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カテゴリ:サラディン紀行( 26 )


2006年 05月 19日

サラディンの目次

 ーーーーーー◆サラディン紀行☆目次☆・・・サラディンと十字軍の攻防ーーーーー
 1.サラーフッディーン(1)…ダマスカスの廟
 2.サラディンの名前
 3.サラディン(3)…伝記&サラディン紀行
 4.サラディン(4)…本の中のサラディン・ミニアチュール
 5.サラディン(5)・・・ザンギーとアイユーブ

 6.ヌールッディーン…サラディンに影響を与えた君主
 7.ファーティマ朝の宰相…サラディン(7)エジプト遠征
 8.鳩の話
 9.クラック・ド・シュバリエ(1)…城からの遠望
10.クラック・ド・シュバリエ(2)…矢筋

11.城のつくり…クラック・ド・シュバリエ(3)
12.サラディン(8)…ファーティマ朝宰相からアイユーブ朝へ
13.サラディン(9)…シタデル建設
14.主君との不和…サラディンの対処法
15.騎士道 

16.カラク城…サラディンが攻め落とした城
17.ヒッティーンの戦い
18.寛容の精神 サラディン&十字軍
19.サラディンとバリアンの信義
20.「キングダム・オブ・ヘブン」と史実

21.カタパルト(投石器)考
22.エルサレム解放…住民の運命を握るもの
23.リチャードとサラディン
24.サラディンの死
25.サラディン800年 エピソード集
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
サラディン紀行が終わった。
 
 書き始めのきっかけは書籍や世界遺産を載せた雑誌・Webで墓棺をまちがって知らせていることが多いことに違和感を感じて、また、アラブ側からの記述にも注目しなければ西洋史観だけになってしまうことと考えたからだった。

 サラディン紀行とはいっても、きままに見てきたところの雑感と関連写真を載せたというにすぎない。
 そして、サラディンの話の主筋としてはアミン・マアルーフの『アラブから見た十字軍』(これは当時、サラディンの周辺にいた記録者の資料をふんだんに使ってかかれており、原文が素晴らしいのと、牟田口義郎氏・新川雅子氏による訳はアラブの専門家が軍記物をテンポよく書きつらねたもので優れた本である。)とサラディン研究を長年されている佐藤次高氏の講義資料と氏の書かれた『世界人物史』ほかの本などを参考にまとめたものである。これらの作者・研究者に感謝の意を捧げる。

 5回ぐらいでまとめるつもりが、サラディンはもちろんその周りの人物もおもしろく、騎士道についても考えさせられと、長引いてしまった。このような文に付き合ってくださった方に感謝です!

 それにしても気まぐれに書いていたのでどこにあるのやら紛らわしいので目次を作成して探しやすくしようと思う。
*まとめてみる場合は右のカテゴリで『サラディン紀行』をクリックしてください。


*十字軍やサラディンをいろいろな視点で見るきっかけとしてくださればうれしい。


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by miriyun | 2006-05-19 08:37 | サラディン紀行 | Comments(14)
2006年 05月 18日

サラディン800年 エピソード集

 ★エピソード1
 シリアでは、サラーフッディーンの没後800年を記念して、ダマスカスの旧市街の城壁の外に騎馬姿のサラディン像を建造した。
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 雄々しきサラディンはダマスカスの城門の前でイスラームの人々を守るかのようにたつ。また、身体は南に向きながら顔の向きと視線はやや西にそれていて、彼が生涯をかけて守ったアル・クドゥス(エルサレム)を見据えているかのように私の目には見えた。
 ・・・(注)ダマスカスからエルサレムは、南南西の向きである。




 ★エピソード2
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 また、サラディンのアイユーブ朝の本拠地アル・カーヒラ(カイロ)のシタデルにはやはりサラディンの胸像がある。全身像でないのが残念であるが、目は思慮深くいい目していると思っている。(胸像は世界遺産探検ロマンより引用⇒)
 また、以前にイスラーム都市カイロのテレビでの扱いについて紹介をした。その中でサダカにより病院や学校・モスクの運営費にあてたという話が出てきた。
 実はサラディンはアイユーブ朝を作ったところで無料の病院などのしくみを作り始めている。。十字軍との戦いで本拠地のカイロを離れていることが多く、墓もシリアにあるわけだが、彼はカイロという街に頑丈なシタデルとモスク、そして人々の間にはサダカの精神を残したということになる。

 ★エピソード3
 サラディン廟にヴィルヘルム2世が大理石の棺とシャンデリアと金属製の花輪を贈っている。これは、当時のパン=ゲルマン主義に関係する政治的な動きの一環と考えられる。しかし、民族主義のヴィルヘルム2世がここまで手の込んだ重い贈り物を持ち込んだ真意は何だったのだろう。不可解な気がする。
 
