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カテゴリ:中東について( 17 )


2010年 04月 01日

インターネットと地域別在留邦人

一年前、Flag Counterを何気なく入れてみた。
2009年3月28日と導入した日付を入れておいた。それは1年間でどのくらいの国とネット上でつながっていくのか興味があったからだ。
 また、世界の在留邦人の数はどのくらいになっているのだろうか。統計的興味を持って数字を見た。

100万人を超える海外在留の日本人
 
 海外在留邦人は平成17年に100万人を超えて平成20年には111万人となった。そのうち、永住者は36万人に対して長期滞在者75万人である。

 その中で、外務省は世界をアジア・大洋州・北米・中米カリブ・南米・西欧・中欧東欧旧ソ連・中東・アフリカ・南極の10の地域に分けて統計をしている。
 
 平成19年と20年とを比較すると最もその邦人数が増えたのはどこか。前年比+10.28%の中東だった。ドバイやカタール・サウジアラビアなどの産油国の景気のよさに、仕事等で渡った人が多いからだろう。とくに邦人の伸び率が高いのはドバイであり、さもありなんと思う。ただし、ドバイショックはこの統計のあとなので当然その後はやや減少しているはずである。

 ところで、伸び率と実数は異なる。絶対数はまだまだ少なくて海外在住の邦人数のうち39%の43万人が北米に住む。 それに対して、伸び率は高いとはいえ、中東全体で9000人台である。まだまだ、中東の邦人は貴重な存在なのだ。   

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                                ↑ 外務省領事局政策課の海外在留邦人調査統計(H20.10.1現在)の数値をもとにmiriyunがグラフ作成

  ◎ここでのテーマとは関係ないが、南極が調査地域としなっているのは面白い。
    詳しく言うと邦人は29人である。
    これは南極観測の昭和基地とみずほ基地の観測隊員の人数であろう。
 

◆さて、国・地域別での在留邦人数の多い国を見ると
1.アメリカ    2.中華人民共和国   3.オーストラリア    4.イギリス    5.ブラジル
6.カナダ     7.タイ           8.ドイツ         9.フランス    10.大韓民国
11.シンガポール  12.台湾     13.フィリピン     14.ニュージーランド    15.アルゼンチン
16.イタリア    17.インドネシア   18.マレーシア    19.スイス       20.ベトナム
21.スペイン    22.オランダ     23.ベルギー      24.メキシコ     25.グアム
26.パラグアイ    27.アラブ首長国連邦          28.インド    29.ペルー     30.スウェーデン
31.ボリビア     32.オーストラリア   33.ロシア     34.チェコ      35.アイルランド
36.トルコ   37.ポーランド      38.南アフリカ   39.ハンガリー   40.コロンビア
41.デンマーク  42.フィンランド    43.チリ     44.北マリアナ諸島   45.サウジアラビア
46.カタール   47.エジプト     48.パキスタン     49.ドミニカ      50.イスラエル  

◆ これらの邦人が多い国50各国を並べてみるとイスラームの国はなかなか登場してこない。アラブ連盟加盟国では27位のアラブ首長国連邦が一番最初に登場してくる。やはりドバイに集中して邦人が増えた影響が大きい。

Flag Counterに見る世界ネット事情      
このブログでFlag Counter をおいて一年、2009.03.28~2010.03.29で、130カ国になっていた。

 日本語ブログであるため、日本人が多い国が多くなるとも考えられるが,数でいうなら北米・アジア・西欧中心になるものだ。
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 訪問者が多い順にのっている。
 日本・アメリカは当然として、3番目にアラブ首長国連邦、7番目にトルコ 8番目にマレーシア 以下、50番目までにエジプト・サウジアラビア・インドネシア・イラン・カタール・ヨルダン・アルジェリア・モロッコ・シリア・イエメン・チュニジア・バーレーン・クウェート・パキスタンと続く。
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51番目からあともほとんどのイスラーム国が入っているかなと思われるくらいにイスラーム諸国が多い。

