写真でイスラーム  

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カテゴリ:トルコ( 116 )


2017年 08月 06日

『オスマン帝国外伝』が日本初放映へ

1.『壮大なる世紀*Muhteşem Yüzyıl』
 5年ほど前に遡るが、このブログで『壮大なる世紀*スレイマンとヒュッレムをめぐる話』というテーマでこの大河ドラマを紹介した。
 
 オスマントルコの第10代スレイマン大帝の時代の皇妃になったヒュッレムをヒロインとした話で、時代は最もオスマントルコが繁栄した時代であり、舞台はイスタンブルに今も残るトプカプ宮殿であるのだから歴史好き・旅行好きな人にはもちろんだが、初めて接しても実に興味深い時代設定であると思う。
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 Muhteşem Yüzyıl、『壮大なる世紀』トルコ語版

           
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       『オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム』日本語字幕版

トルコにおける大河ドラマで、しかもトルコ史には必ず登場してくるスレイマン大帝と皇妃ヒュッレムをめぐる話なので、宮廷の権謀術策はもちろん、当時の文化も習慣も衣装もすべてを見られる絢爛たるドラマという意味でまさに大河ドラマであった。
 多くの国(80か国に上るらしい)で配信され、TV放映されたり、それがない国でもトルコ語や英語字幕でインターネット上での配信を見ることが出来た。
 日本では、中東ものを丁寧に描く篠原千絵が「夢の雫、黄金の鳥籠 」というコミックスとして書きはじめており現在は9巻まで出ていて、今月10日には第10巻が出る。もちろん、作者オリジナルな設定もあり、そっくり「壮大なる世紀」をなぞっているわけではないが、いずれも面白い。



2.いよいよ今日から日本へ
新聞にCSの銀河チャンネルで本日無料放送があり、第1話・第2話まで見ることが出来るというので、早速番組表を見たら、CSの305 チャンネル銀河で確かに無料視聴できるようになっていたので早速予約してみた。
 トルコ語の英語字幕版で語学力のたらないのを、時代背景や当時の文化背景だけを頼りに想像していたものが、日本語字幕になればずっと物語として肩の力を抜いて楽しめそうだ。明日からの本放送は有料放送になるようだが・・。⇒訂正 8月7日深夜0:00に第1話と8日深夜0:00に第2話まで無料放送なのでスカパーなどでチャンネル銀河に入っていなくても見ることが出来る。

チャンネル銀河のottomanHP

 なお題名は、トルコ語直訳の「壮大なる世紀」ではなく『オスマン帝国外伝~愛と欲望のハレム』となっていて、なんとなく日本ぽい題名だなあと思っている。2回目の放映が行われている『クイーンメアリ 愛と欲望の王宮』ととても似ている題名になってしまっているのがちょっと残念だ。

☆予告動画↓
https://youtu.be/tGAIytPN1k0


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スレイマン1世が座っている椅子、トプカプ宮殿に展示してあった象嵌細工ものだ(撮影にはレプリカだろうが)衣装の重厚さや、当時のオスマン帝国での習慣など興味は尽きない。

 第1話は父王セリム1世が崩御し、スレイマン1世が即位するというところから始まる。
久しぶりのワクワク感がある。

                                         
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by miriyun | 2017-08-06 05:33 | トルコ | Comments(13)
2016年 09月 19日

ザクロ街道(2)~アナトリア

1.ザクロ
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アンタルヤ海岸の陽光のもとで・・。
ザクロって、緑から赤への色づきが鑑賞にあたいするほど美しい。



2.遺跡と果樹と 
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 エフェソスの日射しの強烈な中、果樹の緑は目にも心にも心地よい。


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 世界遺産クサントス・レトーン遺跡のなかで。
アナトリアでは、ごく普通に各地にザクロの木がある。数ある世界遺産の遺跡の中であたりまえに、イチジクやブドウ、オリーブ、ザクロが点在する。
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やや色づき始めたころ


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 カイマクル地下都市脇で無造作に積み上げられていた赤いもの、近寄ってみればそれはザクロの山だった。
 中東ではバザールやスークの果物屋ではきれいに種類ごとに積み上げて色合いまで考えた配置にしているものだが、ここでは地元のザクロが次々と無造作に載せられていた。レモンが彩りを添えるために載っているのがわずかにトルコ的だった。
 それにしてもザクロが外皮が強くて日持ちがするからできる積み上げ方だ。
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by miriyun | 2016-09-19 12:13 | トルコ | Comments(6)
2016年 06月 07日