 ★エピソード4
 調べていくうちにもっと謎だと思うことにぶつかった。1918年、アラブ軍と共に戦いダマスカスに入城した、かのT.E.ロレンスは、このサラディン廟を訪ねている。考古学者であり、大学の時に中東を単独であるきまわり、十字軍関連の城塞を研究して卒論を書き若くして教授たちをうならせていたロレンスである。サラディン廟を詣でることは不思議でもなんでもない。
 だが、ロレンスはこの時、ヴィルヘルム2世が置いていった金属の花輪を持ち去っている。

 歴史資料としてなのか、戦利品としてなのか?アラブの英雄サラディンにドイツの贈り物がふさわしくないと考えたのだろうか?ドイツ・トルコを敵として戦っていた第一次世界大戦のときである。ロレンスは何を考えていたのか興味深い。

 
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by miriyun | 2006-05-18 18:29 | サラディン紀行 | Comments(0)
2006年 05月 17日

サラディンの死

 リチャード王のエルサレム攻撃を阻み、平和条約を結んだことによって、サラディンはついに勝者としてこの地に安定をもたらした。
 サラディンの苦渋の日々は終わったのだ。これ以後、フランクはいくつかの都市の管理権は獲得して入るが、二度とアラブ社会にくさびのように食い込みアラブを振り回すような力はもてなかった。12世紀後半の十字軍に対して立ち上がった、ザンギー、ヌール・アッディーン、サラーフッディーンの生涯をかけての戦いがこの日をもたらしたのだ。
 ・・・・しかし、これほどの勝利・成功にかかわらず、サラディンはやつれていった。諸侯に対する権威も衰えがちになり、身体もますます弱っていった。じつはサラディンはフランクとの困難な苦渋に満ちた闘いの日々においても、しばしばマラリアの発作に襲われていた。

 そして、1192年、リチャードが去って安心すると共に、全身が衰弱していった。彼が育った愛する町ダマスカスで最後の時を迎えていた。近親者に囲まれ静かな時を過ごし、徐々にこん睡状態に入った。1193年3月2日、長老が「アッラーの他に神はなし、アッラーにのみわが身を委ねまつる」とクルアーンを唱える中、スルターン・サラーフッディーンはほほえみを浮かべ、こときれた。55歳であった。
 
 人々は心を込めて遺体を清め、服を調えた。正午のサラート(礼拝)の後、遺体を運び出し、布でつつまれた棺の中に納めた。群集は哀悼の叫びを上げ、祈りにやってくる。こうして、サラディンは宮殿の西のあずまやの中に埋められた。

 この葬式をするにも借り物を使ったというほど、彼は財産を残さなかった。国庫には金一個と47ディルハムの銀貨しかなかった。それは葬儀をするにも足らない額だったという。
 現在、サラディン廟はウマイヤ・モスクの北側入口の脇ににひっそりと建つ。サラディンの息子ウスマンによって建てられたイスラム神学校(アル・アジジエ)の一部が利用されている。イスラームの世界とヨーロッパに知られた英雄としては実に質素な廟である。

 そこに入ると白大理石の棺と木棺が並んでいる。
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白大理石のほうはブドウつる草の象嵌で、ブドウの葉は金装飾だ・それにアカンサスの葉のレリーフに飾られている。木棺はクーフィー体の文字と幾何学アラベスク装飾がレリーフで入っている。

 この大理石の方は1898年にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世から贈られた棺である。
 
 この白大理石のほうを、サラーフッディーンの墓として紹介している本が多いことが、こうしてサラディンを紹介しようという直接の動機であった。そういった本のためか、王は立派なほうに決まっているという先入観のためか、大理石のほうで祈る人が後を立たないようで、大理石のところには次のような張り紙があった。
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右からアル・カブル(墓) アル・ハキーキー(本物) アラー・アル・ヤミーン(右手に)
「右手に隣り合っているほうが本物の墓ですよ!」ということだ。

 「この世には金が砂粒ほどにも大切でないと考えている人間もおるのだ」とサラディンはいい、富と贅沢を避けていた。サラディンを知るものならこの木棺のほうがより彼にふさわしいことに気づくだろう。
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  そして、生涯自らはとうとうスルターンを名乗らなかったサラディンの木棺に現代の人々は
「スルターン、サラーフ・アル・ディーン・アイユーブ の墓 1193年」と解説をつけている。

