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2006年 12月 21日

ハーシム家とヒジャーズ鉄道…ヒジャーズ鉄道(6)

 聖地メッカ(正しくはMakkah)は13世紀から預言者ムハンマドの子孫が管理してきた。それがハーシム家で、フセイン・ビン・アリーは1908年にメッカの太守(Amir of Makkah)になった。

 くしくも1908年は、オスマンのアブドゥル・ハミド2世の命で、ヒジャーズ鉄道が完成した年でもある。ダマスカスからメディナ間の約1,300kmが完成した。このしばらくあとでダマスカスにヒジャーズ駅が完成したのだ。これによって2ヶ月はかかるとされた聖地巡礼が大幅に短縮され、利用者はぐんぐん増えていき、オスマンの威信を高めた。
ハーシム家とヒジャーズ鉄道…ヒジャーズ鉄道(6)_c0067690_3595923.jpg

              ↑現在のヨルダン南部のヒジャーズ鉄道

 だが、もう一つの目的はオスマンの宗教的支配欲でメディナ・メッカへ力を及ぼすこと、そしてそのための軍隊と物資の輸送手段の確保にあった。
 これまで、イギリス勢力下のスエズ運河を通ることでやっとメッカやメディナに到達していたのだが、この鉄道を完成させることで軍隊をすばやく聖地へ送り込むことができるようになった。

 そればかりか、預言者の家族をイスタンブルに人質として拉致した。

 これらの捕虜の中にメッカの太守の息子、アリー・アブドッラー・ファイサル・ゼイドの4人の息子がいた。したがって、これらの息子たちはイスタンブルで近代教育を受け、かつトルコ軍に組み入れられたりしている。
 つまり、オスマン支配下のアラブ人は、自分の意にそおうがそうまいと、トルコの中で軍人として、庶民として暮らさなければならなかったのである。つまりトルコの軍服を着ているのはトルコ人だけではなくアラブ人もいたのである。
 しかし、その中でいくつかの結社ができ、アラブの抵抗が始まっていた。ファイサルもトルコの将軍ジェマル・パシャの客分としてではあるがダマスカスに留め置かれ、しかもどんな侮辱にも耐えねばならなかった。

 ファイサルがメッカの父フセインと連絡する時、ヒジャーズ鉄道を使っている。ファイサルの老僕に密書を持たせてこの鉄道で往復させたのだ。ひとたび漏れれば、双方の命、親族一同の命に関わる危険な賭けだった。
 
手紙は件の柄の中やケーキの中に隠したり、サンダルのそこに縫い付けたり、あるいはなんでもない小包の包み紙の上に隠顕インキで書いたりした。(ロバート・グレーブス『アラビアのロレンス』より引用)

 トルコが聖地メッカの太守とアラビア半島の諸部族を制圧しようとする手段としつくったヒジャーズ鉄道で、太守の息子ファイサルはアラブの反乱の密書の往復に使っていたのである。

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by miriyun | 2006-12-21 02:13 | ヨルダン | Comments(2)
Commented by ぺいとん at 2006-12-23 07:12 x
現在の遠くはなれたところに暮らす私たちにはロマンを感じるような出来事ですが、実際には「命をかけた命」を運ぶ鉄道だったのですね。 

今そしてこれからも幸せを運ぶ鉄道であって欲しいです。
Commented by miriyun at 2006-12-23 11:35
いろいろな意味のある鉄道だったところが今の鉄道と異なりますね。でも、南満州鉄道やインドにはりめぐらされた鉄道網などは、これと同じように深いいみを持っての運用だったのです。国家の政策と鉄道敷設は以前は気っても切れない関係だったようですね。


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