。列車の中で周りの人に勧めたらあっという間に平らげてもらえるほどおいしかった。


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by miriyun | 2011-05-02 10:34 | 中央アジア | Comments(8)

ジャハーンギール廟・ハズレティ・イマーム・モスク・・・シャフリサブス(4)

ジャハーンギール廟
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手前のモスクはペルシア風の木造の繊細な柱を持つハズレティ・イマーム・モスク。もすくなので、ここの樹のドアから祈りのために出入りしている。この写真では見えないがやや頂点がつんとした一つのドームからなる。

奥はジャハーンギール廟・・・ティムールの長子が22歳というこれからという時に亡くなりなり、それを悼んで作られた廟。
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 ティムールの時代はレンガ積みによる幾何学文様で装飾したサマン朝の流れに沿う。
違うのは彩釉タイルもしくは彩釉レンガが出てきて濃い青や明るい青で文様を表すようになったことだ。 これまでよりも遠くから見ても文様がクッキリと見える。
  したがって、遠目に映える幾何学文様はもちろん、アラビア文字も直線だけであらわすようになった。
こうして極めて直線的なアッラーフ・ムハンマドの文字装飾が施されるようになったのだ。


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by miriyun | 2011-05-01 22:37 | 中央アジア | Comments(0)

泉と土漠と土の家・・・ シャフリサブス(3)

 土漠    

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 峠を越えて、シャフリサブスに近づくと、そこは舗装した道路となる。
ただし、乾燥帯は、舗装道路であっても砂に埋もれてしまったりする。
ここも乾燥帯だが、砂の砂漠ではなく土漠地帯なので、土が道路を次第に覆っていく。車が通ればもうもうたる土煙をたてて走ることになる。

 土の家と泉    
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 民家が見えてきた。周りを遊牧地として家畜を飼う。ここは羊ではなく牛ばかりを見かけた。
おそらく、見たイメージよりは多くの水があるのだろう。

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   シャフリサブス郊外の家   
土の家、見ただけでは土そのものか、日干しレンガかわからないが、おそらく中は日干しレンガを積み上げ、厳重にその表面をさらに土で固めている。天井部分も草ぶきの上に土を使って断熱している。
 この土地は夏は非常に暑い。中東各地と変わらないくらいに暑い。町中が近代的ビルになってしまっても、夏に過ごしやすいのは実はこういう家なのだ。わかりにくいが、土の家に囲まれた中庭に木の枝を渡して、ぶどう棚らしきものが見える。これをすることで、生活範囲の日陰づくりとおいしいブドウとが手に入る生活の知恵なのだ。

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山裾に泉があった。深い色の泉を見て、この街の名、『シャフリサブス(緑のまち)』の意味を知った。
 

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by miriyun | 2011-05-01 08:58 | 中央アジア | Comments(4)

ティムール帝国・・・シャフリサブス(2)

1.歴史の中のティムール  
  日本の中の世界史において、このティムールはとても軽く扱われている部分である。しかし、中央アジアやシルクロード沿いに広がる「文化を見るときに欠かせない存在感のあるのがこのティムールとその血筋の物たちである。

 それなのに専門にかかわっている人はともかく、一般的には知られていないのか。

それは西洋史観による歴史を長いこと学ぶことが主流であった時代が日本は長く、今でも日本人全体の素養として入っているのは西洋史観から来る世界史だからだ。
 アレクサンダーはマケドニア人だが、東征しヨーロッパ文明を伝えた英雄として扱い、東洋発とはいえ、モンゴル・チンギスハーンはヨーロッパに多大な恐怖と影響を与えたという歴史がある。しかしティムールはヨーロッパと直接的にかかわるところが多くはない。そのためかるくあつかわれ、日本にはその流れの中でほとんどティムール2.などシルクロードの覇者に関する歴史観が欠如している。

2.モンゴルのおさめた土地 
  中央アジアの歴史において欠かせないのがモンゴル人が征服したという事実である。無慈悲な嵐のように押し寄せたモンゴルにつぶされ、殺戮され、廃墟となった街が多い。実際サマルカンドのもとの街は廃墟のままにされた。しかし、いったん征服した後は、チンギスハーンの子や孫に分割統治させしかもそれがつながりがあるという世界の中でも強固なつながりと商売の上では自由な交易のできる世界を出現させた。
 次男チャガタイにはモンゴルの西、アムダリヤ川アラル海にいたる広大な土地を与え、ステップとオアシスのサマルカンド・ブハラ・タシュケントを含む中央アジアがチャガタイハン国として出現した。
 支配者側も国際的になりになり、モンゴル人以外も重用するし、文化・宗教面もそれぞれの地域との共存の中で染み込んでいった。したがって、当初おそれられたチンギスハーンの血筋は絶対王者ハーン家の血筋として尊ばれることになった。