 内容がイスラームであるために在留邦人の人数比どおりにはならなず、イスラーム国からの訪問が多いことが特色として現れてきた。

 また、インフラ整備の具合などがまだまだか国の間で影響しているのが見て取れる。さらに治安の悪化している国・国家的にインターネットが自由に動いていない国も登場してきにくい。

そして、たった1年間で、193ほどの世界の国(地域)のうち、130ヶ国にあたるところに在住の方と接することができるインターネット時代の潮流・・・それを、この小さなブログでさえ感じられる世の中になったことに驚嘆している。
 インターネットは確実に世界を輪の中に取り込んでいる。


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by miriyun | 2010-04-01 23:58 | 中東について | Comments(8)
2007年 05月 27日

受難・・・またも難民キャンプの人々

 レバノンにはパレスチナ難民が三十数万人が住んでいる。難民キャンプのうち、もっとも北にあるナハル・エル・バレド難民キャンプが攻撃され、電気・水道・医薬品もなく包囲されている。パレスチナ過激派ファタハ・イスラムがパレスチナ難民キャンプに冬から押し入り、そこを一週間前からレバノン軍によって砲撃されている。
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 ◆難民キャンプは60年前のイスラエル建国、強制的な追い出しによって自分たちの村から追い出され、さらに逃げ込んだキャンプからもその後の中東戦争での危機やレバノン内戦による難民の虐殺から逃れてきた人々だ。

 逃れ逃れてようやく、キャンプで生活。充分な教育が受けられない。教育熱心なことで有名なパレスチナ人であるから、何とか家族で頑張って高校や大学まで行かせることもある。しかし、レバノンでは就職制限などあり、収入を得ることが難しい。国民としての公共サービスもないので水も電気も自分たちで引く。

☆ そういった中でも頑張り、思いやり前向きに生きようとしていたナハル・エル・バレドの人々。まず感じ取って欲しい・・・苦しいながらできるだけ気持ちを明るく保ち頑張って生活していた人々の話だということを!
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    ↑ナハル・エル・バレド・・・希望を持ち印象的な笑顔をみせていた人々
 「衝突の発端は、銀行強盗事件を捜索していた治安部隊が20日、トリポリ市内のファタハ・イスラムの味とを襲撃したことだった。同組織はその報復としてキャンプ前の軍詰め所を襲い、兵士を殺害。(中略)治安部隊はキャンプを包囲し、戦車がキャンプに向かって絶え間なく砲弾を撃ち込む。キャンプの住人にも怪我人がでたのはもちろん死者も81人に上る。」(2007.05.23読売新聞)
 ナハル・バリド(新聞ではこう表現していた)の大工さんの家に武装したファタハ・イスラムの民兵が押し入った。断ると銃を向けられた。彼らをレバノンを国軍が戦車で砲撃。その家の2回に住む親戚が重傷を負った。また、要所要所に武器をもったっメンバーが立ち、住民が逃げられないようにした。一時的休戦になった23日、徒歩や車で5000人のナハルの人々がバダウィ難民キャンプに逃れてきて、バダウィ難民キャンプは人であふれている。(2007.05.24読売新聞)

                     
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by miriyun | 2007-05-27 16:29 | 中東について | Comments(0)
2007年 04月 24日

礼拝用絨毯とモーフル

 前出のようにイスラーム地域では、ホテルにキブラシールが張ってある。クルアーン(コーラン)はおいてあるのは見たことがないが、祈りのために礼拝用絨毯が部屋ごとには用意してある場合もある。
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              ↑ イエメンのホテルのプレイヤーマット
  礼拝用マットは必ず向きがわかるようなデザインであり、上下対称ではない。これも上にモスク、下にモスクランプの図柄に名ty手いる。                
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   また、イランはヤズドのホテルでは、やはり、モスクにモスクランプという図柄になっている。そしてさらに、モーフルもおかれていている。モーフルはカルバラの土からつくられたという。シーア派ならではであり、じゅうたんの上におき額につくまで前に頭を下げるのだ。

