写真でイスラーム  

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2009年 03月 21日

金の泉亭・金のトゥーラ・・・モザイク紀行(19)

第997話
 トルコでは、有力者による泉亭の寄進は一般的で、宮殿・モスク周辺で案外簡単に見つかる。

スルタン・アフメット・ジャーミーの横の広場はかってはローマ帝国の戦車競技場ヒポドロームであった。そこは今はそぞろ歩きに適した細長い公園になっている。

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 そのヒポドロームの東側に、この泉亭は寄贈された。


1.泉亭は、誰から誰へと贈られたのか?

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 近づくにつれ、モスクにおなじみのこの泉亭が尋常なものでないことがわかる。
とてもスルタンがオスマンの民のために作ったというような歴史ではないことが、その重厚さから伝わってくる。

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 中央の文様はイスラームの文様とは異なる。そして周囲には緑系と青系の2種類の装飾が交互に飾られている。このモザイク天井は金のモザイクをふんだんに使い、色の部分はガラスモザイクのようだ。まさに金を糸目をつけずに作らせた感がある。
 あまりにも豪華なつくりであるためか、中には入れない。外からかろうじてのぞきみる。
 この絢爛たるつくりにするのにはよほど財政が豊かな派手好きの支配者がいたか、あるいは相手を驚かせて、戦う気をなくさせて屈服させたい時である。

 オスマン帝国末期であり、オスマンはスルタンの力も弱まり、封建制度の矛盾が噴出し、ヨーロッパ諸国より産業・軍事など遅れがはっきりしていた帝国末期である。強敵がたくさん、同盟国も油断ならないそんな時代である。
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 王冠とつる草、Wは Wilhelm のW.Ⅱは2世・・・ヴィルヘルム2世をあらわす。このような円形のものをなんというのかわからない。ヴィルヘルム2世の紋章はライオンのがあったはずだ。日本と同じように普通の家紋、旗印などのように異なる印を持っているのだろうか。・・相変わらずヨーロッパの紋章はよくわからない。

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 そして、何よりはっきりとするのは、このトゥーラ(スルタンの花押)である。
「アブドゥルハミト ハーン ビン アブドゥルメジド アル ムザッファル ダーイマ」 とある。 
 アブドゥルハミト2世のトゥーラである。
もともと姿良くデザインされた、オスマン朝後期のトゥーラである。それだけでも美しいものを、金のモザイクで文字の部分を細かく表現している。それらのモザイク片の一つ一つが輝く。実に華麗なトゥーラである。
 モザイクとしては華麗であるが、本来トゥーラ(トゥグラー)は横広の長楕円形が基本で円に無理に入れてしまうと横への伸びやかさがなくなり、本来のカリグラフィーの美しさは出なくなる。 スルタンの花押はもちろん厳格に決まっていてトゥーラをこんなに横を狭くあらわすことはしないのに、なぜこんああらわしかたをしたのか。それはトルコ人の発注ではないからだ。

◆この泉亭はドイツの皇帝ヴィルヘルム2世から、トルコのスルタン、アブドゥルハミト2世に寄贈されたのであった。
 無理やり円に文字を押し込んでしまったのはきわめて西洋的考えであって、アラビア語として、アラビア書道的にはあまりよくない。

2.列強の侵入とスルタン・アブドゥルハミト2世

◇34代アブドゥルハミト2世◇
 1876~1909在位。
 彼は バルカン諸民族の保護を口実としたヨーロッパ列強の干渉を交わすためにミドハト憲法憲法を発布、議会政治も始めた。しかし、ロシアとの戦争を気に廃止し専制政治を行い、パン・イスラム主義をシンボルとした。
 ロシアに敗北後、バルカンの領土の大半を失い、イギリスフランスの侵攻を防ぐためにドイツに接近し、政治的独立を保った。しかし、経済的には、帝国内の特権を多くの外国企業に与えざるを得なくなり、経済的植民地になりつつあった。  (参考:平凡社 イスラム事典)            