3.ティムール 
 ティムールは現在のウズベキスタンのシャフリサブスに生まれた。トルコ系小貴族の家に生まれた。トルコ系というとトル共和国と勘違いしやすいが、トルコ民族は東から西へと渡ってきた民族である。ティムールの祖先ももとはモンゴル方面で力を持っていた部族の出身だったのだ。

 したがって、もちろんチンギスハーンの家系ではないのだが、この当時絶対的権威であったチンギスハーンの血筋を引くものをハーンとし、自分はその補佐にあたることで実権を握っていった。また、チンギスハーンの家系の出身であると言ったり、その家系の女性を正妃に迎えるなど、正当の権力者であることを意識し続けた。このあたりは,正当性にこだわり、権威づけに必死になるすべての権力者に共通する。


 シャフリサブスにティムールが生まれたのは1336年のことだ。 ( 日本では室町幕府が1338年に始まる。そういう時に生まれ、15世紀4初めまで活躍した征服王である)


 なお、彼は1370年にはチャガタイハン国の衰えに乗じて故郷シャフリサブスに近いサマルカンドを陥落させ、ティムール政権が確立した。その時正妃にチンギスの血を引く妻を迎えている。
そして、ブハラ・メルブ・ニシャ―プール。タブリーズ・トビリシを経てキプチャクハン国の都サライを廃墟にした。、また、モスクワまで360kmまでせまり、ウクライナやアゾフ海に臨む植民土地を制圧した。イスファハーンからバグダッドをも攻略・入城する(1392年)。アンカラの戦いではオスマン帝国軍を撃破。南部ではヘラートを抑え、南東部ではインド・デリー朝をまで、手を伸ばした。こうして中央アジアから西アジアにかけての広大な領土がティムール帝国として140年間支配するのであった。(時代はずれるがその支配した年数はほぼ鎌倉時代と同じ年数である)。


4.ティムール朝文化の隆盛
  征服者としてのティムールは常にチンギスハーンを意識し、同じように容赦なく敵をつぶした。

ところが文化的側面ではかなり異なる。
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文化的にはほとんど何も残さなかったチンギスハーンに比べて、ティムールは文化人や技術者の価値を認め生かした。街や城郭、モスク、文化人の保護などを通して、『つくる』ことを重視していた。

 そこから『チンギスハーンは破壊し、ティムールは建設した』という言葉が言われるようになった。

 モンゴルという精神的基盤にトルコという民族的基盤、そして宗教はイスラームに対する敬虔な信徒であり、地域的に支配したイランの文化を吸収して、この支配者のこの時代にティムール朝文化が花開いた。そのため、彼と彼の子孫にかかわるところではそれぞれ文化の隆盛期をなし、その遺構が今なお建築物等としてみられるのだ。全体に文化を保護する立場にあった君主が多いが、中でもティムールの孫にあたるウルグ・ベクは自らも天文学者であった(前出)。
      ウルグペグ天文台とイスラームの科学
 旧ソ連に支配され、イスラームへの祈りも控え気味であった時代にはあまり振り返られることのなかったティムールが中央アジア諸国の独立後は国民の精神的な支えとなる歴史的人物としてクローズアップされるようになったのは当然のことだといえよう。


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by miriyun | 2011-04-30 11:58 | 中央アジア | Comments(0)

峠を越えて・・・シャフリサブス(1)

かって旅をした中央アジアで最も印象に残った街はと問われれば、迷いなくウズベキスタンのシャフリサブスと答える。

シャフリサブスはティムールの生まれ育った街である。サマルカンドの南に80kmほどであり、数字だけ聞けば車ですぐだろうとおもってしまう。
 だが、ここはタフタカラチャ峠を越えていかなければならない。