 まことに礼拝することを大切にしているものだ。

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by miriyun | 2007-04-24 22:16 | 中東について | Comments(2)
2006年 09月 24日

ラマダン月にあたり・・・

 24日をもってイスラームでは、ラマダン(ラマザン)にはいった。
 年に11日ほど太陽暦とずれていくので、毎年ラマダンの時期が早まってくる。昨年は10月だったが、今年は9月というようになってくるのだ。
  ラマダンが涼しい冬場にあたるのと酷暑の夏にあたるのでは、身体への負担も激しく異なる。そもそも、ラマダンは日中だけは何も口にしないというものなので、断食するというよりは、日のあるうちは何も口にしないことになる。水も食糧も水タバコも口にしないのだ。
  現象として見えるのはそれだけなのだが、ラマダンはもっと内面にかかわりがあると思う。貧しい人や食べれない人の気持ちも察することができる。人の苦しさを知り、思いやる気持ちを持つことができる。

 イスラームの中では、もとより相互扶助の精神が顕著で、コミュニティがしっかりしておればたとえ親をなくした子どもがいようとストリートチルドレンになる可能性は、きわめて低い。もてるものは、持たざるものにふるまうのは当たり前で、それを享受するほうも当然のこととして受ける。けっして卑屈になることはない。

 そういう社会があるということを感じていこう。これには憶えることではなくていろんな人と接していくことが何よりだ。

 以前、あるNGOがパレスチナの子どもたちに日本のアニメ『蛍の墓』をみせたそうだ。戦争孤児になってしまった兄と妹が苦しみさまよう姿がけなげで涙なしではいられない映画であった。そのアニメを見ての、パレスチナの子どもたちが日本人に投げかけた質問が印象に残っている。

 ・・・・「なぜ、あんなに大変な状態の子どもがいるのに大人が助けようとしないの?」
そこがどうしても理解できないというのだ。彼らは、苦しい時必ず誰かが手をさしのべてくれていたからだ。

 そういわれて初めて気づくこともある。ときおり、このように考え方の基盤が違うことに気づかされる。異なるものに接するのは驚きである。暖かい心に接すれば、こちらも心が豊かになる。
そんなことを考える機会のひとつであるラマダンを祝おう。
 
 ラマダン・カリーム!


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by miriyun | 2006-09-24 19:16 | 中東について | Comments(8)
2006年 08月 27日

大使館の移転…エルサレムから退去

  News――在イスラエルの大使館移転のニュースに釘付けになった

 イスラエルが、自ら称して首都といっているエルサレムは、国連はもちろん、どこの国もそれを認めてはいない。

 もともと、1947年、国連がイスラエルへの土地の割譲・独立を認めたが、三大宗教の聖地、であるエルサレムは国際管理のもとにおき、いずれにも帰属させなかった。それを中東戦争で周辺への染料を進め、とうとうヨルダン川東岸、つまりパレスチナに帰属する土地を占領する。
 1980年にはイスラエル議会は占領によって手に入れた東西エルサレムを統一エルサレムとよび、首都とする法律を制定た。そして、ここに首都機能を移した。
 だが、東エルサレムはムスリムの聖地アル・アクサー・モスクがあり、スークが繁栄し、あまたのパレスチナ人が住み、スークで売り買いし、昔からの家に住み子どもを育てていたのだ。

 その状態で世界の国々は一カ国もエルサレムをイスラエルの首都とは認めなかった。
 国連総会は、これを非難する決議を百四十三カ国の圧倒的多数で採択。アメリカでさえ、「棄権」するのがやっとだったのだ。このとき、棄権は4カ国。反対はもちろん当事国イスラエルだけであった。

