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2008年 06月 09日

初代オスマンからバヤズィット…オスマン朝の歴史(1)

 オスマン朝の支配者をスルタンという。
     スルタンは36代まで続いた。
 トルコの中には歴代スルタンの名においてつくられた建築物や工芸品が数多く残されている。しかし、徳川15代くらいなら、なんとか名前を覚えたり特色をつかんだりしやすいが、36代となると分かりづらい。しかもメフメットにアフメット・ムラト・ムスタファ、挙句の果てにアブデュルにつづくこと、ハミドやメジド・アジズと似たような名前が続出して紛らわしい。
 そこで、建築や文化面との関連を見ながら関連あるスルタンの歴史をまとめてみる。


 ◆オスマン朝の成立 
 カイウ部族の長であったガーズィはアナトリアに領地を持つベイリク(諸侯)としてセルジューク朝に仕える形をとっていた。

 数多い諸侯のなかでオスマン・ベイリクは、ビザンチン帝国の領土との境界にあったのは幸運だったといえる。なぜなら同じトルコ諸侯の持つわずかな土地を廻って限りのない戦いを続けしかも禍根を残すということをしなくてすんだからである。弱体化し始めていたビザンチンに戦いを挑み容易に領土を増やすことができたのである。

 ガーズィの息子オスマン・ガーズィもビザンチン帝国相手に短期間で勝利を挙げ領土を増やし名声は高まっていった。これをしたって勇気ある若者が結集していった。1299年にはセルジューク朝のスルタンから独立の徴として旗を受け取るという形でその支配下から離れて一国をなした。これがオスマン朝であり。その名はオスマン・ガーズィすなわち、オスマン1世(在位1299~1326)に由来する。

 こうしては、 彼はトルコ民族の建てた国のなかで最も長く栄えることになるオスマン朝の創始者となったのである。現在ブルサのオスマン・ガーズィ廟に眠っている。なお。彼にはまだトゥーラ(オスマン朝スルタンの花押)はなかった。したがって廟を見てもトゥーラはない。

 ◆2代 オルハン(1326~62)

 オルハンは父の方針に忠実であり、かつ人望のある人物だった。かれは、わずかな間にアナトリアのブルサを手に入れ首都とした。他にもイズニク・ヘレケ・ムダニア・ゲムリクなどマルマラ海に臨む都市も次々と陥落させた。
 それをみてビザンチンの皇帝は娘を彼に嫁がせ友好関係を結んだほどである。オルハンがなくなった年、オスマン朝はアンカラも領土に加えた。
 帝国の組織作りを含めてしっかりとした下地作りがなされた。


 ◆3代 ムラト1世(1362~89)

 ムラト(ムラード)1世はバルカンへも進出し、これはキリスト教徒を結集させることになる。セルビアが進軍してくるとエディルネ近郊でトルコ軍はこれに大勝した。彼の時代に首都をエディルネに移し、またイェニチェリという常備軍を創設した。
 
 また、バルカンのキリスト教徒が結集したコソボの戦いでは辛勝した。この戦いではトルコ軍は初めて砲兵隊を使って勝っている。しかし、ムラト1世はこの後一人のセルビア人によって殺害された。


 ◆4代 ユルドゥルム(稲妻)・バヤジット(1389~1402)
  
  かれは父祖の望んだとうり、まずアナトリアを統一するために果敢に挑んでいき、ユーフラテス川まで及ぶアナトリア統一をほぼ成し遂げた。
 彼の勇敢なる戦いぶりは稲妻(ユルドゥルム)とあだ名され、以後ユルドゥルムと呼ばれる。
しかし、むやみに戦うばかりではなかったようで、このアナトリア制服においても彼は戦争のほかに領土をお金を出して買い取ることや、諸侯の娘と積極的に結婚し、その持参金として都市を受け取るという方法も使ったという。
 またこれ以後の帝国の経済基盤のもととなった税のしくみを整えたのも彼である。

 こうしてアナトリアを征服したバヤジットはビザンチンの首都コンスタンティノープルを目指した。そして、このときアナドル・ヒサールを建築(1390年頃)して、首都攻めのための城としたのである。

 このときビザンチン皇帝はもちろんローマ教皇も慌てふためき、十字軍を結集する。ハンガリー王ジギスムントとドナウ川岸のニコポリスの要塞で雌雄を決し、十字軍は全滅した。こうしてバルカンの従属は決まり、残すところはビザンチンへの総攻撃だけだった。

ティムールが攻めてきた(アンカラの戦い 
 ところがここにサマルカンドを首都にして帝国を作り上げていたティムール・ハンがアナトリアへ出撃してきた。アナトリアでバヤズィットに敗れて土地を失った諸侯が中央アジアまで行ってティムールの援助を求めたからであった。
  当初互いに戦う気はなかったというが、この時代が、そして周囲がそれを赦さなかった。使節を互いに送りあいながら対に意見の一致ができず、1402年に東西の雄は決戦に至った。このとき、バヤズィットを驚かせたのはティムール軍の操る””部隊だったと伝えられている。この時の戦いでバヤズィットはついに捕虜となる。
 ティムールはこの土地に執着することなく中央アジアに帰ってしまったが、アナトリアは混乱を極めた。バヤズィットがなくなり、息子らが争い、また諸侯が争う時となった。

 ★このときのティムールは領土欲があったわけでもない。チンギス・ハーンを意識した大遠征だったのかもしれない。
 東西の雄はいずれもトルコ民族であり、互いにつぶしあいをしたことは、キリスト教徒側、ビザンチン側などに幸いした。中央アジアの覇者が西に興味を持ったばかりに、稲妻とまで称されたバヤズィットが倒され、オスマンに半世紀にも及ぶ停滞をもたらしたのはなんとも皮肉なことである。

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by miriyun | 2008-06-09 10:27 | トルコ | Comments(2)
Commented by Azuki at 2008-06-11 17:11 x
なんだか映画の世界のような、(映画がそれをヒントにしているのでしょうが)壮絶なドラマが思い浮かびました^^象を使うというのはどのような感じだったのか想像してしまいました。
Commented by miriyun at 2008-06-12 07:58
こういう場面を想像すると地響きが聞こえてきそうな気がします。本当に映画の中の軍馬の音はすごいですが、そこに象はモッとすごい迫力でしょう。
 象を用いる戦いはインド・タイ・ミャンマー、それにハンニバルのアルプス越えがありますが、その破壊力は想像さえできません。


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