 夜中の峠越え
 夜にタフタカラチャ峠越えのバスで行った時の話。バスでサマルカンドの街を出たときにはもう暗くなっていた。街の街灯があるうちはいいが、街を出る検問を通り越すともうそこには街灯も道路用照明もない。ただ、二すじのバスのライトがわずかに道路を照らす。月でも出ていれば周りの様子がわかるのだが、あいにく月もない。しかも車内灯もつかない。何も見えない状態では寝て過ごすしかない。乗客はそれぞれに眠る。

 しばらくねむってからだが、危険信号を体の奥からゾゾ~ッと感じて目覚めた。揺れが激しいだけでなく、真っ暗闇なのにスピードを出して大きくカーブしながら進む。周りは見えないが傾斜が激しい山道であることはわかる。わずかなバスのヘッドライトの先を見ようとするがほとんど何も見えないほどその光は暗闇の中で頼りない。ごくたまに対向車が来た時にそのライトの先を見ると道路が見えなくなる時がある。道幅がすごく狭いのだ。バスは道路のぎりぎりのところをスピードを出したまま走っている。
 暗闇のジェットコースターに乗せられたようで凍りついていくが、手を握り締めてこの時間を耐えたのだった。

昼の峠 
 この街を見た帰りはまたサマルカンドまでこの峠を通る。今度は昼間なので、果たして自分はどんなところを通ってきたのかが初めて分かる。

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バスの上の岩を見上げればいつ落ちてきてもおかしくはない状態。
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岩は寒暖の激しい差によってひび割れていく。そんな特色ががどの岩にも表れている。


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標高1600mのところまで来てシャフリサブスを臨めば峠の岩山を越えた先のはるかなる土地である。


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断崖の下にうねる道、放置されたままの断崖。車が一台通っていた。

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その赤い車に注目すれば、この峠の道と岩山の関係がよくわかる。岩が落ちたら不運と思うしかない情景だった。これはバスに乗っている自分たちも全く同じ立場だ。