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                 参考 「アラブから見た十字軍」アミン・マアルーフ著
                     「人物世界史4」佐藤次高編 
                     「世界遺産28」

by miriyun | 2006-05-17 14:45 | サラディン紀行 | Comments(2)
2006年 05月 16日

リチャードとサラディン

 エルサレム陥落後、命を補償された兵はどうしたのか?
あるものはティールやアッカーにいき、そこで立て籠もり、あるものは、ヨーロッパの故国へと帰っていく。こうして帰還した兵および一般の市民は、公平で寛大なサラディンという人物について伝え、それは騎士道の精神に満ちた人物像として伝説化していったのである。

 他の砦で命を救ってやった兵たちは、ティールの城塞に籠り、この城塞を難攻不落のものとしてしまう。このティールを落とすにはムスリムの強固な結束と多くの船が必要なことはサラディンは充分承知していた。しかし、空っぽの国庫と戦いに疲れたイスラム軍、さらに雲霞のごとく際限なくやってくる新たな十字軍に膿みつかれていく。
 
当時の記録者イブン・アル・アシールは次のように記録している。
「フランクは喪服をまとってヨーロッパ各地で特に法王のいるローマで救いを求める。血まみれの救世主とそれを殴りつけるアラブを描いた絵を携行して、説得する。その絵や話に心動かされたものは男も女も集結し、金を出し、一人息子さえ、喜んで十字軍に参加させる。」
 ★・・・・これは現在で言うところのメデイア操作に他ならない。
 
 こうしてサラディンに命を救われ、敵対しないと約束したはずのギー王のもとに、首都陥落ということですぐに結成された新たな十字軍が援軍につぐ援軍として引きもきらずやってくるのである。
 
 さらに、ドイツ皇帝フリードリッヒ・バルバロッサが20万人以上の軍を引き連れてやってくる。サラディンは身構える。バルバロッサはイスタンブールからアナトリアを横断して、コンヤをたちまち落としてアナトリア南東部のアルメニア諸侯国を通ることになる。同じキリスト教でもカトリック以外認めようとしない十字軍は過去において東方教会派のアルメニア教もギリシア正教にも容赦がないことが知られているので、アルメニア人はおののき。サラディンに救援を嘆願した。
ところが、このバルバロッサは川で水浴中に心臓発作であっけなくなくなってしまい、それと共にその軍隊は四散消滅してしまった。
 
 この頃のサラディンは精神は気高くとも、体調と戦況にはかげりが見え始めている。

 一番手ごわかったのは イギリスのリチャード獅子心王リチャード1世であった。ライオン・ハートとうたわれるごとく彼は勇敢で豪胆な王といわれる反面、凶暴で無節操という批判もある。
 リチャードはアッカー総攻撃に入り、サラディンはアッカーにたてこもっていた飢餓状態にあるムスリム軍の救出に失敗する。アッカーの守備隊は「命の安全をフランクに要請し、降伏する」こととなった。
 あまりの十字軍の数の多さに、町を救う手段はすでになく、サラディンは慟哭した。医師たちは彼の健康を案じ、薬を調合する。

 気を取り直して、サラディンはアッカーの捕虜となった人々を解放するための条件を討議するための使者を送る。リチャードはこの勝利に乗じて大攻勢に出ようとしていたので捕虜が邪魔だった。1187年の沿岸部の町を次々と落としていったサラディンと同じに捕虜を抱え込みたくなかった。
 唯一違う点は、サラディンは捕虜を解き放ってやり、リチャードは皆殺しにしたことだ
 アッカーの2700名の守備兵と300名の婦女子をまとめて数珠繋ぎにして城壁の前に引き出し、十字軍の兵士たちは剣・槍・石を使って襲い、断末魔のあえぎが途絶えるまで続けた。

 このリチャードはサラディンの弟アル・アーディルを使ってサラディンに接触を試みたり、アルアーディルの野心をくすぐり、サラディンと対立させようとはかった。だが、リチャードが求める聖地エルサレム・真の十字架・領土のいずれもサラディンに譲らせることはできぬまま、膠着状態となってしまった。このころリチャードは、同じフランクでありながら領土をめぐって緊張関係にあったティールのコンラートを暗殺してしまう。

 リチャードはエルサレムに二回進軍してみるが、サラディンが大軍で強固な守りを見せたので攻めるに至らない。アスカロンに強固な要塞を築いてそれを残すことをサラディンに約束させたがったが、サラディンは要求を入れない。
 帰国したいという焦りが見えてくる。エルサレムを奪回しないということで多数の戦士に見放され、コンラート暗殺の罪を問われ、自身は大病を患う。(このとき、サラディンは宿敵リチャードに医師と薬を送ったともいわれるが、確認していない。ただ当時医学・薬学はアラブのほうが数段上であったし、サラディンは常に医師を身近においていたことから充分考えられることである。「キングダム・オブ・ヘブン」の中では優れた王であるボードワン4世のためにサラディンが「後で私の医師を送ろう」というセリフがあった。)

