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2007年 08月 15日

エンリコ・ダンドロの墓 ・・・イスタンブル歴史紀行16

 はじめて、このアヤ・ソフィア(ハギア・ソフィア)にきた時、そのドームまでの目のくらむような大きさに呑まれながらも、気はそぞろであるものを捜していた。

 それは、十字軍を率い、ラテン王国をうちたてる原動力となった老獪なる人物の墓石だった。それがどこなのか、石畳を見て歩いていたのだ。

 それがこれ!

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 人々が上ばかり見て歩いている金のモザイクがある2階で、人の足に踏まれながらそれはあった。

ヴェネツィア人、エンリコ・ダンドロの墓
この墓が現代の私たちに告げる歴史はこういうものだった。

1.十字軍の目指すもの  十字軍は、本音は領土欲や東の豊かさへの羨望であったといわれるが、それでも目指すものはエルサレムとその周辺のイスラム地域であった。だからこそ、王だけでなく騎士に従者・農民・商人がこぞって熱狂的に東へと突き進んだのである。

 しかし、1・2次はともかく、第4次十字軍ともなると、リーダーたる王侯もなく理念もなかった。それにエジプトから攻め入ろうと考えていたのが、船もなかったのだ。

2、ヴェネツィアのめざすもの
 十字軍は、船もないのでヴェネツィアにすがった!
 ヴェネツィアはエジプトと交易することで地中海貿易を行い、繁栄していたのだ。

 このときの41代目のドージェ(元首)がエンリコ・ダンドロだ。老齢であったが知恵と謀略に優れた人物であった。推挙されて41代になったのは1192年。日本では源頼朝が征夷大将軍になったのと時を同じくする。

 彼は、攻撃目標を商売仲間のエジプトからザラに変えさせた。十字軍は目的から大きくそれてキリスト教徒の町を襲い、略奪した。ザラは現在のクロアチアにある町だ。つまりバルカン半島だ。

3、第4次十字軍の入城とビザンティン帝国の滅亡。 
 バルカンに結集して、略奪の味を覚えた十字軍は西の法王と力を分ける東の正教会の本山のあるコンスタンティノープルへ入城し始めた。
 この時点で、異常に気づいたはずだが、コンスタンティノープルは第4次十字軍に蹂躙され、以前説明したとおりのヒッポドロームの略奪でも表されたとおり、持ち運べるものはすべて略奪したのだった。さしものビザンティン帝国はここで滅んでしまい、亡命した皇帝の親族は島に亡命王国を細々と存続させたに過ぎない。

 ヴェネツィアも海のシルクロードを渡ってきた交易品をエジプト商人の手を通して手に入れていた。ところが、コンスタンティノープルシルクロードの終着点であり、地中海や黒海を通してアフリカにロシアやカフカス方面の国と交易し、当代随一の交易による富が流入していたのだ。
 その後、この老獪なエンリコ・ダンドロはこの占領した土地に1204年ラテン王国をつくらせた。彼自らは王位にはつかず、フランドル伯ボードゥアン1世を支援して王位につけた。その代わり、ヴェネツィアはビザンチン帝国の地中海沿いのところを支配下に治め、念願の地中海の制海権を握ったのである。ボードゥアン1世には貸しを作りながら、自らは実利を取ったのであり、見事!とうなってしまいそうな手腕である。

4、ダンドロの墓の謎
 1205年、ダンドーロはここで亡くなり、葬られることになった。その墓が当初どこにあったのか?よしんば本人がアヤソフィアの中に葬られることを希望したとしても、床石と同列にされたいとは思わないだろう。
 ラテン王国に追われた隠れていた皇帝一族が勢力を持ち直して半世紀後にビザンチン帝国を再建した。
 考えられるのはこの時だ。憎むべきエンリコ・ダンドロの墓はもとからこのような位置にあったのか。あるいは、その記名してあった墓石も含めて床にしいてしまった可能性もあるのか。そのあたりの事情について詳細に書いてあるものがない。