 もちろん日本も非難決議に賛成し、エルサレムをイスラエルだけがとるなどということは認めていない。だから、首都機能が西エルサレムに移転してからも日本大使館はテルアビブにある。他の国もそうなのだ。
 しかしながら、少しでもエルサレムに大使館を置いてもらえれば、国際社会において既得権のようになっていく可能性がある。だから、エルサレムに大使館を設置といったら、政府は大喜びで便宜を図るに違いない。実際、どういう事情かはわからないがコスタリカ・エルサルバドルの2カ国がエルサレムに大使館を置いている。

  だが、コスタリカは今月16日、エルサルバドルは25日にテルアビブへの大使館移転を発表した。いずれの国もレバノン戦争停戦とその後の中東諸国との関係を考えてのことだという。

 これは、レバノン戦争において、各国が何を考えていたのかを象徴的にあらわすことだ。
 つまり、これまで赤子の手をひねるように一方的に勝っていたイスラエルがどんなに強力な爆弾を使って町を廃墟にしても、相手はあきらめはしなかった。目的をあらわにしながらの一般市民の殺戮などに対して、即停戦はできなかったものの国連も欧米各国あきらめはしなかった。周辺諸国もイスラエル国内の平和団体も黙っていなかったということなのだ。戦争が停戦に近づくほどに各地に逃げたレバノン人とそれを支援する各国の人々も声を出していったのだ。

 これはできるだけ挑発してもっと徹底して力を伸ばそうとしたイスラエルにとっては誤算となったようだ。
 そして、思いもかけない大使館移転というささやかなニュースによって、頬の辺りを横切る風の向きが変わっていくような微妙な中東情勢を感じさせられた。

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by miriyun | 2006-08-27 22:44 | 中東について | Comments(2)
2006年 08月 21日

耳をそばだてる&耳をかたむける

   『ほら、ぼくだって できるよ!』
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  「そばだてる」は、高くたてること。ぼくのそばだて方はどうだい、なかなかだろう?
 「耳をそばだてる」は、よく聞こえるように気をつけること。それも、自分の都合がいいところだけそばだてて、ありもしないことを鵜呑みにしないように、いろんな国の言葉を聴くようにしているんだ。

そして、耳をかたむけなくちゃ!
かたむけるっていうのは、ただ聞こえるようにするだけでなくて、心を寄せて聞くようにすることさ!人間はすごいと思っていたけど、そんなことも知らないなんておどろいたよ。

 民族・利害・悲しみ・宗教いろいろあるけれど、世界の心配する声に耳はかたむけなくちゃ!
                                   ジョルダンのヒマール(ろば)くんより                           
                               
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by miriyun | 2006-08-21 17:00 | 中東について | Comments(2)
2006年 06月 22日

難民キャンプの中のUN

 キャンプ地には当初からUNRWAが入って国連としての援助活動が行なわれている。だから、建築物、とくに学校は国連がつくり、正確に言えば『国連立○○小学校』ということになる。
 現地で見かけた小学校の看板を見ると国連マークが入っている。
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↑ 女子児童のための小学校
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↑ 男子児童のための小学校
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↑ 元気な顔で家の手伝いの野菜運びをしている子どもたち。小学校は比較的整っていて就学率も高いが、そのあとの上級学校までは国連も手が回らない。受入国の学校に通うには、経済的な負担及び法律上の規制が厳しい。したがって、親は学ばせたいが、続けることができなくなってくる場合が非常に多い。
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↑町にはUNRWAの車(あっ!三菱だ!)がたびたび通っているし、ごみ収集の仕事をしているのも国連に雇われたパレスチナ人である。このように、生活のいたるところに国連・UNRWAの姿が見える。
 しかし十分というわけではない。難民が減る状況は全くないのに、予算は減っているのだ。だから、NGOも各国から入ってきている。
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↑ ところで、UNRWAは「アンルワ」と解説されていることが多いが、現地では「ウヌルワ」と聞いている。英語だとアンと読むが、上の写真のアラビア語で確認するとたしかに「ウヌルワ」と書いてある。だから、アラブでは「ウヌルワ」なのだ。
 略号も読み手によって言い方が異なってしまうことになる。ドイツ語やスペイン語などではなんというのだろう。