セリミエ・ジャーミィの光

1.壮麗  
  ミマール・スィナンがエディルネの地にセリミエ・ジャーミィを建築したのは、彼の晩年にあたる。

若くして目の前のアヤ・ソフィアという偉大なローマ巨大建築に圧倒され、自分の手でこのような建築を作りたいと思うようになった。
 それだけに振り回されたらただの夢想家で終わってしまうが、彼は堅実だった。
 スレイマニエ大帝に見出され、その期待に応える仕事を一つ一つ全力で打ち込んだ。
依頼主は大帝であれば、遠方からやってくる外国人たちがしの偉業を見上げて感嘆するような姿をつくり、皇女や重臣からの依頼にも常に新しい工夫を試しながらの477の建築だった。
依頼は幅広くハマムの建築にも本気で取り組みながら、3代のスルタンの信頼を得ての建築家人生。
晩年になっての大仕事に、アヤ・ソフィアを超えるジャーミィをつくったのは、彼の念願であるとともに、オスマン・トルコの悲願でもあっただろう。

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絨毯を敷き詰めたジャーミーの内部。
こここそは全体像を入れたいところだが、全体像は魚眼レンズでもなければ写しきれない。

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せめて床から天井までと思うが、これが限界。
カメラは諦め、中央に立ち、真上を向いてこの天井に向かって心を解放してみた。自分の身体がそのまま天井に向かって浮遊出来たらすばらしいだろう---と。

壮麗だが、アヤソフィアの重々しさは感じない。
スィナンが工夫した天井を支える柱、そして壁面は限界に近くまで窓となした。これらの窓が大建築の暗さや重さを一掃しているのだ。
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2.力学を考えたうえでの窓の多用 
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その窓の一部。形を見ると、ローマ水道橋を思い起こす。

 ローマ時代の水道橋は、力学的に重さを支える部分はもちろん頑丈な柱になっている。何層にも積み重なる水道橋の重量を緩和すべく、アーチの内側は空洞につくられる。つまり、重さを担わせる部分と、重さを軽減する部分がはっきりと分けられ、それが建築上の美にもなっていた。

 そのアーチの内側は巨大ドーム天井を支える役割ではないので、壁でなく窓にしていいわけだ。それを実に効率的にしかも印象的に美しい窓の連なりに運用している。

 窓がこれほどあり光があふれ、建造物としては力学的に計算されつくした安心感がある建築、そういう建築であり、アヤ・ソフィアを超える建築をスィナンは作ったのであった。


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by miriyun | 2016-06-07 07:02 | トルコ | Comments(8)
2016年 06月 05日

ミマール・スィナンとセリミエジャーミィ

ミマール・スィナン(1489-1588) 
 オスマン・トルコが東ローマ帝国を抑え、とうとう城壁内に入場したとき、そこに圧倒的なローマ建築としてそびえていたのはアヤ・ソフィアであった。イスタンブールに宮殿がつくられ、様々なモスクがつくられて言ってもアヤ・ソフィアの壮大無比な建築は維持し、イスラムの礼拝すべきところとして内装を変え、使われていった。

 スレイマン大帝は、ミマール・スィナンをみいだし、建築家としての才をいかんなく発揮させた。その結果として、丘の上にミナレットの並びも美しいスレイマニエ・ジャーミィが出来上がった。
 スレイマニエはイスラームの考えによるモスクがずっと維持していかれる仕組みをきちっと形にしたものでバザールやハマム・図書館などを含めた大複合建築として完成した。
 
 スィナンはその生涯においてモスク(ジャーミィ)・キャラバンサライ・ハマム・廟など実に477もの建築物をつくった。そのうち319はイスタンブールにあり、いくつかはこのブログでも紹介してきた。
 
 8つのアーチを4本の柱で支える様式をアヤソフィアから学んだだけではなく、様々な工夫を凝らしながら独特のオスマン様式の建築を極めた人物である。

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 その姿は、いまはもう使われていないトルコのお札にも表されている。彼が、生涯をかけてそれを超えることを目標にしたアヤ・ソフィアを越えた建築であるセリミエ・ジャーミィが彼の姿と共に描かれている。
 この札は初めてトルコを訪れたときの名残りで、しわくちゃになって机の中から出てきた。2005年には使われなくなってしまっているが、トルコが誇る偉大な建築家の絵柄が見れないのは残念に思ってしまう。

