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2012年 11月 11日

ゲリボルの戦い…ケマル・アタチュルク(2)

第1次世界大戦の中東戦線
第1次世界大戦の中のトルコが関係する中東戦線は、日本ではあまり知られていない。一つはトルコがドイツと組んだことによりアラビア半島でハシミテ家のファイサル王子らが英国からの顧問T.E.ロレンスとともに起こすアラブ独立戦争がある。
 もう一つがダーダネルス海峡を攻め入らんとする英仏からの攻防戦、ゲリボルの戦いがある。


ゲリボルの戦い(ダーダネルス戦役・ガリポリの戦い)   

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                     ↑ ワンクリックすると大きい画像を見ることができます。

 トルコの地図を見ると、戦略をたてたくなるような地形をしている。

 トルコの要となるのは地中海からマルマラ海へと入るダーダネルス海峡、それと、マルマラ海から黒海へと向かうボスポラス海峡だ。この2つを制したらもうトルコは何もできない。いや、マルマラ海に入られた時点でのど元に敵の刃が迫った状態になる。
 左下のピンクのところがゲリボルでダーダネルスのイスタンブルへの海峡の出口にあたり、戦略上大事なところである。右奥のところにイスタンブル。イスタンブルはボスポラス海峡と金角湾とマルマラ海に面している。
城壁はあるものの大型大砲の時代になると、その射程内に軍艦が入るということは致命的なものになる。
 
◆陸・海・空3軍の総力を結集した大規模上陸作戦

 そして第1次世界大戦でこのダーダネルス海峡のゲリボルの高地を狙ったのがチャーチル(当時は海軍大臣)だった。1915年、連合国側の作戦が始まった。この高地をめぐって2度にわたる総力戦があり、最後は英仏も大軍を擁しての上陸作戦に出た 世界大戦での連合国の大規模上陸作戦としてはノルマンディー上陸作戦があるが、実はゲリボルの戦いが世界初の上陸作戦だった。

 オスマン軍は上陸先を予測し厳重に防御線を構築していた。その中でケマルは前線に自らたち、銃弾をかいくぐりながら奮闘し、ついには高地を先取し、英仏軍に撤退を決意させた。


 英仏連合軍は、当時すでに「ヨーロッパの病人」と呼ばれ末期症状であったオスマン帝国軍を軽んじて短期決戦を想定しての戦闘準備であった。しかし、オスマン帝国の予想外の頑強な抵抗にあって多大な損害を出して撤退、作戦は失敗に終わり、チャーチルはこのために失脚した。

 そして、この時、チャーチルをして甘く見過ぎたと後悔させた相手はケマル・パシャ・・・すなわちのちのケマル・アタチュルクなのだ。

 日本ではあまり知られていないがオスマントルコが新しく生まれ変わり、しかも植民地にされないために実に重要な戦いだったと言える。


オスマン帝国の崩壊とトルコ共和国の建国・大統領へ
 大戦でオスマン帝国が敗北し、その解体が決定された後、1919年5月19日、ムスタファ・ケマルが黒海沿岸のサムスン港に上陸。外部勢力に対する抵抗運動をここから始めていった。(ちなみにトルコでは、ケマルがサムスン港に上陸した5月19日を祖国解放戦争開始の記念日としている)

 抵抗運動の盛り上がりに驚いた連合軍が1920年、首都イスタンブルを占領すると、首都を脱出したオスマン帝国議会議員たちアンカラで大国民議会を開いた。彼らは大国民議会議長に選出されたムスタファ・ケマルを首班とするアンカラ政府を結成した。
 西からはギリシャ軍がアンカラに迫っていたが、ムスタファ・ケマルは自ら軍を率いてギリシャ軍をサカリヤ川の戦いで撃退した。

 1922年、、11月1日に大国民議会にスルタン制廃止を決議させ、更に1923年には総選挙を実施して議会の多数を自派で固め、10月29日に共和制を宣言して自らトルコ共和国初代大統領に就任した。

1926年には大統領暗殺未遂事件発覚を機に反対派を一斉に逮捕、政界から追放した。これにより、ムスタファ・ケマルは党首を務める共和人民党による議会の一党独裁体制を樹立した。
(この過程も、不思議とフランス革命の延長線上でナポレオンが暗殺未遂事件にあい、その後終身皇帝の座に選挙でなっていった過程と似ている)
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 独裁状態になったケマルは、急速にトルコの近代化を行った。

◆政教分離と欧化政策
 1928年、憲法からイスラムを国教と定める条文を削除し、トルコ語の表記についてもトルコ語と相性の良くないアラビア文字を廃止してラテン文字に改める文字改革を断行するなど、政治、社会、文化の改革を押し進めた。
 男性の帽子で宗教的とみなされていたターバンやトルコ帽(フェズ)は着用を禁止(女性のヴェール着用は禁じられなかったが、極めて好ましくないものとされた)され、スイス民法をほとんど直訳した新民法が採用されるなど、国民の私生活の西欧化も進められた。1934年には創姓法が施行されて、西欧諸国にならって国民全員が姓を持つよう義務付けられた。「父なるトルコ人」を意味するアタテュルクは、このときムスタファ・ケマルに対して大国民議会から贈られた姓である。
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 *文化財についても、政教分離は影響し、アヤソフィアはモスクとして使っていたのを、博物館として位置づけられた。そのおかげで、ビザンチン時代のキリストの絵柄のモザイクも、コーランの言葉を表したミフラーブも、私たちは今それらをいっぺんに見ることができるのだ。