◆ この泉亭を、ドイツ皇帝がトルコに寄贈する。相手のスルタンのトゥーラを金のモザイクで作成するということは相手に敬意を表しながら、ドイツ皇帝も金で飾り、友好国であること、そして、これほどの財力を持つ国であるとトルコ国民にアピールし続ける。そんな贈り物なのだ。

 これまで、スルタンはペルシアの贈り物もフランスの贈り物も見たくなければスルタンの宝物庫にしまってしまえばよかった。しかし、この贈り物はしまうことも移動することもできない贈り物・・・、まことに重い贈り物だったわけだ。
 ドイツとトルコは第一次世界大戦では同盟国ともなっているし、その前から3B政策を進行させていたドイツにとってオスマンを篭絡する必要があった。オスマンの領域内ではしばしばその遺構をが目にすることがある。

◆世界的紛争の起こる20世紀へあとわずかの1898年、
ドイツのヴィルヘルム2世からアブドゥルハミト2世への贈り物は、
    堂々たる柱と天蓋、金の天井にトゥーラを配した華麗な贈り物であり、
    列強に蝕まれつつあったトルコの重い歴史を感じさせる贈り物でもあった・・・・・。

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by miriyun | 2009-03-21 14:27 | トルコ | Comments(4)
Commented by horaice at 2009-03-22 00:17
ホント! 華麗 という言葉がぴったりですね。綺麗なモザイク・・・イスラムの装飾って、ほんとうに美しいなぁと感じます。ヨーロッパの教会の淡くて繊細な装飾や建築も、美しいのですが、イスラムの濃さというか、日本のおせちのようなぎっしり詰まった色や装飾が織り成す鮮やかさ、(miriyunさんがおっしゃる重厚さかもしれません)が好きです☆ヘンな例えですみません><。。
トルコ、様々な文化とものが行き交い、歴史を語る建築物、遺跡が沢山~普通に散歩できるところにあるのがすごいですね。魅惑のトルコ、またいつか行きたいです!
Commented by kiwidinok at 2009-03-22 06:16
確かに豪華であることに間違いないのですが、私には柱の部分の色が濃過ぎてしっくりこなかったり、デザインに落ち着きが無くて品格に欠けるように見えました。

こと、宗教に根ざしたものに関しては、その本質を理解しない者が表現することは非常に難しいということを、改めて思い知らされ、私がいつまで経ってもイスラミックカラーを出せないのは、おそらく精神がそこに起因していないからなんだろうなと、そんなことを考えながら興味深く読ませていただきました。

いつも有益な情報をわけてくださり、ありがとうございます。
Commented by miriyun at 2009-03-22 09:49
horaiceさん、金のモザイクは最初、アヤソフィアでびっしりと使われて、その後はイタリアの諸都市の教会で使われています。ですから、この金のモザイクがぎっしりで文様は少ないというのはかなりヨーロッパ的であるともいえるんです。イスラームの特色は文様が植物にしろアラベスクにしろ、空間がないようにおおい尽くすことなので、これとは傾向が違います。
 「様々な文化が行き交い・・・、」そうなんです。この国はたくさんの文化の行き交うところでしたから本当におもしろいです。

Commented by miriyun at 2009-03-22 10:38
kiwidinokさん、さすが芸術に携わる方は見方が鋭いです。この建築はドイツの発注で、周辺の文様・天井の文様も天蓋の様式もヨーロッパでありながら、トゥーラと内側のふち飾りのアラビア文字と水道だけはイスラームというちぐはぐなものなんです。この頃のドイツの様式や文様について知らないので詳しく説明できませんが・・・。
 だから、混ざり物的な違和感があるのです。モザイク紀行として扱う中で、金とガラスを上手に使ったトゥーラは華麗で完成度の高いものなので感心したのですが、全体像についてはちぐはぐ感は否めませんね。


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