 
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 写真や絵では、4本の尖塔のオスマン様式の建築としかわからず、あまりこれまでの建築とは変わりがないように思ってしまうかもしれない。
 しかし、ブルーモスクが出来たのは17世紀で、この天才建築家が活躍したのは16世紀である。日本の戦国時代から本能寺の変あたりまでつくりにつくった建築群には、驚かされるばかりだ。


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by miriyun | 2016-06-05 18:32 | トルコ | Comments(0)
2009年 10月 11日

ベヤズィットモスク

 16世紀はじめの古いモスク
イスタンブルにおけるオスマン朝の最初の古典様式のモスクがある。
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  イスタンブルを征服したファーティフ、メフメット2世は征服するという軍事面において天才的な力を示したが、学問も大事にした。ファーティフは息子に英才教育をし、息子はファーティフのあとをついでスルタンとなった。それがベヤズィット2世(在位1481~1512)で、彼がこのベヤズィットモスク(ジャーミー)を建てさせた。

 時代は16世紀。1501年に取りかかり1506年に完成した。
建築家ははっきりとしていない。ヤークプ・シャーともハイレッティン・パシャともいわれている。まだ、スィナン(シナン)は現れていない時代である。
 したがって、手本になる建物はモスクに転用してあるアヤ・ソフィアしかない。そのため、アヤソフィアによく似ており、柱によって分断された側廊が連なる。ミナレットは2本、87mもの距離を置いて、巨大な台座の上に建っている。
 付属設備として、学問所があったが、現在は図書室となっている。
 なお、このモスクに隣接してグランド・バザールの本屋街が連なっており、アカデミックな雰囲気が漂うところでもある。

~・~・~・~・~・~・~
 時は秋、同じ中近東でも湾岸と異なり、イスタンブルはヨーロッパと同じような秋の風情がある。
500年を経たジャーミィは丘の上にどっしりとたたずんでいた。

 空は夏のような明るさにかけるが、色づいてきた木々の葉の合間からジャーミーを見つめた。

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by miriyun | 2009-10-11 13:07 | トルコ | Comments(4)
2009年 09月 25日

「涙の柱」を求めて

 イェレバタン・サラユの涙の柱
 
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 治水のためのイェレバタン・サラユ(地下宮殿)には、古代ローマの柱がびっしりと再利用されている。
その中で、とくに目を引くのが、涙の柱といわれるものだ。
 光っているのと、緑なのは常に水が上のどこからか出ていて柱がしっとりとぬれているためだ。
 
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 涙のような形で、しかもぬれているから涙の柱といわれている。
だが、よく見ると涙のドロップ型から出る筋の向きが涙の形としては逆さに見える。だからピーコック型ともいえる。すなわち、クジャクの羽根型である。
 しかし、地中海沿岸、いたるところにローマ遺跡はあるが、ローマの文様にこのような文様は見たことがない。 イスタンブルの歴史は古くローマ帝国以前から、いろんな民族がきている。しかし、これだけの柱を作るとなると、ギリシア・ヘレニズム系だろうか?

博物館での置かれ方
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                      ↑ 周囲の建物も柱と同じ灰色で見にくいので、背景は淡色にしてある
 ローマ帝国以前のものであるというが、詳しい解説は本やWebでもなかった。

 そこで考古学博物館へ行ってみた。
館内に展示はなかったが、外で見つけた。なんと野ざらし状態で番号を付けられただけで置かれていた。
もちろん説明書きなどない。

街の中にも・・

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 イェニチェリレル通りを西に向かっていったら・・・

あった!!
本来ここにあったものなのか、地下宮殿よりもずっと太い柱の残骸が残されている。

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なかにはこのように柱が突き刺さっているのもあった。
しかも、涙文様(ピーコック文様)が逆さ!? 

こんな町の中にごろごろ、ローマ以前と思われる遺跡の柱がある。

 これこそが、イスタンブルのすごいところなのだと改めて感嘆した。
しかし、いまだこれがいつのものか確定できないのが残念だ。(なにか情報のお持ちの方がいらしたらどうぞよろしくお寄せくださいませ~!)