 リチャードは万策尽きて、自ら築いたアスカロンの要塞を放棄することを知らせ、効力5年の平和条約が結ばれた。
 サラディンの和平案・・・すなわち両者は保有するところを維持する。つまり、フランクはティールからヤーファまでの沿岸地帯の確保、エルサレムと残りの領土である。フランクは武器を持たずにやってくれば聖地巡礼を行っていい・・・が全面的に承認されたのだ。
 
 フランクの戦士たちは平和条約後、サラディンから許可証をもらい、キリストの墓に詣でて帰っていった。サラディンはその中の主だったるものを丁重に迎え、食事にも招いて、『信仰の自由を守る固い意思』を彼らに請け合う。ただし、リチャードは征服者としてではなく客として聖地に行くことを良しとせず、聖墳墓教会にもおもむかずサラディンにもとうとう会うこともなくこの地を去っていった。

 *時は1192年、日本では頼朝が鎌倉幕府を正式に開いた年で、以後武士の政権が700年近く続く。源平の戦いを通して「もののふの道ー武士道」も語られ始めた頃の中東の話である。

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                 参考 「アラブから見た十字軍」アミン・マアルーフ著
                     「人物世界史4」佐藤次高編
                     「ユネスコ世界遺産28」

by miriyun | 2006-05-16 09:46 | サラディン紀行 | Comments(2)
2006年 05月 15日

エルサレム解放…住民の運命を握るもの

 ☆サラディンのエルサレム攻めが映画では主たる見せ場となっていた。
 
 だが歴史上攻城塔やカタパルトを用いた激しい戦闘は、ローマ帝国はもちろんモンゴル帝国が規模においても徹底度においても数段上のすさまじい戦いを行ってきている。

 ☆このサラディンによるエルサレム包囲戦はむしろ地味な部分に特色がある。・・人民の命をどう扱うかという両雄の駆け引きがある。そして、わずかな金額さえ払えない貧しきもののことを両者がどう扱ったかという世にも珍しいことが記録されている。

 カタパルトでの城壁攻撃、それに加えて攻城塔を複数近づけていって城壁に乗り込もうという戦術が繰り返される。バリアン・ディブランを指揮者とする防衛側も最大限の防御策を施し粘る。しかし、騎士の数はわずかで、戦いを専門としない市民がほとんどなのだ。包囲をはじめて9日目、1099年第1回十字軍がエルサレムを落としたときの攻め口の近くの門だったところについに割れ目を作る。)
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                     (写真は映画「キングダム・オブ・ヘブン」より引用)

 戦いの結果はこれで出た。

 バリアン・ディブラン卿は、サラディンのもとにおもむく。ここまで戦った後ではもう交渉の余地はないはずだ。サラディンは包囲する前にエルサレム住民にとってまことに有利な条件を示していたのにそれをけったのは住民のほうだ。

 しかし、バリアンは住民の生命を失わせずにすむよう食い下がるが、さすがに今回はサラディンも簡単にはうんとは言わない。
 町の住民はサラディンがこれまでそうであったように、自分たちの命を救ってくれると期待している。それがかなわぬなら、町に火をかけ、モスクを破壊し、捕虜を血祭りに上げ、徹底抗戦するとバリアンはいいつつ、やはり住民の命乞いをする。

 サラディンは相手の熱意に動かされるが、重臣たちの考えを尋ねる。この時点で、サラディンのいつもの寛容と気前の良さを知り尽くしているので、重臣たちはサラディンの住民を救うことに同意する。ただし、重臣たちは事実上の捕虜である住民たちの自由を買い戻すための代金を払わせることを主張した。

*この当時、捕虜は身代金を払えば解放するということがよく行われた。ただし、王や諸侯の命の場合で、多くが十万ディナール~数万ディナールという金額である。

 その代金が決められた。男10ディナール、女5ディナール、子ども1ディナールであった。また、そのお金を払えない貧者7000人を3万ディナールで開放することも認めた。

 ☆こうして、エルサレムの人々は救われることになり、サラディンは1187年10月2日、聖地に入城した。兵士はキリスト教徒に指も触れてはならないという厳しい軍紀をしいての入城であった。そして、殺人・略奪はついに起こらなかった。完全なる無血入城である。

 第一回十字軍によるエルサレム陥落のときの復讐をという声もあったが、サラディンはこれをたしなめている。
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 岩のドームは教会に変えられ、ドームの上にはフランクの十字架が立っていた。金の十字架が岩のドームから引きおろされると、ムスリムからは喜びの声が地を揺るがし、キリスト教徒からは悲しみのうめき声が上がった。どこからも見やすいドームの上のことなので、町の住人たちがそのように、どよもすばかりの声を上げたことは想像に難くない。こうして、岩のドームはモスクに戻った。
   *ヨルダン紙幣に表された岩のドーム→

