ケマル・アタチュルク(1)

アタチュルクの日    
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このシンプルだが美しい剣は誰のものか。

一見、装飾から身分あるオスマンの重臣の持ち物のようにも見えるかもしれないが、くっきりと刻み込まれたトルコ共和国の国旗と同じ月と星の印がそれを否定する。

そう、これは
ケマル・アタチュルクの持ち物である。

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 11月10日はケマル・アタチュルクのなくなった日である。毎年11月10日はアタチュルクを追悼日とし、なくなった時刻である9時5分には空砲を鳴らし、一斉に1分間の黙とうをささげる。また、11月10日から1週間をアタチュルク週間として定めたりもしている。

◆アタチュルクはトルコ建国の父として世界史上名だたる人物である。
 晩年 ドルマバフチェ宮殿に執務室を構え、トルコ共和国の屋台骨のすべてを背負い、軍隊から義務教育普及のための地方まわまでり、忙しい生活を粗食と4~5時間の睡眠とラクとでのりきっていたアタチュルクは58歳という若さで執務中に脳卒中で倒れた。
 それが9時5分であり、そのため、トルコ建国の父である彼の敬愛するトルコでは、この宮殿のすべての時計を9時5分で止めたままにしてある。


彼の生い立ちから1938年11月10日に亡くなるまでを知ると実に才能あふれ、頑固なほどの信念とともに行動したユニークな人物として浮かび上がってくる。

彼の名前
彼の本名はムスタファであるが、学校時代に同じムスタファの名を持つ先生が素晴らしい数学的才能を持つ彼に幼年期の生徒を教える助手をやらせ、その時に同じムスタファ先生では困るので、ケマル(完全な)という名を与えたと言われている。

 公式に残っている名前では尉官までは、ムスタファ・ケマル・エフェンディ 、佐官時代は、ムスタファ・ケマル・ベイ 、将官時代 (1916年以降)は、ムスタファ・ケマル・パシャ、1921年9月19日以降は、ガーズィ・ムスタファ・ケマル・パシャ、1934年以降、ムスタファ・ケマル・アタチュルクと呼ばれた。

 なお、アラブと同じく、トルコも姓というものがない。生まれたときにつけられた個人名の後に親の名・祖父の名などをつけて認識しているにすぎないので、一人の人物が場面が異なると別の呼び方をされるなんて言うのは特別珍しいことではなかったのだ。
 なお、現在のアタチュルクは『トルコの父』という意味だ。

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彼の名前は、私たちがトルコに行ったときに最初にお目にかかることになる。アタチュルク・エアポートに航空機が降り立つからだ。


彼の才能
 彼の得意なのは数学と歴史で、他は得意でないのに、この2つについては群を抜いていたらしい。
(フフッ、かのナポレオンもそうだったのはあまりにも名高い事実である。)
やはり、数学ができるのは明晰に理論立てて先を考えられるのだろうか。

 普通の学校を嫌がったムスタファが選んだ道は自らの石で陸軍士官学校に入ること。なんと、正規の志願年齢よりも若い11歳で志願してしまった。
 
 数学的才能の他に、後にわかってくるのは語学的才能、
士官学校時代にドイツ語とフランス語、日本語まで学び、ドイツ語を喋り原語のフランス民権思想書を読み、片言の日本語と英語もできた。
 この日本語を学んだのは、エルトゥールル号難破事件後に、民間人でありながら奔走して義捐金を集め、トルコまでやってきた山田寅次郎が教えた士官たちの間に彼がいたことを、後のアタチュルクがいっており、山田の方がそれに驚かされたという。
 日本についてはトルコ全体として、エルトゥールル号以来親密な国として感ずるとともに、アジアの東の果ての国ながら、アジアで唯一近代国家としての返還の成功した国として意識的に見ていたようだ。とくに明治維新における数々の改革はケマル・アタチュルクの意識の中にこのころおさまったのであろう。

オスマン末期における動き
 灰色の目の眼光鋭いケマルは陸軍大学にいたころから将校としての時代に、「祖国と自由」を仲間とともに設立、後にサロニカで単独世それのマケドニア支部を作る。後にこれは青年トルコ党に吸収され、エンヴェルと出会い1909エンヴェルとともに反革命の暴動が起きたのを鎮圧し、暴動の責任を負ったアブデュルハミト2世は退位し、メフメット5世にその座を譲った。

◆若きリーダーの考え方の違い
エンヴェル・・・中央アジアからバルカンにいたるテュルク系諸民族をオスマン帝国の旗のもとに大統一するという汎トルコ主義の理想とし、汎イスラーム主義を唱えてイスラーム世界の団結を呼びかけ、イランや北アフリカで連合軍に対する抵抗を起こさせ洋ともしていた。
ケマル・アタチュルク・・・トルコ半島とトルコ民族で納める民族子㏍なお設立を理想とする。
このような違いのなか、ケマルはエンヴェルとは目指すものが異なるということで、結局袂を分かっていった。

 こうした中で、オスマン朝の弱体化、列強が国土を分割せんと圧力がかかってくる。まるで日本の幕末と同じような状態が出現するのである。実際のところは幕末と同じにいろいろな勢力が複雑に動いている時期なので、、こうしたときにこそ、下級武士が活躍し、ケマルやエンヴェルが出てくるのだった。。


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by miriyun | 2012-11-10 23:41 | Comments(4)
Commented by petapeta_adeliae at 2012-11-11 23:48
名前がまるで出世魚の様。
ケマルが完全なというトルコ語なんですね。
アタチュルクというとアルファベットに替えさせたという
ことぐらいの情報で、初めてアタチュルクを見たときくに
子供でしたが、なんてダンディな指導者なのかと思っていまたが、
何カ国語も操る秀才だったとは知りませんでした。
Commented by 宵待ち草 at 2012-11-12 23:20 x
こんばんわ

アタチュルク氏の名前が記憶に残ったのはトルコに行った時、
現地のガイドさんが熱く語ってくれた時です。
ほんとにトルコの人々は尊敬の念にあふれているのだと・・・

肌にズシリと感じたことでした。

行った国の、まだ知らないことを知りえるのって・・・
やはり、嬉しいですねえ。  ありがとうございます!
Commented by miriyun at 2012-11-15 01:05
ソーニャさん、出世魚・・的を得た表現ですわ~!!
その地位ごとに呼ばれ方が変わっていく様子が、
武士の時代のようでもあり、興味深かったです。
Commented by miriyun at 2012-11-15 01:09
宵待ち草さん、トルコで世話になった人の名前にチュという音があったので、
文字について、しつもんしたことがあります。
「アタチュルクのチュと同じですよね」と聞くと、満面の笑みで
そうだそうだと答えてくれたのが印象に残っています。


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