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2007年 08月 05日

ヒッポドロームとコンスタンティヌス大帝・・・イスタンブル歴史紀行第10話

*3世紀からのローマの危機
 3世紀のローマは危機を迎えていた。外敵が次々と押し寄せ、260年にはペルシアとローマが戦い、ローマ皇帝がペルシアに生け捕りになるという屈辱のときもあった。
 このような諸問題の発生によりローマ帝国は286年ディオクレティアヌス帝からローマ帝国は東西分治されるようになっていた。地中海の周囲をぐるりと囲む帝国の領土は一人の皇帝が治めるには広くなりすぎていたのである。したがって、4人で分割統治したり、また一人になったり共同統治者がいたりと形態はめまぐるしく変わった。
 

*再発展の時4世紀
 再統一・遷都…コンスタンティヌス大帝  324年ローマ帝国を再統治したのは西ローマ皇帝コンスタンティヌス1世であった。

 彼はササン朝ペルシアを睨んで帝国を維持するためもあって、要衝の地ビザンティウムコンスタンティノープル(コンスタンティヌスの都)と改名して、統一ローマ帝国の首都をとうとうローマからコンスタンティノープルへと遷都したのだった。
 
 なぜ、歴史と栄光のローマ、帝国の名の由来でもあるローマを見限ったのか?

 じつはだから、大帝はここからバルカン半島とペルシアをにらみをきかしつつ政を行なったのだ。
 アジアとヨーロッパ、黒海と地中海をつなげる交易の中心地として旧都ローマ以上に交易でも潤い、この時期に前から作られていた城壁やフォーラム・元老院・宮殿などを建築し典型的なローマ都市として整備し大いに栄えさせた。ローマ帝国はミラノ勅令(313年)以後キリスト教を容認するようになり。これ以後ギリシアとキリスト教の神や聖堂を融合する街づくりも行なわれた。
  
 コンスタンティヌス大帝によってヒッポドロームアト・メイダヌ(トルコ語)、戦車競技場)もさらに整備され、長さ480m、幅117mに拡張した。
 戦車競技とは何か。一頭立ての馬に戦車を引かせて争う競技だが、映画『ベン・ハー』の戦車によるシーンが目で確認する最良だと信ずる。 

 あまりにも広い競技場あとなので、その中にいると細長く続いている公園にしか見えない。実際ところどころにベンチがあり、緑美しく散策しながら見るのに向いている。しかし、困るのはその場にいると全体像が見わたせないことだ。
 そこで、またまた登場、Google Earthである。何しろ宇宙から見るので全体像把握に適している。
 
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                              ↑(Google Earthより引用)
  この斜めに走る細長い四角がヒポドロームの中心部で、その周辺の道路に当たる部分が当時の戦車競技のトラックだったとされる。すると現在建物が建っている周辺部分に高い塀と3~4万人もが楽しむことができる観客席が設けられたものと思われる。なお、右下に見えるのはスルタンアフメット・ジャーミィである。このジャーミィもご存知のごとく歴史ある建造物であるが、ヒポドロームはそれを遡ること約1300年前の遺構なのである。

 そして、現在残されているヒッポドロームの中心には3本の柱が立っている。なにしろ、ヒッポドロームは皇帝にとって市民たちに娯楽を与えるとともに自分の権威を見せるのに最良の場なのだ。トラックコースはもちろん何も置かないが、中心部のフィールドには何か権威づける何かをおきたい。そこで、皇帝はへびの円柱やオベリスクを建てさせた。
 また、半世紀以上たってから、テオドシウス1世がやはり、ここにオベリスクを建てた。さらに北には円蓋のいわくありげな泉亭も見える。

 これらの柱はそれぞれあまりにも歴史が深すぎるので、次回のテーマとしよう。

*イスタンブルは歴史のほぐれない塊のようであるが、それを少しづつ、気長にほぐしてみたい。

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by miriyun | 2007-08-05 13:18 | トルコ | Comments(2)
Commented by peque-es at 2007-08-07 10:23
スペイン語でイポドロモ(hipodromo)というと「競馬場」の事なのですが、語源は戦車競技場だったのですね!
サッカーのリアル・マドリッドのホーム・スタジアムが1990年代(?)に大改築されて、収容人員が確か8万7千人位になりました。それまでは多分、その半分くらい(? 未確認です)…試合のある日には、周辺モノスゴイ人です。
それから想像しても、紀元4世紀に3~4万人もの人が入れる競技場を作ったという事はオドロキです。その何倍もの人が当時その周辺に住んでいたということですよね? いかに大きな町だったのか、その繁栄を想像すると、圧倒されます。日本は弥生時代だな…
Commented by miriyun at 2007-08-07 15:53
スペイン語はhを読まないと聞いたことがるのですが、そう考えるとこのヒッポドローム(ヒポドローム)はイポドロモでそのまま、伝わったという感じですね。
 3~4万人というのは少なくともという数字で、実はもっと大勢の観戦ができる規模だったようです。今は観客席の名残は残っていませんがおそらくワールドカップのような雰囲気で石段の座席から数万の人が熱狂的に成ってみたと思われます。
 ローマ帝国の首都だったわけですから、人口も地方都市だった時よりぐんぐんと増えたようです。ちなみに現在のイスタンブルは1000万都市です。


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