 バリアンは住人の身代金のための金策に走り、サラディンの弟アル・アーディルは千人の貧者を解放する許可をサラディンに求めて認められる。すると、バリアンらもさらに500人などと追加を願い出る。
 極めつけは、やはりサラディン自身であった。サラディンは老齢者を無償で立ち退かせた。そればかりか、フランクの未亡人と孤児については、無償での立ち退気を認めるだけでなく贈り物を持たせて立ち退かせたのである。

 サラディンの経理官たちはもうお手上げである。エルサレム奪還のための戦争で国庫は空っぽであるというのに、こんなことをされたのではたまったものではない・・・・・。 サラディンは宝物も金貨も復讐も求めず、侵略されていた聖地を、流血も破壊も憎悪もなく解放することを求め、実行した。

 10月9日、記念の儀式がアル・アクサーモスクで行われた。
ダマスカスのカーディー(法官)が説教壇に登り、語りだす。
「イスラームにこの勝利を与えたまい、この町をムスリムに戻したもうた神に称えあれ。そしてサラーフッディーン・ユースフ・・・・アイユーブの息子、さげすまれてきた威厳を回復した汝に救いあれ!」・・・・・と。

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                 参考 「アラブから見た十字軍」アミン・マアルーフ著
                     「人物世界史4」佐藤次高編

by miriyun | 2006-05-15 22:20 | サラディン紀行 | Comments(2)
2006年 05月 14日

カタパルト(投石器)考

 サラーフッディーン(サラディン)は力攻めを余儀なくされる。1187年9月20日、エルサレム
包囲は始まり、その後、オリーヴの山に、陣を構えた。
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中世の城壁攻めの定番は、投石器であり、カタパルトという。ここでカタパルトについてまとめてみよう。
① ローマのカタパルト
カタパルトはローマ帝国で開発されている。攻めにくい城壁のある町や砦の攻略に用いられた。
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    ↑ カルタゴに残るカタパルト用の石、大きい石はボーリングの玉ぐらいの大きさ 

 ローマ帝国はポエニ戦争でカルタゴを滅ぼし、ローマの殖民都市カルタゴとして繁栄した。その際、ローマ軍が作り、高台に用意した石の弾丸である。
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 ←そのときに使った投石器の模型(「NEWTONアーキオ 大ローマ帝国」より引用}
 カエサルのアレシア攻めや1世紀のマサダをローマが攻めた際も使っていた。蔓・繊維などを撚ってその撚りが戻る力を利用している。野生のロバ、オナゲルの蹴りのようだとしてこの投石器はオナグロと呼ばれる。上のカルタゴの写真のように球形の石を発射する。


② 中世 十字軍の頃のカタパルト
 この時代のカタパルトはトレブシェットといい、重力とテコの原理を応用して、重い石をいきおいよく飛び出させるものだ。中世ヨーロッパの カタパルト(トレブシェット)で最大級のものは、 50kg の石塊を 300m 投げるものもあったという。小型のものは、 1kg ほどの石塊 または500gほどの鉛の弾丸をとばし、小さいながら200~300mの飛距離があった。

 その動きは、 先に紹介した映画「」でみることができる。、攻城側、守備側双方のカタパルト攻撃がすさまじい威力を持つものとしてあらわされていた。
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    ←小写真2枚は、映画キングダム・オブ・ヘブンより引用→
重い石を遠くへ飛ばし、敵陣の城壁を破壊し、落城させる。焼玉(確認していないがコールタールなどをまぶしているのではないか?)としてうてば火の玉となって相手を脅かすことになった。

 映画では非現実的な迫力に見えるが、ローマの頃から研究されてきたもので、しかも巨大な石を用いて、実際に相当な破壊力をもつものであったことは確かなようだ。

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by miriyun | 2006-05-14 03:55 | サラディン紀行 | Comments(4)
2006年 05月 13日

「キングダム・オブ・ヘブン」と史実

 先日、サラディンが登場しているときいて、『キングダム・オブ・ヘブン』という映画をみた。公開されたのは一年も前なのでずいぶん遅いのだが・・・
 
 映画というものは実在のサラディンなどを少し登場させながら架空の人物だらけでお話をつくっているものだろうと思っていた。

 確かにいかにも映画仕立ての話もある。バリアンがもと鍛冶屋として育ち、ゴッドフリーという貴族の父が突然現れること、妻を失った独身として描かれ、王女シビラと親密になっていくところは架空の話だ。また、モロッコが撮影地であったため、大シリアにはこんな砂漠はないのにエルサレム近郊の海岸にモロッコの砂漠が出現していたりする。