            ・・・・・・・なかなか真実を見せてくれない『涙の柱』紀行でした。

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by miriyun | 2009-09-25 07:04 | トルコ | Comments(0)
2009年 08月 12日

ステンドグラス&ランプの饗宴

 スルタンアフメット・ジャーミー
 スルタン・アフメットがたてさせたこのモスクは、一般にブルーモスクとよばれる。
壁一面に美しい青を基調としたタイルがあるからだ。しかし、タイルは遥かに上のほうで、見学者の入れる位置も限定されるため、実はあまりブルーを意識するほどタイルをマジかに見ることはできない。
 そして、一部撮影してみて感じたのは長い間に染み付いた汚れやキズがあり、さほどきれいだという印象にならなかった。もちろん、窓やミフラーブに近いところには見たこともないような見事なタイル文様が見られるのだが、何分遠い。

 また、柱が象の足と表現されるほど太いので建築としてうちから見渡すと、どこか無骨でなじめない。
 
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 それよりも260もの窓がそれぞれに彩られていることのほうに興味を覚えた。
こういうモスクランプとステンドグラスという異質の光の組み合わせであるが、とても美しいと思う。

 あまりにも巨大な空間なので全容がつかめないが、まだまだ、これから探求してみたいモスクの一つではある。

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by miriyun | 2009-08-12 16:24 | トルコ | Comments(2)
2009年 05月 08日

”ジャーミー”シルエット

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モスクは、近づいていくほどに外壁の文様・タイルや浮き彫りの外壁へと目は吸い寄せられてしまう。
また、たいていのモスクは大きすぎるので近くで見ると全体像の良さは見えなかったりする。見通しのいいところであるならば、かえってすこし離れて太陽がモスクの向こう側にある逆光のほうが姿の良さが浮かび上がる。

 ホジャ・パシャ・ジャーミー(イスタンブール)
 観光地ではないから、かろうじて詳細地図で名前を調べた。こうしたジャーミーもドームをのせた姿、すくっと建った塔の姿はやはり安定していて町を見守る大事なジャーミーだと感じさせられる。

 外壁がやや無骨なトルコのジャーミーはこうして全体のフォルムを見ていくのが好きだ。


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by miriyun | 2009-05-08 23:04 | トルコ | Comments(2)
2009年 05月 04日

カレンデルハーネ・ジャーミー

 ビザンティン建築としては、いわずと知れたアヤ・ソフィアがあるが、他にもあるはずだ。
例えば、スレイマニエ・ジャーミーの南西にカレンデルハーネ・ジャーミーがあった。

カレンデルハーネ・ジャーミー 

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ここは、ローマ時代には浴場があったということが発掘でわかっている。その上に初期ビザンチン教会ビザンチン様式の教会だったといわれる。その後12世紀にここに修道院の教会が建てられたのではないかといわれているが名は断定されていない。
 その後13世紀には第4回十字軍によって占領されたため、ラテン王国に支配されていた間はここはカトリックとなる。
 15世紀、ファーティフによってオスマン朝支配になると、当然アヤ・ソフィア同様、ミナレットを付けられモスク(ジャーミー)になったものである。
 実はここは、バスを降りて、脇を通っただけで中を見たわけではない。しかし、立派な建築物であるが、様式が異なり、おやっと思った次第である。やはりただのモスクではなかったのである。

