ムスタファ3世のトゥーラと生涯 

 儀礼の門の上にはマフムト2世のトゥーラがあったが、その下にも金の文字で緑の装飾枠のトゥーラがある。門の下なので、ちょっと見た感じでは、同じマフムト2世か、あるいはそれよりも後の時代のスルタンの花押かと思っていた。
 ところが、読んでみると予想とは違った。

1.トゥーラを読もう

◆右の掲額
c0067690_8414141.jpg

 これは、ムスタファ3世(Mustafa Ⅲ)のトゥーラであった。
ムスタファ・ハーン・ビン・アフメト・アル・ムザッファルダーイマとある。
意味は、「永遠の勝利者、アフメトの息子であるスルタン・ムスタファ」といったところ。

◆左の掲額
c0067690_9385813.jpg


 下の文章部分と、トゥーラの中の花飾りは異なるものの、トゥーラはムスタファ3世で、右のものと変わらない。
 
 ◇また、こののトゥーラ部分と、下のナスタリーク書体の部分はよくよく見ると別々に作っている。周辺の装飾枠に入っている文様が上下で微妙に異なっている。同じときに異なる職人が分けて作ったか、のちの時代に付け足したのかはわからないが、文様を考えない接合の仕方からすると別の時代である可能性も強い。
 一見美しさと豪奢さがいっぱいのトプカプ宮殿は、このように、つけたし・修復・改造の段階では案外おおざっぱなことをやっている部分もあり、見ていて違和感を感じてしまうこともある。

2.ムスタファ3世の生涯

 ムスタファ3世(在位は1757~1774)は23代アフメト3世の息子である。母はフランス人だったといわれる。父の時代が終わったとき、ムスタファ(3世)は13歳であった。1730年、22代スルタンのムスタファ2世の息子たちが24代・25代を継ぐ。そのあいだ、ムスタファ(3世)は、宮殿内で幽閉されていた。(当時、オスマン朝はそういう習慣だったという。他の皇子をすべて殺してしまう時代もあった)
 25代に跡継ぎがなく、その死去にともない幽閉先から出されたムスタファ3世が、40歳で26代スルタンとなった。

 開明君主で、列強に立ち遅れたオスマンの軍隊や国の制度の近代化を推し進めようとしたが、イェニチェリなどの抵抗を受けていた。衰退著しいオスマンを何とか立ち行くようにと努力した。イスラムの歴史研究を自ら行なうとともに科学アカデミーなども創設した。慈悲深く、イスタンブールに大地震が起きた時は自らの財産をもって救済したといわれる。
 軍事において武器もしくみも列強に大きく立ち遅れた現状をしっかりと認識していたので、できるだけ戦争を回避していたが、ロシアの侵入にたいして軍備の不利を承知で戦わざるを得ず、その中で病死した。

 衰退がはじまっていたオスマン朝で本気で軍隊の改革に乗り出したが、それができぬまま戦場で亡くなったスルタンの悲劇であった。

3.二人のスルタンのトゥーラ
 
  ムスタファ3世のトゥーラの上に、自分のトゥーラを飾らせたマフムト2世。前回、書いたようにマフムト2世は啓蒙的専制君主で、軍隊改革の中で、とうとうイェニチェリを全廃したのだった。
 マフムト2世は4代も前のムスタファ3世のイェニチェリ改革のやりかけた仕事を知り、それをやり遂げた自分の名とともにこの掲額があるのがふさわしいと考えた・・・ともいえるのではないだろうか。

 ・・・・・・・二人のスルタンのトゥーラから歴史を垣間見た。

                             応援クリックお願いします。
                                                    人気ブログランキングへ
by miriyun | 2009-02-27 23:36 | トルコ | Comments(0)


<< ミニアチュール閑話*虫歯 儀礼の門のトゥーラ >>