 しかし、そんなことは映画ではよくあることで、それよりこの時代の十字軍のとらえ方や欧米からみたサラディンをどんな人物として描いているものかが気になった。
 見て驚いたのは主人公のバリアンをはじめ主だったる人物がそのまま、あるいはモデルとして名をかえて登場していたりしていたことだ。かなり丁寧で良心的な歴史劇になっていた。
 
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←昔ながらの十字軍の荒々しい虐殺・略奪をよしとするルノー・ド・シャティオン
シビラの夫でボードワン4世の跡を継ぐことになるギー王⇒

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←歴史上ではレイモン伯、映画ではティベリウスという領地の名をつけていた。ボードワン4世の摂政も勤めた人物。サラディンとの和平推進派

若くしてハンセン氏病にかかり、病と闘いながら、高貴な精神の王とアラブ側からも称えられたボードワン4世⇒

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バリアン

         サラーフッディーン(サラディン)⇒
(写真は映画ビデオより引用)


その他、シビラ、サラディンの不敵な弟など実在の人物が次々と登場してくる。

*若干できごとの順番や人物を入れ替えたりして入るが、和平派のレイモン伯やボードワン4世の苦悩・エルサレムの城攻めの様子などがつぶさに見て取れる。

*そして、サラディンの人柄、寛容さ、それにボードワン4世のあらわし方がなかなかよい。また、サラディンとバリアンを通しての騎士道も短時間にしてはよくまとまっていた。
 
この時代に興味のある方にはおすすめの映画だ。この映画のリドリー・スコット監督の正攻法の演出は好感が持てる。彼も十字軍資料や当時の記録者バハー・ウッディーンらの記録・現代の「アラブが見た十字軍」などを熟読したに違いない。
サラディン関連の本を見ながらでも大きな違和感なく楽しめる、上出来の史劇といえる。
 
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by miriyun | 2006-05-13 19:27 | サラディン紀行 | Comments(10)
2006年 05月 12日

サラディンとバリアンの信義

 一般にエルサレムといわれている聖地は、ふつうイーリヤーとよばれていたが・ウラマーたちはアル・クドゥスとあるいはバイト・アル・ムカッダスなど聖域をあらわす呼び方をしていた。
 その聖地は第一回十字軍によって1099年に奪取されてから88年を経ていた。1087年、アイユーブ朝の当主、イスラームの擁護者サラーフッディーン(サラディン)がいよいよその地に立つ。
 もちろん、無用な流血を嫌うサラディンは、エルサレムの町の有力者たちに、戦闘なしに町を引き渡せば、命の補償、全財産を携行して退去してよいこと。キリスト教の聖地尊重、キリスト教巡礼者の保護を提案した。圧倒的な軍勢と時の勢いからすれば、エルサレムの代表者たちが横柄にこの提案をけったのは見る目を持つ人物がいなかったとしか言いようがない。

 サラディンは意に反してこの聖地アル・クドゥスを剣をもって回復するしかなくなる。

 こうして、エルサレム包囲戦がはじまるわけだが、 ここで、ある人物の存在に触れておかなければならない。フランクのあいだで国王とほぼ同じくらいの地位にあったラムラーの領主が登場してくる。 その人物とはバリアン・ディブランである。
 
 バリアンはヒッティーンの戦いの際、敗北直前にヒッティーンを去って、ティールに難を逃れていた。しかし、エルサレムに残した妻の安否が心配で、なんとサラディンのもとを訪ねて、妻を捜すため町に入ることを願い出たのだ。①武器を持たない、②エルサレムで一夜しか過ごさない・・・という誓約をしてそれは認められた。

☆ヒッティーンの戦いが関が原であったなら、敗北した側は残党狩りに会わぬようにひたすら逃げるばかりであろうに・・・。ここでこのような願い出のために敵方に行くことができること自体が驚異的だ。これも、サラディンが寛容な人物であることが広く知られていたからに他ならない。

 こうして、町に行ってみるが、そこでバリアンはエルサレムへの残留と防衛戦の指揮を懇願されてしまう。市民を守ることに心は動くが、その仕事を引き受けるにはサラディンとの誓約を破らなければならないというジレンマにおちいる。そこで、バリアンはいかにすべきかをサラディンの前にでて、問うた。
 するとサラディンは彼を自分との誓約から解放してやった。そればかりか、避難させることができなかった彼の妻を護衛をつけてフランクの要塞ティールへ送りとどけてやったのだ。
 