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by miriyun | 2006-06-22 20:02 | 中東について | Comments(0)
2006年 06月 21日

難民の町の水道管

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パレスチナ難民キャンプ、
 もとはテントがどこまでも続くようなところであっても、そこに住むこと何十年となると町はがらんどうのブロックやレンガで詰まれた町になる。しかし、難民となって命を保つことができても水道・電気の設備を受入国がやってくれるものか。
 そこには受入国の事情・自国民と難民の割合、などが関係する。
それぞれ1万人とか2万人が住む町でインフラ整備をしないままでは生活できない。そこで、初期においてUNRWAが水道管のおおもとを引く。
 その後、占領され、逃げ出してくる難民で数倍に膨れ上がってくる。すると写真のように、水道管もたこ足配管をしていくようになる。この水道管がすべてむき出しのまま狭い路地をつながって各家庭へと送られる。

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by miriyun | 2006-06-21 00:13 | 中東について | Comments(2)
2006年 06月 20日

世界難民の日

 6月20日は国連が定めた世界難民の日だ。

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そこで、まずは難民について。

1、難民(Refugee)とは?
 「難民の地位に関する条約」(難民条約)では、、「人種・宗教・国籍・政治的信条などが原因で、自国の政府から迫害を受ける恐れがあるために国外に逃れた者」を難民という。いわゆる政治難民(英:PoliticalRefugee)のことである。

 近年、この定義に該当しないが保護が必要な人が急増している。
天災、飢餓や伝染病・内戦・部族対立のため、国外に逃れた人々を避難民(displaced person)という。本国の国内にあって、同様の状況に置かれた人々を国内避難民(internally displaced person)または内部難民(InternalRefugee)という。さらに現代では経済的貧困を逃れるため理由での難民も経済難民(英:EconomicRefugee)と呼称されている。

2、日本人難民
 戦争の延長線上ではあったが、満州・朝鮮に開拓団として国によって送り込まれた人々は日本が敗戦したとき、まさしく難民だった。(国内難民・政治難民かはそのときをどうとらえるかで異なる)だから。このとき命からがら食べるものも飲むべき水も得られない状態にあったのだ。だから新田次郎と藤原ていという作家夫婦とその息子藤原正彦など、難民になるということはどんな状態なのかよくわかっている人たちもいる。その反面、日本もそういう状態があり、極限状態を経験した人たちがいたことを全く知らない人もいる。

2、世界の難民
 UNHCR(国際連合難民高等弁務官事務所)によると、2004年12月31日時点で世界の難民は923万6500人とされている。地域別ではアフリカが最大で全難民の30%が居住している。ただし、ここにはもう60年間も難民生活を強いられているパレスチナ難民は含まれていない。国連でもUNRWAが担当するところなので、各種統計に含まれている場合、含まれない場合などがあるので要注意だ。

*なにやら、定義ばかりになってしまった。
キャンプの公共水道から。
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 フィラスティーンの少年が手をかけているのは、難民キャンプの中にある共同の水道。アラブでは、聖者廟、町の記念碑の前などいろいろなところで誰もが自由に飲むことができる水のみ場を作って提供していることがよくある。ここでは亡くなった青年の写真とともに、水道をみんなが使えるように提供していることを書いてある。

 今年は、国連では「希望」 がテーマで、6月19日(月)から7月14日(金)まで、UNハウスにて恒例の「世界難民の日」写真展が開催されるという。

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by miriyun | 2006-06-20 00:28 | 中東について | Comments(4)
2006年 05月 21日

ナスレッディン・ホジャの笑い

 中東の笑いの世界について
1、まずは次のブログを紹介させていただく。
  中東ぶらぶら回想記・・・「ニュースのお時間です」は最新のニュースが独自の視点で語られていて、中東情勢 について読み応えがあるので、おすすめだ。また、笑のつぼが異なることや、ジョーク・ エジプトのノクタなど最近楽しませてもらった。
 