 ローマン風呂の跡に始まり、古代モザイク、キリスト教関連の壁画も発掘があり、たった一つの建物でもその変遷が街の歴史の一部を反映しているのであった。

~~~~~~~~~~~~
◆ なお、ボスポラス海峡の陸地側工事は遅れているが、それは請負会社の問題ではない。
掘れば掘るほど出てきてしまう古代や中世の遺跡や遺構によりその発掘をきちんとやってから出ないと工事を進めることができないという事実によるものだ。

 たしかにイスタンブールならさもあらんと思う・・・。



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by miriyun | 2009-05-04 14:14 | トルコ | Comments(6)
2009年 03月 21日

金の泉亭・金のトゥーラ・・・モザイク紀行(19)

第997話
 トルコでは、有力者による泉亭の寄進は一般的で、宮殿・モスク周辺で案外簡単に見つかる。

スルタン・アフメット・ジャーミーの横の広場はかってはローマ帝国の戦車競技場ヒポドロームであった。そこは今はそぞろ歩きに適した細長い公園になっている。

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 そのヒポドロームの東側に、この泉亭は寄贈された。


1.泉亭は、誰から誰へと贈られたのか?

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 近づくにつれ、モスクにおなじみのこの泉亭が尋常なものでないことがわかる。
とてもスルタンがオスマンの民のために作ったというような歴史ではないことが、その重厚さから伝わってくる。

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 中央の文様はイスラームの文様とは異なる。そして周囲には緑系と青系の2種類の装飾が交互に飾られている。このモザイク天井は金のモザイクをふんだんに使い、色の部分はガラスモザイクのようだ。まさに金を糸目をつけずに作らせた感がある。
 あまりにも豪華なつくりであるためか、中には入れない。外からかろうじてのぞきみる。
 この絢爛たるつくりにするのにはよほど財政が豊かな派手好きの支配者がいたか、あるいは相手を驚かせて、戦う気をなくさせて屈服させたい時である。

 オスマン帝国末期であり、オスマンはスルタンの力も弱まり、封建制度の矛盾が噴出し、ヨーロッパ諸国より産業・軍事など遅れがはっきりしていた帝国末期である。強敵がたくさん、同盟国も油断ならないそんな時代である。
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 王冠とつる草、Wは Wilhelm のW.Ⅱは2世・・・ヴィルヘルム2世をあらわす。このような円形のものをなんというのかわからない。ヴィルヘルム2世の紋章はライオンのがあったはずだ。日本と同じように普通の家紋、旗印などのように異なる印を持っているのだろうか。・・相変わらずヨーロッパの紋章はよくわからない。

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 そして、何よりはっきりとするのは、このトゥーラ(スルタンの花押)である。
「アブドゥルハミト ハーン ビン アブドゥルメジド アル ムザッファル ダーイマ」 とある。 
 アブドゥルハミト2世のトゥーラである。
もともと姿良くデザインされた、オスマン朝後期のトゥーラである。それだけでも美しいものを、金のモザイクで文字の部分を細かく表現している。それらのモザイク片の一つ一つが輝く。実に華麗なトゥーラである。
 モザイクとしては華麗であるが、本来トゥーラ(トゥグラー)は横広の長楕円形が基本で円に無理に入れてしまうと横への伸びやかさがなくなり、本来のカリグラフィーの美しさは出なくなる。 スルタンの花押はもちろん厳格に決まっていてトゥーラをこんなに横を狭くあらわすことはしないのに、なぜこんああらわしかたをしたのか。それはトルコ人の発注ではないからだ。

◆この泉亭はドイツの皇帝ヴィルヘルム2世から、トルコのスルタン、アブドゥルハミト2世に寄贈されたのであった。
 無理やり円に文字を押し込んでしまったのはきわめて西洋的考えであって、アラビア語として、アラビア書道的にはあまりよくない。

2.列強の侵入とスルタン・アブドゥルハミト2世

◇34代アブドゥルハミト2世◇
 1876~1909在位。
 彼は バルカン諸民族の保護を口実としたヨーロッパ列強の干渉を交わすためにミドハト憲法憲法を発布、議会政治も始めた。しかし、ロシアとの戦争を気に廃止し専制政治を行い、パン・イスラム主義をシンボルとした。
 ロシアに敗北後、バルカンの領土の大半を失い、イギリスフランスの侵攻を防ぐためにドイツに接近し、政治的独立を保った。しかし、経済的には、帝国内の特権を多くの外国企業に与えざるを得なくなり、経済的植民地になりつつあった。  (参考:平凡社 イスラム事典)            

◆ この泉亭を、ドイツ皇帝がトルコに寄贈する。相手のスルタンのトゥーラを金のモザイクで作成するということは相手に敬意を表しながら、ドイツ皇帝も金で飾り、友好国であること、そして、これほどの財力を持つ国であるとトルコ国民にアピールし続ける。そんな贈り物なのだ。

 これまで、スルタンはペルシアの贈り物もフランスの贈り物も見たくなければスルタンの宝物庫にしまってしまえばよかった。しかし、この贈り物はしまうことも移動することもできない贈り物・・・、まことに重い贈り物だったわけだ。
 ドイツとトルコは第一次世界大戦では同盟国ともなっているし、その前から3B政策を進行させていたドイツにとってオスマンを篭絡する必要があった。オスマンの領域内ではしばしばその遺構をが目にすることがある。

◆世界的紛争の起こる20世紀へあとわずかの1898年、
ドイツのヴィルヘルム2世からアブドゥルハミト2世への贈り物は、
    堂々たる柱と天蓋、金の天井にトゥーラを配した華麗な贈り物であり、
    列強に蝕まれつつあったトルコの重い歴史を感じさせる贈り物でもあった・・・・・。

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by miriyun | 2009-03-21 14:27 | トルコ | Comments(4)