 まさに信義を重んずる騎士とスルタンのエピソードだ。         

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     サラディン紀行は現在15編 
     参考:「アラブが見た十字軍」アミン・マアルーフ、「人物世界史4」佐藤次高編

by miriyun | 2006-05-12 14:23 | サラディン紀行 | Comments(0)
2006年 05月 11日

寛容の精神 サラディン&十字軍

 ヒッティーン(1187.7.4)の戦いに勝利したサラーフッディーン(以下サラディン)は、その後破竹の勢いで、ティベリア・アッカの無条件降伏を受ける。ティベリアの城主のレイモン夫人・守備隊・アッカのイタリア人商人が退去するにあたっては財産もろとも護衛して送り届けてやるほどの念の入れようだった。
 サラディンは諸侯に命じパレスティナ各地の要塞ナーブルス・ハイファ・ナザレを落とさせ、降伏したものは去らせる。

 ヤーファではフランクが頑強に抵抗した。そのため、サラディンの弟のアル・アーディルはここを占領するや全住民を奴隷にした。フランクの支配した地中海沿岸地域で唯一、ヤーファだけがこのような運命を受けた。

 ということは、勝者サラディンは降伏した敗者に対しては、気高い精神で許し、財産までも持って去ることを認め、盗賊に会わぬよう護衛までつける。サラディン軍の幹部からすれば、「そこまでやるなんて寛容さにもほどがある」と思わせるほどの寛容さを常に示していたのだ。

 サラディンは7月中、順調に勝利の戦いを続ける。サイダ(シドン)は戦わずして降伏・ベイルート・ジュバイル(ヴィブルス)もすぐに落ちた。9月はじめまでにアスカロン・神殿騎士団がおさえていたガザも降伏する。残すところは、いよいよエルサレム、この聖地を回復することこそがサラディンの願いなのだ。

ーーーーーーーーーーーーーー【十字軍の精神】ーーーーーーーーーーーーーーーーー
 さて、ここで十字軍によるエルサレム攻略についてふり返って見よう
教皇ウルバヌス2世(在位1088~99)が、フランスのクレルモン公会議を開き、聖地エルサレム回復の聖戦を起こすことを提唱した。こうして翌1096年に多数の諸侯・騎士から成る第1回十字軍が出発し、7回まで約200年間にわたって派遣されたものである。

 十字軍のエルサレムに対する攻撃の様子はどうだったのか?
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                          ↑ 「ISLAM」ポール・ランディ著より引用
 上の絵の左は十字軍、十字軍の後ろからカトリックの司祭らしき人物が十字軍の兵たちに何か示唆しているのが興味深い。 右が守るイスラーム側。

 1099年、6週間にわたる包囲ののちついにエルサレムを陥れた。この時、破れた城門から侵入した十字軍兵士達は殺戮と掠奪をほしいままにしたのだ。
 城内に入った軍勢はエルサレム市民の虐殺を行い、イスラム教徒、ユダヤ教徒のみならず東方教会のキリスト教徒まで殺害した。ユダヤ教徒はシナゴーグに集まったが、十字軍は入り口をふさぎ、火を放って焼き殺した。多くのイスラム教徒はアル・アクサーモスクに逃れたが、十字軍の軍勢はそのほとんどを殺害している。
 
 東方教会、つまりギリシア正教・アルメニア・グルジア・コプト・シリア教会派は聖墳墓教会で伝統にのっとり一緒に祭式を執り行ってきたのだが、十字軍はそれらの教会派をそこから追放し、さらにキリストが架けられた「真の十字架」と呼ばれる十字架のありかを聞き出すために守り役の司祭たちを拷問にかけて口を割らせ、十字架を奪った。

十字軍はエルサレムを血の海としながら老若男女を問わず住民約7万人を虐殺した。そしてすべての財宝も宗教遺物も何もかもを掠奪した。
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★キリスト教の「あなたの敵(複数)を愛しなさい」・「隣人を愛せ」という語句がある。しかし、十字軍の殺戮の様子からすると隣人や敵を愛するという言葉に疑問が生ずる。当時のヨーロッパにとってはこの隣人の中には異教徒が存在しなかったのである。狭い中世ヨーロッパの中だけで学問的にも遅れたヨーロッパに暮らした人々の中では隣人とは教皇を頂点とする同じカトリックの人々しか頭になかったものと思われる。
 また、公に「エルサレムを奪いとる」ことを認められ推奨された中では、教皇によって神の名の下で殺戮・略奪・侵略許可を与えられたようなものだ。人を殺していいのだろうか・盗んでいいのか?人(隣人・敵)を愛さなくていいのだろうか?・・・なんて考えずに怖いものなしでいられるときだったのだ。

 かたや、イスラームは、シルクロード・海のシルクロード・地中海に於ける交易を通して、広く異文化・異民族に接していた。また、イスラームの支配する町はエルサレムも含めて異なる宗教の人々が共に暮らし、異教徒は隣人であることは不思議なことでもなんでもなかった。

