写真でイスラーム  

mphot.exblog.jp
ブログトップ | ログイン
2011年 04月 30日

ティムール帝国・・・シャフリサブス(2)

1.歴史の中のティムール  
  日本の中の世界史において、このティムールはとても軽く扱われている部分である。しかし、中央アジアやシルクロード沿いに広がる「文化を見るときに欠かせない存在感のあるのがこのティムールとその血筋の物たちである。

 それなのに専門にかかわっている人はともかく、一般的には知られていないのか。

それは西洋史観による歴史を長いこと学ぶことが主流であった時代が日本は長く、今でも日本人全体の素養として入っているのは西洋史観から来る世界史だからだ。
 アレクサンダーはマケドニア人だが、東征しヨーロッパ文明を伝えた英雄として扱い、東洋発とはいえ、モンゴル・チンギスハーンはヨーロッパに多大な恐怖と影響を与えたという歴史がある。しかしティムールはヨーロッパと直接的にかかわるところが多くはない。そのためかるくあつかわれ、日本にはその流れの中でほとんどティムール2.などシルクロードの覇者に関する歴史観が欠如している。

2.モンゴルのおさめた土地 
  中央アジアの歴史において欠かせないのがモンゴル人が征服したという事実である。無慈悲な嵐のように押し寄せたモンゴルにつぶされ、殺戮され、廃墟となった街が多い。実際サマルカンドのもとの街は廃墟のままにされた。しかし、いったん征服した後は、チンギスハーンの子や孫に分割統治させしかもそれがつながりがあるという世界の中でも強固なつながりと商売の上では自由な交易のできる世界を出現させた。
 次男チャガタイにはモンゴルの西、アムダリヤ川アラル海にいたる広大な土地を与え、ステップとオアシスのサマルカンド・ブハラ・タシュケントを含む中央アジアがチャガタイハン国として出現した。
 支配者側も国際的になりになり、モンゴル人以外も重用するし、文化・宗教面もそれぞれの地域との共存の中で染み込んでいった。したがって、当初おそれられたチンギスハーンの血筋は絶対王者ハーン家の血筋として尊ばれることになった。

3.ティムール 
 ティムールは現在のウズベキスタンのシャフリサブスに生まれた。トルコ系小貴族の家に生まれた。トルコ系というとトル共和国と勘違いしやすいが、トルコ民族は東から西へと渡ってきた民族である。ティムールの祖先ももとはモンゴル方面で力を持っていた部族の出身だったのだ。

 したがって、もちろんチンギスハーンの家系ではないのだが、この当時絶対的権威であったチンギスハーンの血筋を引くものをハーンとし、自分はその補佐にあたることで実権を握っていった。また、チンギスハーンの家系の出身であると言ったり、その家系の女性を正妃に迎えるなど、正当の権力者であることを意識し続けた。このあたりは,正当性にこだわり、権威づけに必死になるすべての権力者に共通する。


 シャフリサブスにティムールが生まれたのは1336年のことだ。 ( 日本では室町幕府が1338年に始まる。そういう時に生まれ、15世紀4初めまで活躍した征服王である)


 なお、彼は1370年にはチャガタイハン国の衰えに乗じて故郷シャフリサブスに近いサマルカンドを陥落させ、ティムール政権が確立した。その時正妃にチンギスの血を引く妻を迎えている。
そして、ブハラ・メルブ・ニシャ―プール。タブリーズ・トビリシを経てキプチャクハン国の都サライを廃墟にした。、また、モスクワまで360kmまでせまり、ウクライナやアゾフ海に臨む植民土地を制圧した。イスファハーンからバグダッドをも攻略・入城する(1392年)。アンカラの戦いではオスマン帝国軍を撃破。南部ではヘラートを抑え、南東部ではインド・デリー朝をまで、手を伸ばした。こうして中央アジアから西アジアにかけての広大な領土がティムール帝国として140年間支配するのであった。(時代はずれるがその支配した年数はほぼ鎌倉時代と同じ年数である)。


4.ティムール朝文化の隆盛
  征服者としてのティムールは常にチンギスハーンを意識し、同じように容赦なく敵をつぶした。

ところが文化的側面ではかなり異なる。
ティムール帝国・・・シャフリサブス(2)_c0067690_22541476.jpg

文化的にはほとんど何も残さなかったチンギスハーンに比べて、ティムールは文化人や技術者の価値を認め生かした。街や城郭、モスク、文化人の保護などを通して、『つくる』ことを重視していた。

 そこから『チンギスハーンは破壊し、ティムールは建設した』という言葉が言われるようになった。

 モンゴルという精神的基盤にトルコという民族的基盤、そして宗教はイスラームに対する敬虔な信徒であり、地域的に支配したイランの文化を吸収して、この支配者のこの時代にティムール朝文化が花開いた。そのため、彼と彼の子孫にかかわるところではそれぞれ文化の隆盛期をなし、その遺構が今なお建築物等としてみられるのだ。全体に文化を保護する立場にあった君主が多いが、中でもティムールの孫にあたるウルグ・ベクは自らも天文学者であった(前出)。
      ウルグペグ天文台とイスラームの科学
 旧ソ連に支配され、イスラームへの祈りも控え気味であった時代にはあまり振り返られることのなかったティムールが中央アジア諸国の独立後は国民の精神的な支えとなる歴史的人物としてクローズアップされるようになったのは当然のことだといえよう。


                                           応援クリックお願いします。
                                                               人気ブログランキングへ




                          

by miriyun | 2011-04-30 11:58 | 中央アジア | Comments(0)


<< 泉と土漠と土の家・・・ シャフ...      峠を越えて・・・シャフリサブス(1) >>