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2011年 05月 23日

11万7000kmイブン・バットゥータの旅

 モンゴル帝国の領土と旅  

 中世のユーラシア大陸や地中海世界を見渡すと、モンゴル帝国以前とモンゴル以降とで世界観が違ってくる。もちろん、あらゆる分野に関係することなのだが、旅ということをここでは考えていきたい。

 モンゴル以前なら唐とインド間に限定されるが、記録を残した玄奘三蔵法師だっていた。
また、国家規模での交流ははるか2000年近く前からあった。A.D.97年、甘英が大秦国(ローマ帝国)をめざし、地中海まで目にしながら海を渡らず引き返した(『後漢書』西域伝)。166年には、秦国王の安敦が使者を洛陽に送り、象牙や犀角などを献じた」(『後漢書』西域伝)。「続資治通鑑長編」には、1071年にはセルジューク・トルコから使者が来て、1081年には東ローマ帝国から使者が宋にやってきたことが記されている。
ユーラシアをアジアの東までしっかりと旅をし、しかもそれを記録に残したというのはマルコ・ポーロからである。もちろん、彼が最初の旅人というわけではない。彼の父親と伯父の方が先に元のフビライ皇帝に謁見を許され、さらに自分の国にまで帰り、もう一度息子を連れて訪れているのだ。

 他にも名もなき人の移動はたくさんあった。

 だが、使者ではなく民間人で記録を残したというと、かなり限定されてくる。もちろん内容は信じることができないような内容も時にはあったり、自分の目で確認したわけではない伝聞を基にしたものもある。だから、完全な資料ではないが、かといって他にグローバルにしたためたものがない以上、その当時の地誌や町の人々の様子などを生き生きと描いた貴重な資料であることは確かである。

 大陸横断して大旅行をした人物、そして記録(いずれも口述筆記)を残した人・・・
      *13世紀の旅人はもちろんマルコ・ポーロ
      *14世紀の大旅行家はイブン・バットゥータ  である。

 この二人に共通するのは大変な距離を移動しているということである。そして、それがモンゴル帝国といういくつものハン(ハーン)国に分かれているとはいえ、元を宗主国とするモンゴル帝国の緩やかな連合となっており、共通のモンゴルという枠の中で、安定し、かつ強権で、その中でかってないほど東西の物資は動き、文化も宗教も、もちろん人もその枠の中ではこれまでなかったほど安全に移動できるようになったのだ。

 イブン・バットゥータの11万7000kmの旅  
11万7000kmイブン・バットゥータの旅_c0067690_8583589.jpg

                                            ↑ミニアチュールの中のイブン・バットゥータ (パブリック・ドメインの画像)

 1304年、モロッコのタンジール(タンジェ)に彼は生まれたベルベル系アラブ人。タンジェはモロッコの中でも最北端の突き出したところにあり、イベリア半島を臨み、海越しに他の土地へ興味をわきたてられそうな位置にある。

 21歳の時、イブン・バットゥータは動き始めた。
最初のきっかけはイスラム教徒としての当然の動機から始まる。マッカ(メッカ)への巡礼である。モロッコからであるから旅は東へ東へと続く。エジプトのアレクサンドリアからシナイを越えてダマスカスに入り、そこからメッカへ入り若くしてハッジとなる。それでふつうはモロッコに戻るものだが、彼はここからペルシアへ渡る。

 それはなぜか?
この時、ペルシアはイルハン国となっている。
 イスラーム的見地からイル・ハン国を知る上で押さえておきたいのが7代君主のマフムード・ガザンと、次の8代のムハンマド・オルジェイトゥである。ガザンのときにイスラームに改宗し、そのためにペルシアの各部族もこれに従い、イル・ハン国はイスラーム王朝となった。宰相ラシードゥッディーンに『集史』を編纂させた。
 8代オルジェイトゥは、兄ガザンの方針を受け継ぐ。イスラームの仕組みを取り入れつつ。歴史編纂を含めモンゴルとしての再認識も行う。首都を現在のテヘラン近くのスルターニーヤ(ソルターニーイェ)として、そこを中心に、君主自ら指令することによってすべての学問・建築・工芸が隆盛した。
 こうして、8代君主のときに隆盛を極め、東西交易が隆盛してイルハン朝の歴史を通じてもっとも繁栄した時代を迎えた。

 イブン・バットゥータが渡ったときには9代君主に変わっていただろうが、まだその繁栄の様子が残るイル・ハン国に、青年が惹かれて渡っていったのはわかる気がする。そして、イル・ハン国内のシリア地方まで旅をし、更に・小アジア・黒海を経て北のキプチャク・ハン国、東へ向かって西チャガタイ・ハン国、すなわち中央アジア(チャガタイは東西分裂して弱まり、群雄割拠に近い状態なのであまり記録はない)に入る。これらのハーン国を民間人が渡り歩くことができる・・・これこそがモンゴル以後の旅の恩恵だった。
 30代になるとトゥグルク朝のインドのデリーに滞在し、カーディー(法官)に任命された。その後インド西海岸をずっと南下し、セイロン島をめぐり、更に東南アジアのスマトラ島ベトナムをめぐり、船で福建省の泉州に上陸、陸路をの大都まで行く。
 

 1354年にいったん故郷のタンジェに戻るが、更にその旅心は彼をとどまらせず、海を渡ったイベリア半島のアンダルシア、アフリカに戻り南下してサハラ砂漠をトンブクトゥーなどをめぐる。

 あまりにも広範なその旅は11万7000kmとされる。実に地球3周に近い距離である。

 口述筆記による大旅行記 

 ◆マリーン朝の君主アブー・イナーンはこの旅に注目。書記官であるグラナダ生まれの文学者イブン・ジェザイイに命じて口述筆記させた。こうして完成したイブン・バットゥータの旅行記が
『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』
(تحفة النظار في غرائب الأمصار وعجائب الأسفار‎ )   
Tūhfat Annathar Fi Ghara'ib Al-Amsar Wa Aga'ib Al-Asfar)である。

 イブン・ジェザイイは言う。
「私は彼が述べる逸話や未知の情報に類することについては、すべてを記し、その記録内容の信憑性についてはあえて詮索したり、選択したりはしないことにした」

 おそらく、この学者は見たこともない土地について語るイブン・バットゥータの話を取捨選択して載せようとしたのではあるまいか。ところが取捨選択は書く方も対象となるものをを知っていて、その中で基準を設けてはじめて選択できるのであって、全く知らない土地の不思議な話ばかりがあると、全く選択ができず、そのまま載せるということをせざるを得なくなり、その代りこうしたことを述べたのに違いない。

 このように他に誰も知らないようなことというのは、ともすれば、いう方は大言壮語になるかもしれないし、反対に事実のみを言っているのにほら吹きやうそつき呼ばわりされることもある。学者はそのようなことがないように証拠を積み上げ採集しながらいくのだろうが一般人や商人の記録はそういう意味では不完全になってしまうわけである。
 マルコ・ポーロも「100万のポーロ」と陰口をたたかれた。日本風にいうと大風呂敷の嘘八百のポーロというような言い方だ。 だが私は、うそを創作し続けるというのはとても難しいと思う。

 マルコ・ポーロもイブン・バットゥータも、もっと深く検証し、その中から現れる真実を大事にしていきたいものだ。



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by miriyun | 2011-05-23 09:50 | Comments(0)


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