5.顛末
 1453年、ビザンティン帝国を破ったスルタン朝のメフメット2世は、このダンドロの遺骨と遺品をヴェネツィアに返還してやったのだという。

 なお、墓石は、はじめてここを訪れた十数年前はこのように床の大理石の一部であったが、次に訪れてみたら囲いを作って踏まれないようになっていた。

~☆~~☆~~☆~~☆~~☆~~☆~
 アヤソフィアをじっくり見ると、ビザンティンの1000年、ラテン王国の野望の50年、オスマン朝の450年、共和国の100年が見えてくる。

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by miriyun | 2007-08-15 23:57 | トルコ | Comments(6)
Commented by yokocan21 at 2007-08-16 18:58
お久しぶりです!
大好きなイスタンブール、堪能させて頂いてます!こうしてあらゆる角度から解説して頂くと、あの町の魅力が益々輝いて見えてきます。
私も「エンリコ・ダンドロのお墓」探しに行きました。墓石があるもんだと思っていたら意外や意外、こういう扱われ方だったんですよね。ま、歴史を考えれば、納得なんですけれど。
それにしても、メフメット2世の寛容さは、やっぱり抜きん出ていますよね。かっこいい!
Commented by ぺいとん at 2007-08-16 23:24 x
嫌なヤツの墓はこの先知らない人たちにも踏みつけられてしまえ~、という訳ですね!
正直で楽しい発想です! 
粉々にしてしまうよりも怨念が篭っているようで仕返しとしては最高の出来! 
でも今では墓石さんほっと一息ついてヤレヤレということでしょうか。
Commented by miriyun at 2007-08-17 13:37
yokocanさん、イスタンブールはとても気になっていたのです。なんとなく断片としてはわかっていても、全体像が見えてこないようで!
 それだけ深い街ということなんでしょう。そういえばトルコ全体がふかいなあ~とおもうのですが、イスタンブールはとくに深いです。

 だから、いつも文様に注目したり、地勢から読み取れることに注目したりしているのですが、イスタンブールの見つめ方は歴史しかない!・・・と思ってしまい、歴史紀行としました。
 自分自身を納得させるためでもあるんです。ちょっとややこしいですが読んでくださる方がいらっしゃると勇気百倍?です。
 メフメット2世、いつか特集してみたくなる魅力ある人物ですね。
Commented by miriyun at 2007-08-17 13:43
ぺいとんさん、ダンドロという人もよくよく調べると小説のねたになりそうなくらいの智謀を備えた人物で、しかも十字軍で出かけたとき80歳なんですよ。
 その都市で楽隠居せずにヴェネツィアの将来の発展の礎を気づいてしまうなんて、只者ではないです。
 そして、メフメッと・・・やるなあ~という感じです。大きい人物ってけっこういるものですね。墓石に囲いがついて、ようやくこれは何だと人々も注目するようになったのではないでしょうか。
Commented by Fujika at 2007-08-20 14:40 x
丁度読んでいた本にダンドロのお墓のことがあったのでした。「粗雑な彫刻」みたいなことが書いてありましたがなるほどです。
その本に、当初は2階バルコニーに遺骨を納めた石棺があったがいまは失われたとありました。墓石が動かされたかどうかについては記載がありませんでした。
ヨーロッパの王様やえらい人の墓石って教会の床面にあることもあるので、てっきりダンドロの墓石も最初からそうなのかと思っていましたが、2階の踏んづけやすい場所にあるとなると、メフメット二世の意図があるのかも!
遠征のときダンドロはほとんど目が見えなかったそうですね。80を超えての旅行は現代人だって躊躇しますが、ヴェネツィアの男性は頑強だったということでしょうか。
Commented by miriyun at 2007-08-20 18:32
Fujikaさん、元がどういう形であったか。また、遺骨を暴いて犬に与えたという話と。丁重に遺骨を返したという話があるのですが、どうなのか実のところはわかりません。
 しかし、この墓石一個のためにアヤ・ソフィアを訪れる人の一部が、この人はどういう人なんだろう。ヴェネツィアにある略奪品との関係や、あるいは、老齢にもかかわらずその知恵の働かせ方の見事さ、思い出したりすることのきっかけになっていますね。
 ところで、政治家はあまり年をとっても自分が衰えたとは思わないものなのでしょうか、たいしたものです。


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