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2007年 04月 03日

平等院の獅子文様…ライオン紀行(2)

 平安時代、末法思想が広がり、天災・戦乱・飢饉が頻発する中で、人々は救いを求めた。そこにあらわれたのが極楽往生を願う浄土信仰だった。
 庶民も貴族もその思いは強くとくに財力のある貴族たちは、極楽へと導いてくれる阿弥陀堂建築に熱中した。権力と財力に明かしてつくった阿弥陀堂建築と彫刻・彫金の美は藤原氏による建築のなかで結実する。それが1053年に落成した平等院鳳凰堂だ。
平等院の獅子文様…ライオン紀行(2)_c0067690_2222872.jpg

      ↑平等院の彫金

 藤原頼通は阿弥陀堂を仏師定朝にまかせ、定朝は平安きっての仏師の名に恥じない仕事をした。それが阿弥陀如来像である。これは正面から見ると仏像に興味のない人には代わりばえのしない仏像と見てしまうかもしれない。
 極楽浄土へ導いてくれる阿弥陀仏のイメージは正面から見ただけではわからない。貴族は寿命尽きる時、阿弥陀仏の前に横たわり阿弥陀仏の手から伸びる五色の糸の端を自分も持ち、極楽へと導いてもらいたいと願った。それを想定したのか阿弥陀堂の背から立ち上がる光背と天井近くのたくさんの飛天、これによって極楽浄土のイメージにつつまれながら旅立つのだった。
 そんな、当時としては画期的な、いやっ、今日でもオオーッと思うような天井となったのだ。

  湖に浮かぶような白壁に朱塗りの柱の見事な鳳凰堂は中も見事であり、また、藤原氏の荘園9箇所が寄贈されていたために長く隆盛を極めた。しかし1180年(治承4)源頼政父子が宇治川の合戦で平家に敗れ、このとき平等院は戦災にあい、また1336年 (建武3)の楠正成と畠山高國の宇治合戦 のおりにも楠勢により放火された。ほとんどが焼失したが阿弥陀堂、鐘楼、北大門だけが残った。

 梵鐘も鳳凰堂も国宝である。(鐘楼の本物は宝物館にあり、屋外の鐘はレプリカ版)
 その鐘楼から、平安時代を代表するライオン像を探した。 
平等院の獅子文様…ライオン紀行(2)_c0067690_22223060.jpg

 定朝の手によるかどうかは記録がないが、一大プロジェクトの一環としてその息はかかっているのだろう。
オリエントのライオンのように写実的ではないが、躍動感を感じさせる姿勢が持ち味だ。また、オリエントが動物闘争文が多いのに対して、日本では単独の文様、植物と絡めた文様として認識されている。 たてがみはいずれもカールしている。尾は大きく根元からふさふさで実際のライオンとは大きく異なっている。

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by miriyun | 2007-04-03 22:48 | 文様の伝播 | Comments(0)


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