 ◆ほとんどラテン文字で一部点が二つ付いたトルコ語独特の文字があるがほとんどがラテン文字であるため、地名なども読みやすいトルコ文字はアタチュルクの改革でおこなわれ、そのため文盲率はぐっと減ったという。かたやジャーミーに書かれた文字は一部のアラビア語を学習している人や書道をやっている人でないと読めないということもおきている。
 日本では、第二次世界大戦で敗北したときに、文学者や新聞社が漢字廃止論を唱え、また、連合国軍最高司令官総司令部によってよばれた教育視察団が学校教育における漢字弊害やローマ字の利便性を指摘された。漢字廃止はしなかったが、当用漢字などの制定に影響していった。


*エルトゥールル号の義捐金を届けたのち、日本語教師としてトルコに住みついた山田寅次郎は、敵国となってしまった第1次世界大戦のときは一時帰国したが、その後も長く日本とトルコの礎として働き、日本の中のトルコ大使館創設にも助力するなどして、90歳の生涯を全うした。

 また、エルトゥールル号が遭難した場所に建てられた石碑を天皇が手を合わせたことを知ったケマル・アタチュルクは串本町にトルコ式の慰霊碑を建てた。

 アジアの東の果ての国を西の果ての国が見詰めていた。
 今回、アタチュルクについて、とくに名前について押さえておきたいと書きはじめてみたが、
その中でも日本とのかかわりや、影響というものも見えてきた。

◆ケマル・アタチュルクの手法は一党独裁で自分が動きやすいよう、改革が通りやすいように合法的に積み上げているものだった。手法としては初期のカダフィー大佐などと近い面もある。

 もし、彼が100歳までも生きて、子孫が多く、一族で利権を支配したなら、今のようなトルコ国民の敬愛を一身に集める存在にはならなかっただろう。

 彼は、実子を持たず、戦争孤児を養子にした。
          そしてたった58歳で執務中に逝ってしまった。
しかも、それまでの病人のようなオスマン帝国からも先進国の支配からも抜け出させ、前進し、成功させた共和国を作っている最中に逝ってしまったのだった。

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by miriyun | 2012-11-11 15:20 | Comments(8)
Commented by 谷間のゆり at 2012-11-11 17:02 x
アタテュルクの名前を懐かしく思い出しました。
人物に付いては何も覚えていなかったので、大変勉強になりました。
ナポレオンとの共通点面白いですね。
又時間をかけて読み直します。
Commented by ジョー at 2012-11-11 18:42 x
寅次郎さんこと、山田 宗有サンの人生も実に興味深いですね。
家老の次男として生まれ、茶道の跡継ぎを期待されての養子入り、にもかかわらず襲名せず・・・。
彼の人生を眺めていると、何かに導かれているように感じるのは、私だけではないでしょうね。

紆余曲折しての襲名後も実業界と茶道の普及、双方の歩みを緩めなかった精力的な動きを眺めるにつけ、知れば知るほど、味わい深い人生だなと感じました。

世界史は、いろんな角度から世界情勢を把握していかないとイメージがしづらいので、マインドが開けてくるまで時間が掛かる学問ですね。

大変読み応えがありました^^
Commented by Lunta at 2012-11-12 22:31 x
トルコに行けばあらゆるところで見かけるアタチュルクの肖像。
男前でたいそうもてたそうですよね。
いろいろな西欧化の改革を行ったとは教わりましたが、それまでトルコ人に姓がなかったとは知りませんでした。
「もし、彼が100歳までも生きて、子孫が多く、一族で利権を支配したなら」あるいはカダフィも早死にしていたら。
信念と理想のある人間がことを成し遂げるには独裁はもっとも効率的だし、必ずしも悪いことばかりではないのでしょう。ただ独裁は腐りやすいところが大問題なんですよね。
miriyunさんらしいすばらしい記事でとても勉強になりました。
Commented by miriyun at 2012-11-14 07:35
谷間のゆりさん、名前もその国での国民の敬意を知っていても、
遠い国の話なので今ひとつわかりにくいですよね。ですから自分の視点で幾つか取り上げて見たという自分の学びようでもあるのですがお楽しみいただければ嬉しいです。
Commented by miriyun at 2012-11-14 07:41
ジョーさん、歴史をたどると本質にせまることができ、また見えてくるものが異なってくるのでおもしろいですね。
自分の視点を定めることが出来ますので、それ以降見るものや見え方に現れる変化を楽しんでしまおうと思っています。
Commented by miriyun at 2012-11-15 01:20
Luntaさん、確かにカリスマになりうるところがたくさんある人ですね。
国家の危機の時に独裁型でのりきるばあいはよくあるものなのですが、それも長引くと腐るんですよね。
アタチュルクに実子があったら、少しはブレがあったのか気になるところです。
Commented by petapeta_adeliae at 2012-11-15 12:33
アタチュルクの顔をじっと見ていると鼻の下が長いですね。
無駄遣いしない、社交的、長寿の人相のはずなのに58才で
逝去しているんですね。
>子孫が多く、一族で利権を支配したなら
一瞬、マルコスとチャウセスクの顔が浮かんでしまいました。
アタチュルク自信のことをもっと知りたいけれど
、翻訳されたモノはないでしとょうから残念です。
Commented by miriyun at 2012-11-17 18:18
ソーニャさん、一人ですべてを負った人は、全ての危機管理と決裁をする立場になり、
他の人にも任せられずストレスも相当大きかったようです。
この人は強いラクを思いっきり飲んでいたのでかなり体に無理があったのではないかと思われます。


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