 ☆降伏した敗者・一般の住民への措置・他宗教への扱いの違いは、このあたりの世界観・宗教観からくるものではないだろうか。

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by miriyun | 2006-05-11 11:49 | サラディン紀行 | Comments(2)
2006年 04月 10日

ヒッティーンの戦い

  休戦・和平の約束をないがしろにしたフランクに対してサラーフッディーン(サラディン)はジハードへの参加を呼びかける、。あらゆる地域から幾千もの歩兵や騎兵がダマスカスに集まり、サラディンはティべリアめざして1万2000の軍勢をもって進む。
 かたや、フランクはアッカに終結、ルノーとギーが指揮するこちらも1万2000のフランク軍が動き始める。サッフリーヤを通りティベリアへと向きを取る。
 
 ★日本であれ、世界であれ戦略的なもの見るには、時と場所を確認すべきであろう。
 ① まず時は、夏。フランク軍が東へ決戦のため動いたのは7月3日のことであった。 この地域の夏は降水がほとんどないため、多くがワディ(ワジ)になってしまう。

  ↓夏のワディの例・・・この写真はヨルダン南部。夏にはこの幅が100m以上あるワディも完全に干上がって水は一滴もない 
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 ② 次に、場所については、地図を見てみよう。
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 まず、青色に塗ったところがティベリウスの湖であり、アラビア語でアル・ブハイレット・ティブリーヤ(タバリヤ)と表記されている。ヘブライ風にいうとガリラヤ湖となる。ここが水源となってヨルダン川へと流れ、その水は最終的に死海へとそそぐ。水源が湖であるからヨルダン川は夏でも枯れない。ところが、地図中のベージュに色づけしたところは川ではあるが、ワディである。これがフランク軍に大きな影響を持つことになる。

 サッフリーヤとティベリアの間の距離は、ふつう4時間の行軍で到達できる。サッフリーヤを早朝出発したフランクは、地図中の茶色の線であらわしたルートを進む。昼過ぎにはティベリア湖で渇きを癒せる、と考えていた。しかしサラディンは緑の線で表したルートでいちはやくヒッティーンの丘に陣をはるとともに、別働隊は1日中彼らの前後左右から矢を浴びせかけたのだ。もちろんフランクの行軍の速度を遅らせるためだ。これによって、本来ならフランク軍は乾きに耐えられる範囲で湖にたどり着き、その日のうちに決戦もできたはずであるのにそうはいかなくなった。

 フランクは日没の前にようやくヒッティーンにたどり着く。フランクはここまでの行軍はワディ沿いにきてはいるが、そのワディ(枯れ川)は完全に干上がっていた。そのため、フランクは疲れきり渇きで死にそうになっている。そして目の前にティベリア湖の水が彼らを誘うようにきらめいている。しかしその水の手前にサラディンの軍が見事に布陣している。
 翌日、7月4日、渇きでふらふらになったフランクはやみくもに湖に向かって押し出す。サラディンの軍は、干からびた草原に火を放ちフランクの軍に火の粉と煙を吹き付ける。フランクはそれでも必死の形相で武器を振り回して突進してくる。
 とうとうサラディンの軍はフランクの軍が大切におしたてていた「十字架」を奪い、最後に残ったエルサレム王の幕舎は崩れた。するとサラディンは自分の馬から降り大地にひれ伏して神に感謝した。

 歓喜の叫びの中でサラディンが自らの幕舎に向かう。そこへ、ギー王とルノー・ド・シャティヨンが連れてこられた。王は命を助けられたがルノーには違う結末が用意されていた。ルノーが犯してきた悪行の数々・・・キャラバンの商人たちの虐殺・略奪・メッカに向けての略奪行動・巡礼船を撃沈、誓約・協定を片端から破ってきたことなどを思い出させられた。そしてついにサラディン自ら剣をもってルノーを倒した。

 ★レイモン伯についてのエピソード
 和平派のレイモン伯はこのヒッティーンの戦いに不本意ながらギー王について参戦していた。戦いのさなか、レイモン伯はサラディン軍を突破していこうとするが、顔を見知ったサラディン軍は彼の逃亡に目をつぶったので、生きながらえてトリポリの領地に戻ることができた。
 また、サラディンはヒッティーンの戦いの直後、ティベリアを攻める。ここに立て籠もっていたレイモン夫人はあきらめて無抵抗で開城する。
 すると、サラディンはレイモン夫人と守備隊を全財産とともに送り出してやったのである。

こののち、サラディン軍は西のアッカを降伏させ、その他のパレスチナ各地の要塞を攻め始めた。サイダ・ベイルート・ジュバイルも次々と攻略していったのである。


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by miriyun | 2006-04-10 23:25 | サラディン紀行 | Comments(2)