 *エジプトのノクタではサイーディーが主人公として登場してくることが多いらしい。日本でも、落語なら八っつぁん、とかよく使われる名がある。頓知なら一休さん話とかが有名。


2、そういった楽しい話はどこの国でも何かしらあるのだろうが、かなりの国に翻訳されて読まれ愛されていると思われるのがナスレッディン・ホジャだろう。

 トルコの頓知話なのだが、ナスレッディン・ホジャは1208年、トルコ・アナトリアの中央部のシブリヒサールの町の近くのホルト村に生まれたという。のちに、アクシェヒールに移り住み、一生のほとんどをすごすことになる。幼い頃から頓知に富んだ子どもであったらしいが、年をとるほど味のあることを言ったというのだ。1284年になくなったということなので76歳という当時としては長寿であったわけだ。

☆ホジャの小話とはどんなものか。
     ーーーーー 心づけーーーーーー
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 ホジャはハンマームにいった。みすぼらしいなりをしていたので、風呂番たちはホジャをいい加減にあしらい、ちっぽけな石鹸と、やぶれた手ぬぐいをよこした。
 風呂を終えてから、ホジャは一人一人に金貨を配った。風呂番たちはびっくりした。ていねいにもてなせば、もっとたくさんの心づけをくれたかもしれない。
 次の週、ホジャはまたハンマームにいった。今度は、風呂番たちはホジャをスルタンでもきたかのように丁寧にもてなした。マッサージをしてもらい、香水を振りかけられた後で、ホジャは、風呂番たちに使いでもない小さな銅貨を渡してやった。
 一同がっかりしているところで、ホジャはしたり顔で言った。
「こいつは、この前の時の分じゃ、この前渡した金貨は、今日の分じゃ!」

      ーーーーーー 重荷ーーーーーー
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ホジャは、市場で袋いっぱいのジャガイモを買い、袋を肩に担ぎ、ロバに乗って家路に着いた。しかし、途中で出合った友人が声をかけた。
「ホジャ、片手で袋を担いで、片手で馬の手綱を取るなんて大変じゃろ、なぜ、袋をロバの背に背負わんのかね?」
「ロバはわしという大きな荷物を運んでいるんじゃろうが。それ以上負わせたらかわいそうじゃから、わしが、荷物を運んでおるんじゃ」   
          (小話・絵ともイスタンブルで購入の『ナスレッディンホジャ小話集』)より引用
          

☆上は見た目で判断する人々・人物そのものを見ない人を笑い飛ばしている。
下の重荷は、どの世代でも無心に笑えるロバもの。

 ホジャのお話の笑いには、このほかにもいろいろな笑いがふくまれているが、人をおとしめるものではなく朗らかに笑い、苦しい生活の民衆を励ますような笑いだ。だからこそ、時代を超えて長く伝えられてきたのだろう。

 トルコにはホジャにまつわる銅像や記念のものが当然多いのだが、下の銅像は他の国のものである。 
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 これはウズベキスタンのブハラ(ブハーラー)、ナディル・ディワン・ベギ・モスクの前の公園にあったかなり大きな銅像。すると少なくともウズベキスタンの人にとって馴染み深い人物なのだろう。

 もともと東から西へと移動してきたトルコ民族であるので中央アジアから東はトルコ語(又は類似点の多い言語)が思った以上に使われている。例えば、アゼルバイジャン、カザフスタン、キルギス、トルクメニスタン、ウズベキスタンや中国ウイグルなどである。
 
 以前に、東京ジャーミーでであったウィグル自治区からの留学生は、トルコ系の人たちとは不自由なく話せると言っていた。 するとこのホジャの話もシルクロードの各地に知られている可能性が高い。

 工芸や建築のほかに、こうした話も文化の伝播の一つなのだ。
 
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by miriyun | 2006-05-21 02:35 | 中東について | Comments(6)