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2008年 07月 19日

浮橋作戦

コンスタンティノープルは終焉に向かっていた。 

 トルコ艦隊の丘越えによって、ビザンチン側の将兵はこの世の終わりかと思った。だがしばらくして彼らは感じ始めた。数だけは多いものの海戦に慣れていないトルコ側が金角湾の内部にいるというだけであって、すぐには海戦を得意とする大型のジェノバ船には戦いを挑んでこないだろうと・・・。

 だが、金角湾のおくに70隻の艦隊を送り込むことに成功したメフメット2世はもう次を考えている。
 艦隊が金角湾に入ったのであるから、金角湾の北側(現在の新市街)にじんどっていたサガノス・パシャの15,000の軍勢はここに留め置く必要はなくなる。かといってはるかに北まで遡り金角湾の角の先まで行って現在の旧市街側に来るには時間がかかりすぎる。 合戦の時にそれでは戦況に対応できないこともある。

 そこで、またテオドシウスの城壁から見ていたビザンチン側の城兵は目を見張る。時は1543年4月末、艦隊の丘越えから、まだ一週間あまりだった。
浮橋作戦_c0067690_1131289.jpg

                            (上は博物館の地図に解説を加えたもの)
 突然金角湾の奥に浮橋がつくられ始めた。それは樽をつないで浮かした上にきっちりと板を渡していくという古典的手法である。地図中では狭く見えるが500mはある。2列の樽を等間隔で並べその上に板を渡した。しかし、斬新なのはところどころに張り出させた広い台が設置されているところだ。
 そして出来上がるとその台の上に何と大砲が城壁に向けて設置されていったのである。まさしくそれは 樽の上のお台場であった。
 (注)お台場とは、砲台を設置した場所のことを言う。東京のお台場は現在は大きな計画都市となっているが、ここは幕末の諸外国の驚異に対して江戸の防衛のために埋立地に作った大砲の設置場所であり、そのためにお台場といわれるようになった。

 もっとも浮橋の上の大砲がどれほどの命中率があったかは疑わしい。ここに設置した大砲は小さいほうであるがそれでも大砲を撃ったときの反動があったはずである。
 だが、ビザンチン側からすればここからも打たれてしまうという衝撃のほうが実際の砲弾よりも影響したであろう。

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(これまでの話は下のtag「コンスタンティノープルの陥落をご覧ください。)

by miriyun | 2008-07-19 11:14 | Comments(4)
Commented by JOE at 2008-07-19 19:33 x
お台場とは...
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Sirimasen Desita.
Houmeiga Nihonno Odaiba Nimo Todoroita Kotoga Arun Deshoune.
Doon!!
Mizusibukiga Kimotiga Yoi Kisetuni Narimasita.
Kurageni Naritai Kyou Konogoro.
Yoi Shuumatuwo!!
Commented by Azuki at 2008-07-20 03:42 x
壮大すぎてもう何もいえなくなります~
500mも・・・ほんと樽の上のお台場、ゆれもあるだろうから幅もしっかり取られていたのではないかと思いますが、、、とにかくすごいですね。
Commented by miriyun at 2008-07-20 06:54
世界あちらこちらに台場はあるんのでしょうが浮橋の台場はめったにあるものではないです。
 ジョーさん、くらげになりたいとは、そちらはずいぶん暑いのでしょうね。こちらは湿度の高いのが苦手です。じつはいつも中東にいるときのほうが体調はいいのです。
Commented by miriyun at 2008-07-20 06:59
Azukiさん、橋の幅は人が5列で歩けるほどだといいます。
 またこの別に台場を設け、実際次々と城壁への砲撃をおこなったといいます。スルタン・・・考えることが大きいですね。


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