 シャフリサブスからさらに南のアフガニスタンに入れば、このような峠ばかりで珍しくもないだろうが、このような峠を暗闇の中を行くのはもう経験したくないものだ。
 ここをヘッドライトだけでずっとハイスピードで運転し続けたドライバー、腕がいいのか、度胸があるのか。

~~~~~~~
◆ここを若きティムールもサマルカンドを目指してたびたび歩いたことだろう。この峠を越えると、シルクロード随一のサマルカンドのオアシス地帯が見えてくるのだ。
 高いタフタカラチャ峠の上からサマルカンドを臨み、あるいは故郷のシャフリサブスの先のカブールやヘラートを考えたとき、征服者としての思いがふつふつとわいてきたであろうことは容易に想像される。


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by miriyun | 2011-04-30 10:05 | 中央アジア | Comments(2)

中央アジアのフィギュアスケート

 旧ソ連内の中央アジアにおける子どもたち 
何かと規制が大きかった旧ソ連の時代をフィギュアスケートを見ながら思い出している。

 場所はウズベキスタン。ウズベキスタンの首都タシケントに近いところだった。ソ連の一員としてなので多民族国家であることをうたっていた時代である。どの地域にもロシア人がたくさん移り住み、もちろん幅を利かせていた時代だった。
 ピオネール・キャンプという子どもたちが集団で森の木立の間でキャンプ生活を楽しむ場がある。訪れたとき、野外に設けられたステージで互いの活動の発表会をやっていた。
 
 
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この時初めて、ローラースケートダンスというものを見た。子供たちが単独で・ペアで・4人でローラースケートで音楽にのって舞うのだ。
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現在、このローラースケートダンスはヨーロッパ等では選手権もあるくらい盛んなものらしいが、日本では知られていない。この時よりもずっと後になって、アイドルが歌を歌いながらローラースケートを滑るのが話題になったくらいだ。

 しかし、白人の子ばかりだ。ウズベキスタンでやっているのにアジアの顔がない。
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ようやく登場してきたウズベキスタンの子らは民族衣装のかすり文様の服で、アコーディオンに合わせて、歌を歌った。

 完全にロシア人とウズベキスタンでまったく異なる分野での発表だった。
ローラースケートをやるには、衣装に小道具・スケート靴・曲にコーチが必要であるから、その経済格差がこどもたちの発表内容にあらわされているのかと思ったのだ。


中央アジアの選手の活躍

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4大陸選手権2011、男子シングルに登場したのは
アブザル・ラキムガリエフという選手だ。以前は角刈りでどちらかというと野暮ったい感じだったのが、モロゾフコーチがコーチ軍に加わって、がらりと変わって登場した。

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 カザフスタンにはデニス・テンがすでにジュニア時代にタチアナ・タラソワコーチについてぐいぐい力を伸ばし、とうとうオリンピックで活躍し、先日のカザフスタンで行われた大会ではデニス・テンが自分の国で優勝を飾っている。

数はまだ少ないながら、カザフスタンのフィギュア界ができつつあるようで、力をつけ始めた。
 ウズベキスタンにはウズベキスタン選手権もあり、だいぶ盛んになってきたようでフィギュア選手も多い。人数は多く、名前からしか判断できないが、ほとんどロシア系の名前であった。
 一部の国に偏りがちなこの世界でたくさんの国が活躍するのはいいことだ。それが中央アジアであることは先にあげた記憶があるだけになおさら感慨深いのだった。

・・・・・・・・*イスラーム地域のフィギュアスケート選手・・・・・
World Standings(3年間の実績で見たランキング)
25位 カザフスタン デニス・テン バンクーバーオリンピック2010 11位 冬季アジア大会1位

Season's World Ranking (今年だけでみたワールドランキング)
25位カザフスタン Abzal RAKIMGALIEV アルマトイ出身 2011年アジア冬季競技大会アスタナ7位
61位ウズベキスタンMisha GE タシケント出身 20114大陸選手権12位
77位 トルコ  Kutay ERYOLDAS  アンカラ出身 2011年エルズルムをユニバーシアード11位など


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by miriyun | 2011-02-20 19:08 | 中央アジア | Comments(0)

中央アジアの塩害

塩害の川辺
塩は必需品・・動物にも人にも欠かせないものである。
海にはもちろん、湖で塩分古希物は塩湖と呼ばれ、塩の供給地となり、また岩塩は岩として運ばれた。
 
 そういった人の営みによって重要視されてきた塩であるが、時には困る塩だってある。
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 それが地中に潜む塩であり、それが毛細管現象により地面に染み出てくる。充分な雨やみずがあるところではそれに気づかない。
だが、川の水を大量に「灌漑用水にまわしたりすると、川沿いにも塩が湧き出してくる。

旧ソ連の自然改造計画

 これは、旧ソ連時代にシルダリア・アムダリアの川の水をカラクーム運河に流し入れるという自然改造計画によるものだった。当時の本にはソ連の川の流れさえ変えてしまい、農業用地を一気に増やし農業生産を増やす計画がソ連によって謳い上げられていた。
 しかし、自然の流れを変えてしまうことにより砂漠の地域でどのような状況になるのか、将来的な水の枯渇や環境への影響までは予測していなかったようである。水は激減し、2400kmもあったアムダリア川は1400kmほどのところでアラル海にたどり着く前に消滅している。

 一時、中央アジアの綿花栽培は畑の面積を一気に増やし、自然改造による大成功という評価もあったようだが、すぐに弊害は出始めた。モノカルチャー的綿花栽培を続け、知力を奪う。もともと砂漠気候のところであったから水を運河から引き入れて使っても効果は薄い。それでいて毛細管現象でどんどん水は地表に出て蒸発し、一緒に地中から吸い出された塩分だけが白く地表に残った。
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                                        ↑ 塩が浮いた綿花畑
 これに対する対策を、当時のコルホーズの人たちに聞くと、さらに運河の水をまいて塩を洗い流すしかないという返事だった。こうして、綿花畑の塩害を洗い流し、水は枯渇し、運河のふちも、川のふちも塩害のあとがはっきり残るほどになったのだ。


アラル海は今?!
 そしてアムダリアがまったく注がなくなったアラル海はどうなったのか。
西に日本の面積とほぼ同じ大きさのカスピ海、東に九州よりずっと大きかったアラル海が並んでいるというのを、世界地図がお好きで見られていた方は覚えておいでだろう。
 このアラル海は、現在2つの小さな湖となり、かっての湖底は干上がり、漁船は幽霊船が座礁したかのように干からびた地面に突き刺さっているのだ。面積は四国ほどに小さくなりつつある。
 
 アラル海の現在の姿は、地球の何を見せようとしているのだろうか。
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by miriyun | 2009-09-11 18:27 | 中央アジア | Comments(6)